『教育研究所紀要第9号』文教大学付属教育研究所2000年発行

生涯学習の理念を具現化する市区町村行政の在り方について

宮 地 孝 宜

(文教大学付属教育研究所客員研究員/東京都台東区教育委員会)

要  旨

本稿は、筆者のこれまでの研究から浮かび上がった問題と自らの経験から感じ取った問題を出発点として、生涯学習の理念を具現化する市区町村行政の在り方について、若干の序論的な検討をしたものである。

1.はじめに
筆者はこれまで、地域社会における学校の在り方やこれからの課題等について、いわゆるコミュニティスクールの視点を中心に研究を進めてきた(1)。研究の一環として、公立小・中学校において実施されている公開講座(学校の持つ施設や教育機能を活用し、地域住民の学習機会として提供するもの)に焦点を当て、受講者への質問紙調査や講師(実施校の教諭)及び教育委員会の担当者へのヒアリング調査等を実施してきた。
その中で、学校教育関係者の理解が得にくい、学校と生涯学習関連セクションとの連携が取りにくい等の問題を訴える担当者も多くいた。
また、筆者は現在、社会教育指導員として東京都台東区教育委員会に勤務しているが、そこには生涯学習の理念が反映されていないと思われる状況がいくつかあった。
例えば、生涯学習課以外のセクションが実施している学習機会(情報)の把握が十分にできない。学校との連携事業に際して学校の積極的な協力を得にくいこと等があげられる。しかし、これらの問題はとりわけ台東区固有の問題というわけではなさそうである(2)
上述した諸問題について筆者は、学校教育関係者の理解不足や行政担当者の努力不足として片付けられるべきものでは決してないと考えている。市区町村行政の組織や行政施策に真の生涯学習の理念が反映されていないと考える方が妥当ではないだろうか。そして、このことは市区町村行政が地域社会の生涯学習支援を行うことの障壁となるのではないか。
以上のような問題意識から、本稿は生涯学習の理念を再確認したうえで、問題の所在をあげ、生涯学習理念を具現化する市区町村行政の在り方を検討していきたい。そして最後に今後の研究方法等について述べてみたい。

2.生涯学習の理念について
実際のところ、生涯学習という概念は、我々日本人の間どころか、行政における生涯学習関連セクションの職員の間においても共通の認識があるといえないのが現状である。「生涯学習は個人の自主的な学習活動である」という一義的な考えや「従来の社会教育の言い換え」という認識を持っている者も少なからずいる。こういった状況に陥った原因については、平沢(1995)が氏の論文の中で、生涯学習の本質とは違う「生涯学習」(カッコ付きの生涯学習:筆者)が跋扈していると論じている(3)
では、生涯学習の理念とは一体どのような理念と考えればよいか。周知のように、1965年にP.ラングランがユネスコの成人教育推進国際委員会において、科学技術の進展や人口の増大、長寿化等、社会の変化に対処するためには、教育機会は青少年期に集中して行われる学校教育のみならず、生涯にわたって提供されるものとする生涯教育論を提唱した。しかも、それは、生涯という時系列に沿った垂直的な次元の教育機会と、個人および社会の生活全体にわたる水平的な次元の教育機会とを統合し構造化しようとするものであった(4)
この生涯教育論は日本にも影響を与えることとなる。1971年の社会教育審議会答申「急激な社会構造の変化に対処する社会教育のあり方について」では、具体的な方策は提示していないが、家庭教育、学校教育、社会教育の三者の有機的統合を要求し、あらゆる教育は生涯教育の観点から再検討を迫られていると言及している。さらに、1981年中央教育審議会答申「生涯教育について」では、生涯教育関係機関の連携・協力や教育委員会の生涯教育推進のための調整機能というかたちで、具体的に提言される(5)。また、同答申は、生涯学習と生涯教育の概念を明確に区別している。その後、生涯教育という言葉は、教育の持つ強制的なイメージに対する抵抗や、自発性・自主性、自己の充実などから学習者の側にたった生涯学習(6)という言葉に置き換えられることとなる。そして、今日に至るまで生涯学習は教育改革の指針として引き継がれている。
以上、ユネスコの生涯教育論と日本における政策展開の再確認を試みた。本研究においては「生涯学習の理念」を「人々の生涯学習を支援するためのあらゆる教育の統合」として捉えていきたい。

3.問題の所在
市区町村行政が提供している学習機会は無数に存在する。教育委員会を所管とする講座などの学習機会の他に、教育委員会以外のセクションもそれぞれの目的の下、様々な学習機会を提供している。しかし、必ずしも、提供されるおのおの学習機会はそれぞれ関連付けられたり、系統だてられたりしているとはいえない。本来、地域社会(市区町村)の学習要求や学習課題を鑑み、市区町村行政内で系統だった学習機会の提供がされるべきものである。言い換えれば、行政内部において、生涯学習の理念にたって学習機会の統合がされるべきである。問題の1つは行政内部において、そのような検討がされているかということである。
上記のような学習機会の統合を推し進めるには、そのための機構を行政内部に組織する必要が生じてくるのではないか。すでに、生涯学習推進本部等の名称で、行政内部に生涯学習の理念にたった連絡・調整組織を設置している自治体もあるが、それらがどの程度、日常的に機能しているかというと疑問が残ってしまう。
また、情報という観点からすれば、市区町村行政内部の生涯学習支援につながる施設や施策、学習機会等の情報を掌握することは重要であるが、そのような仕組みや体制ができているだろうか。
そして、市区町村行政は、上述した行政内部にとどまらず、地域社会全体のあらゆる学習機会や学習支援団体、学習情報などを統合しなければならない。
松原(1980)は、地域社会の現状として、日本の地域社会には無尽蔵といって良いほど大きな教育力が潜んでいるとしたうえで、問題として、教育機能に関わる機関、施設、集団があまりにも相互に脈絡無く存在していることをあげ、ラーニング・ソサエティとしての地域社会の教育機関の機能上の統合、システム化が必要である(7)とした。
約20年前の松原の指摘は、現在の地域社会に目を向けた場合にも十分にあてはまる指摘ではないだろうか。松原の言う教育機関の機能上の統合を進めるのも市区町村行政の果たすべき役割と思われるが、現状を見ると十分に機能しているといえるだろうか。

4.市区町村行政の在り方について
上述した問題を解決するには、まず第1に、行政の内部組織が生涯学習の理念に沿ったものであることが重要である。そして、それを推進するためには、中心的な役割を果たす組織の設置が必要であると考えられる。
そして、その中心的な役割を担う組織は、どのような機能を持つのか、行政のどこに位置づけられるのか、どのような職員が担当するのかということを考えなければならない。
@機能の面でいえば、「調整」的な機能の充実が必要であると考えられる。猿田(1990)は「調整」に関して、政策空間が複数の組織に共有されている状況下において、不整合や対立を未然に防止したり、あるいは事後的に対処することによって、それぞれ固有の組織目標と共通の目標を効果的に達成することに調整活動の意義がある(8)としている。
生涯学習の理念の具現化にあたっては、この「調整」機能を発揮する中心的な組織についての検討が必要となるだろう。
A次に考えなければならないのは、その組織を行政組織のどこに位置づけるかということである。
教育というものの中立性を考慮して、教育委員会内部に組織するのか、もしくは、総合行政の観点から、首長部局に組織するのか、現在のところ議論の分かれるところのようである。
B職員に関しても、社会教育主事などの教育専門職が担当するのかなど、検討が必要であろう。
また、特に情報に関していうと、全庁的に情報を「共有化」することが重要であり、そのシステムをつくることは必須である。上記の「調整」機能をもつ組織に、「情報の共有」のシステムを持たせるのが良いのではなかろうか。
そして、「情報の共有」についていえば、住民と行政との間においても同様に考えることができるのではないか。これまで生涯学習支援の重要方策の1つとして、行政から地域住民に、行政の情報、行政が収集した(学習)情報を提供してきた。近頃は、情報の双方向性が言われているが、それをさらに進めて、地域住民や行政、地域社会の様々な機関等が随時アクセスできる「共有化」された情報システムを構築する事が必要ではないかと考えられる。
また、言うまでもなく、行政内部の「調整」だけでは、生涯学習理念を具現化することはできない。学習者(ユーザー)にとって見れば、役所(市区町行政)が提供する学習機会であろうが、民間のそれであろうが、選択可能な学習機会の1つにすぎない。学習者の視点に立って、区市町村行政以外の学習機会提供機関(国や都道府県の機関、高等教育機関、民間の教育機関等)との可能な限りの「連携」、「協力」、「調整」等が必要である。そして、これもまた中心的な役割をもつ組織が必要であり、その組織の在り方については検討していかなければならないだろう。

5.おわりに−今後の課題−
本稿は、筆者のこれまでの研究から浮かび上がった問題と自らの経験から感じ取った問題に対するアプローチの出発点であり、生涯学習の理念を具現化する市区町村行政の在り方について、若干の序論的な検討をしたものである。
今後は、市区町村行政を対象とした実態把握のための広域的な調査を実施したいと考えている。同時に、生涯学習理念を具現化するために特に重要な行政の機能としてあげた「調整」の概念や「連携」、「協力」等についての踏込んだ検討と理論の構築をしていきたい。そして、それらの理論に基づいたケース研究(諸外国の事例も含む)等を実施し、地域社会の人々の生涯学習を支援する行政の在り方を探っていきたいと考えている。
また「人々の生涯学習を支援するためのあらゆる教育の統合」という観点に立てば、当然、市区町村が設置する小・中学校等、学校教育もその対象に含まれる。今後はそれらを含め検討していきたい。

注記・引用文献
(1)筆者の研究については、拙稿「生涯学習の観点からみる学校開放に関する研究」文教大学教育研究所紀要第7号1998、「公立小中学校における公開講座に関する一考察〜東京都特別区の事例を中心にして〜」日本生涯教育学会論集・212000等を参照していただきたい。
(2)これらの問題は一般に市区町村教育行政の問題として取り沙汰されているが、筆者が関わりのある他区の社会教育関係者も同様の問題を感じていることが多い。今後、広域的に実態把握のための調査を試みようと考えている。
(3)平沢茂 1995「生涯学習時代の学校制度のあり方を問う」『教育制度学研究第2号』日本教育制度学会編 紫峰図書pp.12-14
(4)山本恒夫 1995『生涯学習の設計』実務教育出版p.37
(5)山本恒夫 前掲書 p.37
(6)斉藤哲瑯 1997「国における生涯学習政策の展開−生涯学習社会の形成を目指した教育改革−」『日本生涯教育学会年報第18号』日本生涯教育学会編p.3
(7)>松原治郎 1980 「生涯教育と地域社会−地域学習社会の形成−」教育社会学研究第35集p.74
(8)猿田真嗣 1990 「教育関連行政の調整に関する予備的検討(1)−研究の意義と理論的諸前提について−」『教育制度研究第22号』教育制度研究会 p.85

参考文献
猿田真嗣 1993「教育関連行政の調整に関する予備的検討(2)−従来の議論の分析−」『教育制度研究第25号』教育制度研究会
森本精造 1997「福岡県における生涯学習推進体制」『日本生涯教育学会年報第18号』日本生涯教育学会編
久野義春 1997「生涯学習政策の展開−鎌ヶ谷市における実践−」『日本生涯教育学会年報第18号』日本生涯教育学会編
市川昭午 1988「教育改革と行政機能の再編」日本教育行政学会年報・14 他

 


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