『教育研究所紀要第8号』文教大学付属教育研究所1999年発行

特集 「新学習指導要領」を考える

新学習指導要領と学校教育

児 島 邦 宏 (東京学芸大学教授)

要旨

第15期中教審第1次答申に始まる学校教育改革の動向(「子どもからの教育改革」)を追いつつ、新しい学校教育の特色を新学習指導要領の改善の中に見ていく。さらに新学習指導要領を展開していく上での学校教育の在り方を「学校の自主性・自律性」を中心に検討を進める。

(1) 子どもからの教育改革

平成8年7月の中央教育審議会(中教審)の第1次答申に始まる今次の一連の教育改革は、「ゆとりの中で生きる力をはぐくむ」ことをねらいとして、子どもの主体性の育成と個性尊重の教育の一層の進展を図ることをめざしている。
その背景には、21世紀を背負っている今眼の前にいる子どもにとって、今後ますます生きづらい世の中になっていくだろうという予測がある。21世紀はこれまで以上に不透明で激しく変化する社会になり、生きていくのが大変な時代になるだろうと受けとめられている。それだけに、「生きる力」「生きぬく力」をしっかりとはぐくむことが、我々大人の子どもたちへの責任でもあるわけである。
この「生きる力」は、周知のように、知・徳・体の三つからとらえられ、それらの三者の調和が大事だとされている。これまでは、ややもすれば知的能力のみに傾斜し、強調されがちであったが、生きる力はそれだけに限らず、心や体の大事さを強調した点で注目される。この点にまず留意しなければならない。
知的には、これまでの知識伝達中心の「覚える学習」から「自ら学び、自ら考える学習」へのスタンスの転換が示された。心の教育では「豊かな人間性」の育成が強調され、中でも「協調性やおもいやり」を中心とする「人と人との在り方」が強調されている点に留意する必要がある。
体の教育では、「たくましく生きるための健康や体力」が取り上げられ、自らの健康を生涯にわたって維持増進し、自己管理していく力が求められている。生涯スポーツ、生涯体育の考えが強く打ち出された。中でも「心身の健康」に力点がおかれていることに留意する必要がある。
これらの「生きる力」をはぐくんでいく過程を「自分さがしの旅」としてとらえ、教育を次のように定義した。「教育とは、子供たちの『自分さがしの旅』を扶ける営みである。」
つまり、「ああしなさい。こうしなさい。」と学校や教師が子どもに指示したり、命令したり、型にはめたり、引っ張っていくのが教育ではなく、子ども自身が自分を見つめ、激しく揺れ動く社会の現実を見すえ、自らどう生きていくかの方途を考え、探しながら責任をもって行動するという「社会的自立」の過程を教師が後押しし、支援していくのが教育の営みだとしたわけである。
もっといえば、子ども主体の、子どもからの教育改革が根幹となっている。学校の都合、教師の都合に先立って、子どもの都合が優先されなければならない。
この「自分さがしの旅」は、2つの車輪に支えられて展開していく。一つは「自己の確立」あるいは「個の確立」という車輪である。まず、自分自身をしっかりしたものに育てなければならない。個がしっかりしていないと、集団埋没型の人間となり、変化に流され、変化に押しつぶされてしまう。
しかし、「個の確立」だけでは一面的である。人間は一人だけでは生きていけない。社会的動物だからである。それどころか、「個」や「自己」のみに偏すると、ひとりよがりになったり、わがままで利己的に走ってしまうことにもなりかねない。
そこでもう一つの車輪が必要とされている。「共に生きる」という車輪がそれである。人と人とがどのように支え合い、助け合い、高め合いながら生きていくかである。人間関係といってもよい。先の「協調性や思いやり」の強調もここにある。
さらにいえば、「共に生きる」という車輪は、校内での友人関係や異年齢集団、教師との信頼関係にとどまらず、地域の人々、高齢者、障害者、外国人との関係、さらには人間と自然、人間と環境との「共存・共生」の関係へと広がっている。
自分自身をしっかりしたものへと高めるとともに、そうした個のお互いどうしの「共に生きる」関係をつくり出し、そこに「社会的自立」「社会的に一人前」の人間として世の中を支えていくことができるとしたわけである。
このように、「社会的に自立」した子どもの育成をめざし、教育改革を子どもから出発するとき、当然のことながら、「今、日本の子どもに共通に何が必要か」に先立って、「今、目の前の子どもに何が必要か」が優先する。「共通性」に先立って、「個性」が重視される。
このことを中教審の第2次答申(平成9年6月)では、「形式的平等主義から個性尊重の教育へ」という構図で、その改革の方向を示した。もちろん、「共通性」か「個性」かと二者択一的にとらえるのではなく、両者のバランスこそが大事なのであるが、それを前提に、「個性」へと基調の転換、スタンスの移動を図ろうというものである。
目の前の子どもは、どの子も他者にとって代えることのできない個性的な存在であり、「かけがえのない存在」である。そのかけがえのない目の前の子どもをどうするかという点から出発するとき、その子どもに何を用意し、どう育てるかを決定できるのは、その子どもの目の前にいる教師であり、学校である。子どもがわからないでは、その子どもをどうすることもできない。一人ひとりの子どもに全国一律の指導内容、指導方法だけでは対応できないわけである。
子どもからの教育改革は、こうして必然的に学校の創意工夫を求めることとなった。それだけに、学習指導要領の改訂の方向をしっかりつかみ、同時に目の前の子どもの姿をしっかりと視野に入れ、両者を複眼的にとらえながら、どこに創意をめぐらしていくかが、今後の学校の重要な役割となってきたわけである。

(2) 学習指導要領改定の要点

1 生きる力の育成と基礎・基本の徹底

「各学校において、児童に生きる力をはぐくむことを目指し、創意工夫を生かし特色ある教育活動を展開する中で、自ら学び自ら考える力の育成を図る」と、生きる力の育成および各学校の創意工夫を生かした教育の推進が明示された。
ここで留意すべきは、生きる力は、「自ら学び、自ら考える学習」(その中で一層重視される教育活動だとされたのが総合的学習である)と「基礎的・基本的な内容の確実な定着」との両輪からとらえられている点である。お互いが支え合って「生きる力」をはぐくむという構図でとらえられている。
その全体構図を忘れて「基礎・基本」と「自ら学び自ら考える学習」とを二者択一的なものにとらえたり、対立したものととらえたならば、おそらく両者とも成り立たなくなり、生きる力をはぐくむことも覚束なくなるだろう。
その意味で、基礎的・基本的な内容の「確実な定着」をこれまで以上に強く要請している点に留意する必要がある。この基礎・基本の徹底を図るためには、個に応じた指導の充実を図ることとしている。より具体的には、個別指導やグループ別指導、教師の協力的な指導、繰り返し指導(リピート学習)などをあげている。

2 道徳教育の充実

学校内外で、人間性の欠如としか思えないような忌わしい事件や問題が生じている。そのこともあって、中央教育審議会でも心の教育の在り方が論議され、答申が出された(『幼児期からの心の教育の在り方について』平成10年7月)。
こうした社会的状況、社会的要請を踏まえて、学校教育においても、なお一層の道徳教育の充実が求められた。その一つとして、道徳教育を学校の教育活動全体を通じて行う趣旨を強調するためにも、道徳教育の目標を「第1章総則」において示すこととされた。
この道徳教育の目標の記述のうち、従来の目標に新しく付け加えられた文言が、「豊かな心をもち」と「未来を拓く」の部分である。子どもたち一人ひとりに豊かな心、豊かな人間性を育むとともに、未来に向かって自らの人生、生き方や社会の在り方を問い、切り拓いていく主体性の育成が強く求められたわけである。生きる力の徳育の側面が、ここに強く反映し、表現されている。
道徳の時間が、学校の全教育活動を通じて展開される道徳教育を補充・深化・統合する「核」であり「要」であることには変わりはない。この「核・要」としての道徳の時間の役割をより明確にするために、道徳の時間の目標に「道徳的価値の自覚を深める」という記述が加えられた点にも注目すべきである。
また、道徳教育を進めるに当っては、ボランティア活動や自然体験活動などの「豊かな体験」を通して道徳性の育成を図るよう体験重視を明示したことにも留意する必要がある。さらに、道徳教育を進めるに当っては、家庭や地域社会との連携を図る必要が強調された。

3 体育・健康に関する指導の充実

道徳教育の充実と並んで、体育・健康に関する指導の充実を図った点も、大きな特色である。まず、これまでは「体育に関する指導」と総則で記していたが、それが「体育・健康に関する指導」と改め、健康に関する指導の充実が図られた。これは、小学校第3・4学年において新たに保健領域が設けられたこととも符節している。
つまり、これまでと同様に「体力の向上」は一層図られなければならないが、それとともに、心の健康、薬物乱用、食生活をはじめとする生活習慣病の兆候等の新たな健康をめぐる現代的な課題、さらには児童生徒の発育・発達の早期化に対応していくという課題が、重視されてきたためである。
中でも、これまでの「体力の向上及び健康の保持増進に関する指導」が「体力の向上及び心身の健康の保持増進に関する指導」と改められたことからもわかるように、「心の健康」の問題が重視されてきた。具体的には、心の発達、心身相関、不安や悩みへの対処、人とのかかわり方、自分らしさの形成、ストレスへの対処などが、ここで扱われる。
別の見方からすると、「心の教育」は一方で道徳性の育成という面があり、もう一方において心の健康という面があるわけで、この両者から心の教育の充実が図られたとみることができる。
体育・健康に関する指導は、新しく設けられた総合的な学習の時間も含めて、学校教育活動全体を通じて行われるほか、日常生活においてその活動の実践化を図るよう求められている。そこに家庭や地域との連携が不可欠となってくる。もちろん、その中核を占めるのは体育科であり保健体育科である。こうした点は、道徳教育と全く同じである。
もう一つ留意すべきは、特に体育の指導において、従来ややもすれば勝利至上主義になりがちであった点を見直し、生涯にわたって自らの健康をどう維持増進し、自己管理していくかという生涯スポーツ、生涯体育の観点をより強めた点である。学校は、こうした「生涯を通じて健康・安全で活力ある生活を送るための基礎」づくりにあると明確に位置づけられた。

4 総合的な学習の時間の創設

総合的な学習の時間が創設され、今次の学習指導要領改訂の焦点となってきている。年間総授業時数という枠でしばられつつも、他方でその指導の目標や内容は全て学校に委ねられ、結果として「やらないわけにはいかないが、何をどうやったらいいのか判然としない」という状況に学校がおかれているからである。
今後の社会はこれまで以上に激しく変化する社会であり、先行き不透明な社会である。それだけにこの世の荒波に押し流されたり押しつぶされたりすることなく、荒波を乗りきっていく「主体性」の育成が強くのぞまれる。
しかし、世の荒波、現実を扱う場は学校にはない。科学や芸術や学問に依拠した教科等の学習で学校教育は占められ、現実世界はそれら教科をまたぎ、乗り越えるだけに受け皿となりえないからである。
他方、子どもの生活も、体験喪失の中で現実世界から遠ざかり、ますますヴァーチャルな方向へと向かいつつある。そうであるだけに、世の現実と子どもとが直接的に向かい合い、世の中を見てとり、考えながら自己の確立を図っていくことが必要とされ、新たに設けられた学習が総合的な学習の時間ということになる。そこでは、現代社会の諸課題を見すえつつ、その解決の方途を探る(その態度を育てる)とともに、そのことを通して青年の自立を図るという両面が記されている。
学校としては、この現実世界、生活世界に依拠した横断的、総合的な課題(現代社会の課題)と子どもの側から社会的関心、社会参加の側面との接点をどこに求め、どのような課題、テーマ、単元を開発していくかが要点となってくる。ここに、学校の創意工夫に依存する面が大きい。

5 個性尊重の教育と選択学習

「形式的平等主義から個性尊重の教育へ」というのが、中央教育審議会の一つのテーマでもあった。このことからこれまでの個性を生かす教育を一層進展していく方向がとられた。その最も大きな改善点が、中学校における選択履修幅の一層の拡大を図った点である。
その拡大の方向とは、一つには選択教科に充てる授業時数が拡大されたことがある。第二には選択教科に充てる教科数が拡大された点である。第三には、選択教科の内容として、これまでの課題学習や発展的な学習の他に、補充的な学習に充ててもよいとされた点である。基礎・基本の徹底を強調しつつも、その徹底をどこで図るかが必ずしも用意されていなかった。そこから、確実な学習の定着を図るために利用できるようにしたわけである。
また、選択学習は、中学校第1学年から取り入れてもよいこととされたほか、小学校高学年においても、教科内での選択学習を可能とする道を開いた。言いかえれば、小学校の教科内選択学習を助走板としつつ、中学校の教科間選択学習へのなめらかな拡充の道をつくったとみてもよいだろう。

6 ガイダンス機能の充実

児童生徒が、学校や学級の生活によりよく適応するとともに、現在および将来の生き方を考え、行動する態度や能力を育成することができるよう、ガイダンスの機能の充実を図ることを新たに示した。
今次の一連の教育改革の方向が、すでに述べたように、子ども主体の学習や生活に立脚した教育であるために、その子どもを「支配・統制」するのではなく、「支援・援助」していくことが、学校・教師の基本的役割となる。そこから、ガイダンス機能の充実を図ることが求められたわけである。
ガイダンスの領域は、学業指導、個人的適応指導、社会性、公民性指導、道徳性指導、進路指導、保健指導、安全指導、余暇指導などと広範囲に広がっているが、しかもその統一された人格の形成を支援するものであるが、今回、特に強調されたのは、これらのうちで適応指導と進路・生き方の指導をめぐってである。
その背景には、現在、学校や学級での生活にうまく適応できないなどの理由から、学ぶ意欲を失ったり、子ども同士の友人関係や、教師と子どもとの信頼関係が確立できなかったり、さらには不登校に陥ったりする子どもが見られ、増加の傾向にあるという問題がある。
また、学習の上での選択や将来の進路の選択等、生き方をめぐって適切に対応できず、不安や悩みを深め、自分を見失いがちな子どもが見られるという背景もある。ますます激しく変化する社会になっていくと予想されているがゆえに、しっかりした自己の確立が不可欠になってきたわけである。

7 ゆとりと時間の弾力化

教育活動を展開していくには、集団、空間、時間、情報といった教育組織上の枠組みがあるが、中でも、時間についての弾力化が図られたのが、今回の改訂の大きな特徴でもある。
その出発点は、「ゆとり」にある。ただここでいう「ゆとり」とは、何もしないでポケッと空をながめていることではない。子ども自から時間と活動を支配し、自分のペースで動かし、課題に没頭している姿をいう。そこに精神的に余裕が生まれてくる。学校や教師の用意した時間の枠組みの中で、指示命令されつつ動いていく学習の対角線上にある。したがって、子ども主体の学習を求める以上、「ゆとり」がなければ不可能なわけである。
「ゆとり」という点から時間の弾力化を図るとき、第一には、一単位時間の弾力化がある。なぜ、一単位時間は45分〜50分でなければならないかである。第二には、時間割の弾力化がある。なぜ学習は、週を単位に繰り返さなければならないかである。連続的なまとめどりがいい場合もあるし、年間を通して断続的に行った方が望ましい場合もある。
その基本には、時間が学習内容や活動内容を決めるのではなく、学習内容や活動内容が時間を決めるという逆転の発想がある。さらに、学校は単なる知識を教授する「教授学校」としての役割だけでなく、子どもの生活の場、居場所でもあるという「生活学校」としての役割をも加味したとき、学校の生活の時間としての日課表、年間指導計画等の見直しが求められてくる。

8 体験的学習と問題解決的学習

今回の改訂において、方法的原理として重視されたのは、体験的学習と問題解決的学習である。体験喪失については、すでに昭和40年代に入り顕在化し、その傾向はますます強まり、ヴァーチャルな世界へと向かいつつある。体験を失ったとき、学ぶ対象に受け身になり、機械的に棒暗記する以外に手だてがない。したがって、学ぶことは耐えることであり、知る喜びが失われる。
しかも、機械的に暗記した知識は、身につくどころか時間とともに忘れ去られ、学力の剥落現象となって現れる。何のための学びかということになる。生きる力にはなりえないわけである。そこに、体験や実践の重視という課題が提起されているわけである。
もう一つは、子ども主体の学習、探求的、創造的な態度を育てるという点から、問題解決的学習が強調されている点である。自ら考え、自ら学ぶ学習の方法的側面である。こうした学ぶ態度が育成されてはじめて、一つには今日の複雑な社会的課題に主体的に立ち向かうことができるし、それが二つ目には自分にはね返り、しっかりした自己の確立を図り、生涯にわたって学び、成長していくことを可能にしてくれる。

9 開かれた学校

すでに道徳教育の充実や体育・健康に関する教育の充実の項でみたように、今回の改訂では、これまでになく、保護者との協力・連携、地域の人々との協力・連携を強調している。このことは、学校教育がその責任を回避したり、軽減しようという意図からではない。
子どもからの教育改革を目ざすとき、子どもを中心に位置づけ、学校・家庭・地域のそれぞれがどのような教育の役割を分担・発揮しつつ、相互に手を結び、子育てにあたるかが重要になってきたからである。特に学校の側からみれば、「開かれた学校」の推進が一層求められてきた。
具体的には、指導方針や指導内容を相互に理解し、一貫した指導に当たるという側面のみならず、地域人材の活用という面から保護者や地域の人々の学校教育への支援をあおぐという側面もある。また、地域の自然や環境、諸施設を教育の場として積極的に利用し、活用していくという面も広がってきている。
中でも、総合的学習を展開する上では、地域こそが手がかりである。そこは、現代社会の諸問題が渦巻いている縮図であり、子ども自から生活している世界だからである。地域を手がかりに世の中を知り、自己を確立していく出発点である。そこにまた、地域の人々との交流が不可欠になってきている。学校・家庭・地域社会の連携を現実化する契機がそこにある。

(3) 創意ある教育活動

一人ひとりの「かけがえのない存在」としての子ども、その子どもの「よさ」に可能な限り対応しつつ、教育の営みを展開していくということになると、当然のことながら、教育活動は学校によって特色を持たざるをえなくなるわけである。極論すれば、一人ひとりの子どもごとにそのカリキュラムは異なり、その教育活動は異なってくることにもなる。パーソナル・カリキュラムの傾向を強める。
つまり、教育改革の出発点を子どもにおくかぎり、その教育活動は必然的に特色あるものにならざるをえない。特色ある教育活動、特色ある学校づくりの課題は、単なる言葉の上のことではなく、極論すれば、学校の存廃、命運に関わる課題になってきたと言ってよい。社会に対してそのことを自覚し、教育の責任を果たすことが、学校に強く要請されてきたわけである。
そこで問題は、それぞれの学校が、どこにその学校ならではの特色を求め、発揮していくかである。そこには大きく二つの側面があると思われる。一つは、その学校ならではの独自の新しい教育活動をどう創り出していくかである。もう一つは、その学校の条件を生かし、教育課程の運用の弾力化をどう図るかである。

1 創意ある教育活動

創意ある教育活動の面では、さらに大きく次の3点が求められている。
@ 「総合的な学習の時間」を創設し、各学校が創意工夫を生かした教育活動を展開すること
A 中学校における選択履修の幅を一層拡大するとともに、小学校高学年においても選択学習の導入を図っていくこと
B 教科の特質に応じ、目標や内容を複数学年にまとめるなど、基準の大綱化が図られたものに対し、何をどう指導していくか、指導計画の作成に各学校の独自性を発揮すること
その他、すでにみたように、道徳教育の充実が図られたこと、心身の健康の教育が強調され小学校第3学年から保健分野の学習が開始される。またガイダンス機能の充実が求められている。こうした面での創意ある取組みが求められている。
中学校においては、選択履修と総合的な学習の時間とをどう割り振るかも、学校の考えに委ねられている。教科の目標の下に展開される選択履修と教科をまたぎ、教科を越えて展開される総合的な学習の時間との違いに着目し、他方、生徒の興味・関心に基づく学習という類似性に留意しつつ、相互の内容の関連を図りつつ、編成していくことが必要となっている。
中でも、焦点は、総合的な学習の時間である。この時間は、指導の目標から指導の内容まで、すべてを学校の創意工夫に委ねたという点で、画期的なものである。それだけに、学校の特色ある教育活動が生まれ、また期待されているわけである。
そのためには、なぜこの時間が必要なのか、なぜ創設されたのかをしっかりおさえておく必要がある。具体的には、@現代社会の課題(国際理解、情報、環境、福祉、健康など)、A自己の生き方の確立(進路、生き方、ボランティアや職場体験による社会参加、人間関係など)、B生活の場としての地域や学校(ふるさと、自然や環境、産業、文化や伝統、人々のくらしな
ど)の三者のトライアングルの中に課題を見い出し、テーマを設定していくことが求められている。

2 教育課程の運用の弾力化

もう一つは、「子どもの実態、学校の実態、地域の実態に応じて」特色ある教育活動の展開をどう図るかである。すなわち、現在、学校がおかれている様々な条件をどう生かすかが課題である。
教育課程の運用の弾力化の具体的場面は、数多くあげられるが、大きくは次の諸点をあげることができよう。
@ 個性を生かす教育という面から、ティーム・ティーチングをはじめとする指導体制、指導組織の弾力化、グループ学習や異年齢集団による学習組織、学習集団の弾力化が求められている。
A 日課表、時間割、一単位時間と、ゆとりという点からの時間の弾力化が強く求められている。
B 学習の場、学習環境も、体験的・実践的な学習、問題解決的学習が強調されるに伴って、その拡大・深化が求められている。情報環境としての学習センターをはじめとする整備、生きた学校としての地域フィールドの活用、ワークラウンジや余裕教室の活用等、多くの工夫が求められている。
C 開かれた学校として、地域の人々との交流、他のいろいろの学校との交流、地域環境の活用等を通して、「共に生きる」ことの意義をどうつかむかである。共に学び、共に高め合う「交流学習」の設定をどう図っていくか、また地域の人々の協力・支援をもとに「異業種・異専門」のティーム・ティーチングをどう組織していくかである。

(4) 学校の自主性・自律性

特色ある教育活動を展開するには、当然のことながら、学校の創意工夫が不可欠の要件となる。学校が創意工夫を発揮するためには、学校の自主性と自律性とが一層強まらねばならない。学校自らが特色ある教育活動を編成していく力量がなければならないし、そのことが認められなければならない。中教審答申『今後の地方教育行政の在り方について』(平成10年9月)は、こうした視点から、学校の自主性・自律性を提言した。
この学校の自主性や自律性が発揮されるためには、内にあっては校長の裁量権の拡大が求められるとともに、外にあっては教育委員会の指示・命令を後退させ、学校の自主性を後押ししていく「支援」「助言」の機能を強めることとなる。その視点からの指導行政の充実が一層求められている。
校長の裁量権の拡大とは、もちろん、校長が一人で何でもやってよいということではない。教職員の考えや意欲を大事にし、引き出し、一つの力としてまとめるとともに、保護者や地域の人々の教育への期待や要求を受けとめ、経営に盛り込み、方向づけることを意味する。そのための校長の裁量権であり、学校の経営責任である。
その意味で、本来の「経営」が大いに発揮される基盤が整ったといってもよい。学校の思いきった創意と、その結果に対する社会的責任が課せられたからである。そこにまた、教育者としての校長の「文化的リーダーシップ」のありようが問われているわけである。
さらに、学校選択の弾力化の動きも、こうした特色ある教育活動、特色ある学校づくりと深く関連している。子どもの個性や可能性と、学校の特色ある教育活動との接点、相性をどこに求めるかが課題となってきたわけである。
どの学校も、子どもを引きつける魅力的な特色があってはじめて、学校を選択する意味が生まれてくる。逆に魅力も特色もなければ、選択の対象とはならず、反対に、拒否、批判の対処とすらなってくる。特色ある教育活動の組織的条件、経営的条件は整ったわけである。そのことを自覚して、特色ある学校づくりに取り組まねばならない。
さらに、前にも述べたが、学校と地域社会さらには家庭との垣根をいかに低くし、相互に手を結び、子育てにあたっていくかが、完全学校週5日制の到来の中で、ますます強く求められてきている。その意味では、学校が地域に開かれ、学校内部経営から地域教育経営へと転換を図り、子どもに豊かな育ちの場を用意していくことが、学校のもう一つの大きな教育責任となってきている。

〈参考文献〉

河野重男・児島邦宏編 『学校パラダイムの転換』 ぎょうせい,平成10年
児島邦宏 『「生きる力」を育てる教育課程』 明治図書,平成10年
児島邦宏 『教育の流れを変える総合的学習』 ぎょうせい,平成10年


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