4.各教科書の内容
それでは、この中から、義務教育課程で使用される教科書の内容を具体的に紹介していきましょう。 現在のロシア連邦の教科書は、科学アカデミーによる審査を受けています。また、いずれの科目も、出版される教科書の数が増加したため、近年ではこれを制限する必要性が議論されています。本展で紹介する教科書は、ソ連時代以来の教科書専門出版社で、現在も教育部門最大手の「プロスヴェシチェーニエ社」によって刊行されたものです。
@ 英語
外国語は、「語学」領域で第5学年からの必修科目と位置づけられていますが、「可変部分」に配分された授業時間の範囲で第2学年から実施することが可能です。ソ連時代には、主に履修される外国語科目はドイツ語でしたが、現在のロシアでは外国語として、英語が教えられることが一般的です。
ここでとりあげるのは、第2学年向けの教科書です。カラフルなページ作りでミッキーマウスをはじめ、アメリカの人気キャラクターが紹介されています。教科書には、CDが音声教材として付けられています。テキストには発音記号が併記されており、英語のリスニングとスピーキングに力が入れられていることがうかがえます。(『これらのキャラクターたちは、何という名前ですか?』翻訳は省略)
A 文学
ロシアといえば、その文学が世界的に有名であり、プーシキン、ドストエフスキー、トルストイ、チェーホフをはじめ、多くの文豪が現れました。また、ソ連時代には、ロシア人は「世界でいちばん本を読む国民」と呼ばれることがありました。しかし1990年代以降、商品経済が浸透し、娯楽が多様化する中で、日本と同様に、若者の文学離れが指摘されています。たとえば、旧ソ連から独立したウクライナでは、教育省が今年作成した5−7年生向け国語教科書への掲載推奨作品のリストが、大きな議論を引き起こしました。なぜならそのリストでは、J・K・ローリング『ハリー・ポッター』が推薦された一方で、トルストイの作品が外されたからです。
とはいえ、ロシア連邦の文学の教科書は依然として、中世文学から、世界的に名高い19世紀文学、そして現代文学に至る様々な作品を、イラストをつけて網羅的に紹介しています。
ロシアの文学の教科書に特徴的なのは、「声に出して暗唱すること」を推奨することです。次に紹介するのは、第3学年向けに詩の読み方を説明した一節です。(『詩の覚え方』 翻訳は省略)
B−1 ロシア史
歴史科目のうち、ロシア史は第6学年から第9学年の四年間で学びます。すなわち、第6学年では「古代−16世紀」、第7学年では「17−18世紀」、第8学年では「19世紀」、第9学年では「20−21世紀」について、それぞれ一冊ずつの教科書が編まれています。
ロシアは、皇帝を頂点とする国家が1917年に革命で倒され、その後に作られた社会主義国家もまた、1991年にクーデターを契機として解体されるという激動の歴史を経験してきました。
しかし、現在のロシア史の教科書は、旧政権の歴史を批判することなく、わりあい淡々と記述していると言うことができます。次に挙げるのは、第9学年の教科書の中で、1930年代のソ連で全国に広がった「スタハノフ運動」を紹介する一節です。 (『スタハノフ運動』翻訳は省略)
B−2 「反歴史捏造委員会」の問題
現在のロシア国家は、前政権を批判するのではなく、むしろ、ロシアが歴史的に、いかに正義の役割を果たしてきたかを主張することに力を入れています。そうした姿勢を象徴的に表すのが、「反歴史捏造委員会」の創設です。
2009年5月9日の「対ドイツ戦勝記念日」の直前、メドベージェフ大統領(当時)は、歴史の記憶が薄れ、戦争体験者の数が減り続ける中で、無知から、または故意に、歴史の解釈が塗り替えられ、歴史捏造の試みがより悪意に満ちた攻撃的なものになってきていることへの懸念を示しました。そして、今後、歴史的真実を擁護し、以前は全く明白であった事実をもう一度証明する必要性があると述べ、歴史捏造に対する対策を講じるよう求めました。その上で5月15日、メドベージェフ大統領は、歴史捏造対策委員会の設置に関する大統領令に署名しました。これにより、歴史観の統制が、「ロシアの国益を損なう歴史捏造に対する大統領直属の対策委員会」のもとで行われることになりました。以後、歴史教科書は、この委員会の検定を受けています。
「反歴史捏造委員会」設立の一因となったのは、次のような事情です。かつてソヴィエト連邦は、自国が第二次世界大戦でナチス・ドイツのファシズムを倒し、「正義」を実現したことを理由に、戦後の東欧諸国の支配を正当化しました。しかし、冷戦体制が終焉した現在、旧社会主義圏の東欧・バルト諸国がそうした歴史理解に異議を唱え、ソ連・ロシアの戦争責任を問う状況が現れました。ロシアはこれに対抗して、ファシズムが悪で、自国が正義だったとする歴史理解を維持しようとしています。その結果、大統領によって、「歴史の捏造」に反対する委員会が設立されたのです。
ロシア史の教科書でも、第二次世界大戦(ロシアでは「大祖国戦争」と呼ばれます)についての記述は、このような公式見解をふまえたものになっています。
C−1 宗教道徳:正教
最後に、宗教道徳をとりあげましょう。この科目は、第4学年と第5学年を対象に、2010年9月から試験的に導入されていましたが、本年9月から、「不変部分」の教科領域の一つとして、全国の学校で教えられることとなりました。本展で紹介するのは、試験的導入期間に使用されていた、「正教文化の基礎」と「イスラーム文化の基礎」の教科書です。
宗教道徳は、多民族・多宗教を特徴とするロシア社会で、国民が相互に理解しあい、共存する精神を育てるための科目です。それゆえ、正教とイスラームの教科書のどちらにおいても、第1課は「ロシア−私たちの祖国」で始まり、最後の第30課は「祖国への愛と敬意」で終わります。
例として、「正教」教科書の一節を挙げましょう。この教科書は、正教の教義や道徳、イエス・キリストの生涯、復活祭や聖体拝領などの祭儀、教会、修道院、聖像画(イコン)などを、30課に分けて紹介します。そうした中で、第28課が、信仰心と祖国や家族の防衛との結びつきを教える内容になっています。 (『祖国の防衛』 翻訳は省略)
C−2 宗教道徳:イスラーム
「イスラーム」の教科書もまた、30課に分けて、ムハンマドに始まるその歴史や、神の教え、ロシアにおけるイスラームの歴史などが説明されます。そしてこの教科書でも、第19課に、信仰心が祖国愛と結びつけられた一節が現れます。また、ここでは、大祖国戦争でソ連がドイツのファシストを破ったことを強調するという、歴史教育と共通する側面が見られます。 (『イスラームの道徳的意義』 翻訳は省略)
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このように、国内の体制としては多民族・多宗教国家であり、国際的には大国の位置を維持しようとするロシアで、教育は国民をまとめるために重要なものです。それゆえ、教科書もまた、その役割が重視されています。ロシアの教科書は、急速に変化する現代ロシアの社会・経済の状況や国際情勢を、如実に反映していると言えるでしょう。
(参考文献)
○津田憂子「立法情報 ロシア 歴史捏造対策委員会の設置」『外国の立法』240−1、2009年 14−15頁。
○寺山恭輔「反歴史捏造委員会設立とロシアにおける歴史観をめぐる闘争」『日本国際問題 研究所 ロシア研究会報告書』2010年、134−150頁。
○橋本伸也「旧ソ連地域における歴史の見直しと記憶の政治−バルト諸国を中心に」『歴史科学』206号、2011年、10−30頁。
○本間政雄・高橋誠編著 『諸外国の教育改革―世界の教育潮流を読む 主要6か国の最新動向―』ぎょうせい、2002年、188−215頁。
○『諸外国の初等中等教育』文部科学省、2003年、134−149頁。
○『教育指標の国際比較 平成24(2012)年版』文部科学省、2012年、73頁。
(参考ホームページ)
○Журнал ≪Огонёк≫, 34 (5243), 27.08.2012 (http://kommersant.ru/doc/1997068).
○Vedomosti.ru, ≪От редакции: Государство как учитель истории≫, 20.02.2012 (http://www.vedomosti.ru/opinion/news/1508310/slishkom_mnogo_bukv).
文責:巽 由樹子
(東北大学東北アジア研究センター 非常勤研究員)
2012年11月
***** 入場者の感想 *****
・外国の教科書は日本に比べて文字による情報が多そうです。日本の教科書は絵が多くて絵で説明しているのかなと思いました。(本学卒業生)
・子連れでうかがいました。様々な国の教科書を見て自分の学年の学習内容が違うことにとても興味をもっていました。興味深い展示、ありがとうございました。(本学卒業生)
私はロシア文学が好きです。今回教科書展を見てトルストイが文学推奨リストからはずれてしまったことがあったことに驚きました。国によって教科書の雰囲気が違っておもしろかったです。(本学学生)
・さまざまな国の教育の方向性が少しわかったような気がしました。第二次世界大戦の見方もやはり日本とヨーロッパでは取り上げる部分が異なっていると絵を見て思いました。来年も見たいと思いました!!(本学学生)
・とても面白かったです。ロシアの義務教育、レベル高いですね… 。(本学学生)
・言葉がわからないのでどんな内容をやっているかは全然わからないけど、それぞれの国によって絵や色遣いが独特でおもしろかったです。来年、数学の教員になるので特に数学に興味を持っていたのですが、ロシアの教材は絵や色が少なく、日本との違いにびっくりしました。(他大学学生)
・世界の教科書は教える内容が何か日本より進んでいると思った。習う内容も他国はたくさんあり、大変そうだった。特にロシアがすごかった。(高校生)
・小学生なので、英語(ロシア語)なのでちょっと分かりにくかったのですが、ロシアは、9年生まであるのがおどろきました。(小学生)
・ロシアがこれほどまでに英語教育を重視していることに大変驚きました。「6年生」の英語の教科書も大半が「英語」で説明文が書かれていることにやや衝撃を受けました。「日本は遅れている」との実感を深くしました。今後もこうした「知見の深化」につながる企画をお続けください。(本学教職員)
・「安全教育」が様々な教科の内容を横断的に含んでおり、実生活に即した実際に役に立てることのできる知識を中心にまとめてあり、様々な知識を得ることのできる有用な教科であると思った。日本では常識として扱われるようなこともていねいに書かれているようで、それは大切なことだと感じた。中学校に上がると途端に難しくなるといわれている日本の教育に比べ、ロシアは6年生と7年生の差がそれほど大きくないので、スムーズに教育が進むと思う。 (本学教職員)
・各国の教科書の原本を手にとるのは初めてでした。詳しい内容を読むことはできませんでしたが、どういう事に力を入れて教育していくか、それぞれの国の特徴を感じる事ができました。宗教の時間は日本にはないので、やはり宗教問題が日本人にはピンとこないのも納得できます。(本学学生家族)
・昨年も見させていただきましたが、今年もとても面白かったです。ロシアと日本は、修学年数、内容等いろいろ異なるのですね。 (本学学生家族)
・ハリーポッターとトルストイを並列に扱っている下りがリアルでなるほど!と思いました。楽しかったです。
・ロシアの教育の体系や背景がパネルによくまとまっていて興味深く見ることができました。各国の教科書の展示も面白かったです。
・来年子供が小学生なので教科書に興味を持ち来てみました。宗教に対する考え方がやはり他国はすごいと感じました。子供のころから、自国についてしっかり学ぶことが将来の他国との付き合い方に影響してくるので、とても大切なことだと思いました。
(入場者337名中258名がアンケート回答、その中より抜粋)