文教大学付属教育研究所 紀要第10号(2001年発行)

特集 大学教育の情報化

特集テーマ設定について

平沢  茂

(文教大学教育学部教授・教育研究所所長)

 
教育における言語主義は、伝統的な教育のシンボルであった。そのことに真っ向から異を唱えた文献のうち、おそらくは最も古いと思われるのは、ラブレーのいわゆる『ガルガンチュウワ物語』であろうと推察されている。ただ、ここでは、言語主義教育は諷刺の対象であって、それをどう改善すべきかが理論的に提唱されたわけではない。もとより、理想の教育の姿が語られてはいる。しかし、それはあくまでも諷刺文学であって、教育の理論を打ち立てるというねらいで書かれたものではない。
教育における言語主義の理論的批判は、コメニウスの『大教授学』がその嚆矢である。教育においては、言語の前に実体(事物)に出会うことこそが重要だ。これが彼の論である。こうして彼は世界初と言われる教育絵本『世界図絵』を完成させた。世界初の絵入り教科書とも言われるこの本は、絵に言葉が添えられたまさに教育絵本である。言語の暗唱こそ教育と考えられていた当時にあって、この本はまさに革新的な存在であったに相違ない。つまり、教育に「絵」など不要であり、おそらくは不謹慎とすら考えられた可能性がある、そういう時代の書である。
教育方法史を書くつもりはない。言いたかったのは、大学の教育、特に人文・社会科学の教育は、ほんの少し前までは、言語主義の教育にどっぷりと身を浸していたということである。
しかし、その姿は、今、急速に変わりつつある。ビデオの使用はごく一般的なことになりつつある(ここでは、ビデオ教材が最適に使用されているか否かは問わないでおこう)。インターネットなど情報機器が手軽に使用できるようになったことも大学教育における言語主義の払拭に一役買っている。
情報機器の発達が大学教育にもたらしたものは、非言語主義だけではない。教育における時空間の制約排除という大きな変化がもたらされつつある。遠隔教育である。遠隔教育は、大学の授業改善に留まらず、大学の経営改善にも大きな意味を持つ。
教育は対面でなければならないとの主張がある。この命題の問題点は、教育という営みはことごとく対面でなければならないのかという点に関する考察を欠いていることである。対面でなければならないか否かは、教育の目的や課題によって異なるはずだ。そのことをもう少し厳密に詰めないと先の命題をそのまま肯定するわけにはいくまい。
このことを考えるのにふさわしい手がかりは身近にある。テレビやラジオ、電話である。インターネットも、もちろんそうだ。情報のやりとりをするのに、こうした手段を介して行っても十分にその目的は達成可能である。テレビやラジオは双方向性を持たないけれど、電話やファクシミリを組み合わせたり、インターネットを組み合わせることによって双方向性を確保することは可能である。テレビ電話(会議)のシステムならなお確実である。
対面でなければ伝わらないものは何か。遠隔教育を考えるとき、問われるべき課題ではあろう。しかし、遠隔教育のすべてを否定する命題ではないようだ。
ともあれ、授業場面における視聴覚メディアの活用や遠隔教育は、今後の大学(院)教育に欠かせない要因となっていることは疑いない。本号のテーマを「大学の情報化」としたのは、そういう時代の流れをどう考えるか、その手がかりを様々な視点から考えてみたいというねらいからである。
同時に、本学の情報化の進展を多少なりとも客観的に見られないものかとのねらいもある。ありていに言って、一部の国立大学は別として、近年の大学の情報化への対応は急速である。授業における視聴覚メディアの活用が日常化するにはそれにふさわしい施設・設備が不可欠である。また、遠隔教育が今後の大学経営にもたらす意義を考えたとき、それに対応しうる施設・設備の充実度は、大学の死命を決する可能性すらある。
大学や大学院の通信教育など何ほどの意味があるかと言っていられるのは、今だけかも知れない。なぜ、大学審議会が大学や大学院における遠隔教育を話題にしたのか。通信制の大学院制度を認めるようになったのはなぜか。こういう時代の流れを冷静に見つめておくためにも、この特集が役立つのではないか。それもまた、本特集テーマ設定の理由の一つである。
大学の経営環境が厳しくなりつつある今、何を重点施策にするのか、その判断に何らかの貢献ができれば望外の幸せである。