『教育研究所紀要第9号』文教大学付属教育研究所2000年発行

生涯学習の観点に立った男女共同参画学習

−「子育てにおける父親の意識と行動に関する研究」から−

梨 子 千代美

(文教大学付属教育研究所客員研究員/川村学園女子大学)

要  旨

本論文は、父親の育児に焦点をあて、実際に父親は子どもに対してどのように接しているのか、その行動の背後にはどのような意識があるのかを調査分析したものである。その際、父親から語られた行動の違いを類型化することで、行動の背後にある意識の違いの分析を試みた。
さらにその分析結果から、成人期の男女を対象とした、男女共同参画社会実現にむけての、意識変革のための学習の基礎課題を考察した。

1.問題の所在
我が国では、脱工業化、情報化、高齢化の到来により、経済発展を軸とした「成長社会」から、社会の真の豊かさを実現する「成熟社会」を迎えている。人々は、「心の豊かさ」、「生きがい」、「自己実現」という生活目標を掲げ、心の豊かさや人間性の幅の拡大、余暇の有意義な活用、また教養活動や資格取得、さらに激変する職業社会への適応などを求め、個々の状況に応じて生涯学習をはじめている。このような生涯学習社会については、R.ハッチンスが、学習社会論を提唱したことが背景にあることは周知の通りである。そこで、ハッチンスが目的としたことの一つは、「人間的でありつづけるための学習」の重要性を伝えることであった。非常に哲学的なものを含んでいると思われる。
しかし、現代社会は、「自己ちゅう」という言葉に象徴されるように、人々の連帯はさらに希薄になり、地球というグローバルな視野に立って考えてみても、身近な地域、家庭に目を向けてみても、取り組まねばならない人類共通の課題が山積している。つまり、本当の意味での「人間的でありつづけるための学習」が充分に行われているとは言い難いと考えられる。
それらの課題を解決するためには、個性に応じた選択による学習だけでよいのか疑問である。それと同時に、我々に共通する課題にも目を向け、生涯学習社会の中で取り組んでいくことが必要であると思われる。たとえば、エイズ、環境、人権、さらに女性問題もそれらの課題の一つとしてあげることができるであろう。
本論の目指すところは、我が国において、今まで女性だけの学習に偏りがちであった女性問題を男女共通の課題と捉え、男性と女性の共同参画によって学習を進めることにより、男女共同参画社会を築いていくためにはどうすればよいのかを考えていくことにある。
ところで、企業人、仕事人といわれてきた父親においては、仕事中心の生き方を見直し、新しい生き方を求めて、介護、料理、育児などの領域へも参画する人が増えてきている。こうした父親の参画は、1999年6月に男女共同参画社会基本法が成立したことでも、さらに拍車がかかったように思われる。
また、行政においても男性対象のさまざまな講座が開講されてきている。
しかし、その一方で現実には、1996年2月に労働省女性局が行なった調査などを見ると、育児休業をとっているのは女性が99.2%なのに対し、男性ではわずか0.8%に過ぎない1)という報告がある。さらに、現在における状況を推測してみても、数値的に大きな変化はないだろうと考えられる。これには、現実には仕事を中断しにくい我が国の雇用・労働事情があると考えられるが、父親の育児に対する意識の問題、すなわち、伝統的な性役割観にもとづく行動様式があると考えられる。
これに関係して、父親の家事・育児について論じた先行研究に、柏木惠子の「子ども・育児による親の発達」という研究がある。この中で「大いに家事・育児に参加しているお父さんは、性役割についての考え方がより革新的…男性も家事・育児を担うべきで…女性の社会進出を積極的に肯定する男性が、実生活でも家事・育児により多く関わっている」2)という主旨のことを述べており、本研究では、このことを実証してみたい。
さらに、もう一つの先行研究に、中野由美子の「はじめの3年間の子どもの発達と父子関係」という研究がある。この中で中野は、父親の家庭生活の実態と意識を反映した生活実態パターン別に、幼児と父親の関わりの関連を明らかにする目的で、生活実態3項目(仕事点、家族での夕食回数、夫婦の会話)を組み合わせてパターンを作り、その特徴的な3群(「家庭優先派」「中間・接触あり群」「仕事優先派」)を比較している。その結果、子どもに関わりを持つ父親になるかならないかは、物理的条件のみならず、心理的、意識的な条件も重要になる3)と指摘している。しかしこの研究では、どのような心理的・意識的条件なのか、その内容についての報告はない。本研究においては、どのような心理的・意識的な条件なのかを明らかにしてみたい。

2.研究の目的と方法
男女共同参画社会を実現するためには、伝統的な性役割観を変革していくことが必要だと考えられ、意識の部分にまで踏み込んだ学習が求められているといえる。そこで、実際の心理的・意識的な部分を明らかにすることは、男女共同参画に向けての学習を考える上で、重要な示唆を与えてくれるだろうと思われる。
したがって、本研究は、家庭という領域の、とりわけ育児という部分での父親の意識に焦点をあて、実際の父親の育児に関する行動の背後にある意識を明らかにすることを目的とする。
そして、さらに生涯学習の観点、つまりライフサイクルの中の成人期に着目し、その時期の男女共同参画社会実現に向けた学習の基礎・あり方も考えてみたい。
今回は、4歳〜6歳の子どもをもつ父親・母親(専業主婦)に面接調査を行なった。面接調査は、3地域(都心部、やや都心に近い所、郊外)で行ない、対象となった父親・母親は延べ31名、そのうち、父親・母親のペアで面接できたのは7組14名であった。

3.研究結果
まず第一に、子育てに父親がどの程度関わっているのかということと、実際に父親がどのようなことをしているのかを見るものとして、次のような質問をした。

「あなたはお父さんとして子育てに関わっているほうですか。それともいないほうですか。

い る→・どのような点で関わっていますか。
・それはいつ頃からですか。
いない→・それはどうしてですか。」

この質問に対して、父親から語られた子育てに関する行動の結果は、@「子どもと遊ぶ・一緒に過ごす」A「子どもを何処かに連れて行く」B「子どものおむつを替える」C「子どもにミルク・食事を与える」D「子どもを抱っこする」E「子どもの服を設定する」F「子どもをお風呂に入れる」G「子どもが寝る時に本を読んであげる」H「子どもと一緒に登園する・迎えに行く」I「子どもの話し相手になる」J「子どもと一緒に食事をする」K「子どもの躾をする」で,これらの12の行動を「子育て」と父親たちは認識していると考えられる。
またその際に、子育てへの関わり具合を尋ねたところ、これらの行動を多く行なっている父親は、父親自身が子育てに「関わっている」と強く認識しており、行なっていない父親は、父親自身も「関わっていない」と感じていることが明らかになった。
さらに、子育てに「関わっていない」と回答した父親に、関わっていない理由を尋ねてみると、「仕事が忙しい」ということがあげられていた。
しかし、先ほど紹介した中野の「子育てに関わるか関わらないかは父親自身の心理的、意識的条件が大きく関わっている」3)という報告もあり、仕事が忙しいという表面的な理由からさらに深く掘り下げ、その背後にある意識の違いを見ていきたい。
そこでまず、子育てに「関わっている」と強く認識している父親と、子育てに「関わっていない」と感じている父親との意識の類型性を探るため、行動の違いをみていくこととする。
本研究の課題である、父親の育児の行動の背後にある意識というものは、日常生活の常識的範疇のものである。したがってここでは、可能な限り日常生活と同じような状況を設定した質問の中で、父親・母親自身の日常の言葉によって表現されたものから,一定のパターンや規則性・類型性を探った。
この結果、父親・母親から得られた回答をもとに、子育てに「関わっている」と強く認識している父親と、子育てに「関わっていない」と感じている父親の妻・子どもとの接し方の違いを示すと以下のようになる。(表1参照)

表1 関わっている父親・関わっていない父親の妻・子どもとの接し方の相違点

「関わっている」と強く認識している父親

「関わっていない」と感じている父親

積極的に子どものトイレについて行く

子どものトイレは母親に任せるか、母親が行くことができない時について行く

子どもを叱る時、意識して父親と母親が異なった立場をとる

なし

子どもの喧嘩の後、子どもの話を聞く・反省させる

子どもの喧嘩の後の対処なし・親から子どもへ一方的

常々、両親とも子どもに規範を示す

なし

躾の方針が父親と母親で一致している

躾の方針が父親と母親との間で一致していない・食い違いが見られる

父親から母親へのアドバイスがある

なし

子育てに「関わっている」と強く認識している父親では、「積極的に子どものトイレについて行く」「子どもを叱る時、意識して父親と母親が異なった立場をとる」「子どもの喧嘩の後、子どもの話を聞く・反省させる」「常々、両親とも子どもに規範を示す」「躾の方針が父親と母親で一致している」「父親から母親へのアドバイスがある」ということが明らかになった。
これに対して、子育てに「関わっていない」と感じている父親では、「子どものトイレは母親に任せるか、母親が行くことができない時について行く」「子どもの喧嘩の後の対処なし・親から子どもへ一方的」「躾の方針が父親と母親との間で一致していない・食い違いが見られる」となった。
では、このような日常生活での父親の行動の背後には、どのような意識の違いがあるのだろうか。それを明らかにするために、次のような二つの質問を行なった。(質問1と2については、状況に応じて深く掘り下げ、様々な質問を行っている。)

質問1「お父さんとお母さんは、同じ役割をしたほうがよいという考え方がありますが、あなたはどう思いますか。」
質問2「お父さんとお母さん,どちらか一人いれば十分だと思いますか。」

表2 関わっている父親・関わっていない父親の行動の背後にある意識の相違点

「関わっている」と強く認識している父親

「関わっていない」と感じている父親

性役割観が流動的である

父親・母親が、お互いに積極的に子どもに関わっていこうという意識がある

 

性役割観が固定的である

父親は、子どもに対して母親と同じように関わることは無理だと考えており、母親はその考えを支持している

父親・母親の二人がそろっていれば、フォローしあうことができると考えている

子どもの発達にとって父親・母親の両方が絶対に必要だと強く認識している

片親でも何とかする

その人のモチベーション・周りの環境次第と考えている

 

表2は、先に示した質問1と2に対して、実際に語られた回答の結果をまとめたものである。
子育てに「関わっている」と回答したものでは、性の違いが役割を決定する際の要因とはなっておらず、父親も母親もお互いが、積極的に子どもに関わっていこうという意識をもっている傾向にあった。このことは、前述した柏木恵子の「子ども・育児による親の発達」という先行研究の中でも述べられており、本研究でも同様の結果がでているといえる。また、事情がある場合は別として、「父親・母親が二人そろっていればお互いにフォローし合うことができること、子どもの発達にとって父親・母親が絶対に必要であること」を強く意識している傾向にあった。
これに対して、「関わっていない」と回答したものでは、性の違いが役割を決定する際の一つの要因となっているようだ。また、子どもに対して、父親が母親と同じように関わることは無理だと考えており、母親がそうした父親の考えを支持し、従来の性役割観を受け入れていることがうかがえた。そして、父親と母親のどちらか一人いれば十分とまではいわないが、「いなけりゃいないで何とかする、その人のモチベーションや周りの環境次第」と回答しており、子どもにとって父親・母親は絶対に必要であるという強い意識を父親自身がもっていない傾向が見られた。
以上、@父親の育児への関与、A子育てに「関わっている」と強く認識している父親と「関わっていない」と感じている父親との行動の違い、B意識の違い、という三つの視点から分析を試みた。そして、その結果をまとめると次のような二点になるかと思われる。
一つは子育てに「関わっている」と強く認識している父親では、性役割観が流動的で、父親・母親の両方が子どもにとって絶対に必要だという強い意識をもっている。
二つめは、子育てに「関わっていない」と感じている父親では、性役割観が固定的で、父親・母親の両方が子どもにとって絶対に必要だという意識をもっていない。
つまり、本研究の目的は、父親の子どもへの接し方の背後にはどのような意識があるのかを明らかにすることであった。子育てに関して子どもへの接し方の背後には、父親自身が「性役割観が流動的であるか、固定的であるか」、「父親・母親が積極的に子どもに関わっていこうという意識があるかないか」、「父親と母親の両方が子どもにとって絶対必要だと意識しているかいないか」という違いがあり、この意識の違いが行動に違いとなってあらわれたとここでは考えられる。
したがって、「1.問題の所在」において、先行研究として紹介した柏木惠子の研究結果を実証できたといってよさそうである。

4.成人学習者の特徴と学習プロセス
以上、今回は家庭という領域に限定されているが、本研究で、個人が持っている子育てにおける意識と行動の間には相関関係があったことを考えると、我が国の男女共同参画社会への移行をさらに推進するためには、個人の意識の変革が必要だと思われる。
そこで、成人に対して変革の主体者となるための学習の機会を提供し、その内容をさらに充実させていくことが必要だと思われる。
ところが、女性問題や男女共同参画の問題は、これまで女性のみの問題であると捉えられる傾向があった。したがって、女性を対象とした学習に偏ってきた経緯があることは前述のとおりである。
しかし、男女共同参画社会実現のための学習は、前述したように、個性に応じた選択による学習というよりも、男性にも女性にも共通した解決課題と捉え、男性も女性も、ともに参画した学習が望まれているのである。
ここでは、男女共同参画社会の実現に向けた成人男女の学習のあり方を考えていくことを目指しているが、まずその前に、従来の成人学習者の特徴と成人教育の内容を確認する必要があると思われる。
成人学習者の特徴としては、いくつかあげられるが、その中の一つである「経験が豊富な学習者」4)であることに着目したい。
そして成人教育は、経験を学習の方法として用いることや、経験を学習の資源として用いることを基本概念としてきている。経験というものは、一人ひとりが、自分のまわりの世界を理解する方法、身につける前提、もっている信念や知識を形作っているものである。したがって、新しい学習のプロセス(変化と成長と変容のプロセス)においては、これまでの経験が土台を形成しており、過去の経験を無視することは不可能である。5)
しかし逆に、学習者の経験が学習を禁じたり、学習と矛盾したり、あるいは学習への制約となる場合もある。6)そこで、学習者のニーズを満たしていく学習だけでなく、学習者が現在もっている前提を乗り越えていくための学習の機会をも与えることができるならば、今までもっていた価値観や前提が検討され、さらに学習の選択の幅が広がると思われる。
このような「価値観や前提への問い直し」をパトリシア・A・クラントンは、著書『おとなの学びを拓く』の中で、メジローの概念である「意識変容の学習」であると紹介している。
この「意識変容の学習」とは「自己を批判的にふり返ろうとするプロセスであり、自分の経験についてもっとはっきりと包括的、統合的に理解できるようになる」7)学習であるという。さらに、ある女性が通っている夜間コースのほかの女性たちが、自分とは違って夫の夕食を作るためにとんで帰らないことに気づき、彼女自身に疑問を投げかけ、ふり返るというメジローが示した例をあげながら、クラントンは、さらに次のような主旨のことを述べている。
「ふり返りのプロセスは、前提が問い直されているのに気づくことから始まり、ただ単に『そうか,そのように考えたことはなかった』で終わる場合もあれば、人生上の危機にいたる場合もある。前提に気づくと、続いてそれらを検討したり、明らかにしようとしたり、考えたり、じっくり思案したりする。……このふり返りは、おのずから前提が妥当であるかどうかを考えることにつながっていく。自分自身の前提を問い直す場合、前提は正しかったという結論に至ることもあるし、前提が妥当でないと考えられた場合は、前提は変更され、意識変容の学習がおこる。この前提の変更は、一人ひとりのパースペクティブ、世界観の変更につながり、その結果、変化したパースペクティブに基づいた行動が生まれてくることが多い」8)という。

5.男女共同参画社会を目指した成人学習の基礎課題
以上が、成人学習者の特性と意識変容の学習のプロセスである。
ここで主張したいのは、このような学習のプロセスは、男女共同参画社会に向けての学習の内容・方法を考えるのに参考とすることができるだろうということである。
なぜなら、社会学的に見れば、山村賢明が著書『日本の親・日本の家庭』で言及しているように、社会生活の表層にあらわれるような男性、女性のあり方の違いは、文化によって規定されたものであり、子どもの社会化の過程を通じてつくられるものである。9)それだけに、仲間集団、学校、職場、近隣社会、マスメディアなどの日本の社会の至る所に、潜在的に、そして根強く存在している。男女共同参画社会を実現するためには、社会化の過程でつくられてきた価値観や前提から脱却すること、つまり意識を変革することが必要だと考えられる。そこで、本論文においては男女共同参画社会実現のため、価値観や前提から脱却し、新たな行動に向かっていくための学習のモデルの一つを提起したい。
学習の形態については、従来から用いられている、学習者を主体とした「参加型学習」であることはいうまでもない。
そして、女性問題における一般的な学習の流れ・内容は、認知→認識→コミュニケーション→表現・実践→評価10)とされている。学習は、まず第一段階目として、学習者が社会における性差別の存在や自分自身が「男は○○」「女は○○」といった固定観念にとらわれている意識に気づくことから始められる。
このような気づきを促す方法としては、女の経験をKJ法で洗い出す、コンシャスネス・レイジング、コラージュ等をあげることができるであろう。
次に、性役割および性役割パーソナリティの形成、性差別を生み出す社会構造、セクシャリティ神話の構造などについて理解し、認識を深め、批判することができる力を養うことが第二段階目である。その方法は、講師による女性学講義、学習者自身が自分や家族の生活時間調査をする、地域の福祉施設や学校教育のあり方等を調査する、メディアの具体的な表現内容をチェックする、裁判の傍聴や女性に関わる法律や執行状況を具体的に認識する、自分史をまとめる、物語・小説・映画・漫画・テレビなどにおいて男女像がどのように描かれているかを具体的に鑑賞し分析する等である。
さらに第三段階目としてあげられるのは、ジェンダーについて日頃感じていることや考えていること、講座を通じて気づいたこと、認識したこと、それらをもとに考えたことを話し合うことである。その際、討論、アサーティブネス・トレーニング、ロールプレイ、演劇等による自己表現等が効果的な方法であろう。
そして、次は、アート・ビデオ制作、講座や調査の報告書・記録集の制作、自治体行政への参画、市民運動への参画等により、具体的な課題を設定し、解決に向けて実践することである。
さらに、学習者自身が自らの学習成果を評価するとともに、講座の企画者・主催者も講座の成果や問題点を評価するというのが最終段階である。
以上が、従来の学習の流れ・内容と方法である。
しかし、固定的な前提・価値観をもつ学習者が、学習を行うことにより前提の源を問い直し、新たな価値観を身につけ、変化したパースペクティブに基づく行動を開始していく際に、他者との間に摩擦が生じることもあるだろう。その時、男性と女性が現実から逃げずに、現実を受容し、自己主張(相手を傷つけずに自己主張)にとどまらない相互理解を根本とした問題解決を実現することが必要であると思われる。そこで、個々の環境に応じた解決を行なうにあたり、対話が有効な手段の一つであり、重要な役割を担っていると考えられる。このことに関しては、伊藤友宣の次のような言及が参考になると思われる。

話せば違いが分かるというのが対話の本質である。意見、立場、利害の違いが明らかになれば、違いやお互いに相容れない部分を認めざるを得ぬ残念さを共通の残念さとしながらも、とにかく話し合う関係から逃げない限り、意外な譲歩や寛容がどちらからともなく生まれてくる。つまり、対話は続ければ続けるほど対立葛藤の部面を止揚していくものである。11)

また、河合隼雄は「対話する人間」のなかで概ね次のように述べている。

真の対話は、相手の欠点に触れたり、自分の弱点を露呈することになり、苦痛を伴う。また、日本人は言葉で表現することより、お互いに察し合うという伝統を持ってきたので、対話が簡単にできるはずがない。しかし、現代は家族内でも対話を必要とする時代になってきた。……家族が本当の「対話」を望むなら決死の覚悟がいる。いつも楽しく生きることばかり考えて話し合っていても、意味深い対話にはなり難いのだから、シンドイことも必要とあらば共にやり抜くところに家族の存在の意義があると思われる。12)

両者とも、「対話」とは苦痛を伴うものであるが、苦痛を伴いながらもあえて挑戦していくところに対話の意義があり、課題の解決に向けた対話の果たし得る役割と可能性が大きいことを言及している。また、これらのことは、男女平等に関する法律や諸制度が整備されてきてはいるものの、今もなお、男女共同参画の推進には多くの課題を抱えている我が国において、大きな希望の光となることであろうと思われる。
つまり、これらが、真の男女共同参画社会を実現するために、「対話」が有効な手段の一つなのではないかと考えた、現段階においての理由である。
したがって、従来の学習の流れの中に、「対話」の重要性や方法等を学んでいく学習段階を加え、学習モデルの一つとして提起したい。今後は、「対話」能力を養う学習に関して、成人学習者であることを念頭におき、学習の内容・方法等を検討していくことが、男女共同参画社会実現を目指した成人の学習の基礎課題であるといえよう。

引用・参考文献
1)労働省女性局「女子雇用管理基本調査」1996

2)柏木惠子「子ども・育児による親の発達」 『子どもの発達と父親の役割』ミネルヴァ書房、1996、p.71

3)中野由美子「はじめの3年間の子どもの発達と父子関係」 『子どもの発達と父親の役割』ミネルヴァ書房、1996、p.47

4) 辻功・伊藤俊夫・吉川弘・山本恒夫 『概説生涯学習』第一法規、1991、p.168

5) パトリシア・A・クラントン著 『おとなの学びを拓く−自己決定と意識変容をめざして』鳳書房、1999、pp.79-80

6) パトリシア・A・クラントン著 『おとなの学びを拓く−自己決定と意識変容をめざして』鳳書房、1999、p.203

7)パトリシア・A・クラントン著 『おとなの学びを拓く−自己決定と意識変容をめざして』鳳書房、1999、p.210

8) パトリシア・A・クラントン著 『おとなの学びを拓く−自己決定と意識変容をめざして』鳳書房、1999、p.207-208

9) 山村賢明『日本の親・日本の家庭』 金子書房、1986、p.215

10) 国立婦人教育会館女性学・ジェンダー研究会編著 『女性学教育/学習ハンドブック〔新版〕』有斐閣、1999、p.200

11) 伊藤友宣『家庭のなかの対話』 中央公論社、1998、pp.170-171

12) 河合隼雄『対話する人間』 潮出版社、2000、p.108

 


戻る