『教育研究所紀要第8号』文教大学付属教育研究所1999年発行

中日近代文学の相互交流、影響関係の考察

― 郁 達夫を中心に ―

張 志晶

('97文教大学付属教育研究所招聘研究員・'98同客員研究員)

要  旨

周知のように悠久な中日友好交流関係においては、文学の交流関係は極めて重要な一環である。
中日の文化は係わり合いながら、今日まで発展してきたと考えられる。よく知られるように、中国の漢文、いわゆる古典文学は日本の文学に大変大きな影響を与えてきた。その中に最も評価が高いのは言うまでもなく『源氏物語』であろう。
「『源氏物語』のジャンルはわが唐の時代の変文、怪異、伝奇小説、と宋の時代の語り物、説話小説によくにている。
(中略)全篇は中国の『白氏文集』、『史記』、『漢書』、『元慎詩集』、『遊仙窟』、『戦国策』などの優れている著作二十あまりほど及んでいる。その中でも最も多く引用されたのは何と言っても『白氏文集』で百カ所もある」と中国南京大学の葉琳氏は論じている。しかし、明治維新以後、日本が近代国家として、成長するにつれ、日本の文学は外来文学の影響を受けながら、日本固有の特色があるものに生まれ変わり、逆に中国文学に大きな影響を与えてくれた。中国新文学の発生と成長が日本の近代文学に負うところが多いというのは改めて言うまでもない事実であるが、このような中日近代文学の相互交流、影響関係についての研究は中日友好関係が日増しに深めていく今日においては更に、注目されるようになった。このような背景で、日本と最も係わりが深い中国人の作家郁達夫を中心にした中日近代文学の交流、影響関係の考察、研究のため来日した。梁啓超、魯迅、郁達夫、郭沫若、周作人らは日本で留学している間、日本の文学から受けた影響は少なくないことは言うまでもないことであるが、この小論では既存の研究成果と発掘された資料などを踏まえながら、中国近代文学の先駆者の 一人郁達夫が近代文学の草創において日本の近代文学からどんな影響を受け入れたかについて考察して、今後の「中日近代文学の交流」研究の一つの手掛かりとしたいと思う。

一、郁 達夫その人

郁達夫(1896〜1945) 本名は文、達は字である。中国浙江省富陽県の没落地主の三男として生まれた。彼は早熟な才子で、九歳の時詩を創って周囲の者を驚かせ、富陽に開設された成人もまじっている新式の学校でも一躍頭角を現した。1913年に司法制度の視察を命ぜられた長兄に伴われ来日、第一高等学校特設予科を経て、第八高等学校理科に入学するが、中途で医学の志を捨てて、文科に転科した。
1919年に、東京大学経済学部に入学し、1922年に東大を卒業後、帰国した。1921年、東京で郭沫若、張資平、成方吾たち日本留学生同志と創造社を興して、文学活動を積極的に開始した。上海で『創造季刊』、『創造週報』、『創造日』、を相次いで発刊していた。1922年帰国後、北京、武昌師範、中山大学の教師を歴任し、1937年日中戦争が全面的に勃発してから、彼は抗日運動に従事し、活躍した。1938年にシンガポールに渡り、現地の華字紙『星洲日報』の編集者として、華僑の仕事に加わり、1945年終戦直後、(8月29日)南洋のスマトラで、日本の憲兵に殺害された。

二、日本文学からの影響

郁達夫は古体詩、小説、散文、随筆、評論など多岐にわたる作家である。前述したように、彼は早熟才子で九歳から詩を賦し、周囲の者を驚かせ、旧体詩を新聞に投稿していたが、日本留学中の高校時代にも「地元の新聞の漢詩欄に投稿、それが縁で著名な漢詩人服部担風を知り、この方面の能力も伸ばした」。郁達夫と服部担風との付き合い、交流関係については、稲葉昭二氏の『郁達夫−その青春と詩−』には詳しく紹介されているので、ここに言及しない。ここには郁達夫は小説家として、日本文学から受けた影響について考えてみよう。
郁達夫は小説という道を辿ったのは日本での留学からである。「翌年(1914年)3月、18歳の年の春、私は東京一高特設予科に入学した。この年の授業が大変きつかったが、私は放課後、ロシア作家の英語訳の小説『初恋』、『春潮』とも読んだ。このように西洋文学に触れてから、どんどん小説を読み始めた。更に、ロシアの作家の作品からドイツの各作家の作品に変わった。引いては、学校の授業を欠席してただ、旅館のなかに閉じこもって、当時の流行していたいわゆる軟文学の作品を読むだけになった。」、「高等学校の四年間、露、独、英、日、仏などの読んだ外国の小説は1000部を越えた。東大に入ってからもこの小説を読む癖はなかなか直らなかった。」と郁達夫は自伝のなかで回顧している。日本での留学をきっかけに外国の小説を想う存分読むことができ、これが彼の小説の基礎を築いたと考えられよう。また、日本に住んでいることを通して、日本文化及び、日本文学の背景など全て繊細な体質の彼に影響を及ぼしている。彼の日本文学から受けた影響は最も強いであろう。
小説を耽読した結果は1921年彼は日本で三篇の小説を書いた。2月に『銀灰色的死』を書き、これは彼の小説の処女作と言ってもいいのである。5月に『沈淪』を完成し、7月に『南遷』を書いた。この3篇の小説とも日本での留学生活を題材にしたもので、いずれも自伝的小説で、1921年これらを小説集にまとめ、創造社業書の一冊として出版した。この小説集を「新文学最初の白話小説集となった」と吉田富夫は「中国現代文学史」の中に書いてある。その中で特に大きな反響を呼んだのは『沈淪』である。これは中国近代文学の記念碑的作品だと言われており、ここに特筆したい。
日本での八年半の留学中、郁達夫は何人かの日本人の作家と作品に触れ、それらの影響を大きく受けた。佐藤春夫、葛西善蔵、志賀直哉らはよく言及されている。その中、文学上の師として仰いでいたのは佐藤春夫である。佐藤春夫のもとを訪ねたのは当時、東京高師に在学中の田漢の紹介によることであった。前述したように、郁達夫は高校時代から小説が大好きで、読破した外国の小説は1000部を越え、日本人の作家の中に、特に、佐藤春夫に傾倒し、「かれの『田園の憂鬱』を意識し、それを下敷きにして」、『沈淪』を書いた。
では、郁達夫は一体日本文学、特に、佐藤春夫からどのような影響を受けているのか、そして、郁達夫の作品の中にどういうふうに展開していったのか。これから分析してみよう。
周知のように、郁達夫の留学期間における日本の文壇は、新浪漫派の隆盛期で、また、自然主義から私小説に派生した時期でもあった。即ち、日本の私小説は自然主義から発展してきたのであり、日本自然主義文学と私小説は分けられない関係がある。それで、郁達夫に与えた両者の影響もはっきり区別できない。自然主義文学においての自我の発展と個性の表現、性的描写などの影響を受けたと同時に、私小説の美学観点即ち、(我)を(全ての芸術の基礎)とする自我の強調、自我の突出の影響も受けた。これらの影響によって、郁達夫の作品は中国文学伝統上の(史伝)小説と異なる小説スタイルに形作られたのである。

中国の伝統上の史伝小説は主に叙述式で、そして、登場人物の性格の描写に特色があったが、郁達夫はその叙述式を抒情式に、性格描写を自我の心理描写に変えた。即ち、小説は散文化され、詩意化されたのである。
散文と言えば、「形散而神不散」(形はばらばらだが、主旨ははっきりしている)という言葉が連想される。郁達夫の早期の小説にはこういう散文化した内容は多かった。特に『沈淪』にはこのような傾向が著しい。
「『沈淪』は佐藤春夫の『田園の憂鬱』を意識し、それを下敷きにした作品だ」という鈴木正夫の言葉から郁達夫は如何に佐藤春夫の影響を受けたのか明瞭であるが、ここにその具体的な内容をまとめよう。
1.内容 両方とも青春の「憂鬱」、「苦悶」、「病的心理」を現している。これはそれらの梗概から見ると、明らかである。 『沈淪』「日本の地方のある都会の高等学校に学ぶ中国人留学生。彼の「青年憂鬱症」はこのころますますつのるばかりだ。才能を自負しながらそれを発揮するあてのない鬱屈からしだいに人嫌いになり、孤独感に苦しめられる。くわえて、吐け口のない若い性の煩悶。いまや習間となってしまった自慰行為と激しい自責の念。救いを文学や自然に求めるが、下宿先の娘の入浴姿や野外での情事に刺激されて、墜落を深める。ある日、自暴自棄になって歓楽街に足を踏み入れるが、そこで得た者は中国人として受ける軽蔑。全てに棄てられたと感じた青年は入水自殺する」
『田園の憂鬱』親から当時の金で三百円もらい、妻と、愛玩用の犬と猫とを連れて、ある村に引っ越した彼は田園にまれにみる天分をもちながら不遇に甘んじなければならない自身の救いや、憩いを求めたわけであるが、その中に安らぎを見出すにしては彼の感覚は余りにも豊かすぎていたのである。田園の自然は彼の憂悶の出口となり、彼の感覚が吐け口を見つけて、どっと流れだしたけれども、繊細な感覚の彼は彼自身の中に孤独な憂鬱な世界を作り出してしまうのである。
この二つの作品を照らしながら読むと、繊細な鋭い自己の心理の分析があり、自己批判精神に満ち、自己の中に対立、抗争、或いは、分裂、妥協、引いては、自己嫌悪に陥ってしまう。
2.書き方
イ、自叙式:佐藤春夫の『田園の憂鬱』は第三人称を使った「明治末期から大正初期にかけて文壇を風靡した自然主義文学の創作態度によった生活記録的作品」であるが、郁達夫の『沈淪』は同じ方法を使って、「作家の自叙伝」を語った。「彼(郁達夫)の作品が日本でも人気があったのは、気質的に日本人に近かった上に、こうした創作手法(私小説手法)を採ったことが与かっていよう」、この小説に書いた内容は全て、彼が見たこと、聞いたこと、感じたことで、数も少ないし、書き方も大変自由で、論じようと想ったら、論じ、抒情的に書こうと想ったら、抒情的になる。全然、文章の構成、文章の起伏を考えず、まるで、述べるように書いている。しかし、このような何げなく書いたものの中に、作者の感情が一層強く感じられ、心理活動が一層はっきり見られるようになった。そして、主人公の心理活動しか書かなかったというイメージを読者に与える。このような書き方は佐藤春夫が言った「自分は混沌を混沌のままで自分の文章にしてしまった。放下の文体とも名付けるべきものであろうか。詩と散文と知性と感情とがせめぎ合いながら雑居している田園の憂鬱の文体は自分のその頃の文体 の模索の名残がそのよどみのなかに多く沈殿している。」という文体とほとんど相違ない。
ロ、「私は呻吟の世界で
ひとり住んでいた。
私は霊は沈澱み腐れた潮であった
エドガア アラン ポオ」
これは『田園の憂鬱』の冒頭の引用文である。この引用で全文の雰囲気と主人公の心境を決めた。重くて、寂しく、悲しい雰囲気で、苦悩、憂鬱という心境である。が、このような雰囲気に包まれた主人公の彼の目の前に現れて来たのは引っ越したばかりの「いい家のような予覚」のする家であった。「何日か遠い以前にでも、夢にであるか、幻にであるか、それとも疾走する汽車の窓からででもあったか、何かで一度見たことがあるよう」な家であった。「ただ都会のただ中では息が詰まった人間の重さで、押しつぶされるのを感じた」彼は「その何処とも知れない場所」へ行きたい。その家が今、彼の目の前に現れた。その家があるところは「母」であった。やっと家に帰った放蕩息子のように、彼はほっとした。晴れ晴れした気持ちになった。周囲の万物も彼の気持ちがわかるようにみえる。「水はそれらのトンネルをくぐった。さうしてその陰を黒く涼しく浮かべてはゆらゆらと流れ去った。あるときには水はゆったりと流れ淀んだ。それは旅人が、自分が来た方を振り返って佇むのに似ていた。」、「蜻蛉は微風に乗ってしばらくの間は彼らと同じ方向へ彼らと同じほどの速さで、一行を追ふやうに 従って居たが、何かの拍子についと空ざまに高く舞い上がった。彼は水を見、また空を見た。その蜻蛉を呼びかけて祝福したいやうな子供らしい気軽さが、自分の心に湧き出るのを彼は知った。さうしてこの楽しい流れが、あの家の前を流れているであろうことを想うのが彼には嬉しかった」
このような描写には日本文学の「もののあわれ」という特色がよく現れている。郁達夫の『沈淪』は同じような書き出しで書くほかに、「もののあわれ」の特色の影響も受けた。
「このごろは彼は哀れなほど孤独であった。
早熟な彼の気質が、彼を世人と隔絶した境地に追いやってしまったのである。世人との間の壁はいやましに高くなる一方であった。」
これは『沈淪』の冒頭で、主人公の彼は「孤独」という境地に立っていることを明らかに書いて居る。このような心境をもっている彼は「紺碧」の「雲ひとつない」早秋のある日、「まだ青みの残る稲田の中の白線状に湾曲した田舎」の小道を「WORDSWORTHの詩集を読みながら、ゆっくりと歩いていた」。「彼はふと背後にすみれの息吹を感じた。さらさらと音をたてた道端の小草が、彼の夢幻境を破った。振り向くと、その小草はまだ揺れている。すみれの息吹を帯びたそよ風が、彼の蒼白い顔に暖かく吹き寄せた。このすがすがしい早秋の世界の中で、この澄み切ったエーテルの中で、彼は全身陶酔したように力の抜けるのを覚えた。それは慈母の懐に眠る心地であった。桃源郷に夢みる心地であった。南欧の海岸で、恋人の膝を枕に午睡をむさぼる心地である。」
「あたりを見れば、周囲の草木が彼にほほえみかけている。青空を見やると、悠久不変の大自然が、かすかにうなずいてでもいるかのようだ。じっと天を仰ぐと、天空では、背に翼をつけ、肩に弓矢をかけたエンゼルが、狂気乱舞しているような気がしてくる。彼はたまらなく嬉しくなって、思わず、呟いた。」
「こここそお前のかくれ家だ。世間の俗物どもはおまえを嫉妬し、軽蔑し、愚弄する。この大自然、この万古不変の蒼天白日、この晩夏の微風、この初秋の清気だけが、いつまでもお前の友達であり、慈母であり、恋人なのだ。お前はもはや世間に帰って、あの軽薄な男ども女どもと居を共にすることはない。
お前はこの大自然の懐の中で、この汚れなき郷間で一生を終えるのだ」。
世間から離れた自分の世界(郁達夫−大自然、佐藤春夫−田舎=田園、自然)の中に一生を過ごすという意志は如何に似ているだろう。これは志賀直哉の『暗夜行路』の「今まで呼吸していたとは全く別の世界、何処か大きな山の麓の百姓の仲間、なにも知らない百姓、しかも、自分がその仲間はずれなら一層いい。其処である平凡な醜い、そして忠実な痘痕のある女を妻にして暮らす、如何に安気な事か」という考えといかに共通しているかは明確であろう。
孤独な彼は広々とした平野を歩いて、普段の重くて、異民族に軽蔑された苦境から解放されたようになったので、身の回りの大自然のすべてのものも彼の気持ちが分かるように感じた。そして、それによって、触発された感動を覚えた。「彼は自分が哀れに思えてきた。万感こもごも胸に迫って、何ともいえぬ気持ちになった。目に涙をためたまま、彼は再び手もとの本に目をやった」。これは中国の「情緒のみあって、意志の発言のないものはすぐれた文学としては考えられない伝統文学観」と違った「日本人の文学の心がある<もののあわれ>」の現れであろう。
一言補うと、郁達夫の『沈淪』は全体的に意志の発言のない内容ではなく、性を公然と描いて、自己の青春の苦悩の表現を通しての社会抗議であり、異民族からの軽蔑への悲憤の訴えであり、また、祖国中国への富強の呼びかけでもあった。「祖国よ祖国、私の死はお前のせいだ!お前は速く豊かになってくれ、強くなってくれ!お前はまだそこで苦しんでいる大勢の子供がいるのだ」と。
また、『沈淪』及び郁達夫の他の作品の性についての描写は日本自然主義作家永井荷風と田山花袋の影響もある。永井荷風は「人類は確かに動物の一面があり」、それで、「それらの祖先の遺伝と境遇によって出た種種の情欲」を「遠慮せず、生き生きして描写すべき」と述べているが、郁達夫の青年の性の苦悶と性生活についての大胆な描写はこのような自然主義の影響を受けたと考えられるだろう。そして、田山花袋の『蒲団』の赤裸々の個人の肉欲の描写も郁達夫に影響を与えていったと考えられるであろう。
上記のように郁達夫は佐藤春夫らの影響を受けたほかに、もう一人の「私小説」の作家葛西善蔵からの影響も少なくな
い。葛西善蔵について、「彼の小説を読んで、感心してたまらない」と郁達夫は述べていた。葛西善蔵は知識人の私生活及びその心理状態を分析するのに得意であるが、郁達夫はこれにおいてはいくらか影響も受けている。
また、郁達夫の日本での留学中はちょうど日本文学史の白樺派が隆盛から衰微していく時期であった。「彼は白樺派の武者小路、志賀直哉と実際に付き合ったことがあり、有島武郎の論文と白樺派の中期の作家、倉田百三の文学作品に深く共鳴を感じた。彼は有島武郎の作品に触れたのは、少なくても、1921年に遡れる。この年の7月27日完成した小説『南遷』の主人公は電車の中で「背広のポケットから取り出した当時新しく出版された日本の小説『一婦人』を読んでいた」。この『一婦人』は即ち、有島武郎の代表作『一個女人(或る女)』である。1927年8月上海商務書館に出版された郁達夫の著名な文論『文学の概説』単行本の第1章「生活と芸術」(上、下)の後書きに次のように述べている。「この『生活と芸術』は武昌に来て、最初の文章である。これから編集するつもりの『文学概説』の序言にする予定である。(中略)これは有島武郎の『生活及び文学』の前のいくつかの章にとるものである」と。『生活と芸術』と『生活及び文学』との具体的な関わりについてはここでは略したい。
倉田百三は1910年に東京第一高等学校に入学し、1913年に失恋と肺病で退学した。彼の『出家とその弟子』という作品は郁達夫の共鳴を起こした。「私は原作者に会ったことはないが、十何年前の東京第一高等学校の学生の思想煩悩を体験したことがあったので、倉田氏のこの作品の動機と内心の苦悩はやや感じる」と郁達夫は回顧していた。
上記のように郁達夫は何人かの日本人作家と付き合ったことがあったし、彼ら及び外の作家から大変大きな影響をうけいれた。が、ここに一言特筆したいのは佐藤春夫との関わりである。郁達夫は日本で留学中、佐藤春夫を文学上の師として仰いでいたが、日中戦争が勃発後、二人は佐藤春夫が手がけた映画台本『アジアの子』で二人の間に齟齬をきたし、二人の交友が断絶してしまった。こういう「事件」は日中両国の文学者たちに大きな関心を持たれたし、戦時中の中日文学交流研究上の重要な問題の一つになっている。歴史は鏡であり、戦時中の中日文学交流の断絶と言われる不幸な歴史を振り返って、そこからよく考察し、教訓をとり、そういう時代の空白を埋め、中日文学の友好交流を一層促進し、発展させるべきだと思う。

三 終わりに

まとめていうと、郁達夫の文学思想及び文学作品は日本の自然主義文学及び白樺派の思想の影響を大きく受けた。そして、中国の近代文学に新風を吹き込んで、中国の伝統の史伝小説と違う新しい文学のジャンルを作り出し、浪漫的抒情小説の道を切り開いた。彼の最初の小説集『沈淪』は中国新文学の最初の白話小説集となって、彼は新文学の先駆者の一人としての位置を確定した。
日本近代文学から影響を受けた中国近代文学の作家は郁達夫のほかに、何人もいるが、別の機会に稿を改めて、考えていきたい。

参考書物

1『東大新報』東京大学 1997年5月 第712号
2『グランド現代百科事典』学習研究社
3『郁達夫−悲劇の時代作家』 著者 鈴木正夫 研文出版社
4『郁達夫−その青春と詩』 著者 稲葉昭二 東方書店
5『郁達夫伝』 著者 劉 炎生 百花洲文芸出版社
6『郁達夫自伝』 著者 郁 達夫 江蘇文芸出版社
7『郁達夫和書』著者 陳 子善・王 自立 生活・読者・新知三連書店
8『郁達夫散文撰集』 著者 張 夢陽 百花文芸出版社
9『郁達夫巻』 著者 黄 陜燕 西人民出版社
10『中国現代文学史』 著者 吉田富夫  朋友書店
11『現代中国文学−6郁達夫・曹』 著者(訳者)駒田信二・松枝茂夫 河出書房新社
12『現代日本文学集−佐藤春夫集』 著者 佐藤春夫 筑摩書房
13『佐藤春夫−作家自伝』 日本図書センター
14『日本白樺派与中国作家』 著者 劉 立善 遼寧大学出版社


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