コロンビア大学名誉教授、国際教育・職業指導学会名誉会長、D．E．スーパー博士（1910～94）は、1960年以降、わが国の教育界にもっとも影響を与えた学者の一人である。その職業的（進路）発達理論は、教育行政、研究者はもとより、実践者､産業界に至るまで幅広い関心を集め続けている。
本稿では、学校進路指導への理論的基盤の構築および生涯を通じたキャリアカウンセリングの実践的フレームの形成という2点から、わが国へのスーパー博士の貢献を概観する。
はじめに
米国・コロンビア大学名誉教授、国際教育・職業指導学会名誉会長であったスーパー博士（1910－1994）は、1960年以降、日本に最も影響を与えた学者のひとりである。とくにキャリア・ガイダンスやキャリア・カウンセリングの研究への影響が大きかった。その主著である『職業生活の心理学』（誠信書房）は、1960年に日本職業指導協会によって翻訳された。日本の研究者は、この著作によって初めてスーパー博士による職業的発達理論に触れたのである。それ以降、今日に至るまで進路指導プログラムに対する理論的な裏付けと同様に、キャリア発達への研究方法において、われわれはスーパー博士から知的な刺激と理論的な影響を絶えず受けつづけている。
本研究ノートでは、1960年から1990年までに明らかになった主要な二つのトピックを中心に、わが国の進路指導に対し、スーパー博士の研究や理論がいかに貢献したかを述べたい。
１．学校進路指導の基礎理論への貢献
スーパー博士の日本の学校進路指導への功績は、職業（進路）指導を歴史的に概観することにより明白になる1）。アメリカ合衆国職業指導運動は1915年に、初めてわが国に紹介されたが2）、その5年後には大阪、翌年には、東京に市立の少年職業相談機関が相次いで開設された。1927年、文部省は、訓令第20号を発し、初等中等学校に対し、児童生徒の就職や進学指導の際、個性尊重に基づく職業指導の充実を求めた。1930年から1945年にかけては、不幸にも学校職業指導は、戦時労務動員の一翼を担う役割をもたされた。
日本の教育制度はGHQ･CIE（占領軍総司令部,民間情報教育局）によりアメリカ合衆国の民主主義教育の理念で再構築されたことは歴史的な事実である。1947年に制定された「学校教育法」により、中学校の教育目標の一つに職業指導が明記されるとともに、1953年には、同法「施行規則」の一部改正によって、中学校には、その中心的な推進者として、「職業指導主事を置く」と定められた3）。こうした教育的な背景や、1950年代のＩＦＥＬ（教育指導者講習会）を通じ、米国の教育学や心理学の影響を受け、この時期に早くも、わが国の学校における職業指導の制度や組織が確立した。しかしながら、その後の職業指導は長い間何の変化もなかった。当時から援用された主要なモデルは、学卒時に於ける「マッチングモデル」であり、進学、就職を希望する中・高校生を最適の進路先に斡旋することを第一の目的としてきたからである。
1958年から最近までに文部省が改訂した学習指導要領には、わが国の中等学校職業指導が、スーパー博士の理論的枠組みによって、どのように従来の「マッチングモデル」から「キャリア発達モデル」へと転換したかが示されている。例えば、1947年の学習指導要領「職業指導編」によると、「職業指導とは、個人が職業を選択し、その準備をし、就職し、進歩するのを援助する過程である」（昭和22年文部省学習指導要領｢職業指導編｣）と定義され、1949年に再改訂された学習指導要領は「職業指導とは、個人が生計費を得て、自己および社会の為に最も有益な生活をするよう、個人に職業訓練を与えた上に、その天賦の才能を発見し、活用することを援助する過程である」（昭和24年「中学校・高等学校職業指導の手引き」）とされていた。
1958年（中学校）、1960年（高等学校）の学習指導要領では、職業的発達理論の影響が次第に明らかになった。この改訂では、「職業指導」に代わって「進路指導」という用語に改められた4）。これ以降、今日まで学校進路指導においては、その教育活動全体を通じ、組織的、計画的キャリア・ガイダンス・プログラムの実践が求められている。1998年までに、例えば中学校学習指導要領は、6回改訂されているが、特にこの理念は一貫して明示されている。
スーパー博士の理論は、中等学校の進路指導の理論的枠組みとして認められたものの、その理論は必ずしも実践されてこなかった。それは、多くの日本の専門家たちが、スーパー博士を卓越した職業心理学者であるとするものの、同時に傑出したカウンセリング心理学者であることを認識していなかったことも理由の一つである。結果的に、スーパー博士の理論は大きな影響を与えたが、つい最近まで学校での実践レベルには殆ど反映されなかった。それは新しい理論や理念によって指導を進めようとしても、長年にわたって学問的、実証的根拠を欠いた慣行的ガイダンスモデルやカウンセリング技法が一般化していたことに阻まれて、多くの学校の実践レベルでは、進路指導の理念的目標を、旧来の伝統的な“個人と進路先とのマッチングモデル”から“個々に応じたキャリア発達モデル”へと転換することが難しかったからである。
1995年から始まった第15期中央教育審議会では、進路指導上、カウンセリングの技能と同様にガイダンス機能の充実を強く求めており、このため文部科学省の委託研究チームは、進路指導のための新しい実践モデル～小学校から高等学校に至る進路指導プログラムのための能力をベースとした新しいモデル～を提案した。このモデルは、関係分野の研究を踏まえ、「獲得された能力」を基礎として構成されている。作成者である仙﨑，渡辺らは、スーパー博士のライフステージやキャリア発達の考え方が、この新モデルを説明する理論的な枠組みとしては最適である、と結論付けている5）。
２．若者・成人に対するキャリアカウンセリングプログラムへの影響
我が国に於ける社会経済や人口統計学上の変化に伴って、スーパー博士の理論が現実味を帯びてきており、実践的に高い価値をもつことが立証されている。周知の通り社会経済や人口統計上の衝撃的な変化に加え、1990年以降、雇用環境は大きな変化を遂げた。こうした環境の変化が結果的に、労働者のキャリア・パターンやキャリアパスの変化とともに、個人の職業的価値観の多様化、キャリアや人生への行動や態度の変容を招いたのである6）。さらに、日本の若者や成人の人間の内的・外的キャリアの世界の双方において、危機介入と同様に、発達的なキャリアにおけるカウンセリングの機能に改めて関心が集っている。
既述のように、キャリア発達理論が紹介された後も、「マッチングモデル」によるカウンセリングが学卒時に進路を選択する若者への重要なアプローチとされて来た。しかしながら、今日の急激な職業環境の変化のもとで、あらゆる世代の労働者は、自己の生涯設計や自らのキャリア発達についての個人的な目標を果たすことが益々困難な状況となっている。従来の、「人間＝仕事マッチングモデル」の固定的な対応に代わって、今後は労働者への総合的な支援により、将来のキャリア・パスウエイの選択、及び仕事と生涯役割とのバランスに関わる能力と技能の開発を援助する必要がある。
こうした状況下で、成人の3つのグループにとって、特にキャリア・カウンセリングが必要不可欠である。一つは、労働市場に再参入を試みている女性のグループ、もう一つは高齢者のグループ、そして、企業のリストラ等で仕事を失った中堅の労働者である。多くの非伝統的なキャリア・カウンセリングの顧客は、短期的な雇用ばかりではなく、自己実現を図るための進路設計に対する専門的な援助を求めているからである。
渡辺は、キャリア・カウンセリング実践を通し、キャリア設計セミナーへの200人以上の参加者に対する調査を下に、スーパー博士の創案による生涯にわたる人生役割の虹“ライフ・キャリア・レインボウ”(1986)が、再就職する女性や、中・高年の労働者にとっては、最も適切で満足の行くアプローチである、ことを明らかにした7）。
また、成人のキャリア発達に於けるスーパー博士の理論の適合性を検討するため、岡田は、ケース・スタディによる研究を行なった8）。彼は、スーパーのキャリア発達に従い、「維持期」にある3人の中堅ビジネスマン（40、49と53歳）を研究対象に選んだ。3人とも大企業で昇進し、同僚や雇用主からキャリアチェインジの成功モデルとされている。3人の質的データは、彼らのキャリア・ヒストリーに対する一連の質問と同様に、3時間のビデオテープによるインタビューによって収集された。岡田によると、こうした人たちには、時間の見通し、探索行動や技能、意思決定能力、現実に根ざした行動、開放的な心、人間関係を円滑に進める技能、部下や同僚への暖かい配慮と基本的な信頼などが備わっているという特徴があったほか、この3人は25歳から30歳の間、40歳から45歳の間、50歳台始めに、キャリア移行の危機を克服したことを明らかにした。これらの研究の成果は、中年のビジネスマンのキャリア成熟に関するスーパー博士の理論が、現代の日本にも適用されることを示している。そのキャリア適合(career adaptability) 構造9）は成人期に於けるビジネスマンのキャリア行動を適切に説明しているように思える。
松本ら10）による別の研究もある。これも同様に、スーパーの理論を支持している。この研究は、108人の引退した男性を対象に、定年までに起こるキャリア行動と定年後の生活適応との関連を明らかにした。3つの独立変数、10の中間変数によるパス解析で、肯定的な自尊心と同様、人生設計技能及び個人と組織の心理的距離感は、これらの人々の引退後の生活に最も影響を与えることが示されている。
結 び
限られたスペースのなかで、スーパー博士とわが国との関わりの総てを披瀝するのは不可能であるが、その研究や理論は日本で高く評価されている。しかし、残念ながら、藤本・仙﨑らによる職業的発達理論の紹介や中西らが関わった職業的価値や役割に対するスーパー博士のWork Importance Study等の詳細については、ここでは触れることができなかった｡また、キャリア発達やキャリア成熟に関する心理的アセスメントの開発に関する貢献も、ここでは取り上げることができなかったことにも悔いが残る。
学校や成人の進路指導・相談機関で働いている専門家たちに向けて、スーパー博士の理論を紹介するため、その出版物を翻訳する仕事はとても重要なことである。これまでの著作は、行政、学校はもとより専門機関等によって、個人的な技能を伸ばすプログラムやトレーニングを開発するために、いま大いに活用されている。
長縄（1999）11）が言うように、スーパー博士の、個人的なキャリア発達を中心とした現象学的なアプローチの重要性は増し、その理論は今後、未来予測が困難な社会で、あらゆる世代の日本人の自己実現を支援する主な枠組みとなるであろう。また職業･仕事の変化はますます加速化し、労働者自らがキャリアパスを自覚し、そのライフロールも変化し続けると思われる。このため将来の労働者は、新たなキャリアに参入し、適切な進路行動ができるよう、博士によって主張された、個人の生き方や進路設計を実現する様々な態度・技能を身に付ける必要があることはいうまでもない。
本ノートは、渡辺三枝子（筑波大学教授）、筆者とE.L.Herr（ペンシルバニア州立大学教授）3人の共著による英文論文(Feb．2001)をベースとし、共著者の了承をえた上、筆者の責任において、本文、注記の一部を修正、要約してまとめたものである。なお、本ノートの執筆に際し、文中の歴史的事実や文献等の検証につき、三村隆男氏（上越教育大学大学院発達臨床コース専任講師）のご協力をえた。記して感謝の意を表したい。
注 記
1）阿部・仙﨑他編『新進路指導事典』第一法規出版, 1982, pp.22-35／(財)日本進路指導協会編『日本における進路指導の成立と展開』日本進路指導協会, 1998, pp.117-320／吉田（代表）「21世紀の進路指導辞典」ブレーン出版, 2001, pp.24-36
2）入澤宗壽『現今の教育』弘道, 1915, p.178-182／『入澤教育辞典』「職業指導」の項, 教育研究会, 1932, pp.689-690
3）学校教育法の第36条(中学校)の2項では、「…個性に応じて将来の進路を選択する能力を養う」、第42条（高等学校）の2項では、「…個性に応じて将来の進路を決定させ…」、とある。また、学校教育法施行規則第52条の2項には、「中学校に職業指導主事を置くものとする。職業指導主事は教諭をもってこれにあてる。校長の監督を受け、生徒の職業指導をつかさどる。」（高等学校、特殊教育諸学校は、この規定を準用）とある。
4）中央教育審議会答申（1957）をうけ中学校改訂学習指導要領（1958）から「職業指導」を「進路指導」に呼称改正。
5）平成8、9年度文部省委託調査研究「職業教育及び進路指導に関する基礎的研究」(代表 仙﨑武), 同「進路指導部会」（座長 渡辺三枝子）, 最終報告, 1998
6）Watanabe, A. M. & Herr, E.L. Career Development; Issues among Japanese Work Groups, Journal of Career Development 20(1), 1993, pp.61-72
7）21世紀職業財団編『再就職ガイド（再就職女性へのガイドブック）』21世紀職業財団, 1999
8）岡田昌毅「中年期ビジネスマンのキャリア発達の分析」筑波大学大学院修士課程論文（未公刊）, 筑波大学, 2000
9）Herr, E. L. Super's life-span, life-space approach and its outlook for refinement, The Career Development Quarterly, NCDA, 45, 1997, pp.238-246
10) 松本浩二他『引退男性のキャリア行動と生活適応の研究』明治学院大学大学院修士論文（未公刊）, 明治学院大学, 1997
11) 長縄久生,キャリアカウンセリング,日本労働研究機構「紀要」38(10), 1999, pp.5-8
参考文献
専門的学術ジャーナルとして国際的に定評のある『The Career Development Quarterly 』は1994年の秋号を“D.E.Super追悼特集号”にあてているが、その末尾に生前62年間に発表されたスーパー博士のBibliography（文献目録）がまとめられている。
以下、そのうち、これまで日本で翻訳紹介された主な文献を掲げておく。
・職業指導研究セミナー報告書，「職業的発達理論の研究」，（財）日本職業指導協会, 1961～1969
・専門カウンセラーの地位と提携，H.ボロウ編，『仕事の世界と人間』，原著1964，（藤本他訳），サトウ事務機出版部 1987
・ガイダンス活動におけるコンピュータ利用，第3回国際教育・職業指導学会メキシコ大会基調報告（仙﨑訳），「月刊・進路指導」1969, 12月号
以上のほか、わが国で出版されている多くの「専門書」には、必ずといってよい程、博士による進路発達理論に言及･詳述されていることを付記しておく。
・職業的発達とカウンセリングのコンピュータ利用，H.ボロウ編,『新時代のキャリアガイダンス』（仙﨑他訳），実務教育出版, 1973, pp.272-308
・職業指導からキャリアガイダンス，ライフロールガイダンスへ，第9回国際教育・職業指導学会フローレンス大会記念講演，（仙﨑訳）「月刊・キャリアガイダンス」，1985,12月号
・仕事の意義と価値，N.ガイスバース編， 『進路設計』（日本進路指導学会訳），日本進路指導協会, 1984, pp.27-53
・米国における進路発達理論の実践的応用，日本進路指導学会主催スーパー特別講演資料，（榎本訳），彰栄保育専門学校紀要，1995