『教育研究所紀要第9号』文教大学付属教育研究所2000年発行)

特集 変革期の大学教育はどうあるべきか;

大学審議会答申『21世紀の大学像と今後の改革方策について −競争的環境の中で個性が輝く大学−』(1998年10月26日)を読んで」

大学改革と文教大学の今日

水島 惠一

(文教大学学長) 

要  旨

文教大学は、「人間愛」の精神に基づき、人間的な交わりの中で、大学教育を行い、学生にもこの人間愛の精神が受け継がれていくことをめざしてきた。そして、直接には学生(さらにはすべての人)一人一人の人間性、個性を尊重しつつ、専門性と開かれた知性をめざして教育を展開していくことを理想としてきた。本論では「人間愛」の精神、個性の尊重と育成、少人数教育、創造的研究、実践的研究について、本学の歩みを含めながら、そのありかたについて考察した。すなわち人間愛の精神、個性・個別性の尊重に基づき、それを専門研究、実践研究と実践者の養成という課題に結び付けていくこと スペシャリストの養成の問題 社会人教育、生涯学習の問題、その他の問題に結び付けていくことを課題とした。

1.はじめに
大学改革特集のはじめに、私はまず文教大学の今日の具体的な姿と理念、問題点を述べる事からスタートしたい。たとえば大学審議会の答申との関係で論を展開することも可能かもしれないが、むしろ文教大学が現にもっている特徴や理念、問題点等から見ていきたいと思うからである。
文教大学は、「人間愛」の精神に基づき、人間的な交わりの中で、大学教育を行い、学生にもこの人間愛の精神が受け継がれていくことを目指してきた。そして、直接には学生(さらにはすべての人)一人一人の人間性、個性を尊重しつつ、専門性と開かれた知性を目指して教育を展開していくことが理想とされてきた。経営上の必要が大きく左右したにせよ、この理念が今までの文教大学の歴史的発展を裏付けてきたことは否定できない。
すでに立正女子大学が、学際的な教養を見据えて、4年制の家政学部を誕生させたといえる。ついでその中での児童学科の設立も、生活に根ざし、人間性を深める志向性を持ったものだったといってよいであろう。そしてこれに続いて、教育学部が生まれてからは、文字どおり「人間愛」の教育をもって、学生個人個人にあたり、そしてその学生たちが、将来、児童生徒個人個人を大事にする教員としての姿勢を育んでくれることを願っての教育が展開されてきた。そうした資質を持った教員の養成が、大学の中心課題になったのであって、それは、(児童学科での幼稚園教員養成やカウンセラ−養成を含めて)教育現場でも高く評価されてきた。
共学の文教大学への切り替えは人間科学部の設立とほぼ時を同じくするが、人間科学部の誕生以来、上述した教育の理念は、福祉、生涯教育、臨床心理、カウンセリング等の面にも拡大され、そこで、患者、クライエントの人間性を尊重する方向に向かっての広義の教育者養成がなされてきたといえる。 人間愛の理念が、大学にあっては学生の個人個人の資質を大事にし、個性を尊重し、創造的研究に向かわせることにつながっていくという発想も、人間科学部設立の頃から自覚的に定着してきたように思われる。そしてこの個性の具現が、専門性を深め、学生個人個人に応じた自己実現と創造の道を歩ませていくのだということが、認識されてきたのである。
その後に誕生した情報学部、文学部、国際学部は、現代の情報化社会、多様な言語文化、国際社会文化の中において、人間を尊重し、個性と創造性を発揮していく教育と研究の場であるといえる。そしてそこでの教育研究の深まりが、教員・学生によって目指されてきたものである。さらにいえば、さまざまな問題を持つ現代社会において、我々は、賢明な情報処理や広報の手段を持たなければならず、また多様な国際社会において、国際関係、国際コミュニケーションの理解を欠かすことができない。文学部が志向する言語文化の研究も、異文化間の人間理解と、お互いの尊重のために不可欠なものである。本学の各学部の発展が、こうして他大学の先例にはみない独自のものになってきたといえる。
以下各論的に、99年度の大学基準協会への加盟申請報告書に沿って、本学の教育の理念を述べたい。

2.人間愛の精神
本学の建学の精神が「人間愛」であり、それが本学発展の底流にもあることはすでに述べたが、人間愛がいかに人間存在の基本をなすものであるかということについては、まず、ほとんどの宗教がその本質においては、開かれた人間愛、慈悲、その他現代の人間科学の実践がよって立つところの愛の極致を説いていることをあげておきたい。
科学的には、生物学的基礎からして、愛といってさしつかえない本性を動物は持っており、その働きには、現代の文明に災いされた人間が見えなくなってしまっている「愛」のあることを示している。その愛を疎外しないこと、あるいは回復することも、本学の人間愛の精神に沿ったものであり、授業の中で意図的に取り入れられてきたこともある。ただ、動物の愛には、きわめて多くの場合、閉鎖集団的な限界がある。家族や所属集団の中では驚異的な愛情を示すその個体が、外部者や不適応者に対しては容赦のない攻撃性を示す。それは人間の原始からの歴史においても、社会的になされ続けてきたことである。本学の理想とする人間愛は、こうした閉鎖性を乗り越え、自己の集団の外部に対しても、またどんな人に対しても働く愛である。それなればこそ、例えば教育において、自分のクラスやクラブの人たち以外の人々にも、変わらぬ人情をもって接する。そしてまた、真に個人個人に対して働く愛、すべての人に対しても変わらず働く愛である。それは本学の教育実践の中で、あるいはボランティア活動その他の中で、培われ、折に触れて自覚されてきたものである。
つまり人間愛は、本能的な愛を基盤には持っているが、よき教育環境の下で育ち、学習されるものであり、それこそが幼児教育以来の真の人間教育の課題だといってもよい。そしてさらに、こうして学習された愛・人情に加えて、実存的な共同存在性にも我々は目を向ける必要がある。そこにこそ、かけがえのない我−汝の二人称的関係が成立する。開かれた人間愛は、誰に対しても成立する。それは相手がどのような特殊性や障害を抱えていようと、異文化のもとでの理解し難い人であろうと、その一人一人の存在を大事にしようとすることである。文教大学で教育理念として根底に持っているものは、まさにこうした高次の側面を含んだものである。そして前にも述べたように我々は、人間愛の精神から、必然的に、個としての一人一人の尊重へと導かれていくことになる。

3.個性の尊重と育成
個性の尊重、一人一人のその人らしさの尊重は、一方では創造的個性の発見と育成につながり、文化の先端をいく人材の養成につながり、他方では、得てして疎外されがちな人々の(その特殊生を含んだ)尊重という、まさにヒューマニスティックな精神につながる。この双方は、決して別物ではなく、その根は同じものである。
例えばノイローゼに陥っていた学生が、カウンセリングの中で自分を尊重され、自分なりの興味あることを手がけるうちに、エネルギーや情熱も復活し、創造的に生きることができるようになっていくという例がある。一人一人の内面をつぶさに知るものにとって、まさに人はさまざまである。その長所が生かされ、自分が生き生きしてきてこそ、人間らしい学問探求も自己実現も可能である。大学のゼミが、小集団教育としてまさにこうした一人一人の特殊性を尊重しつつの人間的集団づくりであることを、我々は心がけてきている。そうした中で、学生各人が真の自己を発揮し、また他者の自己実現を尊重していくことこそ、文教大学が特に大事にする教育の課題だといえる。
こうした個人尊重は、交わり、出会いの中でこそ可能になる。よき理解者との出会いによってこそ自らの人間性の肯定や創造性の開発が可能になるということは、古今の多くの学者の例でも芸術家の例でも社会活動家の例でも、あるいはノイローゼや障害からの回復の例でも見られてきたことであり、本学の教育の中でも体験されてきたところのものである。特殊な例としては、ゼミのなかで、時に学問的な課題を超えて、学生同士が自由に自己を語り、自己探求と相互理解がなされていくことがあるが、そんな中で、真の自分らしい自分を見出し、自分なりの生き方、自己実現の道を見出していった学生の例も多い。
我々は、個の尊重が一方ではユニークな学術研究、芸術その他の創造活動、人間的社会的実践に向けての個性開発に結びつくことを体験してきている。他方では、地味な平凡な生活の再発見を含め、疎外された魂を蘇らせるのを体験してきている。こうして特殊性のある人はその個性的個人らしく、平凡な人は平凡なその人らしく、そして環境的に困難を抱えた人はその困難を周囲から理解されることを通じて、小集団の中での人間尊重がなされ、そして一人一人なりに個性が育成され、創造性が発揮されていくことこそが課題なのであり、それは、通常「人間愛」の理念の下には理解されていないが、文教大学の、これまでに培われてきた教育の特色だといってよいであろう。

4.少人数教育・ふれあいの中で
今交わりの中での個性育成を述べたが、文教大学は、今や中規模校として、短期大学部を含んで8千人を超える学生を擁してはいるものの、しかし一人一人を大切にするきめ細かな教育的接触を持っている。大教室での授業はあるが、しかし一方、各学部とも比較的早い段階から小集団のゼミを入れている。国際学部の少人数での語学教育、プレゼミ、人間科学部での1年次の基礎ゼミをはじめ、その他2年次からの専門科目が多くの少人数規模で行われている。3、4年次の特殊研究や、卒業論文ゼミ等が小集団で行われることは当然として、それが卒業後まで「ゼミ会」として残っていることも多い。
繰り返しになるが、こうした小集団教育は、学生一人一人の個別性を尊重し、それぞれにそれぞれの道を進んでもらうためのものである。そして同時に、その中で人間的ふれあいが持たれ、まさに人間教育としての本質が、そこに見られるものである。もちろん大規模授業がすべて悪なのではない。一定数以上の授業であってこそ質疑応答も含めて授業が活気を持つということも、我々は時に体験している。また、ある種の学生にとっては、大規模授業の中で、匿名の存在として座っていられることに自由と安心感を持ち、そこで好きなように講義に接することができるということもある。こうして少人数教育から大規模授業までも含めて、ダイナミックに自由に組み合わせて単位を取っていくことができるということ、こうした自由が、また大学教育の中において、ことに人文社会系の大学において、いかばかり重要であるかということも認識する必要がある。そのダイナミックな創造的選択性が、いかによく機能しているか、誤って落ちこぼれをつくらないか、あるいはまた、小集団が不当な束縛を与えていないか、なども、我々が把握しなければなない一つのポイントである。

5.創造的研究
今までに、いわば家庭的ないし庶民的学風とでもいうべき人間愛と個性尊重の理念をやや詳しく述べてきたが、大学が学問の府であり研究の府であることは言うまでもない。文教大学は、設立以来、校地校舎も狭く、研究費も不十分で、外からみた目には、決して高いレベルの研究に向いているとはいい難いものがあった。しかしそんな中で、教員個人個人は、学外の研究機関をも利用することも含めて、それぞれの創造的個性を生かし、かなり高いレベルの個人研究、共同研究に励み、一定の成果を生み出してきた。それが世に認められて、地味ながらに文教大学の名声を高め、それによって国際学術交流、国内学術交流を刺激してきたことも否定できない。多くの教員の学会における活動が、評価されている。またそれが、学内の教育に結びついて、学生をも含んだ共同研究が成立し、あるいは、学生の中から(大学院進学を含め)高次の研究者を生み出しつつある。
学部ないし学科の壁が薄く、相互に開かれ、それが学際的な共同研究や総合研究を生み出していった例も少なくない。家政学部が消滅した後も、人間科学部と中等教育家庭専攻の協力によって、生活科学研究所を中心に展開されてきた生活学研究もその一例であり、文学部と教育学部が言語文化教育において相携えていることもそうである。情報学部と国際学部の提携によって、国際情報の研究も模索されている。学部内の総合研究としても、例えば人間科学部の初期に学部教員のほとんど全員が参加した学際的総合研究「体験と意識に対する総合研究」などの例をあげることができる。
ただ、これらの研究が、文教大学の特色としてどのように定位できるのかということは、大学の歴史が浅いためもあって未知数である。大学それ自体が、大型プロジェクトを組むだけの財政的裏付けを持たないことが、「まさに文教大学としての研究はこれだ」といわしめるものの成立を困難にしていることも否めない。この点では、個々の教員・学生の研究の積み上げられることに待つと共に、より大型の研究プロジェクトが持てるような経営基盤を獲得していく必要がある。また上記の反面、教員の研究も、学生の研究も、まだ全体としては足りない面の多いことも認めなければならない。

6.実践的研究
文教大学の研究として、特に注目できるものは、おそらく実践領域での研究であり、あるいは、教育と密接に結びついた実践的研究である。教育学部が、私学としては初めての学校教員目的養成に踏み切ったのと軌を一にして、教育現場に根ざした数々の研究が、本学教員を中心になされてきた。そしてそれが、次第に卒業生をも加えた学会的組織において進められていったこともあげられる。個々の教科教育も、人間教育と不可分になされ、そうした人間的教育それ自体が、まさに実践的な創造的研究だったといえる。
人間科学部は、それ以前からの児童教育、児童臨床心理、生活福祉等の家政学部以来の伝統を受け継ぎ、臨床心理学(心理学)、社会福祉学(社会学)、児童教育(教育学)、という実践の幹を太く持ち、それに総合人間学や生活学といった、これまた実践と密着した教育実践体制をその原点に持って出発した。これらの実践科学において、文教大学が評価されてきた点は、教育学部の場合と同様である。大阪大学人間科学部に比して、基礎研究や個々の領域での研究設備等では及ばないながら、対等に太刀打ちしてきたのは、まさに臨床心理学、社会福祉学をはじめとする実践研究の多くが、文教大学から輩出したためである。さらに基礎研究がどちらかといえば細分化の方向をたどるのに対して、実践研究は具体的な個々の人間・社会事象に迫るが故に、必然的に総合的学際的たらざるをえないという意味でも、ここに文教大学の研究の実践的・学際的な特色を見出すことができたといえよう。もちろんここでもその反面として、個別領域での基礎研究が不十分であることを認めなければならない。
実践の学としての創造性は、情報学部以降は、若干趣を変えてきた。すなわち、教育学部、人間科学部におけるような、直接他者に手をさしのべるという意味での実践ではなく、情報学部にあっては、情報システム、コンピュータ技術、広報といった実際面における研究が深められてきたことであり、情報化社会における人間のあり方の研究、さらにはマクロ的な社会問題に対する情報学的人間的なあり方の探求が行われてきたということができよう。
文学部においては、日本語日本文学科、英米語英米文学科、中国語中国文学科、という名称が示すように、語学と文学が総合されて言語文化の研究が行われてきた。これも、異なった言語文化の中における人間の諸問題を扱うという意味で、優れて実践的な問いかけを持ったものであり、その分野での教員の独創的研究活動にはすでに定評がある。
国際学部における実践的研究も、その芽をだしつつある。多くはまだ試行錯誤の段階にあるとはいえ、国際コミュニケーション、国際関係分野での研究は多く、国際教育を含め、国際交流、企業実習、その他いくつかの国際学部ならではの実践が営まれていることもあげておく必要がある。国際舞台を含め、より広い視野の中での国際コミュニケーション、国際関係分野での実践研究が、展開されている。
なおこれは、実践的研究に限定したことではないが、創造的・実践的・個性的教育研究の最先端を行くものとして、大学院人間科学研究科臨床心理学専攻、生涯学習学専攻の今までの実績を挙げておく必要がある。とくに臨床心理学専攻は高度専門職としてのスペシャリストの養成機関として定評がある。これらに加えて平成11年度からは、言語文化研究科も加わることになったが、こうした高度専門教育研究においても、実践的な色彩がやはり強調されているところである。

7.文教大学の直面している問題点
以上に文教大学の教育研究の特色を主として長所を中心に、問題点を含みながら述べてきた。すなわち教育学部がまず柱となり、ついで人間科学部が同じく広義の教育実践的色彩をもって登場し、これらが文教大学カラーを作ってきた。情報学部以下の誕生によってそのカラーは多彩になる一方、理念・目的が明確なものになりにくくなってきたという実状はある。さらに、学生のニーズの多様化に伴い、5学部がまさにそれに応じる意味で設立されてきたのではあるが、しかしこれも万全とはいえない状況にある。少子化に伴う危機は、今のところ顕著とはいえないが、付設短期大学部の衰退に伴って、対処のあり方が問われている。
一方、教育効果を高め、単位互換などをスムーズにし、ひいては国際化へ向けての準備をすることなどを目指して、平成10ー11年度全学へのセメスター制度導入に踏み切ることになったが、これも、社会の変化と本学のおかれた状況に対応するためのものであるが、それによって時間割の作成、学生のクラブ活動等に影響が出ているなどの問題もある。この他、国際化のニーズに対応するために、外国人留生別科の充実なども探索されているところである。
また、教育理念に沿った少人数教育が、今日教育組織の肥大化を招いていることが問題になり、それに対して、少人数教育の長所は生かしながらも、出来るだけ専任教員数・非常勤教員数を削減してスリム化し、効率化することが検討されている。同様にして、各学部教授会を中心とする民主的な大学運営が定着してきている中、その良さを守りながらも、そのための効率の悪さ、柔軟性を欠く点などが問題になり、課題に応じて、学長・学部長等のリーダーシップによって必要な事項を処理していく必要性が痛感されている。また、学部民主主義が、学部内閉塞に陥って必要な学部間協調に支障がみられること(例えば、ある科目が他学部専任教員によって適切に担当され得るにもかかわらず、別に非常勤教員を招いてしまっていることなど)が指摘されている。ついでだが、現在高まりつつある大学間交流の問題についても、学内閉塞を改め、越谷、湘南両校舎とも近隣大学との間に相互乗り入れ、単位互換を進めていこうとしているところである。
このほか、越谷校舎と湘南校舎の非統合性の問題も重要であるが省略し、入試、就職対策を中心とした進路指導の問題も省略する。国際交流は、委員会を設けて、積極的に取り組んでいるが、なお十分なものとは言えない状況にあり、特に外国人の受け皿が外国人留学性別科中心だけで良いのかという指摘もなされている。
経営上の要請からして、学部等の再編を考えなければならないこともある。1専任教員あたりの学生数が、99年度現在で全学部を平均して27.5人であり、それは、前に述べた小規模授業、一人一人に気の配れる教育にとっては大事な点であるが、(そしてまた現実にそれによって教育の一部が支えられていることも否定できないが)しかし、私学全体の中で、この数が少ないことは、直ちに大学の経営難に結びついているのが現状であり、そのバランスを考えていかなければならない。そもそも、少人数教育をしなければならない大学院を、まだ我々は2研究科しか持っておらず、今後他学部の大学院もつくっていかなければならないということも、経営上に微妙な影を落とす。経営に対して、我々が十分な教育上の配慮を要請すべきは無論のこととして、しかし現にほとんどを学納金に頼っている経営の現状では、このことは、学納金へのしわよせを意味するというジレンマがある。

8.今後に向けて
以上のような問題点に対する対応を含め、最後にやや包括的にではあるが、文教大学の今後のあり方を列挙しておきたい。文教大学の理念であるところの人間愛の精神、個性・個別性の尊重に基づき、それを今までに述べてきた専門研究、実践研究と実践者の養成という課題に結び付けていくこと、それは我々が伝統的に目指してきたところのものであり、将来構想としても基本に置くべきところである。それは本質的に時代を越えた目標である。しかしさらに我々はそれが時代によって様相を異にする面にも目を向け、これから迎える21世紀の教育におけるあり方を問うていく必要がある。
まず、今までに述べてきた学術研究のあり方である。本学が特色としてきた学際的・実践的研究、それが人間愛の理念と結びついて人間的な(人間性を生かすことに直結した)学問として、今後とも発展させられていく必要がある。教育・人間科学がどちらかといえばミクロな個人に焦点をおいていたのに対して、よりマクロな面では、特に情報学や国際学などはその先端をいくものであり、言語文化の学も、また新しい視点を必要とするであろう。個々の学問研究は、(共同研究も含めて)もちろんそれぞれの領域でそれぞれの独自の課題と方法に基づいてなされていくものであり、文教大学という枠に閉じこめるべきものではない。学問研究の自由を確保し、経済的にも応援すること、それは何よりの鉄則である。しかしそのことを踏まえた上で、我々は教育研究の上で、時代の先端的要求に明確に答えつつ、しかし時代を越えた普遍的な人間愛、個人個人の尊重、個性の尊重を、地味にではあるが着実に押し進め、庶民の中に根を下ろした学問のはっきりしたあり方を、提示していかなければならない。総じて高度の研究が輩出されるよう、教員の努力と共に研究費・研究設備等の充実も不可欠である。
これに関連して、いわゆるスペシャリストの養成の問題がある。教育学部における教員養成、人間科学部におけるカウンセラー・社会福祉士養成など、広義の教育者の養成、大学院臨床心理学専攻における臨床心理士の養成は、伝統的に行われてきたスペシャリスト養成の典型であるが、さらに会社のなかでの人事担当者などを含めた広義の教育者の養成、情報技術スタッフの養成等々も、現在の大きな重点的課題である。外国語検定やワープロ検定などは、現在広くライセンスセンターにおいて行われているが、より根本的に言語文化を理解し、国際社会に通じるスペシャリストの養成に我々は取り組んでいかなければならない。
次に、社会人教育、生涯学習の問題である。市民公開講座などで大学を地域に開かれたものにしていくことは、徐々になされてきていることであるが、しかしこれをさらに広げ、組織的にしていく必要がある。市民講座を広げる一方、大学が自ら不便な地域から出ていって、多くの人々が学びやすい施設(例えば旗の台キャンパス)などを積極的に利用して、講座を広げていく必要もあろう。実践的教育研究の場にふさわしく、実践家の再教育(一部教員の再教育やカウンセラ−などの再教育はなされているが)をさらに広げていく必要がある。さらに通信制教育を生かしていく事も考える必要がある。
社会人入学を制度化することも、これに関連した重要な問題である。大学院生涯学習学専攻では、すでに社会人入学枠を広げているが、こうしたことは、学部でも積極的に行われる必要がある。なおこれに関連して、3年編入の枠を広げ、短大卒、他大学卒の者、あるいは一般社会人の短期在学・卒業の制度も考えていく必要があろう。セメスターないし、年間の留学を受け入れること、その単位互換を他大学(外国を含む)その他と結んでいくことなどを通して、1年入学4年卒業という従来の型にこだわらない多様な開かれた制度を考えていく必要があろう。もちろん、本学のある科目を聴講し、単位を認めるという聴講生、科目等履修生、あるいはさまざまな形の研究生の制度を含んでである。それが、多様化した現代における個人の尊重ということにつながるものである。そしてさらに周辺にさまざまな公開講座を、小集団の形をも含めて実現できるならば、それは、多様な個人個人が自分なりに自分探しをしていくという意味で、最も基本的な大学教育=生涯教育という場をつくっていくことにもなり、また他大学との相互乗り入れによって大学そのものの垣根を低くしていく開放性にもつながるで あろう。とくに国際交流においては、すでに行われつつある研究員の国際交流や、さらには教員の国際交流も視野に入れて行くべきであろう。
このほかにも、体験学習の尊重、ボランティア育成の教育など、文教大学がその独自性に基づいて発展させるべき将来的課題は多い。文教大学の教育研究の理念を精査し、それに立脚しつつ、新しい時代をはっきりと見据え、その大局的見地に立って、将来の舵取りをしていくことこそが望まれるであろう。


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