『教育研究所紀要第9号』文教大学付属教育研究所2000年発行

生涯学習における「子どもと大人の参画学習」の理念について

五十嵐 牧 子

(文教大学付属教育研究所客員研究員) 

要  旨

子どもと大人が共に行っている学習や活動、つまり「子どもと大人の参画学習」が、今後の生涯学習社会における様々な分野で、重要な意味を持つものと考えられる。また、そのような学習や活動が徐々に増えつつある。この論稿では、この「参画」の意義を明らかにするとともに、その重要性が、生涯学習の理念の中に折り込まれていることを明らかにする。その上で、これらの活動を進めていく上での課題と、今後の方向性を検討したい。

1 「参画」の考え方について
−なぜ、「参画」か?
「参画」という言葉は、国語辞書によると、「事業などの計画の相談に加わること」と記載されている。単なる「参加」という場合には、「計画され、用意された活動そのものにだけ加わること」という意味合いで使われることが多いのに対して、「参画」は、「その活動の計画・立案段階から、活動に加わっていること」という意味で捉えることができる。この言葉は、「男女共同参画社会」などというように、政策的にも幅広く使われているが、この論稿では、特に子どもと大人が、様々な場において共同で行っている学習活動の場面について考えてみたい。つまり、「子どもと大人の参画学習」である。
「学習活動」というと、その場面は学校の場を考えてしまいがちであるが、ここでは、学校教育だけでなく、社会教育や児童館などでの活動、また日常での遊びの場面など、幅広く捉えてみたい。なお、ここでいう「子ども」とは、以下の実践事例の調査に基づけば、おおむね小・中・高校生ということになるが、「子ども−大人」を「年少者−年長者」として、幅広く捉えるものである。
現在は、子どもも大人も、他者との様々なかかわりを経験することが少なくなり、次第に人間関係が希薄化していると言われている。そのため、人と人との信頼感が欠如し、その結果、様々な教育問題と言われる現象が発生すると考えられる。このような現状の中で、「子どもと大人が共同で行っていく活動」、つまり「子どもと大人の参画」によって成り立っていく活動が、今後の生涯学習社会においても、重要な意味を持つものと考えている。

著者は、児童館や遊び場の4ヶ所について、その実践事例の調査を行った。(1)そして、それぞれの実践事例を「子どもと大人のかかわりの在り方」という視点から捉え直してみた。その際、まず「子どもと大人のかかわりの在り方」として、次の4点を設定している。
第一に、〈居場所の提供〉である。大人が子どもに、彼らが安心して居られる場所を提供することである。この関係においては、大人は子ども自身の世界を大切にし、そこに立ち入らず、そして、「子どもだけの世界」を守ってあげよう、確保してあげよう、とする姿勢で接することとなる。ここで言う「子どもだけの世界」は、かつてのピアグループと同様の性質を持っていると考えられる。同世代の仲間との様々なかかわりから、子どもたちは成長の糧を得るものである。あるいは、子どもの「一人遊び」の空間・時間を認めることも、これに入るだろう。子どもたちは、「一人遊び」から「自分とのかかわり」を見つけていくものである。
第二に、〈知的好奇心の刺激〉である。大人が子どもに働きかけ、子どもが新たな活動に入るきっかけを与えることである。世の中の様々な出来事や事象を、大人が子どもに教えることによって、彼らは自分自身の世界を広げていけるのである。例えば、“学校”の主な営みは、これに入ると考えられる。
第三に、〈子ども活動のサポート〉である。子どもが自ら何かをしようとした時に、子どもの意思や個性や考え方を最大限に尊重しながら、それに応えることである。第一と第二の在り方は、それぞれ「大人が〜」というように「大人」が主語であったのに対し、第三は、「子ども」が主語になる。子どもが自ら行うことに、大人が応え、サポートしていくことによって、子どもたちは、さらに自分の世界を広げていくことができる。
第四は、〈子どもと大人の共同作業〉である。子どもと大人が、お互いに対等な意識で付き合いながら、一緒に何かをやることである。つまり、主語は「子どもと大人」である。ここでは、世代間の差を越えて、お互いに一人の人間同士として、その人間性や個性を認め合うことが必要になる。この「世代の差を越える」ことは、子どもは子どもなりに、大人は大人なりに難しいことである。なぜなら、大人は大人なりに「子どもへ何かを教えたい」という意識があり、子どもは子どもなりに「大人から何かを教わりたい」という意識が多少ともあるからである。その意識が、場合によっては「世代間の差を越える」ことを難しくしてしまいがちである。
以上の4つのかかわり方は、〈個人対個人〉の場合もあれば、〈集団対個人〉、〈集団対集団〉の場合もあり得る。また、表面的に外から観察で見ることのできるかかわり方と、反対に外からは見えない個人の意識のレベルでのかかわり方とがあるだろう。
そして、様々な空間(学校・地域・家庭・メディアによって生み出された空間など)において、これらの4つのかかわり方が、その場の特徴によって選択されており、子どもも大人も、それらの中で自分の生活世界をつくっているのである。あるいは、ある1つの活動の中においても、これらの4つのかかわり方が、意識的・無意識的に選択されながら成り立っており、その中で子どもも大人も様々な体験・経験をしているのである。

そして、これらの4つの視点から、それぞれ調査した実践事例を捉え直し、その実践の特徴を導き出してみた。子どもと大人のかかわりの在り方は、その地域や施設の性格によって、それぞれ独自の特徴を持っているものである。また、それらの活動を支えているシステムも、各地域の地域性や歴史、財政の事情等によって、様々な様相を呈していた。
例えば、@中高生の運営委員会を組織して、その委員会を中心に施設の諸活動を作り上げている児童館。A大人の積極的なボランティア活動が、その施設の諸活動を支えている児童センター。B行政の積極的な財政的支援が、その施設の諸活動の物質両面について支えている児童館。C地域の市民・住民運動が中心となって、活動を支えている遊び場、などである。
このように、それぞれの地域によって、活動を支えているシステムは様々である。しかし、共通して、それぞれの活動とそれを支えているシステムの根底にあるのは、住民・施設職員・行政の「継続しようとする意欲」であるように感じられた。“子どもと大人のかかわり”を可能にしているシステムが、それなりの歴史を展開しながらも、継続的に作り上げられてきている。そして、今後もそれを「継続」していこうとするエネルギーは、とても大きいものであった。
そして、もう一つ、共通していることは、それぞれの活動に、子どもも大人も活動に「参画」している、という点があげられる。つまり、それぞれの人々が、プロジェクト(活動)に単に「参加」するのではなく、自らその運営や企画にかかわりながら、「参画」していっているのである。このことは、活動を継続していく際の根本であり、目標ともなっている。また、この「参画」を進めていく上での共通点を「子どもと大人のかかわり」の視点から考えてみると、前述の4つのかかわり方のうち〈子どもと大人の共同作業〉が、諸活動の中で重要な位置を占めていることが分かった。
このように、子どもと大人が共に「参画」していく活動は、今後の生涯学習社会における子どもと大人の学習活動にとって、重要な示唆を与えるものと考えられる。
では、このように人が活動に参画することは、どのような意義があるのだろうか。以下で、その意義を明確にしていきたい。

2 「参画」の意義
(1)「子どもの参画」の意義
−ロジャー・ハートの「子どもの参画」
ここでは、参画の意義をより明確にするために、早くから「子どもの参画」の重要性に焦点を当て、現在、この分野で世界的に実践活動をしているロジャー・ハート(Roger A.Hart)の考え方を取り上げて検討したい。ロジャー・ハートは、「参画」(participation)という言葉について、次のように説明している。
「人の生命や人間が暮らすコミュニティーの生活に影響を与える意思決定を共有するプロセス全般を指す。」(the process of sharing decisions which affect one’s life and the life of the community in which one lives)(2)
さらに、ロジャー・ハートの考え方をもとにすると、「参画」の意義は次の三点にまとめられると考えられる。(3)
第一に、参画する時、「主体的に生きている」ことが、その前提となっていることである。ロジャー・ハートは、「“何に”参画するのか?」について、「まず、子ども自身の人生への参画。つまり、子どもが自分の生活を主導することがまず、第一。」と述べている。そして、続けて「そして家庭内への参画、学校への参画、社会への参画、地方自治体への子どもの発言、またより規模の大きい社会問題への発言。」と述べている。つまり、「参画」の思想は、その根本に「自分自身への人生への参画=主体的に生きる」ことが条件となっているのである。
また、「“どのように”参画するか?」という点について、ロジャー・ハートは、子どもの社会参画の様々な形態を8つの段階に分け、表にしている。(「参画のはしご」〈The ladder of children’s participation〉)この表は、上位の五段を「参画」(Degrees of participation)の段階、下位の三段を「非参画」(Non‐participation)としている。そして、「非参画」が「参画」となるための必要条件として、次の4つをあげている。

1.子どもたちが、プロジェクト(活動)の主旨を理解していること。
2.子どもたちが、誰が、なぜ、自分の役割に関する決定をしたのかを知っていること。
3.子どもたちが有意義な役割を持っていること。
4.子どもたちが、プロジェクトの趣旨を理解した上で、「参画」するかしないかを、子ども自らが決めること。

この4つが「参画」のための必要条件であるとすれば、すなわちこの4つは子どもの主体性を保障する(育成する)ための必要条件であると考えられる。

第二に、参画することのメリットについてである。ロジャー・ハートは「メリットの効果は、間接的・長期的に現れるものなので、単純に数量で図ることはできない」とした上で、次の二点をあげている。一つは、個人が有能で自信に満ちた社会の構成要員に成長することを助けること。もう一つは、コミュニティーの組織や機能が改善されることである。
つまり、参画することが、個人の社会へ適応能力や責任感の発達につながり、ひいては自己実現に結びつくのである。さらに、組織の機能が改善され、社会の民主化につながると考えられる。そして、これらのプロセスに必要なものとして、他者との対等なかかわり合いや共同作業、他者との対話、協力、交渉、相互合意、などというコミュニケーションが必要になってくる。特に「子どもの参画」を考える場合には、「子どもと大人のかかわり合い」が重要なポイントになると考えられる。

第三に、参画の計画(プロジェクト)の仕方についてである。ロジャー・ハートは、この点に関して「どんなプロジェクトでも最良の戦力とか、テクニックなどというものは存在せず、多様性こそが重要。様々な人間が、様々な段階において、様々な度合いで、様々なかかわり合い方ができるようなプロジェクトを企画すべき。」と述べている。地域によって、また活動の場面に応じて、様々な参画の在り様が考えられるだろう。しかし、いずれの場合においても、重要な原則は「選択( choice)」があることなのである。この「選択」するということは、主体的な活動にもつながるものである。従って、大人が用意、計画するべきものは、子どもたちが、多様なプロジェクトの中で、あるいは同じプロジェクトの中で、多様な段階の活動を経験できる状態なのである。

(2) 生涯教育の理念と「参画」
前述した「参画」の意義の三点は、ポール・ラングラン(Paul.Lengrand)が提唱した生涯教育の理念とほぼ共通するものがあると考えられる。
第一に、生涯教育の理念は、教える側(活動を用意し、与える側)からのみで発想されていた「教育」の概念に転換をもたらしたものである。つまり、学ぶ側から発想される教育の在り方を構想したものである。学校教育をはじめ、教育全体系を改革可能とする理念であった。このような、学ぶ側から発想された学習は、その学ぶ者(活動する側)が、主体的に学んでいく(活動していく、生きていく)ということであり、学習者の主体性が重要視される。
行政の生涯学習政策に対しては、学校以外での子どもの生活も「教育」で管理してしまうのか、という見方もある。しかし、生涯教育の考え方は、管理的な発想からくる「教育」の概念を転換するものであることを考えれば、そのような見方はしてはならないだろう。生涯教育は、急激な社会変化に対応するために学習の必要性が高まってきただけでなく、人間の生き方を考え直そうとしたもの、とも言えるのである。そして、ここでは、人間を教育を受ける「客体」としてではなく、学習する「主体」として捉えている。つまり、子どもとのかかわりにおいても、子どもを「大人から操作される客体」としてではなく、活動する「主体」として捉えること、そして大人自身も主体者となることが必要なのである。
第二に、子どもと大人のかかわりについてである。ポール・ラングランは、生涯教育が世代間のギャップを直すのに役立つものとしており、次のように述べている。
「もし年長者(だれであれ)が年少者と対等の関係に自分をおくならば、もしかれの唯一の望みが年少者とともに協同して知識の追求に当たろうとするなら、すべてのコミュニケーションは、可能となります。」(4)
つまり、子どもも大人も含め、他者との対等なかかわり合いや、そこでのコミュニケーションを、社会性の不可欠な基礎として重要視しているのである。そして、特に年長者と年少者のかかわりについては、年長者から年少者への知識や経験の伝達の必要性を肯定しながらも、その方法が「権威主義的な流儀」で行われることを否定している。そして、「科学的な方法の採用と、判断と意見の相対性を真摯で率直に受け入れること」による、新しい真のコミュニケーションを重視している。
第三に、以上の考え方に基づき、生涯教育は、学ぶ(活動する)者に、一生を通じて多様な学習機会を提供すること、またそれを可能、促進するために、様々な教育資源(人材、教材、施設、情報等)のネットワーク化が求められることである。学校教育や社会教育といった枠組みを超えて、それぞれの組織や実践者がコミュニケーションを拡大するためのネットワークが必要になる。つまり、多様な活動を推進できる体制を整えていくことである。

このように、生涯教育・生涯学習の考え方の中には、「参画」の重要性が折り込まれているのである。ここでは、あくまで「個人」による主体的な活動が、すべての出発点になっている。そして、「子どもと子ども」・「大人と大人」・「子どもと大人」といった様々なかかわり、コミュニケーションが、自己を成長させていく重要なプロセスとなっている。中でも、「子どもと大人」というような世代間の差のある場合は、一方的で権威的なかかわりではなく、対等な立場や意識での相互作用が、個々人の成長を促す上で重要となるのである。なぜなら、そこから、自分の存在が相手によって認められることによる安心感や信頼感が生まれ、それが自己のアイデンティティーをより強いものにしていくからであろう。
このようなことから、「個々人の主体性を保障した上で、子どもも大人も含めた多様なかかわり方を経験できる多様な場を、共に創出していく」ことが、より重要になると考えられる。

3 課題
しかし、具体的に「参画」や「生涯学習」の考え方を基本として、多様な人々のかかわり合いの機会を創出したり、活動の中に多様なかかわり合いを生み出していくことは、簡単ではない。この過程における課題をいくつかあげてみたい。

(1)個々人の多様性を許容できるシステム
第一に、「参画」の考え方への理解不足があげられる。どこの場においても、ロジャー・ハートのいう「非参画」の段階、つまり、単に活動に「参加」している、といった活動が多く、そこから「参画」の段階へ進むことが難しい。それは、人々が一緒に活動しながら、参画していく時に生じる難しさの一つとなっている。「参画」を継続していくためには、その活動を支えている人々すべてが、「参画」の考え方を理解し、かつ主体的に活動にかかわっていかなければならない。このことは、活動するものが子どもであれ大人であれ、変わりはないと言える。しかし、個々人、あるいは組織体が主体的に作り出していくものは、それぞれに異なったものであり、その個々人の多様性を許容できる人々の意識や活動、システムが必要となってくるのである。しかも、個々人から発せられる考え方や、それに基づいた活動・学習を許容することが、逆に組織やシステムによって、個々人を管理することにつながってはならない。この厳しさや困難さが、「非参画」から「参画」段階へ進むことを躊躇させていると考えられる。そして、「参画」の考え方を基本とした、多様な機会や場を、利用者が主体的に作り上 げていくことをできにくくしてしまう。あるいは、せっかく活動が作り上げられても、その継続が困難になってしまうのである。
それでは、「個々人の多様性を許容できるシステム」が、個々人を管理することにつながらないためには、どうしたらよいのだろうか。
例えば、ポール・ラングランは、生涯教育の教育方法について、「教育の過程が個別化されるようになっても、このことは集団の目標との対立につながらない」。なぜなら、「個人の努力は、それが集団の中であろうと、社会的団体のなかであろうと、すべての人の努力によって誘発され、支えられないと十分に実を結ぶことができない」(5)からと述べている。
また、生涯教育の考え方が生まれた理由として、「人間の複雑さ、多くの矛盾、理性と非理性、寛大さと利己性との混じり合い」と「これらは、どちらの立場に立とうが、各個人の性格にかかわっている」ことに、人々が気づいた、という点をあげている。(6)人々の異なる気質・観念・見解について、集団的側面に注意を集中すると「個人は、これらの巨大な型や構造物の中に吸収されてしまう」。しかし、生涯教育の考え方は、「個別的な形態での人間的経験を主に意識する」という。そして「個人に特有の、彼自身と世界との関係を考え、感じ取り結ぶやり方」、「彼自身に内・外で出会う問題への、彼自身特有の取り組み方と解決法」に関心を向けるものである。つまり、「集団」の面よりも、「個人」の方に重きを置き、そこを出発点にしているのである。
ただ、以上のようなシステムが機能するためには、「個人」に重きを置いているがゆえに、個々人が主体的でなければならない。特に、子どもと大人のかかわりにおいては、この立場に立って、お互いの多様性を許容することが難しいのである。

(2)子どもと大人のかかわり
上記の難しさは、「子どもと大人の参画学習」、つまり世代間の差のある参画の場合、同世代同士の参画と異なる点があることに注目しなければならない。生涯学習やそれに基づく参画の活動を実践していく時、そこでは、他者とのコミュニケーションが重要視されなければならないことは、前述の通りである。そして、そのコミュニケーションの中でも、お互いに対等な立場や意識で共に活動を行っていくことが、より重視されている。しかし、特に子どもと大人のかかわりにおいては、このような「対等な立場や意識」になることに、大人も子どももおおよそ慣れていないことが、参画を推進していく際、もう一つの問題点となっているのである。
その原因の一つは、大人が子どもに接する時、大人は子どもを「保護する(管理する)」といったかかわりの持ち方が多いということであろう。これは、「教育」の考え方における、教師と子どものコミュニケーションやかかわりの在り方についての問題とも関係する。「子どもの発見」以降、特に学校教育においては、子どもを保護する存在として扱ってきた歴史がある。児童の不当な就労などが社会問題であった時代には、「子どもを子どもとして保護する」という視点は重要な意味を持つものであった。しかし、時代とともにそれが子どもを「保護する」ことから、子どもを一方的に「管理する」という要素が、教育活動の多くを占めるようになってきた。そして、それが社会状況の変化の中で、無意識のうちに、我々の「教育」に対する価値観を作り上げてきたのである。その価値観は、大人から子どもへの、一方的で相互のコミュニケーションが薄い教育活動を生み出してきた。そして、それらの教育活動が、子どもたちの自尊心や自己決定能力を育むことにつながらなかったと言える。それらの反省をもとに作られたのが「児童の権利に関する条約」であり、あるいは生涯教育は、まさにこの価値観 を転換させ得る考え方であった。このような動向のおかげで、現在では「子どもと大人の対等な関係」という視点が、子どもと大人が共に行っている活動の様々な分野において、見直されてきていることは確かである。

4 今後の方向性
今後、このような実践は、様々な分野において多くなるであろうし、また、その必要性は高まるだろう。
しかし、もしそれらの学習や活動が、希薄化した人間関係を解消し、結果的に様々な教育問題を解決する方向へ導かれないとすれば、その実践は、あまり意味のないものになってしまう。子どもと大人が共に活動するとき、そこでの「対等な立場や意識」に「慣れていない」と前述した。しかし、果たして「慣れていない」だけで、多くの実践を経験すれば「慣れる」のだろうか。確かに、多くの実践の積み重ねが、その方向性を確実なものにしていくものである。ただ、それらの実践の中で、大人の子どもに対する役割や責任を、大人が自覚している必要もあると思われる。そうでなければ、「対等な立場や意識」が、大人から子どもへの責任の押し付けや、行き過ぎた放任主義に陥ってしまう恐れがある。
「児童の権利に関する条約」の「子どもの権利」は、大人社会によって承認されて、はじめてその権利性が制度化されることからも分かるように、子どもの権利は、大人の意思によって規定されるとも言える。
また、ポール・ラングランも、若者と大人の差異について、「子どもは、両親や学校当局に体現される大人の世界に服従させられている」と述べている。そして、世代間のコミュニケーションを重視しながらも、「理解や適応ややり直しや想像といった相互のコミュニケーションを可能にする」のは、年長者のつとめであり、その責任がある、と述べている。(7)
「男女」の参画のように、同世代との間の参画と、異世代との間の参画との違いは、この役割や責任であると考えられる。ちなみに、平成11年に成立した「男女共同参画社会基本法」から「参画」することの意味を考えてみると、その根本として次の点が考えられている。

・互いに人権を尊重すること。
・相互に協力し、かつ、責任を分かち合うこと。
・社会の対等な構成員として、自らの意思によって、個人としての能力を発揮しながら、社会のあらゆる分野における活動・方針の立案及び決定に共同して参画できること。
・均等に制度的、経済的、社会的及び文化的利益を享受すること。
・共に責任を担うべき社会を形成すること。

以上の点は、人々が参画し、社会をつくっていく際の、必要条件と捉えることができる。この「男女共同参画社会基本法」における「参画」の考え方のうち、「人権の尊重」や「個々人の能力を発揮できる機会があること」、そして「その利益を享受すること」については、「子どもと大人の参画」にも当てはまる。しかし、「その責任を分かち合うこと」に関しては、子どもは大人と同等の責任を取ることはできないと思われる。つまり、その“責任の重さ”に違いがあるのである。
「自らの意思によって、個人としての能力を発揮する」場合、子どもは、その経験が大人ほどになく、従って、意思を形作ることや自己決定することが難しい。また、自己アイデンティティーを確立するため、日々、成長・発達を遂げている子どもたちに対しては、一方で変化の激しい大人社会にどう適応し、社会化させていくか、ということに対する責任や役割も、大人にはあるように思われる。
ただ、「子どもと大人の参画」は、このような“責任の重さ”に違いはあっても、そこでの共通体験により、“責任を取る”ことに関しては同じである。大人は、自らもかつてその発達段階を超え、また生涯を通じて成長し続けている存在である。従って、「子どもと大人の参画」の共通体験によって、自らもその活動に主体的に参画し、成長していくプロセスを経ることこそが、ある部分で大人社会に規定されている子どもたちに対する、責任や役割であるとも言えるのではないだろうか。
情報化社会・消費社会を背景として、今日では「子ども期の喪失」、「大人と子どもの境界の消失」とも言われている。しかし、これは、“かつてのような地域共同体において大人と一緒に家庭や地域の仕事に参加している”という意味ものとは違っている。このような社会状況の中で、大人も子どもも自己の役割や存在価値をしっかりと受け止めて、社会に参画しながら、共に成長・発達していける環境を、大人が整えていく責任があるのではないだろうか。

(1)五十嵐牧子『子どもの主体性を育成する活動とコミュニティーシステム−子どもと大人のかかわりの視点から』文教大学大学院人間科学研究科生涯学習学専攻修士論文、2000
(2)Roger A.Hart, Children’s Participation: From Tokenism to Citizenship, Innocenti Essays No.4,UNISEF International Development Center, Florence, 1992, p.5
(3)以下に続くRoger A.Hartの考え方に関しては、主に(2)と次の文献を参考にした。
Roger A.Hart, Children’s Participation:
The theory and practice of involving young citizens in community development and environmental care, UNISEF & Earthscan Pablications Ltd, 1997
(4)ポール・ラングラン、波多野完治訳 『生涯教育入門(第二部)』(財)全日本社会教育連合会、1984、p.91
(5)同上、p.30
(6)同上、p.102
(7)ポール・ラングラン、波多野完治訳 『生涯教育入門』(財)全日本社会教育連合会、1971、pp.53-54


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