文教大学国際学部


【ウェブマスターより:学外研修中の山脇千賀子先生のフォトエッセイが始まりました。チカコ先生が世界を歩いて考えたことが縦横に展開します。】

フォトエッセイ:チカコが世界を歩いて考えたこと【第5回】海の道としての沖縄
2010年2月16日


初めて沖縄を訪れたのは、17年ほど前だろうか。それから、何度目かと数えることもなくなるくらい通う場所になっている。私にとっての沖縄語でいうところの「ぬちぐすい」=生命を支える薬、というところ。

もっとも、地理的な意味での島としての沖縄との出会いより前に、私はペルーにおいて「沖縄」世界にどっぷりとはまっていた。それは、私の研究フィールドであるペルーにおいて、多くのウチナーンチュ(沖縄人)に私の研究を支えてもらってきたからだ。大学院生としてペルーに留学したときの研究テーマは、「ペルーにおける日系人の食文化変容」だ。

あまり知られていないかもしれないが、1990年時点でペルーに約8万人いると推計された日系人人口の6割以上が沖縄系であり、日系人の食文化には沖縄食文化の影響がかなり色濃く反映されている。その背景には、沖縄がもともと中国大陸や東南アジアなどとの交流の歴史をもち、その文化を日本に伝える海の道としての役割を果たしてきたことと深い関係にある。沖縄の食文化が中華料理との共通性をもつことは一般にも広く知られているだろう。

ペルーへの日本人移住が始まったのは1899年のことだが、それに半世紀先立つ1849年から中国人移民が主に農業労働者として導入されていた。ペルーに入った中国人移民の多くは現在の広東省出身者が大多数である。これらの中国人移民たちがペルーに持ち込んだ食習慣(米を主食とすること、それまでにペルーになかった東洋野菜の栽培・消費、独特の調理方法など)は、特に中国人の多くが生活の場とした首都リマを中心とする海岸部の食文化に大きな影響を及ぼした。

中華料理店は、世界のあらゆる場所でアジア系の人々にとっての「なじみの味」を提供してくれる場所として重宝されているが、ペルーではもはや国民料理の一部として認識されるほど現地の食文化に溶け込んでいる。ペルーの日系人にとっては、日本料理よりも中華料理のほうが民族的な「ソウルフード」ということができるくらい、移民が始まった初期から中華料理の存在に助けられてきた歴史をもっている。既に述べたように、中華料理と沖縄料理は多くの共通点をもつため、沖縄料理が日系人に受け入れられる流れはごく自然なものだったといえるだろう。(もっとも、沖縄人に対する日本本土出身者の偏見は、かなり長い間ペルーにおいても存続していたことを忘れてはならない。)

【スライドショー:各写真をクリックすると拡大します】
【上段左から(1)首里・拝所の御神木に手をあわせる(2)浦添市美術館のシーサー(3)美術館内のイベント:ぶくぶく茶体験の準備中だった沖縄美人(4)市場の熱帯魚たち(5)糸満市の古民家カフェ(6)さすが、沖縄!!(7)名物:てびちそば(コラーゲンの塊=豚足がのっています】
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【下段左から(8)こんなに大きな亀甲墓が普通のサイズ(これはモダンなスタイル)(9)八重山・石垣島の唐人墓(10)雨上がりのアカバナー(11)石垣名所:川平湾の海の色!(12)石垣名物:米子焼キジナムの森(13)八重山・竹富島の街並み(14)竹富では郵便局もこんなです】

最近の石垣島・竹富島への旅でも、沖縄が海の道であることを改めて実感する機会に巡り合った。沖縄全土のみやげ物屋で売られているシーサーなどの焼き物の中でも、ひと際カラフルで個性的な米子焼は、石垣島に本拠地の工房をもっている(本店前のゆかいな焼き物たちの写真をごらんください)。

個性的なシーサーに心を奪われて一組購入する手続きをしていると、レジ横にポップなお店の紹介パンフがある。「工房には18人の仲間が集まっており、ベトナムにも工房を作りました!」と書いてある。女将さんに「ベトナムのどこに工房があるんですか」ときいたら、ハノイから北に向かって約2時間のところだという。台北経由でハノイに飛ぶと確かに近い。石垣島から台北までは1時間。さらに、ハノイまで3時間。つまり、石垣島から東京へ行くのと変わりない「近さ」なのだ。

私もベトナムに行ったことがあると言うと、女将さんはベトナム人の特に女性が働き者であること、仕事がとてもいいことにびっくりするということなど話してくれた。研修として、こちらから色の塗り方などを教えにいくと、逆にこちらの人のほうが刺激を受けて帰ってくることになるという。仕事熱心で、「ここはこうしたほうがいいのでは?」というような提案までしてくる。「あちらのほうが良い仕事じゃないの」と思うようなものまで出てきている。だから、むしろ本店の職人にとっての逆研修のようなものといえるかもしれないという。

 そんな話しをして、なぜだか私はベトナム人でもないのにベトナムを誇りに思う気持ちになった(?!)。そして、ベトナム人との間で信頼関係を築いて一緒に仕事をしているウチナーンチュの自然体な「国際感覚」に清々しさを感じて嬉しくなった。

 もっとも、東南アジアと沖縄のつながりは友好的なものばかりとはいえない。第二次世界大戦中に沖縄から徴兵された人々の多くが、「南方」に出兵されている。厳しい戦渦を生き抜いてきた沖縄のオジィの中には、東南アジアでの忘れがたい戦争の記憶を持つ人たちも少なくない。石垣島の観光名所にもなっている宮良殿内という旧家のオジィも、陸軍に従軍してビルマ(現ミャンマー)で米軍機の銃弾の雨をかいくぐって生き延びた。本土に呼び返されたため、泰緬鉄道を通って大渓谷を眺めてサイゴン(現ベトナム・ホーチミン)の港まできたところで終戦になったという。この道中の絶景は今でも夢にみるほどオジィの心に焼きついている。おそらく生死の境を生き抜く緊張感がオジィの記憶を鮮明なものにしたのだと想像する。

 終戦後、アメリカの占領下に入った沖縄には、米領植民地となっていたフィリピンからの従軍労働者も流入している。また、ベトナム戦争中には沖縄の米軍基地は中継地として重要な役割を果たすことになった。米軍を媒介にした沖縄と東南アジアをむすびつける海の道のことを考えると、文化交流などと浮かれているだけではいけないことを実感させられる。

 石垣島には1971年に建立された立派な唐人墓がある(写真をごらんください)。これは1852年に近くで座礁した船に乗っていた中国福建省出身者の霊を祀っているという。当時、中国から米国・カリフォルニアに大量の苦力(クーリー)と呼ばれる労働者が導入されていたが、この船も米国に向かう途中だった。唐人墓は、中国大陸からアメリカ大陸へ向かう海の道としての沖縄のシンボルともいえるかもしれない。

 人や物や文化が流れて出会う場としての沖縄。その流れに身を置くと、人間のレベルで測れない生命のつながりに思いを寄せたくなる。(つづく)

フォトエッセイ:チカコが世界を歩いて考えたこと【第4回】ベトナムという矛盾する魅力
2009年12月21日



南国果物天国!!ドリアンもあります。
ベトナムは不思議なところだ。
それは、たぶんベトナムがもっている矛盾するかのような特徴に由来する印象。 たおやかではかないのに強くしぶとい。
アオザイがドレスというよりパンツスーツであることに象徴されるように。
清潔感にあふれながらも色気に満ちているのが女生徒たちの白いアオザイ。

ベトナム中部の人たちはとても背が低い。大人の女性たちの大多数は140cm台。
貧相というか小さくて痩せた体型だからこそ豊かに暮らしてこられたのだ、と思わせる。
烈しい天候の変化に振り回される経験のなかで辛抱強い人たちが生まれたとガイドはいう。
ベトナムで一番「勉強が上手」な地域なのだという。フエ・ホイアン。
そして、ベトナム戦争でも激戦地になったところ。
自給自足の村の生活を垣間見ることができる地域。
ミーソン遺跡までの道中の水田は田植えシーズンで、水牛の耕運機で働く農民たちの数々。
なんと、ホーチミンの街中のバイク軍団と対極をなす風景だろう。 でも、たぶんどちらもが環境に熱心に適応するベトナム人の姿には変わりない。

ホーチミンで就職するのに必要なのは、バイク(最低3万円)と携帯電話(最低5千円)。
年収2,200ドル(平均)の街における大きな不可欠の出費だという。
ちなみに中部の平均収入は800ドル。やはり大きな経済格差がある。
しかし、社会主義国だけあって(?!)、皆が平等に貧しいことを思わせる。
それは、ミゼラブルというよりも「つましい」と形容することがふさわしい。
ベトナムはすばらしい人材という富を抱えていることを印象づける。
特に女性がとても働き者で美しい(写真をご覧ください)。
(ベトナム人を見慣れた目で日本人をみると皆頭でっかちのずんぐりむっくりだ。)

【スライドショー:各写真をクリックすると拡大します】
【上段左から(1)ベトナム人のジャングルの移動手段が今では観光船(2)ホーチミン市内はバイクの洪水(3)ホーチミンのシンボル的カトリック教会(4)古都フフエのカイディン廟(5)こちらは紫禁城スタイルのグェン王宮(6)王宮料理の伝統。細工物がかわいい】
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【下段左から(7)背後の絵のようなシルクの刺繍が若い彼女たちの作品(8)16〜17世紀には日本人街のあったホイアンの雰囲気(9)ホイアンにはこんなおしゃれなカフェも(10)休憩中のコックさんたち(11)どこかなつかしい田園風景(12)ヒンズー系遺跡ミーソンで見つけておもわず手をあわせた神】

ベトナム人の価値観は食べ物にも現れている。
ちゃんとしただしをとった澄んだスープに半透明のフォーが奏でる繊細な味。
ミディアムに茹で上げた牛肉(しゃぶしゃぶ風)を添えるのが最近の流行のようだ。
タピオカ粉にほんのりとココナツの味付けがしてある蒸し物。
バナナの葉やはすの葉に包まれて調理される料理とデザートの香り。
半透明のライスペーパーで多様なハーブと調理した魚介類を包んで食べることが、 セクシーな欲望につながっていることに初めて気が付いた。
アオザイの上衣が半透明な素材を使うことに共通する。

ホーチミンからメコンデルタの入り口に向かう道中で目にした数々のハンモック・カフェ。
サマーベット様の長いすが街道に向けて並べられている食堂。
本当の意味で休憩所だなあ、と思わせる。
子どものように寝顔を無防備に晒している屈強そうな労働者男性はハンモックのなか。
熱帯の日中はみんながこうして休憩するのが自然の摂理なのだ。
そのぶん夜更かしが好きなのだろう。
午前二時にホーチミンに着いたら、街中の屋外食堂(鍋を囲んだり、焼肉したり)には、背のないお風呂場いすにかけたグループが食事やビールを楽しんでいる姿がいたる場にみられるので、ガイドに思わず時間を確認してしまった。
150円くらいでこんな楽しみを得られるのだという。
ああ、熱帯の街よ!

フエの19世紀に建てられた廟に埋め込まれた色んな文化のハイブリッド性(異種混淆)。 ガイドが説明するように、中国とフランスとベトナムの要素のブリコラージュ(組合せ)。
宮殿は中華帝国の紫禁城をベトナム人なりに模倣したつくりであることが、中華帝国の辺境として日本と何かを共有していることを実感させる。
日本とのちがいは、西洋文化との親和性だと私は思う。
町並みがヨーロッパのつくりと東洋性を融合させている典型だ。
はっきりとコロニアル様式の影響が見られるのは植民地時代をくぐりぬけたから。
だからこそ、私には安易にそれを賛美することもできない。
対照的に現代日本の町並みにはベトナムのような融合した美しさを感じることができない。

ベトナムの美しいハイブリッドのもうひとつの典型がアオザイであるように、日本には西洋タイプの服装と和服との幸せな融合型は存在していない。
そこが、私の美意識からみた日本の欠点。または独自性。
米国で大金持ちの事業家として成功しているベトナム人たちの背景にあるものは、 ベトナムのハイブリッド性と関係しているような気がしてならない。
商売における強欲さと洗練と勤勉さの幸せな融合。

ベトナムはこれからもきっと大きく変貌していくに違いない。
カンボジアが抱える絶望に比して、ベトナムは希望を人々に感じさせるところだ。
わたしたちアジアの人々が世界とどのようにつきあっていくことができるのか、考えるためのヒントを山ほど提供してくれるところだ。(つづく)

フォトエッセイ:チカコが世界を歩いて考えたこと【第3回】ブラジル―地球上の多様な人間と文化を混交する場
2009年10月27日



サンパウロ・東洋人街入り口
 私がブラジルへ行くのは4回目だが、今回の訪問の主な目的は2つあった。1つは、1930年代に沖縄からブラジルに移住して以来一度も里帰りせずサンパウロで今年97歳を迎えた夫の伯父の盛大な誕生パーティに「日本代表」として参加すること。沖縄にはカジマヤーという97歳を祝う習慣がある。日本でいう99歳を祝う白寿にあたると考えればよいだろう。親類縁者の参加者約300名にのぼるパーティは、ブラジルによくあるバイキング式レストランで行われ、食べ物は基本的にすべてブラジル料理だったが、古典的な琉球民謡のグループによる演奏(中高年)と現代的創作琉球太鼓グループ(青少年)によるパフォーマンスがあり、ブラジルにおける沖縄系文化の継承と創造のプロセスを目の当たりにした一夜となった。

 2008年は日本人ブラジル移住百周年にあたり、様々な記念行事が行われた。日本とブラジルは、ほぼ地球の反対側に位置しているにもかかわらず、この百年間に多くの人々が二国間を移動し続けている。もっとも、ブラジルから日本へと移動する人々が目立ち始めたのは1990年代以降、日系人およびその家族が日本で合法的に就労できる法改定が行われてからだ。昨年の金融危機以降は減少しているものの、現在でも在日ブラジル人人口は30万人以上で、在日外国人のなかでも中国人、韓国・朝鮮人に続く第3位の人口規模を誇る。他方のブラジルは現在約130万人と推計される世界最大の日系人人口を抱える国なのだ。

 ブラジルの日系人は主にサンパウロ州・パラナ州といった温暖な気候の南東部に集中している。アフリカ系住民の多い熱帯の北東部を旅行していると「どこから来たの?」と訊かれて「日本から」と答えると「ああ、サンパウロからね」と言われるくらいだ(?!)。

 そのサンパウロで驚くことの一つは、日系食文化が一般に広く普及していることだ。日系人が経営している普通のサラリーマンが昼食をとるようなバイキング式レストランでは、きんぴらごぼう、からし菜のおひたし、冷奴、胡瓜の酢の物などの和風お惣菜や味噌汁が用意されているのが当たり前で、ヨーロッパ系の顔立ちをした普通のサンパウロっ子たちに特に人気なのは焼きそばやサーモンの握りすしだ。サンパウロっ子にとって、日本食は珍しいエスニック料理でも高級料理でもなく、ごく普通の日常食になっている。そんな土地が、日本とは地球の反対側に位置しているということに、一種の感慨を覚えないわけにはいかない(写真をご覧ください)。

【スライドショー:各写真をクリックすると拡大します】
【上段左から(1)巨大焼き魚定食!(2)バイキング形式日系レストランの人気メニュー(3)伯父の祝97歳誕生パーティー(4)ディアマンチーナ名所旧カトリック系女学校(5)建物を結ぶ橋からの眺め】
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【中段左から(6)電気工場のナイスガイたち(7)ディアマンチーナ・聖フランシスコ教会(8)ミナス名物:窓辺の美女(陶器ですが…)(9)ミナスらしい風景(10)サバラの教会で修復作業中】
【下段左から(11)オー教会マカオ様式(?!)内部装飾(12)オー教会外観もかわいい(13)ミナス料理バイキング(14)薪ストーブで料理を温かく保ちます(15)街角の柔道教室看板】

 伯父のカジマヤーで参加者と談笑していて面白かったのが、日本で「デカセギ」や「研修」をした経験をもつ人たちの日本に関するコメントだ。ブラジル人独特のユーモアのセンスを込めて、こんなふうにいう。「びっくりしたよ、日系人の私がいうのもなんだけどね、日本は日本人だらけなんだよ」(まわりの人たち爆笑)。さて、何が爆笑を誘ったのか、分かるだろうか?ブラジルで生活していると、色んな肌の色をした多様な外見をもつ人間が身の回りにいるのが当たり前だという感覚がある。地球上のすべての外見をもつ人々をミックスした様々な混血の人々に出会うことのできる場といってよいかもしれない。そういう日常を生きている人にとっては、日本のように外見のバリエーションが乏しい人たちに囲まれて生きることは、笑ってしまうくらいの非日常的光景だということなのだ。

 さて、今回の訪問のもう一つの目的は、ブラジルの植民地期文化遺産が集中するミナスジェライス州の古都めぐりである。ミナスジェライス(Minas=鉱山、 Gerais=すべての)という名のとおり、植民地期より金・ダイヤモンドに代表される宝石・鉄鉱石などの鉱山開発が行われたところで、特に18世紀には当時の首都リオデジャネイロとミナスジェライス州ディアマンチーナを結ぶ街道は「王の道(Estrada Real)」と呼ばれた。街道沿いの町には18世紀の栄華を偲ばせるブラジル独特の発達を遂げたバロック様式のカトリック教会が多い。

 前回のグァテマラ編でも紹介したが、ラテンアメリカのカトリック教会は、それぞれの土地がヨーロッパ人による植民地支配の歴史をどのように生きてきたのかを知るためには絶好の場といってよい。ミナスジェライスのカトリック教会に特徴的なのは、歴史的にヨーロッパ系住民が通う教会とアフリカ系住民のための教会が明確に分かれていることだ。同じ街の中には複数の教会があり、祀られる聖人の名前が教会の名前になっている(例えば、聖フランシスコ教会のように)。アフリカ系住民の教会は、特にアフリカ系にとっての守護聖人といわれる聖女ロサリオや聖女エフィジェニアなどの名前がついているので分かりやすい。

奴隷制が社会の根幹を支えるシステムであったことが、キリスト教会のあり方からはっきりと見えることは皮肉だ。ブラジルはカリブ海地域に次いで、多くのアフリカ系奴隷を導入して植民地経営が行われた土地である。先住民とヨーロッパ人の混血によって植民地の基礎が築かれたメキシコやペルーのような地域とは違って、ヨーロッパ人がアフリカ系奴隷を使って開発を進めたという意味では米国・南部と類似した歴史をもっている。しかしながら、米国と明確に異なるのはアフリカ系とヨーロッパ系の混血が植民地期から容認されていたという点である。さらには先住民との混血も少数ながら存在してきた。

私がミナスジェライスで出会った教会のなかでも特に印象に残ったのは、州都ベロ・オリゾンテから20キロほど東に向かった人口11万人の町サバラにある聖女オー教会(Igreja de Nossa Senhora do ó)だ。同町の「慈悲の聖女教会」で内部装飾の修復作業をしていた女性に話しかけたら、私の東洋系の顔を見つめながら「オー教会はブラジルで最も東洋系の特徴をもっている教会よ、ぜひ見て」と自信たっぷりにアピールされたので訪ねた教会だ。18世紀半ばの建設とされる教会の内部装飾に、黒地に金や赤で漆塗りにしたような中国風のデザインがふんだんに使われている(写真をごらんください)。同じくポルトガル植民地だったマカオで宣教師をした神父がブラジルにやってきて指示したのだろうと言われているが、詳しい調査はされていないという。しかし、なんというオリジナルな「混血」カトリック教会のたたずまいなのだろう!ブラジルの奥深い「混血力」には感動を覚えずにはいられない。(つづく)

フォトエッセイ:チカコが世界を歩いて考えたこと【第2回】魅惑するグァテマラ—装いへのこだわりの意味
2009年9月19日


 あなたがもしラテンアメリカというところに行ってみたいと思いながらも、まだ行ったことがないという人ならば、是非グァテマラを訪れることをお薦めする。そして、ラテンアメリカ通でもグァテマラを訪れたことのない人は少なくない。そんなあなたにも自信をもってお薦めする。グァテマラは、コンパクトな地理的広がりの中にさまざまな意味での多様性を抱えているところ。私が経験したラテンアメリカ的要素を一挙に展示してくれているようなところと言ったらよいだろうか。先住民の独自の文化世界を実感させ、植民地時代以降のヨーロッパやアフリカの文化との異種混交世界であることも身にしみて感じることのできるところなのだ。

 私個人の意見でない証拠に、アティトラン湖畔で出会った日本人女性バックパッカー2人組の言い分を紹介しよう。彼女たちは7ヶ月かけて中南米12カ国を回ったという(なんとも羨ましい旅だ)。そして、最後にやっぱりグァテマラに「戻りたい」と感じたという。これだけの中南米フリークが、結局のところ選んだところがグァテマラだ。

【スライドショー:各写真をクリックすると拡大します】
【上段左から(1)トトニカバンの織(2)エプロンがかわいいトトニカバンの女性(3)ハカルテナンゴの織物(4)コロテナンゴの女性(5)コロテナンゴの民族衣装の聖人像(6)ヨハネとマリアもコロテナンゴ人】
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【下段左から(7)アグアカタンの織物を売る少女(8)バスが主要な移動手段(9)アティトラン湖畔のレストランで(10)バナハッチェルの教会(11)豪華な朝ごはん(12)生活が背中に現れた母娘の姿】

グァテマラの魅力を一言で紹介するのは難しい。だが、最も分かりやすい魅力といえば民族衣装が真っ先に挙げられる。これだけの国土(日本の1/3に満たない)で出会うことのできる民族衣装のバラエティーの豊富さでは、世界でも類をみないだろう。先住民が村ごとに形成してきた文化を凝縮した人々の装いには目を奪われずにいられない。

私にグァテマラを案内してくれた本谷裕子さん(慶応義塾大学教員)は、グァテマラの人々の装いを研究テーマにしている。彼女が的確にそれぞれの村で衣装の特徴を解説してくれるので、一見バラバラに見える衣装にも統一性が見えてくることもあった(とはいえ、素人には簡単には分からないことも多かった)。民族衣装は、学校の制服のように全く同じ柄や色で作られているわけではなく、一人ひとりの作り手が微妙に柄のパターンや配色の組合せを工夫して作ったものだ。

私が最も心を魅かれたのは、コロテナンゴのカトリック教会内の聖人像の装いだった。現地の聖女像が村の民族衣装なのには本当に驚いた(写真をご覧ください)。民族衣装とはいえないが、コロテナンゴの赤紫をベースにパステルカラーで幾何学模様が刺繍のように入っている布製肩掛けかばんをかけているヨハネとマリア像のあまりにもオリジナルなたたずまいには声を失った(こちらも写真があります)。

カトリックと縁のない多くの日本人には、私が何に驚いたのかが伝わらないだろうから、解説しておこう。キリスト教はいわゆる世界三大宗教の一つといわれるが、それは民族性を越えて世界の人々に信仰されているからだ。つまり、人類全体が信仰の対象とすべき唯一神のもとに創られた普遍的な原理がカトリックなのだ。通常、世界のどこのキリスト教会に行っても時代に応じたスタイルはあるものの、共通の構造・装飾物をもつ。そして、聖書が描き出す世界観を世界中の信者が共有しているはずなのだ。

それなのに、コロテナンゴのカトリック教会は、人類全体を貫くシンボルで統一されてはおらず、きわめてローカルなシンボルがカトリック的シンボルと合体した姿で信者を迎え入れる。教会内の聖人像を目にしたら、そこは他のどこでもないコロテナンゴであることを意識せずにはいられないのだ。教会は本来、神と人間をむすびつける聖なる空間として「透明な場所」でなければならないのに、コロテナンゴの教会は明らかに「赤紫色の場所」になっている!

私たちの歴史教科書によれば、先住民は「征服」され「キリスト教徒化」されたことになっている。でも、私がコロテナンゴの教会で感じたのは逆だ。キリスト教は先住民に「征服」されたのかもしれない。日曜日のミサを終えて、教会からぞろぞろと出てくるコロテナンゴの赤紫色の村人たちに囲まれながら、そんな直感に包まれた。 その後、長崎市外海地区のいわゆる「隠れキリシタン」の末裔を主な信者とするカトリック教会を訪れ、歴史民俗資料館で紹介されている「隠れキリシタン」関係の資料を見たときにも、似たような印象をもつことになる。私の印象に残ったのは、「普遍的」カトリックからは遠く離れて、ローカルな文化のなかに埋め込まれている信仰の姿だった。

グァテマラに話しを戻すと、特に西部地域はコロテナンゴに負けないくらい印象的な民族衣装をもつ村で埋め尽くされている。コロテナンゴから車で1時間半の村:アグアカタンは、朱色をベースにした錦織のような華やかな帯のようにも見える織物が特徴的だ。すべての世代の女性たちが、この織物を帽子のように頭に巻いたり、ヘアバンドのようにしたりと、個性を生かした装いをしているのに目を奪われた。民族衣装といったら、村人が皆同じ衣装を身に付ける没個性的ファッションと思ったら大間違いである。

本谷さんが長年調査地として通っているナゥワラの衣装で印象的なのは、藍染ベースの巻きスカートだ。藍染といえば地味な印象があるかもしれないが、巻きスカートには通常パステルカラーのラインが入っている。それが、とてもモダンな印象を与える。日本でも有名なファッションブランドのポール・スミスのスーツを思わせるような抑制された色使いだ。アティトラン湖畔の観光地パナハッチェルで見かけた隣村:サンタ・カタリーナ・パロポの藍とコバルトブルーの鮮やかな配色も印象的だった。 こうしたグァテマラの民族衣装との出会いが私に与える感動は何なのか。それは、多様性のなかの統一性が衣装によって表現されていることへの感動であり、コミュニティ・メンバーとして誇りをもって伝統を継承している村人たちに対する敬意と結びつく。同時に、そうした村の共同性のなかにありながら個性が際立つ装いを自然体で楽しんでいる一人ひとりの女性への敬意も湧き上がった。こういう生活のことを豊かだというのではないか、という思いがグァテマラ滞在中に何度も私の脳裏をよぎった。(つづく)

フォトエッセイ:チカコが世界を歩いて考えたこと【第1回】トルコで考えたこと—「アジア」としてのトルコ?!
2009年8月7日


国際学部教員の山脇千賀子です。
2009年度国内在外研修で一橋大学研究員として1年間研究に専念することになりました。研究テーマとしては、世界と私たちの生活をむすびつけるものや断絶するものに関して、近代世界のなりたちや構造の分析を通して考えていくつもりです。短くいうと、グローバリゼーション研究です。私の専門とする調査地域は、基本的にペルーと日本なのですが、すべての地域は世界における地域を越えたネットワークの中に位置づけてみてみる必要があると思っています。

そういうわけで、私がこれまで、調査のような観光のような淡いで世界を歩いてみて、感じたこと・考えたことを、今年度の間に6回にわたって(予定)、みなさんにお伝えしようと思います。とくに、人々の生活に息づいている「こだわり」に注目した報告にするつもりです。写真と一緒にお楽しみいただけると嬉しいです。

《予定されるラインアップ》
第1回 トルコ(イスタンブール・エフェス・カッパドキア・アンカラ)
第2回 グアテマラ(ケツァルテナンゴ・パナハッチェル・アンティーグア)
第3回 八重山諸島(石垣・竹富島)
第4回 ベトナム(フエ・ホイアン・ホーチミン)
第5回 中国・アモイ
第6回 ペルー(リマ・トゥルヒーヨ・クスコ)

第1回は、トルコで考えたこと—「アジア」としてのトルコ?!です

2006年年末に訪れたトルコで一週間にわたってガイドを務めてくれたユミットさんは、日本で総合格闘技K-1のリングコーチをしていたという異色の経歴をもつ。彼はしつこいくらい「トルコはアジアです」という主張を繰り返す。トルコ人が好きな国ベスト3は、1位:日本、2位:アゼルバイジャン、3位:韓国だという。つまり、アジア諸国に親近感をもっているということなのだろう。

しかし、かつての中華帝国の辺境に位置する島国・モンスーン気候の稲作文化を背景にした日本との文化的つながりは、ユーラシア大陸を闊歩したモンゴル系遊牧民族を媒介としたものである。ウラル・アルタイ語系言語を共有しているという遥か遠い記憶をたどるより他に「むすびつき」を実感することは難しい。(ちなみに、かつて文教大山脇ゼミ所属の学生が、アンカラ大学でのトルコ語学習コース1年のところ8ヶ月で修了してしまったくらい、日本語を母語にする人にとって、トルコ語は学びやすい。)

たしかにトルコはかつて小アジアと呼ばれていた。ヨーロッパ大陸からみて、オリエント=東方であることには間違いない。ところが、トルコはギリシャ・ローマ時代の遺跡の宝庫なのだ。「トロイの木馬」のエピソードで有名なトロイもトルコにある。そこが近代ヨーロッパの揺り篭だったことを私たちに思い出させる。まさに世界の人々が思い描くようなギリシャ・ローマがそこにあるのだ。ギリシャ建築の代表的様式として、私たちが世界史教科書で学んだイオニア様式は、トルコのイオニア地方が発祥だったと知って、私はしばし絶句した。(まあ、私が無知なだけですが…)それでも、アジアか?!

さらに驚きは続く。首都アンカラにあるアナトリア文明博物館に足を踏み入れると、きらびやかな歴史の証言をする展示品の数々には感動せずにいられない。そこが紀元前6000年前からの人間の歩みを刻んだ石や金属や生活用品にあふれているからだ。キリスト教以前の地母神やらギリシャ神話の神々がいる。獅子やレオパードや山羊や羊やらと一緒に、だ。人間の生活を現すものとしては、借金や裁判の証書(とはいえ、いわゆる紙に書かれたものばかりではなく、金属や石などもある)。斧やナイフのような実用品とともに、ありとあらゆる繊細な化粧道具や装飾品もある。これぞ、人類の文明の歴史!といわんばかりなのだ。

【スライドショー:各写真をクリックすると拡大します】
【上段左から(1)アジアと欧州を隔てるボスポラス海峡(2)トプカプ宮殿に遠足にきた小学生たち(3)宮殿内の王の名がつけられた部屋の印(4)イスタンブール・ブルーモスク(5)イスタンブール・ブルーモスクからみたエジプト製オベリスク(6)イスタンブールのバザールでござ〜る(7)エフェスの遺跡(図書館)】
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【下段左から(8)カッパドキア(鳩の谷)(9)カッパドキアの奇岩(親子だそうですが・・・)(10)カッパドキアの夕暮れ(11)ギリシャ正教の洞窟教会内の壁絵(12)アンカラの近くで食べたランチ(13)アンカラの博物館概観(14)トルコ産乾燥ゴキブリ(日本語版)売ってます?!】

歴史の証言をするのは、博物館の展示品ばかりではない。アンカラやイスタンブールをはじめとしたトルコの町々には、ギリシャ正教の教会からイスラム教のモスクへと変貌したきらびやかな建造物が目に付く。つまり、複数の様式が混交していることが分かるような建造物だ。オスマントルコの時代は、イスラム帝国としての支配機構を完成させながらも、異教徒への柔軟な支配体制を兼ね備えていたことを伺わせる。 そして、オスマントルコはまさに近代ヨーロッパとの戦いに敗れて、1923年に共和国へと変貌していく。近代的な共和国首都としての街づくりがアンカラで行われていた時期、ブラジル・サンパウロも世界からの移民を集めて近代都市へと変貌を遂げようとしたのだった。モスクがなければサンパウロの町並みとそっくりだ。街にゆるやかな起伏があるとことも。

こうしてみてくると、まるで、トルコには中華帝国以西の世界史のすべてが詰まっているようだ。なんという豊饒な世界だろう。トルコ料理を中華料理・フランス料理と並んで世界三大料理と評価している理由は、そこにあるのではないかと思う。あえていうなら、トルコは「欧州でもアジアでもないが、同時に欧州でもアジアでもある」ということになるのではないだろうか。

そういう意味では、「トルコ=アジア」という表現は正しくないように思われる。トルコ人の自称アジアは、現代トルコ人がもっている「アンチ近代欧米」=「非近代欧米」でありたいという心情を「われわれはアジア人」というスローガンで示しているにすぎないのではないかと思う。トルコは長き時代にわたり、西欧諸国と対峙するオリエントの最前線だったし、現在もかなりの程度そうなのだろう。 そうした文脈を読み込むと、日本へのシンパシーの起源もみえてくる。日露戦争(1904~5年)で当時のトルコにとっての眼の上のたんこぶ=帝政ロシアを撃退した日本帝国の業績に対する賞賛にみられるような、「敵の敵は味方」的シンパシーだ。欧州とは異なる文明を築いてきたという自負が、トルコの自称「アジア」には込められているのだろう。

そうでありながら、EU加盟を国策としてきたのは、世界におけるトルコの地位向上へのこだわりのせいだろう。しかし、どうぶん認められそうにもない状況にトルコ人は苛立っている。(サッカーワールドカップでは、トルコはアジア枠ではなく欧州枠に組み込まれていることについて、トルコ人はどう思っているのか、ぜひ教えて欲しいところだ。)そうでありながら、観光客が多いホテルのレストランや空港の免税店の価格表示はユーロに統一されている。つまり、ユーロ経済圏になっているのだ。(個人的には、アンカラ空港のレストランで米ドルのおつりが用意されていないのには驚愕した。)

欧州でありながら欧州ではない。アジアと言えるような、言えないような所。世界の多様性に出会うことができると同時に、多様性の融合状況とも出会うことができるところ。トルコは現代および近未来のグローバリゼーションのあり方を考えるのにも、戦略的な視点を提供してくれるところだ。めちゃめちゃおもしろい。 (つづく)