『教育研究所紀要第7号』文教大学付属教育研究所1998年発行

特集 「教育職員養成審議会第1次答申」を読んで

専門職としての教師養成を望む

- 国語教育の視点から -

萩原 敏行(文教大学教育学部)

◆.教養審の教員養成カリキュラム

 教師と教師教育への関心、議論が高まっている。その背景には、いじめ・不登校(登校拒否 )・学級崩壊・教師のバーンアウト現象・少年犯罪の増加悪化といった年々深刻化する学校と教室を取り巻く危機的状況がある。また、この傾向は一方で、世論による教師のスケープゴート化を引き起こしているようでもある。
 このような状況を背景として、96年7月、教育職員養成審議会(教養審)が発足し、奥田幹生文部大臣(当時)によって諮問が行われた。
その諮問に対し、教養審は97年7月、教員養成カリキュラムの改善を中心とした第1次答申を提出した。その主な特徴は三つある。
 第1に向上させるべき教師の資質能力について提言したこと。第二に選択履修方式を導入するなどの、カリキュラムの大幅な弾力化を図ること。 第三に「教職に関する科目」の比重を大きく高めるということである。
 そこで本論では、答申の教員養成カリキュラムに着目し、言語能力の育成及び「国語」の学習指導という立場から国語教師養成について私見を述べたい。

◆.専門職としての二つの教師像

 同答申では教職を、人間性と専門的知識に加え実践的市努力を備えた「専門的職業」と規定している。
 専門職としての教師像には「技術的熟達者(technical expert)」モデルと「反省的実践家(reflective practitioner) 」モデルが存在する(注1)。前者は、教科内容、教育学・心理学といった教職関連領域の科学的な知識と技術の成熟を基礎とする。後者は、教育の問題状況に主観的に関与して子どもと生き た関係をとり結び、省察と熟考によって問題解決に向かう実践的見識(practical wisdom)とその過程で形成される実践的認識(practic al epistemology)を基礎としている。
 これら二つの専門職としての教師像を実践の方略から比較すると、「技術的熟達者」モデルが状況や事柄を可能な限り単純に明示できる概念や原理に抽象化・一般化することで「確実性」を拡大する方向で展開されるのに対し、「反省的実践家」モデルは状況や事柄に含まれている多義的な意味の複雑さや豊かさを解明しながら「不確実性」に踏み込む方向で展開される。

◆.専門職としての国語教師

 国語(科)教育は広義の「言語(language)」を教育内容とする。すなわち、形式生徒習慣性とをその基本的特質とし、音声・文字・文法・語彙等の諸単位とそれらの選択・結合の諸規約とから構成された複合的重層的体系である狭義の「言語(langue)」(または「言語体系」)に関する知識と、その体系に準じて、話す・聞く・書く・読むといった外言及び内言を用いた個人の「言語活動」の技能を内容・対象とする。加えて言語記号を操作する能力・身体的機構といった「言語作用」も包含する(注2)。
 すなわち教育内容としての言語そのものが、社会的な言と体系として「確実性」の側面と、個個人の言語体系・活動・作用といった「不確実性」の側面を持っているという特徴を有している。それゆえに教師は「確実性」を拡大させる「技術的熟達者」としての能力と、「不確実性」に踏み込む「反省的実践家」としての能力を兼ね備える必要がある。
 もう少し具体的に、文学作品の読みの学習を例に取ってみたい。解釈学的に考えると、文学作品には隠されている意味(主題)があり、分析によってその特定はある程度可能だとされている。ゆえに文学作品を教材として扱う際には、教師にはそれを読み取る批評・分析の能力が必要となる。また一方で読者論に立って読みをとらえると、作品の読みによって生じる反応や意味形成は、読み手の経験や知識、感じ方、想像の仕方、立場といった全人格的なものが反映されていると考える。
 ゆえに教師は、学級の子ども達と同じだけある異なった読みを複雑に構成し、読み以外の言語活動も組み入れながら豊かな学習となる授業を創る能力も必要となる。前者は技術的熟達者の能力を、後者は反省的実践家の能力を必要としている。
このように専門職としての国語教師は二つの教師像を持っている。したがってその養成カリキュラムもこれら両面からのアプローチが不可欠となる。

◆.国語の教師養成カリキュラム(教科)

 先にも挙げたように97年の教養審第1次答申の特徴は、専門分野の学問的知識よりも「教職に関する科目」の比重を大きく高めたことにある。具体的には従来の制度から「教職員免許法の一部を改正する法律(改正法)」となるに当たって、「教科に関する科目」が小学校18→8、中学校・高校40→20、と半減し、「教職に関する科目」が中学校19→31、高校19→23と増加した。また新たに選択履修方式として「教科または教職に関する科目」を設け、小学校10、中学校8、高校16とした(分母の59単位は変わらず。いずれも一種免許)。この背景として同答申には「教員養成課程の中で、教科の専門性(細分化した学問分野の研究成果の教授)が過度に重視され、教科指導をはじめとする教職の専門性がおろそかになっていないか。教員スタッフの専門性に偏した授業が多く、「子ども達への教育」につながるという視点が乏しいのではないか。」と指摘している。
 偏向した専門分野の重視に対する批判と、教師教育として専門分野を再認識することに対しては共感を覚える。しかし、必修単位数の大幅減に伴って「技術的熟達者」育成としての知識基礎教育がおろそかになるのではないかという不安も残る。研究者育成としてではなく、教壇で困ることない専門領域の知識基礎(国語教育であれば国語学・国文学・漢文学・書道の理論、原理、技術)と学問的手法の教しい要請カリキュラムが望まれる。

◆.国語の教師養成カリキュラム(教職)

 むしろ問題なのは、増加した教職関連のカリキュラムをどのように扱うかということであろう。教職関連のうち教職教養の知識基礎が「技術的熟達者」としての教師養成に欠くことができない重要性を持つことは当然だが、ここでは特に教科教育に焦点化し、答申のカリキュラムを見ていく。
 教科の指導法について扱うのは、改訂法の「教育課程及び指導法に関わる科目」である。必要な単位は、小学校増減なし、中学校6→12、高校4→6となり、一見すると中・高では増加している。しかし改正法のこの科目には、従来は別欄にあった「教育の方法及び技術(情報機器及び教材の活用を含む。 )」が加わることで、小学校ではかえって単位数が減少することになる。教科指導の実践的指導力を高めるという観点からすれば多少の疑問は残る。この点に対し同答申の具体的改善方策では、法改正と運用の改善という二点から言及している。
 まず法改正では、中学校及び高等学校の教科指導に関わる単位数を実質2単位からそれぞれ8単位、4単位に確保されるよう制度的措置を講ずるとしている。小学校教員養成課程でも、浅く広く教科を学ぶだけでなく、ある特定の教科において深く学んだことを他教科にも応用していくことが望ましいのではないか。とはいえ中高だけでも単位数が増えたことは評価できる。
 また、運用の改善という点では、○「ティーム・ティーチング、実験・実習等に関わる知識及び技能」を重視した「各教科の授業やそのための教材研究」の充実させるとともに、○「学校における実際の指導事例等をもとに討議、観察、参加、体験、調査など」をすることによって教員志願者の知識技能を「具体的なレベルまで深める」よう主張されている。
 この主張は、実践的研究(アクション・リサーチ、あるいはケースメソッド)を中核に据えている。すなわち教育原理、心理、教科の専門領域といった教育・教科の基礎領域の知識基礎を総合して、具体的な問題を実践的に解決能力を育成するといった「反省的実践家」養成カリキュラムと考えられ、実践的指導力を育成するには最も有効な方法といえよう。
 むしろ問題となるのは教員養成を行う大学の対応である。このような実践的研究は機器など教育環境整備と小人数による演習が必要となるためである。それが達成できない以上、法改正による時間増は効果を上げられないと思われる。

◆.教養審答申に望む

 教養審の第1次答申を国語という強化教育の面から改めて読むと、偏向した専門教育を是正し、教育全般に対する知識基礎を持たせ、学習者に言葉の力をつける授業として専門・教職教養の知識基礎を具現化できる実践人としての教師養成を目指していることがうかがえる。こういった改善案が実現するよう願う。

◆.追記

 橋本龍太郎内閣(当時)が「財政構造改革」を喫緊の政策課題とした結果、教職員配置改善計画の繰り延べなど、教育活動の質を高めるための条件の整備・拡充に対して効果的な教育政策は打ち出されないでいる。現状では、個々の教師の資質能力を向上させることしかないのだろう。また、中央教育審議会(中教審)96年7月答申で打ち出された「総合的な学習の時間」といった教科の概念を揺さぶる課題に対し、教師養成カリキュラムがどのような方策を打ち出すことができるのか、今後の動向に注目したい。

【注】

1.佐藤学『教育方法学』岩波,1996,p137
2.湊吉正『国語教育新論』明治書院,s62,p2


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