『教育研究所紀要第7号』文教大学付属教育研究所1998年発行

特集 「教育職員養成審議会第1次答申」を読んで

算数・数学科における教員養成の課題

白石 和夫(文教大学教育学部)


1 はじめに

教科教育の観点からみたとき,1997年7月に出された文部省教育職員養成課程審議会答申「新たな時代に向けた教員養成の改善方策について」の要点は,教員として採用されてすぐに使い物になる実践的指導力の要求に尽きる。これは,教員養成系学部以外の,たとえば理学部などでの教員養成に関する要求としては当を得たものといえるかもしれない。しかし,「何を教えるか」よりも「如何に教えるか」に偏りがちな教員養成系学部での教員養成のあり方としては少々問題がある。以下,本学教育学部のような教員養成系学部での教員養成のあり方について考察を試みたい。

2 数学教育における教員養成の課題

これからの数学教育を考えるためには,数学を道具として使う観点と,数学という道具を作る観点の双方から考察が必要である。
数学を道具として使う観点からは,数学がどのように使われているか知っておく必要がある。教育学部の学生は,高等学校段階での数学や理科の履修が不十分であることが多い。数学それ自体の学習を深化させると同時に,数学が自然科学,情報科学,社会科学等へどのように応用されているかを知らせておくことが必要である。
数学という道具を作る観点では,数学教育の将来の変化を見越し,さまざまな理論構成があることを学ばせることが必要である。利用目的に応じてさまざまな理論があり,それは,未来永劫不変なものではなく,進歩するものだということが理解されるようにしなければならない。そして,表面的な知識ではなく,理論構成の詳細まで把握し,目的が変化した場合にはそれを土台にして新たな理論に組み替えられる程度のしっかりした知識を身につけさせておく必要がある。そして,数学が柔軟な応用性を持つ源泉である論理性についても十分な理解を深めさせる必要がある。

3 「生きる力」と算数・数学教育

決まりきった手順に従って計算を進めていけばよい定型的な問題を解くのは得意であるが,定理や公式の意味を正しく理解していればできるような問題であっても定型パターンを外れると著しくできが悪くなるというのが現在の算数・数学教育が育てている生徒の標準的なイメージである。これは,生徒の頭のなかで定理や公式,あるいは計算力などの基礎的な知識・技能が生きて働く力とはなっていないことによるものである。
今日,コンピュータの発展によって数理科学的な手法の有効な場面が拡大している。上級学校で進学したり,社会に出る生徒たちに数理の観点からコンピュータ等を利用して現象を考察し,分析する能力を身につけさせることがこれからの数学教育の課題である。
しかし,昨今の数学教育がやっていることは児童・生徒を人間コンピュータ化することであって,コンピュータを使える人間の育成とはなっていない。このままコンピュータが普及したら,「やわらか頭」を自認する人が「類推は真なり」を実践し,とんでもない誤りを犯すかもしれない。
さまざまな手法が学校で教えられるであろうが,それは典型的なパターンのみである。しかし,基礎に立ち返ってみれば,応用可能な場面であるのか,そうでないのか容易に判断できる場面も多いのである。そのような場面で反省的思考が可能な人材を育てていかなければならない。
現在の算数・数学科の学習指導要領は上限を厳格に規定し,応用・発展的な内容を扱うことを規制している。そのため,入試に出題される内容がパターン化してしまい,定型的な問題に対するドリルの徹底が,受験対策上,効果のある教育方法となっている。自分の頭で考えることを指向する生徒にとっても,「考えていたら数学はできなくなる」状況にある。
教員養成での,まず,第一の課題は,将来教師となる人たちの数学学習のあり方を,覚える数学学習から,自ら構成していく数学学習へと変えていくことである。

4 数学観と算数・数学教育

算数・数学教育は,数学は役に立たないものだと考える大人たちを世の中に送り出してきた。そして,今なお,実際に学びつつある中学生や高校生にとって,数学は自分には関係ないものと受けとられる傾向が強いようである。
昔日の数学教育であれば,実際に将来それが役に立つのが理工系に進む一部の生徒であっても,エリートのたしなみとして全員が学習することに価値を見出すことができたかもしれない。しかし,今日の(少なくとも初等中等教育における)数学教育に期待される内容は,エリートのたしなみとしてのそれではなく,その素養を元にして社会を発展させていく基礎となるものである。
コンピュータという強力な情報処理の道具が利用可能な時代にあって,数学的な素養なくしてさまざまな自然現象や社会現象を解析していくことは非現実的なものとなりつつある。数学教育では,単に数学を教えるだけでなく,数学が他の分野と結びついて重要な役割を果たしていることをあわせて教えていかなくてはならない。そのためには,数学科のカリキュラムを,他の分野との関連が図られるようなものに改めていく必要がある。
これからの教員養成では,数学の世界での純粋培養ではなく,実際に数学が応用される場面の経験を要求する必要があるのではないだろうか。

5 数学の用いられ方の変化

社会の変化,とりわけコンピュータの普及に伴って数学の用いられ方が変化してきた。そして,内容面での変化ばかりでなく,数学的な考え方の部分でも変化が見られる。
たとえば,コンピュータを利用した問題解決では,解決しようとする問題の本質的な部部を抽出してコンピュータ上にそのモデルを構築しなければならない。そのようなモデルとしてよく用いられのが(グラフ理論でいうところの)グラフである。
ものの形を扱う数学の分野を幾何という。幾何の分野は計算の道具としてのコンピュータの発達と数学の使われ方の変化に大きく変容している。三角形や円のように単純な図形を扱う分野が初等幾何であるが,世の中にあるものの形はそのように単純なものばかりではない。そして,ものの形を考察するといってもその観点もさまざまである。複雑な形を精密に考察したり,運動を考察する観点からは座標やベクトルを用いた解析幾何が重要である。一方,ものの形のうち,つながり具合にのみ注目するとトポロジーの概念が得られる。グラフ理論は,トポロジーの(昔日の通念からすればかなり異端の)一分科である。
教員養成カリキュラムでは,このような多様化した数学の応用場面を反映し,将来の数学教育の変化に柔軟に対応できる教員の育成を図らなければならない。

6 コンピュータの発達と数学の理論構成

確率・統計や数値計算などの応用数学の分野では,コンピュータの発達が数学教育に少なからぬ影響を与えるものと思われる。
たとえば,二項分布をポアソン分布で近似したり,多項分布を正規分布で近似したりする技能を修得させることは現在の確率統計教育の重要な柱となっているけれども,コンピュータの能力の発達により,そのような近似を用いず,直接,二項分布,多項分布に基づいて推定や検定を行うことが非現実的な手法とはいえなくなってきている。そして,計算時間の点で問題がなければ,近似を用いないほうが正確さの観点からも望ましいとさえいえる。
従来の確率統計の教程では,微積分の基礎を身に付けていることが前提条件であった。けれども,コンピュータの能力が向上した現在では,微積分の知識を用いない入門のためのカリキュラムを作ることは荒唐無稽な試みとはいえないであろう。
実際に数学教育をそのように変えていくためには,そのような変化に耐えるだけの能力を持った教員を育成していくことが不可欠である。
そのためには,少なくとも,さまざまな学習系統が存在しうるという事実を認識させるように教育していく必要がある。たとえば,学生たちが学んできた知識体系を複数の視点から再構成させてみることなどが必要となるであろう。

7 数学離れと数学科における教育改革

数学離れの問題が指摘されて久しい。数学が自分と関係のないものと考えて,数学の学習への意欲を持たない生徒の多さが問題なのであるが,その主因は,先の学習に必要であるという理由で,その存在意義が生徒にはよく理解されない内容を基礎・基本の名の元に課してきた従来型の数学科カリキュラムにある。学校数学のカリキュラムを生徒からみて学ぶ意義の理解できるようなものに変えていくことが急がれる。
算数・数学の重要性を認識し,それを生徒に伝えることができるだけではなく,さまざまな要因による変化を主体的に受け止め,教育改革に熱意を持ってあたる教員の育成が求められる。


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