1.教科書国定化の過程
―始めに国定化ありき―
1903(明治36)年、それまで検定制であった教科書制度が、全く突然、降って湧いたように国定制に切り替わった。
表向きの理由は、教科書検定制では、教科書の販売を巡る贈収賄が絶えない、というものである。確かにそうした状況はあった。しかし、言うまでもなく、教科書国定化は、政府の恣意的な教科書作成に有利な制度である。学問の自由や表現の自由を制約する結果を招来することは明白である。
ところが、国会での議論において、そうした論点から国定化に正面切って反対した議員はごく少数に留まった。なぜか。
そもそも、なぜ、突然のように教科書国定化の議論が起こり、決せられたのか。疑問は数多い。
近年の研究は、その過程に光を当てつつあり、展示では、その辺りを明示した。
パネル1は、次のような内容とした。
教科書国定化の推移と謎
*明治35年12月……教科書採択を巡る贈収賄事件摘発始まる(明治教科書疑獄事件)
*明治36年1月……教科書国定化法案内閣通過
*明治36年4月……教科書国定化法案国会通過、制定
摘発のきっかけは、1902(明治36)年秋口に列車に置き忘れられた1冊の手帳であった。この手帳は、当時の教科書会社「普及舎」社長のもので、そこには、贈賄の相手先の氏名・金額など教科書販売を巡る贈賄の事実が記されていた。
この手帳を手がかりに、同年12月17日午前4時を期して教科書販売を巡る贈収賄事件の一斉検挙が始まった。1月までの逮捕者は127人に上ったという。
教科書事件摘発開始からわずか3週間後の1月9日には、教科書国定化法案は閣議決定され、4月には国会を通過した。事件摘発を含め、まことに「手回しよく」というしかない素早さであった。
2枚目以後のパネルは以下のようである。
(疑問)事件摘発後、なぜ、これほどの速さで、国定化が決定されたのか<近年発見された資料による新たな仮説>
(仮説)教科書国定化は、事件摘発よりずっと以前より計画されており、教科書疑獄事件は国定化実施のための口実を与える目的で大々
的な摘発が行われた。
(証拠)
1.修身教科書調査委員会(明治33年設置)に関わった沢柳政太郎の残したメモ(明治33年には、修身のみならずすべての教科書の国定化が計画され、作成が開始された)
2.教科書疑獄事件摘発を急ぐよう総理大臣(桂太郎)に求めた文部大臣(児玉源太郎)の手紙(※)
3.劇場型捜査(教科書採択を巡る贈収賄事件の摘発は強引で、できる限り国民にその醜悪さを印象づけるよう、演出されていたと思われる)
*例1……深夜に○○県知事逮捕、寝間着のまま東京に連行
*例2……○○県師範学校長が、生徒を講堂に集め、教科書疑獄事件の醜悪さ、教育界の腐敗を嘆く演説をしているとき、演壇上で、教師・生徒全員の前で逮捕
*例3……えん罪も相当数あった模様。詳細は不明だが、裁判で無罪となった明確な例もある。(当時の政治的裁判で無罪を勝ち取ることはきわめて稀であった)
上記2(※)の書簡は次のような内容である。
「文部の事も、昨日此如く決定仕候上は、猶予無く御運び相成候方然るべきかと存じ奉り候。然らざれば漏洩の上、他より助言せらるるの恐れ之れ有り、発表は兎も角も動かす可からざる程迄に御内定相成候事は尤も早急に願上奉り候」
ちなみにこの書簡は、1902(明治35)年9月18日に書かれており、事件摘発の3か前である。
以上のことから、教科書国定化は教科書事件とは別の既定路線であり、教科書事件は、教科書国定化の口実に使われたのではないかとの仮説が有力となる。
なお、先の書簡の写真、桂太郎、児玉源太郎の写真など、文字だけにならぬよう視覚的な効果を考えての展示にしたつもりである。
2.国定化の成果
教科書国定化による政府の恣意的な教科書づくりの例は枚挙にいとまがない。提示では、その代表的な例の1つとして南北朝の記述変
更(1911(明治44)年)を取り上げた。すなわち、万世一系であるべき皇室が南北に分断されたというのでは皇室の尊厳を傷つけるとの理由から、南朝を正統とする記述に変えた事実である。この折、南北朝は、吉野朝と改められた。
3.教科書事件を報じる新聞記事
明治期の新聞が教科書事件をどう報じたか、関連記事を展示した。予想されたこととは言え、国定化を危惧する報道はほとんどない。
4.国定教科書、墨塗り教科書
国定教科書時代の教科書(図書館所蔵)とともに墨塗り教科書(複製:平沢所蔵)を併せて展示した。全180頁中120頁に墨が塗ら
れた教科書もあり、国定教科書の問題が参観者には伝わったのではないかと考えている。
(文責:教育学部 平沢 茂)