『教育研究所紀要第9号』文教大学付属教育研究所2000年発行

特集 変革期の大学教育はどうあるべきか;

大学審議会答申『21世紀の大学像と今後の改革方策について −競争的環境の中で個性が輝く大学−』(1998年10月26日)を読んで」

大学改革についての私見

拝仙 マイケル

(文教大学文学部長) 

要  旨

高校を卒業して大学進学を希望するものが全員入学できるような時代の日本で、大学が果たすべき役割は何か。従来の大学教員の間に見られた研究だけを偏重する傾向は改善されなければならない。同時に、今日の状況が要求する大学生のためのカリキュラムとはどのようなものであるべきか。大学教育は、単なる職業訓練的なものではなく、「総合的な」知識の伝播を目指し、学生の人間性を磨くことを心がけなければならない。

"They demand things they know they cannot have."1

「産業や雇用の空洞化、少子高齢化による経済の潜在的な成長力の低下、高齢化に伴う社会保障給付の増大等により、当面は、引き続き厳しい財政状況が続くことが予想される」。2
「世界的水準の教育研究や特色ある教育研究をそれぞれ展開していくことが不可欠である」。
「学部(学士課程)教育については、21世紀における社会状況等を踏まえ、各大学の理念・目標、専門分野によって違いはあるものの、今後、自ら主体的に学び、考え、柔軟かつ総合的に判断できる能力等の育成が重要であるという観点に立ち、幅広く深い教養、高い倫理観、実践的な語学能力・情報活用能力の育成とともに、専門教育の基礎・基本等を重視するなどの方向で学部の教育機能を組織的・体系的に強化していくことが必要である。さらに、学生の多様な能力・適性や学習意欲に柔軟にこたえていくため、学部・学科を越えた共通授業の開設や転学・転部などについての柔軟な対応など、学生の選択の幅や流動性を拡大する工夫も重要である」。
しかし、「学部段階の教育については、一般に教員は研究重視の意識は強いが教育活動に対する責任意識が十分でない、授業では教員から学生への一方通行型の講義が行われている、授業時間外の学習指導を行っていない、学期末の試験のみで成績評価が行われている、成績評価が甘く安易な進級・卒業認定が行われている、教養教育が軽視されているのではないかとの危惧がある、専門分野の教育が狭い領域に限定されてしまう傾向があるなど、教育内容と教育方法の両面にわたり多くの問題点が厳しく指摘されている。また、学生によっては、授業に出席しない、授業中に質問をしない、授業時間外の学習が不十分である、議論ができないなど、学習態度とその成果の両面について問題点が指摘されている」。
この国の財政状況は今後もおそらく悪化し続ける。大学に入学してくる新入生の学力低下が進んでいる。そういう状況の中で大学は、世界の舞台に躍り出て活躍できる人材を数多く養成しなければならない。上に引いた大学審議会の『答申』はそのような注文をわれわれに突き付けている。『答申』はまた、その目的を達成するために、いくつかの具体的な提言もしている。
例えば、「学生の履修科目の過剰登録を防ぐことを通じて、教室における授業と学生の教室外学習を合わせた充実した授業展開を可能とし、少数の授業科目を実質的に学習できるようにすることにより、単位制度の実質化を図る必要がある。このため学生が1年間あるいは1学期間に履修科目登録できる単位数の上限を各大学が定めるものとする旨を大学設置基準において明確にする必要がある。また、個々の学生に対して履修指導を行う指導教員等を置くことも重要である」。
この履修科目数の制限という具体的な方策に限って言えば、文教大学文学部では3年ほど前から実施されている。はじめの内は、1学期の履修単位の総数が20単位を超えない、という制限の枠内に外国語科目も置かれていたが、いつの間にかそれが教職科目・体育科目といっしょに制限枠の外に置かれるようになってしまった。これを見ても分かるように、まず教員と学生の双方の意識が徹底的に改革されていないと、このような「改革」はいずれはなしくづし的に反故にされてしまう。教員の側からは、学生に対して今よりももっと多くの期待と要求が表明されなければならないし、また学生の側からは、それに応えるために今よりももっと多くの努力がなされる必要がある。双方の立場でそれぞれの意識改革があって初めて、履修単位数制限と教育効果の向上が有機的に結びつく。意識改革を欠いた単なる制度の改革は、学生の大学生活を今よりももっとひどい「休息期間」、あるいはアルバイト用の時間、におとしめてしまうだろう。
セメスター制度も本学では大幅に実施されているが、制度導入の当初に期待されたような効果は今のところ現れていない。科目の性質によって、週1回行うのが最適な授業もあれば、週2回、3回、4回、或いは5回のものもあって当たり前だろう。しかし現状では、ほとんどの科目が従来のように週1回の授業で済まされている。それらの授業科目は一見したところ一学期で完結しているように見えるが、実際のところは通年科目を二つに切り分けただけに過ぎず、結果としては、教務課スタッフに対して以前に数倍する負担をかけながらも、セメスター制度が本来目指している教育効果は全くと言っていいほど生み出されていない。
上のような制度改革が実施され、それがどのように受け入れられているかを見ていると、わが大学の持つ至って保守的な本質がはっきりしてくる。

[The university] is a place of teaching universal knowledge.3

1850年代に、神学者のニューマン枢機卿(John Henry Newman, 1801-90)は四年間ほどダブリンのカトリック大学の初代総長をつとめ、その後も三十数年にわたり大学というものについて色々と考え続けた人だが、その思索の結晶が『総合大学の概念』という彼の論集におさめられている。ニューマンによれば大学とは「(学問の)総合的知識を教える場所であり、その教育の目的は・・・学問の促進ではなく、学問の伝播と拡充である。大学教育の目的が科学や哲学の分野における新発見を目指すものであるならば、学生などは不要だろう」4
文部省の大学審議会はニューマンほど教育と研究をはっきりと分けていないが、大学レベルでの「教養教育の重視」と、「大学院の教育研究の高度化・多様化」を強く訴えている。5
ニューマンは第6論説文で「総合的知識としての学問」を力説している。「真の思考力の増大とは、多くのものを一つのまとまりとして視る力であり、全体としての秩序の中でそれらにしかるべき位置を与え、それぞれの価値を理解し、相互的依存度を判断することである」。6
もしニューマンが現在の大学を視察したらどう思うだろうか。7現在の大学では「総合的な知識(universal knowledge)」を学生に伝播拡充するという目標はほとんど幻想に近いことだと言わざるを得ない。「学問」とはいっても、自分の専門分野を視ることしかできない教員が多く、そして大学の教養教育のカリキュラムはそういう状況の中で、そういう人たちによって決定されているのが実状である。人間や人類を理解するには経済学こそがその基本だ、と経済学者ならば当然考えるだろう。同様に心理学者は人間理解の基盤を心理学に求めるだろう。社会学者ならば、社会的環境や階級を人間を分類する際の基本的範疇として前提にするだろうし、生物学者はダーウインの進化論を用いて、遺伝子を鍵として人間を理解しようとするだろう。ニューマンの時代には神学と哲学が「総合的な知識」と目され、かつ各分野の接着剤としての役割を果たすことを期待されていたが、今の大学教育においては、哲学の存在感はかなり稀薄で、神学はないに等しい。普遍的な価値観の存在すら疑われている時代なので、大学は建学の精神に基づいた教養教育を提供する以外ない。
しかし、1999年1月に本学で実施された「大学評価アンケート」問6の回答は、本学の建学の精神である「人間愛」が学生の心にまったく浸透していない現状を物語っている。アンケート調査に参加してくれた学生のわずか4%程度しか「よく知っているし理解している」と答えていなかった。教職員に同じ問いかけをしたらどんな答えが返ってくるだろうか。そもそも建学の精神の曖昧さに問題がないわけではないかも知れないし、現カリキュラムにそれを盛り込む努力が足りないのも否定できない。筆者の個人的な見解を述べるのを許してもらえるなら、この学園の前身である立正学園の創立者の信念であった「立正の精神」の方がまだ解り易いし、教養教育カリキュラムのしっかりした土台にもなるように思う。言うまでもなく、740年も前に出た日蓮の『立正安国論』をいまさら聖典にして、その一定の解釈を建学の精神にする必要はない。仏教思想から離れて、「法」の意義を拡大解釈することは可能だし、許されることだと思う。どの時代にも正しい法や道を求める不屈の精神が不可欠で、その探求を教養教育の基本理念にすることは可能ではないだろうか。
専門分野の違うさまざまな教員たちが協力して、共通の問題意識をもって切磋琢磨し合い、互いの理解を深め、そういう協力体制の中で教材を作る。一方通行の講義で事を終わりにしないで、(大学院生の活用も含め)学生の積極的な参加を余儀なくするような授業形態を開発するという新しい試みが必要ではないだろうか。「大学評価アンケート」問188・259・2610に対する回答を見れば、学生のカリキュラムに対する不満や無関心はこれ以上無視できないところまで来ていると思う。
このような形での教育内容の充実は莫大な量の時間とエネルギーの投資を必要とする。「会議日を含めて教員の出校は週3日、研究日も週3日」という今までのような体制は維持できなくなるだろうことも予想される。新入生の学力低下が年々深刻になっている現状では、教員の週休二日制導入も課題にせざるを得ないかもしれない。もちろん、それによって研究のための時間がかなり削減されることは避けられない。教員としての社会的評価を得る道は、従来いわゆる研究業績を増やすことにあったので、研究時間の削減を嫌う教員は大勢いるだろう。これからは「教育業績」をも評価するという価値観を新しく確立する必要がある。それが常識化しない限り、どんなカリキュラム改革を行っても大した成果は期待できないだろう。文部省の大学審議会もそれを認めているようだ。「教育活動の評価・・・大学教員に見られる、教育よりも研究を重視する考え方を改めるとともに、教育活動をより充実させるためには、教育についても評価の対象とすることが適当だ」。12だが、それも厳しい注文である。論文の数、その論文一つ一つの枚数など、数字に基づく評価は比較的に簡単に実行 できる。教育活動を客観的に評価する基準は存在しているだろうか。学生を対象にしたアンケート調査だけでは、教員の人気度を計ることはできても、教育目標がどれだけ達成されたかを計ることはできないかも知れない。
ニューマンにいわせれば、「(学問の)新発見をすることと、教えることとははっきりと異なった性質のものでもあり、はっきりと異なった才能を要するものでもある。一人の人間が両方の才能を併せ持っていることはまれだ」。13ということで、ニューマンは総合的な知識を教える「大学」と、研究を深める(大学以上の)高等教育機関、「アカデミー」を分けて考えた。
文教大学には大学院も教育専攻科もあり、そこでは高度な資格取得を含めて、学術研究の推進を目指している。こういう機関の存在はPR効果もあるだろうし、設置した以上は成功させなければならないことは私も認める。ただ、大学院・専攻科があるがために、学部教育がおろそかになるようなことはあってはいけない。財政的にも余裕があまりなく、施設も決して「充実している」といえない本学には、大学院などの設置はかなり「身分不相応」なことだなという気も、一方ではしないわけでもない。なぜならば、「大学教員に見られる、教育よりも研究を重視する考え方」は本学の教員の間にもはっきりと認められ、その考え方はこれからの文教大学の存在そのものを脅かすようになる心配すらあると思うから。
「平成10年度(1998年度)では、大学・短期大学・高等専門学校の合計で見ると、全国の学校数1,254校、進学率48.9%、専門校まで含めた進学率は68.3%に達している」。13埼玉県の18歳人口は1992年のピークの11.56万人から2008年には6.95万人に(39.9%)減る。神奈川県の場合は1992年のピークの12.94万人から2008年には7.42万人に(42.7%14)減る。関東全圏での減少も同じく42.7%になる。小・中・高等学校教育の質が低下しているなかで、いわゆる「全入時代」を迎えることが既にはっきりしている。進学率は今後どこまで上昇するだろうか。2010年には70%にも達するような予測15を立てているところもある。それは楽天的過ぎる見込みだと思うが、この数字によるならば、専門校まで含めた大学進学率は90%に近い数字になるのではないだろうか。「強いて勉める」ことを知らない、あるいは望まない、若者が多くなっていく今の世の中で、大学進学が果たしてそこまで「当たり前」になっていくだろうか。
ともかく、進学率がどんなに上昇しても、今後本学に入ってくる学生の学力は今までと比べたら大きく違ってくるだろう。「これぐらいなことは解っているだろう」と想定することすらできないような学生が多くなり、教員側が精魂を込めて教育に専念しなければ、学生のほとんどは大学での勉強に付いていけなくなるだろう。
第2次世界大戦後、特にアメリカと日本では進学率が年々上昇して、今の高等教育制度が出来上がった。戦前の「エリートを養成する場所」としての大学の面影が、名門校でなくても、大部分の大学で見られた時期がしばらくの間はあった。しかし、これからはそうはいかないだろう。われわれ自身にとっても大変に辛いことだが、一握りの「名門校」以外の大学は果たして「大学」と称していていいのかどうかも疑問になりつつある。立正の精神、つまり、「正法を確立する」ことを目指すならば、孔子が言ったように、「必ずや名を正さんか」16となるのだが、今ここで「大学」という呼び名を改める可能性はまずない。ということは、これからは理想と現実との間にある溝がますます広がって、深くなっていくのだろう。
しかし、それにもかかわらず、文部省の大学審議会は、今までよりさらに厳しい要求を大学に突きつけている。「学部教育についての最大の課題は質の向上であり・・・」、17それだけではなく、「各大学の状況に応じた厳格な成績評価の仕組みを整備していくことが必要だ」。18目的意識もはっきりせず、学力もますます低下している学生に対して、大学側は今まで以上に厳しくて正しい評価をすることが求められている。おびただしい数の留年生を出さないためには、教員は研究を断念してでも、教育と学生指導に専念するくらいの覚悟が必要になるだろう。いわゆる「名門大学」ではない本学は『答申』の要請をどう考えるべきだろうか。
大学での研究については下のようなかなり辛い見方もある。「大学は巨大で、変化するのに時間のかかる組織である。大多数の教員は官僚思考の持ち主だが、素晴らしい才能の持ち主も多少はいる。どちらも自分の城を作り、金と権力の奪い合いに明け暮れている。彼らの研究題目には全く無意味なものもあれば、極めて重要なものもある。奇妙な玉石混淆だ。研究の大半は時間の無駄遣いだが、このような『大学』の概念が何とかなり立つほど成功している研究もないわけではない」。19
これは名門の理工系の大学での研究について書かれたものと推測するが、文化系の大学でも同じことが言えそうだ。日本私立学校振興・共済事業団が毎年出している『今日の私学財政』によれば、1991年の私立大学法人数は314で、1998年にはそれが371になって、18.2%の増だ。それと同じように、専任教員数は71,342人から82,657人に(15.9%)増えた。国立大学の専任教員数と合わせれば、現在「教育よりも研究を重視する考え方」に捕らわれているだろう教員数は十数万人にも昇る。戦前の数字に比べれば十数倍だろうか。世界を「あっと」と驚かすような質の良い研究もないわけではないと思うが、「中途半端」と言わざるを得ないものも数多くあるだろう。
名門大学ではないのだから、文教大学の教員は研究を止めた方がいいと、私が考えているわけではないのは言うまでもない。研究は教員が自分を磨くために必要不可欠だ。新しい言語を習得したり、関連分野を探検したり、中途半端な論文に必ずしもつながらない「研究」もあるだろう。結論としては、授業に直接に反映できる研究がこれからは優先されるべきではないかと思う。学会を轟かせるような研究をなさっていて、それをいちばん大事だと考える教員は、その研究を十二分に支援できる組織に移られるのが賢明かも知れない。

When anyone asked him where he came from, he said, "I am a citizen of the world."20

大学としての文教大学は何を主たる目標として存続していくべきか、改めて考えてみる必要がある。免許や資格を持った専門家を育てることだろうか。就職戦線で勝ちをおさめることのできる人材の養成をすることだろうか。学生の問題意識を高め、好奇心を刺激し、知識欲を広げる動機を与えることだろうか。高い志を持ち国を思う(憂う)市民・国民を世に送り出すことだろうか。品性を陶冶することだろうか。出口、つまり就職、の大切さは誰もが認めていることだが、大学の責務はそれだけではないはずだ。
20世紀の歴史、特にその前半を振り返ってみると、決して日本だけには限らないけれども、民主主義というものの壊れ安さが目立つ。成熟した民主主義を育てるには大変な時間と努力が必要だ。政治に責任の持てる政治家を育てる必要もあれば、同じく責任の持てる有権者も育てなければならない。21今後の「全入時代」の大学の教養教育の主たる目的として、高い自覚と、問題意識をもった市民の養成を目指してももいいのではないかと思う。
金融業界では、借金の取り立てを命じられ、債務者に臓器の叩き売りを勧めた若者もいれば、「不良債権を隠せ」と頭取たちに言われ、法をねじ曲げた銀行員も大勢いる。日本の「誇り高き」警察の信用失墜には眼を覆いたくなる。麻薬の売買、恐喝、猥褻行為、組織ぐるみの隠蔽工作、嘘八百の記者会見、国民を平気で裏切るなど、そのプロ意識のなさはいうまでもないが、原因は何よりも人間としての品性のなさだと思う。製薬会社の幹部と厚生省の役人が結託して、「危険」だと承知しながら、AIDSウィルスに侵されている可能性の高い輸入血液製剤を加熱処理せずに材料として使って、血友病患者が使用する血液製品を製造・販売する。この金儲け第一主義に基づく、非人間的な行為によって、二千人ほどの血友病患者がAIDSに感染し、毎年その人たちの数多くが亡くなっている。このような専門家の養成課程に問題はなかったのだろうか。
ニューマンの時代にも「社会のニーズ」を論ずる必要があった。彼の結論は以下の通り。
「学問のどの分野を極めようと思っても、その分野の研究をする教授はその研究に全力を注いだ方がいいということは疑う余地もない。しかし、こうした思考力の集中は(限られた)分野の研究促進を成功させるかもしれないが、(その研究)に関わる人間個人は(人間としては)後退する。(その研究をすることにより)研究者個人に得るところが生じれば、それとほぼ同量の損失が研究者の属する共同体に生じる」。
「共同体が各個人に、その人の職業執行の義務を果たすことのほかに、要求していることがある。社会全体とその構成員との間に惜しみないやりとりがうまく成立していないと、人間性のもつ欠点が顔を出し、人は自分のためだけのケチな利益を追求したり、自分には関係のない事柄のすべてを見くびったり、自分にしか通用しない考えを、当てはめられるはずもないところにまで当てはめようとしたりする。つまり、人々はつながりを欠くようになり、お互いをのけ者にし、排除しあうバラバラの個体として行動するようになる」。22 この指摘が正しいとすれば、「社会のニーズ」とされている就職戦線で勝てる人材の養成を大学教育の主たる目的として追求することは、社会を駄目にすることにつながるだろう。
現在の大学は市場経済の道具にされつつある。日本ではこの「社会のニーズ」という曖昧な表現を盾にして、大学を職業訓練所のようなところにする傾向がこの「社会のニーズ」論によく見え隠れしている。社会のニーズとは何か。政治、経済、社会、法律などを広く視野におさめて、楽天的にも悲観的にもならないで、冷静な判断力を備えている国民を一人でも多く育てること。独りよがりの既得権にしがみついたりせず、腐った組織の論理やしきたりにも流されないような、充分に陶冶された品性の持ち主を世に送る。そういうことを第一に考えなければ、「立正の精神」も「人間愛の精神」も育てない。

"A liberal education is at the heart of a civil society, and at the heart of a liberal education is the act of teaching."23

教養教育やカリキュラム作成をめぐる議論は、この20年近くの間にアメリカでかなり加熱してきた。問題にされているのは、異文化を理解するに当たって、優劣を考えるべきかどうか、ということ。また、西洋文明はどう位置づけるべきか、という問題。カリキュラムで言えば、アメリカの大学はアメリカ人の学生を、アメリカ人の先祖が後世に伝えるべく残してくれた権威のある著作物に触れさせないで卒業させていいのか。また、異文化の権威ある著作物に触れさせることなく、学生を「世界人」に育て上げることは可能なのか。この「異文化」の定義の幅も広く、アメリカの黒人文化、フェミニズムを中心とする女性の文化、同性愛者の文化も含まれる。前者は西洋人の従来共有してきた両啓蒙時代24の価値観の伝承を狙う、いわゆる保守派の考えで、後者は一般にラディカルな立場とされ、「マルチカルチュラリズム」と呼ばれている。
シカゴ大学で長年教鞭を執っていたアラン・ブルーム教授は1987年にアメリカの大学教育に対して強烈な批判を展開して論戦を仕掛けた。そのベストセラーとなった著書の題名は『アメリカ(人)の思考(力)の終焉:民主主義を見捨てて、学生の魂を貧窮させた大学教育』。大学に入ってくる学生の共通点は、ほぼ全員がの相対的価値観の持ち主で、普遍的な価値観の存在を否定していると、ブルーム教授は分析している。25そういう学生たちに、「君がインドに大英帝国の官僚として赴任していると想像しなさい。現地人の男が亡くなったと仮定し、その葬式で生き残った妻も一緒に火葬に付すという現地人たちの儀式を自分が許可すると思うか」と聞く。すると学生たちは沈黙するか、あるいは、そもそも英国人はそこにいるべきではなかった、と答えるのが常だと教授は言う。26ブルーム教授が指摘している現象が問題であることは否定できないが、それが果たして大学教育のせいであるかどうか、「マルチカルチュラリズム」の「大罪」であるかどうかということは極めて疑わしい。27
同じシカゴ大学の教授でブルーム教授とは対照的な考えを主張している人にマルタ・ヌッスバウム教授がいる。この人は、ソクラテス式問答に基づいた、「マルチカルチュラリズム」を積極的に取り入れる、広い意味での異文化理解を教養教育の柱にすることを提言している。その著書の題名は、『人間性(仁)の洗練:教養教育改革の古典的な弁明』。28ヌッスバウム教授は「人間性を洗練するのに、何よりも必要なのは、以下の三つの能力だ。まず、自分と自分が生まれ育った文化や伝統を批評的に吟味する能力、つまり、ソクラテスの名言を借りれば、「よく吟味された人生を送る」能力だ。・・・このような検討はしばしば伝統批判につながる。「若者を堕落させている」と訴えられ、弁明を余儀なくされたソクラテス自身もこれを痛感していた。・・・
「人間性を磨こうとする市民には更に、自分を単にひとつの限られた場所やグループの一員として見なすのではなく、これがいちばん重要なことなのだが、他の全ての人間とのつながりを認識しかつそれらに関心を持つ能力が必要になる。・・・
「以上の二つの能力と深い関連を持つ、第三の能力は物語的想像力と称していいだろう。これは自分と違った人の立場に立って考え、その人の物語の聡明な読者になって、その立場にいる人の感情・希望・願望を理解する能力だ。物語的想像力は批判的精神を欠くものではない。・・・
「聡明な市民には以上の三つの能力のほかにも必要なものがある。極めて重要なのは科学を理解する力だ。・・・経済学の理解も同様。・・・
「私自身(ヌッスバウム教授)は今までの人生で、古代ギリシア人やローマ人の論争とその方法の研究をすることで上のような考え方を発見した。こういう事柄に関する古代ギリシアとローマの人たちの考え方は現在われわれの間で展開されている教養教育論争に計り知れないほど貴重なものだ。・・・しかしこれらの考え方はさまざまに異なる場所や文化的伝統の中から生まれてきたものである。これらに近い思想はインドの文化にも、アフリカの文化にも、南米の文化にも、中国文化にも発見できる。多岐にわたる教養を身につけることにより取り除くことのできる誤りの一つは、自分の生まれ育った文化・伝統だけが自己批評を可能にするものであり、普遍的に通用するものであるという偏見である」。29
4年制の大学でも資格取得を重用視する専門教育は必要だが、卒業に必要な単位数の半分近くを、建学の精神に則って、今後入学してくる学生の学力に合った自文化・異文化理解と国語・外国語教育に当てて、「世界の市民」・責任の持てる有権者を育てる一貫性のあるプログラムを本学の特徴の一つにしたらいかがだろうか。少なくとも、何の根拠もなく日本文化だけが「ユニーク」であるとする発想、そしてそういう独断によってものごとに優劣を付けるような発想を減らす手伝いをすべきではないだろうか。次のような発言が少なくなっていく事を目標に努力したいものである。「日本人ほど自然から多くのことを学び、そして感謝しながら素晴らしい文化を学んできた国民はいないだろう」。30
日本の名著を読ませる。異文化の名著を読む手伝いをする。そういう努力によって、教養教育の目的の主要な部分は達成できないだろうか。この方法を実践しているアメリカの聖ヨハネ大学31の信条は参考になる。「リベラル教育32とは、われわれの文明を生んだ最高水準の精神の持ち主たちが著した書物といつも直接に触れあうこと、また翻訳、数学的証明、音楽分析、実験的科学などにおける厳格な実習を行うことにある。その目的を達成するために、当大学は四年間の全科目必修プログラムを提供する。学生はわれわれが住んでいるこの世界を作り上げる核となった書物を読み、議論し、論文を書く」。この年になっても、私はまだ昔に見た夢を実現したいと考えている。本学での4年間の教養教育を通じて学生の人間作りを手伝うことができたら、教員としての残りの人生に張り合いを感じることができるのではなかろうか。高望みだろうか。

注:

1 Lucinda Francs,New York Times 30 August 1975
2 文部省大学審議会「21世紀の大学像と今後の改革方策について ―競争的環境の中で個性が輝く大学―(『答申』)(平成10年10月26日・大学審議会)」(以下『答申』)。以下の引用も同『答申』から。 http://www.monbu.go.jp/singi/daigaku/00000303/参照。
3 John Henry Newman, The Idea of a University, Frank M. Turner, ed., (Yale University Press, 1996), p.3.

4 Ibid.
5 『答申』。
6 Newman, op. cit., p. 99.

7 George M. Marsden, "Theology and the University: Newman's Idea and Current Realities," Newman,op. cit., pp. 303-4 参照。
8 問18「あなたが不満、または改善してほしいと思う授業があったら次のなかから選んでください(いくつ選んでも構いません)」。学部によってばらつきはあるが、共通教養科目、学部教養科目、外国語科目に対する不満は目立つ。
9 問25「あなたは本学のカリキュラム編成に満足していますか」。ここも学部によってばらつきはある。また、分析し難いところもある。でも、よくわからない、少し不満、或いは大いに不満だと答える学生を少しでも減らす努力をすべきだろう。
10 問26「本学のカリキュラムで不満がある者は次の内どれですか(いくつ選んでも構いません)」。問18の回答を細かく裏付けるように見える。
11 『答申』。
12 Newman, op. cit. pp. 5-6.
13 『答申』。
14 女子の場合は43.3%の減。文教女子短期大学部の現状を理解し易くする数字だ。
15 梶田叡一著『新しい大学教育を創る』(有斐閣選書, 2000),pp, 11-12. 出典:『文部時報』No.1477, 1999.9.
16 「子曰、必也正名乎」。(『論語』子路.3)
17 『答申』。
18 Ibid.
19 David K. Every, "iGeek: An introduction to Unix," MacWeek.com. Thursday, August 17, 2000.
20 Diogenes Laertius, Life of Diogenes the Cynic. Quoted in Martha C. Nussbaum, Cultivating Humanity: A Classical Defense of Reform in Liberal Education. (Harvard University Press, 1997), p. 50.
21 2000年6月25日に実施された総選挙での群馬第5区の結果を見ると唖然とさせられる。「病気で前首相が倒れ、英国から急きょ帰国しての立候補だった」小渕優子氏(26)は163,991票(76.4%)を獲得して圧勝した。この当選は特に日本流民主主義の根幹に関わる問題の一つである「二世議員」にスポットを当てた。立派な二世議員もいないわけではないだろうが、日本の色々な場所で目撃されるこのような世襲制は、近頃この国のあらゆる分野で続けざまに露呈され始めている数々の失態の大きな原因のひとつであることは間違いない。毎日新聞、2000年6月26日(月)、pp.15-16.
22 Newman, op. cit., p. 120,quoting Edward Copleston, Reply to the Calumnies of the Edinburgh Reviewagainst Oxford (Oxford: Printed for the author, 1810), pp. 107-112.
23 A Bartlett Giamatti, President,Yale University. "The American Teacher," Harper's July, 1980.
24 ソクラテス・プラトン・アリストテレスを中心とする古代ギリシア文明と17世紀・18世紀の科学思想や哲学を中心とする文明。
25 Alan Bloom, The Closing of the American Mind: How Higher Education Has Failed Democracy and Impoverished the Souls of Today's Students. (Simon and Schuster, 1987), p. 23.
26 Ibid., p. 26.
27 Ibid., cf. p. 132-137.例えば、ここでブルーム教授は現代社会に於けるエロスの貧弱さを嘆いている。彼が理想としているのは、小説に描かれた18世紀のフランスの貴族社会のエロスだが、これはまったく現実離れしていると言わざるを得ない。
28 Martha C. Nussbaum, op.cit.
29 Ibid., pp. 9-11.
30 横笛奏者の横田年昭「伊豆ぐらし断章」『JOIN』2000年8・9月号、p.15.「「足袋の話に戻るが、親指をはなした形は日本独特なものである。谷合や山間に済むことがある日本人にとって、崖や坂道に強い鹿や猪の足の形から、学んだのだと考えられる」。の文の続き。
31 http://www.sjca.edu/main.html
32 「専門科目に対して一般的知識を与え、広く知的能力を発展させる目的の語学、自然科学、哲学、歴史、芸術、社会科学などを指す」。研究社『新英和大辞典』五版。


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