『教育研究所紀要第8号』文教大学付属教育研究所1999年発行

特集 「新学習指導要領」を考える

いま、国語科は何ができるか
− 国語科新指導要領をめぐって −

森島 久雄 (文教大学教育学部 国語専修)

要   旨

 この小論は、国語科だけの問題に留まることなく、教育課程改訂の背景にある、より巨視的な理念にも言及しながら、国語科の持つ今日的な可能性を以下の3点にわたって論じる。@新教育課程で一躍注目された「生きる力」や「総合の学習の時間」については、もっぱらその対応を巡って広く論議されているが、国語科としては特に今さらのように、こうした"流行"を追っ掛けるには及ばない。あくまで国語科"不易"の原点たる〈言葉の力を育てる〉という基礎基本に撤して、学習活動を組み立てて行けばよい。A今回の教育改革の象徴たる「総合の時間」の学習を支えるのは国語科である。「国際化・環境・情報……」など、いかなるトピックスを扱おうと、その問題解決的な体験学習は児童生徒の言語活動ぬきにはありえない。また、国語科は本来的に"総合教科"であった。B今回の新指導要領には「心の教育」という理念がこれまでと同様に盛り込まれている。これからの国語科は、例えば、すぐれた文学作品の鑑賞指導や話し合い・作文などの学習活動を通して、子供たちの「感動を深め、心情を豊かにする」などの〈情意の教育〉に取り組んで行くべきである。

T 国語科の基礎基本について

 新指導要領を巡っては、各方面で今を盛りに目新しいキャッチフレーズが飛び交い"新教育"のあるべき姿が声高に語られている。各科教育についても、各種の教育ジャーナリズムが例えば右のような新しい授業なるものの理念や方法論を次々と提示している。

新教育課程で国語科授業はこう変わる
●領域改変で国語科授業の重点はこう変わる
●基礎基本の「繰り返し学習」をどう計画するか
●国語科をベースにした横断的・総合的学習の進め方
●「学び合い」の学習活動をどう創るか〈明治図書刊〉『国語教育・臨刊』(No 569)

これは1998年12月に刊行された国語教育研究誌臨時増刊号の表紙に多色刷りで示された特集内容の見出しである。それにしても「国語科授業はこう変わる」という大活字の惹句は、まことにセンセーショナルである。はたして今回の改訂によって、国語科はほんとうに大きく変わるのだろうか。
確かに上記にある通り、国語科の内容の示し方は、従前の2領域(表現・理解)1事項(言語事項)から3領域(話す聞く・読む・書く)1事項に変わっている。それは従前の読解指導偏重の体質を改めて、音声言語の指導を重視すると言うことなのだろうが、これとて国語科の学習事項の構造が根本的に変更したことを意味するものではない。戦前から戦後、そして現在まで、その記述は微妙に変わっても、国語科は一貫して以下に示すような構造に拠ってきた。

A 言語の教育(言語事項の指導)
……発音・語彙・文法・文字(表記)
B 言語活動の教育
……表現(話す・書く)
……理解(聞く・読む)

時には「目標」や「内容」欄にそれまでにない新語が登場したり、その記述のニュアンスが変わったりしても、言語事項の指導と言語活動の指導というコンセプトは変わらなかったと言ってよい。
もちろん国語科の読み物教材に盛り込まれる内容価値や子供の作文で取り上げられる話題題材は社会状況によって大きく変わる。あるいは授業方法もさまざまの教育条件の変化によって少なからず変化してきた。教育が歴史的社会的営為である以上、取り扱われる話題題材が〈変化流行〉していくのは当然のことではある。ほぼ10年間隔で行なわれる教育課程の改訂も時代の要請や歴史の進展に対応したものといってよい。しかしながら、こうした"流行"に必要以上に目を奪われ、ただ現象的な対応に終始することがあってはならない。
数年前、教育界に「支援」なる言葉が登場したとき、現職教員の講習で数人の先生方にスピーチをしてもらったところ、判で押したように「シエン、シエン」の大合唱で、いささか鼻白んだことがある。「指導」や「授業」といった用語が、まるで禁句のような雰囲気で、一人、Jリーグのサポーターのような教師像を思い浮かべていた。今回も、また「一人学び」とか「学び合い」とか言う至極口当たりのいいフレーズが自己目的化して、まるで護符のように一人歩きするのではあるまいか。あくまで国語科は《言葉の力を育てる》という"不易"の一事を念頭に置いて、いたずらに浮き立つことなく、新教育課程を主体的に受けとめて行くべきである。
ところで、今回の改訂でも強調されている「基礎基本」を国語科としては、どう捉えたらいいのか。思えば、この「基礎基本」の徹底が言われ出してから実に久しい。「詰め込み教育・落ちこぼれ」といった言葉が使われ出した昭和40年代以降、「学習事項の精選」が叫ばれ続けてきた。昭和42版・中学国語教科書編集のとき、とにかく「薄い教科書」を目指して編集に取り組んだ記憶がある。
今回は〈子供の荒れ〉→〈ゆとりの教育〉→〈週五日制〉→〈学習事項の厳選〉→〈基礎基本の徹底〉という流れの中で強調されてきたものだが、既に新指導要領に準拠した平成14年版国語教科書も、さらなるページ数のカットと教材数の削減を前提にして編集に取り掛かっている。
国語科の「基礎基本」とは、言うまでもなく前項で述べた言語の教育と言語活動の教育による言葉の力の育成に尽きる。しかし、それは単に国語科の基礎基本というだけではない。すべての教科・全生活の「基礎基本」である。国語科が道具教科とか基礎教科と言われるのもそのためである。言語は思考とコミュニケーションの道具であり、こうした道具を的確に使いこなす力、まさに、これこそ人間としての「生きる力」の根幹をなすものである。今回の改訂では「総合の時間」と結び付けられて、この「生きる力の育成」が強調されているが、そこには以下に掲げるような、より重たい現代的な意味が含れている。今回の教育改革の背景に流れるモチーフ、最近の国語教育界でよく目にする新しい用語などを踏まえながら、国語科教育が担う「生きる力としての言葉の力」の現代的な意義を次のようにないまとめておきたい。

@技術革新や国際化などなど、変化の激しい社会に立ち向かっていく自己学習力を支える言葉の力。
A情報社会化状況にあって、
a 送られてくる外部の情報の真偽や価値を判断し、主体的にそれを受容し、生活に生かしていく情報受容のもとになる
言葉の力。
b 調べたこと、知ったこと、訴えたいことなどを的確に表現し、人に効果的に伝えることのできる情報発進のもとになる言葉 の力。
B高齢化時代を迎えるにあたって、言葉を通して、自分の趣味や文化をより豊かにしていく力。
C言葉を通して人間関係を豊かにし、それを円滑に調整していく、コミュニケーション能力。
D言葉を使って、事の是非や正否、物事の価値、そして自分のとるべき行動を的確に判断できる論理的な思考力。
E言葉の生活を通して、自分の人間性、情意的資質を豊かにしていく力。

以上の項目を今日の子供たちのあの憂うべき実態と重ね合わせて思うとき、上に示したような学力を養うという国語科の担っている今日的な責務は限りなく重たいと言えよう。

U 「総合の時間」について

今回の教育改革のシンボルともなった「総合の時間」学習は、国語科とどうかかわるのだろうか。
1教科並みの指導時数が振り当てられ、しかも授業計画から実施に至るまで、すべてが学校裁量(教員裁量)に委ねられるということから、かつての「生活科」や「ゆとりの時間」が特設された時以上の大きな反響を生んでいる。「主体的な問題解決」「体験的な調べ学習」と言われても、授業の事例集や指導書があるわけではない。わずかに与えられた手がかりは例の「国際理解・情報・環境・福祉・健康」という話題題材の例示のみ。具体的な課題(主題)として何を取り上げ、どういう学習形態で、いかなる学習過程で、授業を展開したらいいか。近い将来、「みんなで渡れば恐くない」式に、一部の先行実践のコピーのような授業が横並びに見られるような事態になるかもしれない。
しかし、国語科はこれまでにも、ごく自然な形で「総合学習」に取り組んできた。ことさらに「国語科をベースにした総合の時間の構想」を叫ばなくても、あるいは「総合の時間」と国語科の異同や境界線を声高に言わなくても、どうということはない。
「『現代国語』(昭和38年新設の高校国語科の1科目)の教師はスーパーマンであらねばならない」…昭和40年代当初、国文学者高木市之助氏が口にされた言葉である。国語の読み物教材には、あらゆる分野のトピックスが盛り込まれてくる。「『であること』と『すること』」(政治思想史)・「あゆのなわばり」(動物生態学)・「ああ野麦峠」(近代日本史)・「清光館哀史」(民俗学)・「写真の読み方」(映像論)……。まさに森羅万象の話題題材を取り扱う。国語科は英語科と同じ形式教科だから言語の体系だけを教えればいい、国語科は技能教科だから読解技能の習熟だけを目指せばいいというものでもない。目の前に文章がある。文章には意味がある。文章の読みを扱うとき教師はその内容・題材について、知らないよりは知っていたほうがいい。国語の教師は、博学に越したことはないといった趣旨の発言であった。
そもそも国語科は、理科・社会科と同じ内容教科の側面をも持つ、国語科は、本来的に他教科にまたがる知識概念・話題題材を横断的学際的に抱え持つ教科なのである。まさに"総合教科"であり、国語科が"座布団教科"と譬えられる所以もこの点にある。  
国語科が総合的だというのは、こうしたトピックス面だけのことではない。国語科の枠の中で児童生徒が取り組む学習活動は、単に言語操作の活動だけに留まらない。そこでは歌う・踊る・演ずる・描く・計算する・(映像を)観る・撮る・思い描く・感ずる・創るなどなど、実に多彩な活動をも取り込む。国語科は活動の総合の場でもある。
戦後新教育の出発点に当たる昭和22版指導要領(試案)の小学校「国語科編参考一」で初めて国語科単元学習が次のような解説で紹介された。

ここに単元というのは、ある題目、内容を提出し、これについての言語活動をいとなむものである。単元による方法は児童・生徒が解決しなければならないような問題をだし、児童・生徒が問題を解くときのすべての経験、到達した結論、達成した結果をまとめていくことであると定義できるであろう

この「解決を要する問題」として、指導要領(試案)で例示されたのは、

われわれの意見は、他人の意見によってどんな影響をこうむるか

という課題であった。ここに垣間見られるのは、戦後日本が志向した民主主義的文化国家建設に欠かせないのは、国民の言論能力の向上であるという高邁にしてかつ理想主義的な精神であった。こうした問題に対して、さらに政治家・実業家・労組の指導者などの演説や宣伝、新聞・ラジオ・映画・ポスターなどの学習素材を取り上げ、調査や討論や発表などの活動を展開することを例示している。
昭和22年、焼け跡の青空教室や仮設校舎で"戦後新教育"を象徴するような国語科単元法による授業が熱っぽい時代の空気の中で、こうして開始されたのである。それから半世紀、今、戦後単元学習論とまったく同じ原理と方法に根ざした「総合の学習の時間」が公示された。第15期中教審や教課審がこうした認識を持っていたかどうか定かでないが、国歌国旗法や憲法見直し論議などに見られるような教育の保守化が進む中で、戦後民主主義教育の嚆矢ともなった単元学習論と軌を一にした経験主義的な学習の時間が特設されたということになる。50年前、戦後民主主義と戦後ロマンティズムの洗礼を受けた一人として、ある種の感慨が禁じえない。中学(旧制)時代、そして高校(新制)時代、国語の時間で何回か壁新聞を作らされたことがある。ある日突然、教師は教壇を降りて「映画について」の討論会を開けという。西洋史の時間には各自が選んだ歴史的事項を調べて発表させられ、『産業革命』について2時間喋ったことがある。一方、HRの時間やAssembly(集会)の時間が特設され、時間割にHやAの記号を記入し、やたらと集まっては、ただやみくもにワイワイ騒いでいた記憶がある 。こうした戦後コア‐カリキュラムの単元学習を生徒として体験した思い出は、映画『青い山脈』(昭和24年封切)に通ずるある種の明るさと甘酸っぱさを伴ったものになっている。昭和24年9月1日(9月は誤記では ない)、ある日、突然、県立中学と高等女学校が合併、男女共学が実施された。その印象と重なっているからであろうか。 
やがて、こうした戦後国語科単元学習は、「口ばかり達者になって漢字一つ書けない」とか「縄のれん目標」(昭和22版『指導要領 』で、国語科の学習指導の細かなねらいがいくつも提示されたことを指す)とか「欲張り国語・這い廻る社会科」といった揶揄の言葉を浴びるようになる。日教組教研集会や数学教育の遠山啓氏あたりから"場当たり"的な戦後新教育は学力低下を招いているといった批判が出され、やがて次の時代に学力主義的系統学習論が台頭してくることになる。
しかし、何はともあれ、国語教育界には、戦後のコア-カリキュラムから出発した今日までの長い総合的単元学習の歴史がある。国語教育史の中で、一際光彩を放った大村はま単元学習の実績、そして30年代の単元学習不遇の時代を経て、その批判を乗り越えて新たな展開を示した昭和40年代の単元的「読書指導」論や、戦後単元主義を超克した新単元主義の取り組み、さらに認知心理学を踏まえたグッドマン夫妻によるWhole‐language(全体言語)理論に基づく理論と実践の移入……。こうした経緯と経験を踏まえて国語科単元学習は、1990年代には確かな潮流となって今日に至っている。
こうした単元学習の理念と方法論を、「総合の時間」を巡って取り沙汰されている新しい今日的な装いを持ったテクニカル-タームと重ねながら、以下のように整理して掲げておこう。

@脱教室・脱教科書
A多教材…新聞・放送・年鑑・業界誌・パンフ・パソコン取材・聞き書き・録画・写真など
B多活動…現場調査・インタビュー・資料探索・まとめ・掲示物映像作成・発表など
C学習課題(トッピクス)の決定
……主体的・個別的・興味関心
D学習活動(個別・グループ別・全体)
……調べ学習・体験的問題解決学習
……"ひとり学び"と"学びあい"
……教師の"支援"
E教師中心から学び手中心へ
F生活化と"実の場"重視
……地域・家庭・施設などとの連携G発表・展示など(Presentation)
H事後の評価・反省など (post‐association)

いま各地で先行的に、近い将来すべての学校で取り組まれるであろう「総合の時間」の授業は、おそらく上記のような理念に立ち、上記のような流れで展開するであろう。こうした「総合の時間」の実践は、国語教育人にとっては決して新奇なものではない。また、ことさらに斜に構えて、あれこれ挙げつらうものでもない。むしろ、少なくとも黒板と教科書べったりの〈教師中心・一問一答・理解強制型・一斉授業〉による授業が破綻をきたしている現状を考え、多くの問題点が内在するではあろうが、こうした単元的総合的な学習の含み持つ豊かな可能性を見据えて、「国語科総合の時間」「総合の時間・国語科」の実践に取り組んで行くべきであろう。
ただ、留意すべきは「学力の押さえ」という一点である。近年、子供から大学生までに及んでいる学力低下と学習離れの傾向は、もはや看過できないものになっている。あるいは、近い将来、「ゆとりの教育」への批判が高まり、「総合の時間」が批判の対象に据えられてくるかもしれない。かつて「ゆとりの時間」が"遊びの時間"や"補習の時間"と化したのと同じように、この「総合の時間」が"◇◇ゴッコの時間"に堕するようなことがあれば、なおさらであろう。仄聞するところによれば、「総合の時間」では評価はしないとのことである。しかし、総合的な学習に取り組む関係者は、なおのこと、自分のこの授業で、どんな学力を伸ばそうとしているのかを自覚し、それをはっきり外部に提示していくことが肝要だろう。
活動あって指導なし
支援あって教授なし
体験あって学びなし 

「総合の時間」を巡る最大の論点は、こうした批判に具体的にどう答えていけるのか、その一点にかかっているように思える。「パソコンいじり」や「清掃局見学」や「英語で遊ぼうピンポンパン」といった活動だけで満足することがあってはなるまい。

V いわゆる「心の教育」について

(略) 今日、子どもたちのいじめや薬物乱用、性の逸脱行為などの問題が生じ、大変憂えております。昨年度の「子どもの体験活動等に関するアンケート」によると、「小さい子を背負ったり遊んであげたりする」などの生活体験や、「食器をそろえたり片付けたりする」などの手伝いの経験、「チョウやトンボなどの昆虫を捕まえる」など自然体験が豊富な子ほど、「バスや電車で席を譲る」「友達が悪いことをしたら、やめさせる」などの道徳観・正義感が身についている傾向が見られました。
しかし、今日の子どもたちは残念ながら、そうした体験が貧弱です。特に学年が上がるほどゆとりのない生活になり、体験から学ぶ機会は減っているのが現状です。一方、大人社会も物質的な豊かさや便利さを追い求め、子どもとゆっくり話をする時間すら持てません。さらに公共心や正義感の低下、効率性を重視する社会風潮を見るにつけ、今まさに「次世代をはぐくむ心を失う危機」に直面しているといってよいのではないしょうか。 今や私たちは、これまでの生き方への反省の下に手を携えてこの危機を乗り越え、子どもたちが自分で課題を見つけ自ら学び考えることができる資質や能力、自らを律するつつつ他人と協調し、他人を思いやる心や感動する心、たくましく生きるための健康や体力など「生きる力」をはぐくまなければなりません。(後略)
〔1999年6月11日・朝日新聞『論壇』 有馬朗人=投稿〕
この文章は現職の文部大臣が一市民の投書に応えたものだが、上掲の後半の内容は小学校中学校『学習指導要領・第1章 総則』編に見られた文言とほとんど変わりはない。しかし、この投稿の冒頭では、現代の子どもの憂うべき状況が具体的に語られている。それだけではない。こうした状況をもたらした大人社会の有りように対する自己反省と、さらには「次世代をはぐくむ心を失う」までに走った現代の物質中心の「効率主義」に対する痛烈な文明批評になっている。

◇今の子供は受験に追われるばかりで、他人への思いやりや正義感が育っていない。ひ弱な子が多く、明るい笑顔を見せ る子も少ない。(東海大教授山下泰裕氏)
◇学校に人間教育・社会教育をきちんと取り入れたい。(知的学力は)新聞が読めたり買物ができる能力ぐらいで十分。困っ ている人がいたら助けるとか必要最小限の人間性や感性を身に付けることの方が大切だ。(弁護士堀田力)
(平成7年9月7日・日本経済新聞より)

これは第15期中央教育審議会の答申を受けて、新しい学校像の構築を目指した教育課程審議会の新委員(一部)の談話である。そう言えば政治改革、財政改革と並んだ教育改革のスローガンの一つは、「心の教育」であった……。今われわれは、ともすると「総合の時間」などの現象面の対応に目を奪われがちだが、教育課程改訂の発想の原点は、ここにあったということに改めて思いを馳せるべきだろう。
「心の教育」……指導要領では「道徳」を中心に学校教育のすべての領域で取り組むことが明示されているが、国語科でできることは単に読み物教材の含み持つ価値的な主題の押しつけでは決してない。「くもの糸」でエゴイズムの醜さを、「スイミー」で協力を、「走れメロス」で友情と信頼を教えて、事足れりとするようなことではない。
国語科「心の教育」の第一点は、究極のところ「言語人としての人間性」の陶冶に尽きる。「言語人格」の形成といってもいい。言葉をきちんと受け止め、書き手や話し手の願いを一生懸命わかろうとし、読み手や聞き手のことを考え、真実で価値あることを一生懸命に話し書こうとする態度を育てることである。
第二点は、文学鑑賞や友人の作文批評を通して達成される。国語科の教材や作文には、多様な人間のさまざまの姿が生き生きと描かれる。それを読むことで、多くの生徒は深く感動し精神を高揚させる。こうした営みや機能を「心の教育」と括弧でくくって、意識的に行なっていくことである。
最近、表現こそ変わっているが、「心の教育」に通ずる言葉をよく目にするようになった。「あなたの魂によくないことだからやめなさい。」……"援助交際"に走る女子生徒に多くの大人たちが言うべき言葉を失っていたとき、心理学者河合隼雄氏が語った言葉である。
「魂のことをする。」……ノーベル賞作家大江健三郎氏が最近多用する言葉である。氏は、その中身を〈頭で考える心〉と〈心で感じること〉と〈生き方のテクネ(技術)〉の三点を想定している。
また、就職した偏差値人間が企業や病院で人間関係を円滑に調整できないといったことが問題になったとき、〈IQ〉に対して〈EQ〉(Emotional‐Quality)なる概念が登場し、反響を呼んだことがある。
ここに挙げた「魂」とは、根源的には指導要領で言う「生命への畏敬」の念であろう。〈EQ〉とは、大江氏のいう「感じる心」の謂いであろう。そして、これらは、一時期、盛んに口にされた〈生き方・在り方〉教育に通ずる。〈自分で自分を賞めてやりたい〉というSelf‐esteem(自己尊重)の感情と、そ の反映としての他者尊重の感情、つまりはヒューマニズムの精神である。
こうした「心の教育」で国語科は何を目指すのか。以下、「正義感・公共心・克己心」といった価値観のレベルはなく、文学教育が典型的に内包している人間の「情意」面に限定して、その観点を示しておく。

(1) 感性

血や汚物にも顔をそむけることをしない子供たち。美しい夕焼けを見て「わあー、きれい!」とイイ顔ができないない子供たち。ここで言う「感性」とは、外界の刺激に対して敏感に反応し、それを表情やパフォーマンスや言語(あるいは音楽・絵画・映像など)で外に表すことのできる人間的資質を想定している。美醜・正邪・好悪などの、特にプラス面の反応、例えば、美しい自然や好ましい人間の姿や崇高な芸術に触れて、「心が洗われる・わくわくする・じーんとする」といっ気分を意識化させていくことである。

(2) 想像力

ここでは見えないものを豊かに思い描いたり、思いやったりする人間の機能と捉えておく。文学作品の活字の向こうにさまざまの風物や人間の姿を思い浮かべ、他人の作文やスピーチに〈同化…入りこみ〉をし、共感していくような働きの促しである。

(3) 情操(感動)

価値あるものに気付き、それに心を動かす働きをいう。時には生理的な反応をもたらす情動を伴うこともある。何に価値を見出だすかは他人が決めるのでなく、自分で見出だすものであり、そのパターン・類型が子供たちの個性となって表れる。国語科のさまざまな場面で、いい気持ちになる、ウルウルする、うっとりする、朗らかになるなどの体験を与えていくことである。
以上、ここでは3点に限って挙げたが、こうした子供たちの「情意」面の特性については、従前は教科の枠の中では捉えられてはいなかった。せいぜい「性格」「行動の記録」欄などで副次的に扱われてきたに過ぎない。つまり、生産性に通ずる能力主義的な人間観では、人間のこうした「情意」は矮小化されてくる。また、こうした「情意」は"教えて育つもの"ではない、つまりは評価の対象となる「学力」ではないという思い込みもあった。しかし、ようやく近年になって国語教育界では、例えば指導案の目標欄などに「感動を深め、心情を豊かにする」といった授業のめあてが掲げられるようになっている。
確かに「情意」は計量できない。「感動」は測定できない。その発達の度合いを観察することもできない。しかし、それらは少なくとも環境や経験を通して開発され、形成されてくる人間的資質であることは経験的にも否定できないところだろう。柳田国男の『涕泣史談』によれば、一昔前の日本人はよく泣いたが、時代を下るに従って泣かなくなったという。つまりは、柳田は「泣く」という「情意」の表れ方も時代の文化と見做しているのである。「男泣き」という日本人の美徳が近代化の中で衰退しているのも、その一例なのだろう。こうしたことは「泣く」だけのことではない。教課審委員山下泰弘氏の「明るい笑顔を見せる子も少ない」という述懐もそうであろう。今、子供たちは、現代の"文化環境"の中で「明るく微笑む・そっと涙ぐむ・目を見張る」という「情意」の表し方の"学習"を十分経験していない。企業面接の専門学校で、大学生が鏡を見ながら"感じのいい笑顔"の作り方を練習するという"恐い話"もある。
何はともあれ、国語科の指導案に「感動を深め、心情を豊かにする」という観点を掲げる以上、それは知的学力や態度的学力と並べて「情意的学力」として認知されてもよいのではなかろうか。近い将来、少なくとも国語科においては〈知識・理解〉〈興味・関心〉〈意欲・態度〉と並んで、《情意》あるいは《感性・心情》といった観点が明記され、国語科〈心の教育〉が意識的・自覚的になされていってもいいのではないかと考えている。その評価の是非や方法の議論は別にして…。


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