『教育研究所紀要第5号』文教大学付属教育研究所1996年発行

大学教育における体験学習の意義

−人間学・実存心理学の視点から−

土沼 雅子(文教大学人間科学部)

1.はじめに

 平成6年から7年にかけての1年間海外研修に出していただいた。その間私自身が、多くのワ−クショップに参加し、3か所の禅センタ−に泊まり込み自分を見つめ、自分の教師としてのあり様についても考えた。これまでの生き方、仕事、そして残りの人生でとりくみたいこと、自分らしい在り方、さらに日本という国、社会、文化、教育、等々、まさに自分の実感にもとづき、自分の内面を深く問い直す作業にとりくむことができた。心から尊敬できる教授やセラピスト(心理療法家)たちとのであいも数多く体験した。まさに体験学習であった。また、サンフランシスコのユング研究所、統合教育研究所、パロアルトのトランスパ−ソナル心理学研究所など大学院コ−スでも体験学習のプログラムが多く取り入れられているのを知った。米国滞在中に参加した国際トランスパ−ソナル学会においては、かならず一発表につき、体験ワ−クが組まれていて、会場の参加者も全員、体験をしてからプレゼンテ−ションを聞く構成になっていて、日本の学会とは違って、非常に生き生きした活発なものであった。

 これまでも、私は体験ということ、実感ということを大切にしてきたつもりであったが、一層時代の動き、意識の変化を肌で感じた。 帰国後、私自身が教師として変化したのを感じた。教師としての私の微妙な変化に相応して、当然学生たちの反応もちがってきた。教育的人間関係では、教師のありかたが学生に与える影響はとても大きい。学生の成長を願うなら教師も成長しなければならない。教師の成長とは、教育の方法、技術だけでなく人間としての成長、魂の成長をここではさしている。教師の心の反映が学生の反応でもある。教師と学生のあいだに非言語的コミュニケ−ションが成立し、反応しあい、出会い、学びの構造が出来上がる。学生の全ての反応に意味がある。学生が意識しようとしまいと学生は自己表現している。例えば、遅刻、お喋り、あくび、居眠り、サボり、眼の輝き、やる気、等々。それらは勿論学生個人の問題かもしれない。しかし、私にたいして表現されるこれらの反応や態度は教師としての私と彼等、両者のものだ。したがって授業とはダイナミックないのちのかかわりの場と考える事ができる。

 私は学生がさまざまなことに気づき、成長していくのを見ることに喜びを感じている。否、成長しなくても、そのまま、その人らしくそこにいるだけで十分である。しかし、もし学生が苦悩し、探し、求めているなら、私のできる範囲で援助したいとおもっている。そのために、きづき(awareness)をますための演習や体験的ワ−クをときどき取り入れている。 

 最近の学生たちは、内面の世界に触れる事を極端に怖がりつつ、他方ではとても飢えてもいる。しかし、そのとっかかりが分からないのである。高校までの教育の問題もおおきい。日本の教育全般の見直しも必要である。そしてとくに大学教育の危機、そして見直しが問われている現在、筆者が試行してきた体験学習の一端を紹介しつつ、その意義を考え、今後の教育実践の方向性を提案したい。

2.人間中心の教育

 ここでいう「人間中心の教育」とは human-istic education ,person-centered educ-ationと呼ばれているものでロジャ−ズ(C.Rogers )が1951年に『student-centered teaching』を発表したことの流れのなかから起こってきたものである。畠瀬(1990) によると「Dewey以来の児童中心主義、経験主義にもとづく教育理念と方法に大きく影響されながらも、クライアント中心療法の知見とスキルを取り入れながら、新しく現代的に発展させつつあるもの」である。

 佐治(1983) によればロジャ−ズは講演のなかで「もし私が教師だったら、自分に次のような質問をするだろう」というテ−マで、次の七つのポイントをあげているという。長くなるが、重要な点なので引用ておきたい。

(1)成長を続け、学習している人の内側に私は入ることができるでしょうか。私は批判的な態度にならないで、この世界を理解することができるようになるでしょうか。

(2)私自身、このような若い人々との関係の中で真の人間となり、共に学ぶことができるような、心を開いた、自由に表現しあえる相互関係をつくることに賭ることができるでしょうか。このような若い人々との集中的グル−プ関係のなかで、私はあえて自分自身になることができるでしょうか。

(3)私は、個人一人ひとりの興味をみつけだし、それぞれが好きなようにその興味を追求していくことを認めることができるでしょうか。  

(4)私は、若い人々が自分で最も大切にしているもの、自分自身と自分をとりまく世界について、大きく目を開き、粘り強く好奇心を燃やすことを、持続することに援助できるでしょうか。

(5)人間や経験や書物といったあらゆる種類の資料−−それはかれらの好奇心を刺激したり関心を高めたりするものですが−−に若い人が触れられたりする場合、私は創造的になりうるでしょうか。

(6)創造的な学習や活動の前触れともいうべき、奇妙なまとまりのない考えや、激しい行動や表現を、私は受容し育てることができるでしょうか。このような創造的な考えをうみだす、時には風変わりな人格の持ち主を受容することができるでしょうか。

(7)若い人々が統合された人間−−感情が知性に、知性が感情にゆきわたり、表現が全人の表現となるように私は援助できるでしょうか。

 この姿勢は学習の援助者、そして学生の可能性をひきださねばならない教育者の態度として肝に銘じるべき基本原理である。

 筆者の場合は、クライエント中心療法を基礎にしつつ、人間性心理学、実存的人間学、トランスパ−ソナル心理学、ゲシュタルト療法、論理療法、トランスパ−ソナルセラピ−を背景に持つ。マスロ−は「精神的本性は我々のしるかぎり、本質的に悪ではなく、むしろ中立的なもの、あるいは積極的に「善」であると考えられる。」と述べ、この精神的本性を抑えようとするよりも、むしろこれを引き出し励ますことによって、人は健康になり、生産的になり、幸福になることを強調した。筆者もこの考えに賛成するものであり、本来的なその人の可能性、潜在を引き出すために本人がきづきを増すことだと考えている。換言すれば、従来の伝統的立場の教育が知識の伝達に重点を置くのに対して体験的理解と自己理解を中核に据え、生きた学習と自己実現をめざすものである。

 その場合の要件として、教師が権力をもつだけでなく、教師も学生も「平等の地平に立つ人間」(畠瀬1990)として共に成長して行けるような風土と姿勢が基本となる。そしてその方法のうちのひとつが、体験学習であり、真の対話であると筆者は考える。

3.体験学習

 体験学習(experiential learning) とは柳原(1988) によれば「学習者の『いま、ここで(here and now) 』の体験を基調にして学習をすすめる教育方法である。それについて読書して学んだり、講義をきいたり、討論を通してといった知識レベルの学習とは対比的に、学習しようとする内容をできるだけ直接に経験することによって学ぶという学習プロセスのことである。」言い方をかえると、学習者自身の主体的体験を明確化し、指摘したり、観察、分析し、新しい行動を選択、試行していく、つまり仮説化していくプロセスが重視される学習法であるといえる。

 体験(Experiencing) 指摘(Identifying)分析(Analyzing)仮説化(Hypothesizing)の頭文字をとってEIAHということもある。とくにこのサイクルでは気づき(Awareness)ということが大きな役割を果たすわけである。個人よりも小集団で共に学ぶことにより協調性、創造性、自己表現力、共感性などが身につき、自己尊重、他者尊重の姿勢が育成されていくと筆者は考えている。とくに人間の心理・行動や人間関係の学習には有効である。

4.対話と対決

 人間中心の教育の理念の達成には対話が中心的方法である。対話によって気づきや、深い自己理解がしょうじる。また他者への共感とともに他者理解、個々の存在の尊重もうまれ、集団への認識が促進される。

 このことは、オ−センティック・リレ−ションシップ(authentic relationship),つまり正真正銘(本物)の関係に生じる事である。柳原(1988) によれば、「現代の管理論では、マネジメントは基本的にはオ−センティックな関係が要請される」という。つまり、強制力を用いず、援助的で正直で、変化に柔軟であることによって、信頼関係を生み出そうとするものである。教育の場においてもこのような関係が教師と学生との間につくりだされることがのぞましい。

 体験学習においては教師は学生を中心に、学生の学習を援助し、学生がさまざまなことに気づき、自己成長をとげていくのを助ける役割を担っている。この関係はロジャ−ズ(C.Rogers)は「援助関係」(helping relationship) と呼び、権力を元にした関係とは区別している。

 このような関係は教師と学生個々人との対人関係(interpersonal relations) を生み出す。もし可能ならば、ブ−バ−(Martin B-uber)のいう「我−汝」の関係、つまり、人間学的意味での「出会い」をもつことができれば、教師も学生も共に成長し、学ぶ事の意味と責任に目覚める事ができるのではないだろうか。

 真の対話をするためには、ときには「対決」(confrontation)が必要となる。「対決」は他者が気づいていないその人の言動の側面を気づくように、その他者にむきあうスキルの一つである。「対決」するには、ある程度の自我の強さが要求されるため、教師は学生の自我の強さをみぬくことも必要である。「対決」によって、人は自己にふれ、自己の実存の意味に気づき、自己決定できるようになった例も多くある。そして、より一層自分を見つめ、自己責任をとることができるようになるのである。このことは、実存心理学の一般目標でもあるが、まさに、大学教育の基本でもあろう。

5.自己を実現し、個性をいかす

筆者は一年生に「人間学概論」を講義している。実存心理学と人間性心理学の概論的なところを筆者なりの組み立てと解釈で進めている。200人程の学生を相手にしているが、私語でうるさくて授業がしにくいとか、学生たちがやる気がないと感じたことは一度もないと言ってよい。これは筆者のはなしかたが良いということでは全くない。むしろ話しかたはおもしろくないと思っているが、学生たちは、食い入るように聴いている。彼等にとって、心、人間性、自己、成長そしてその病理といったテ−マは、おそらく高校までの教育のなかで触れてこなっかったものであろう。それまでの学校教育の間、あるいは受験勉強の間にかさかさに乾いた心に水がしみこむようにはいっていくようである。青年期という年代の特徴ともいえる。また最近の時代的背景の影響もあるだろう。人々は物質だけでは満足できないことを知ってしまっている。人々の関心は人間関係や自己実現の問題、そして心や魂の問題へとうつってきている。

 ある学生は次のような感想を答案用紙の裏に書いてくれた。「……自分が考えていたことが、学問として語られるのに驚いた。もやもやして言葉にできないことだった。この授業は2時間目なので、普通はガヤガヤ騒いでおおいそぎで食堂へ行くのだが、授業が終わってもみんなし−んとして、うつむき加減で階段を降りて行く。みんな自分のことを考えているのだ。僕はたいていトイレによって泣いてしまいます。よくわからないけど、心がじ−んとするのです。」

 この学生が特別感じやすいかといえばそうではない。人間科学部の学生だからというだけでもなさそうである。全学部合同の300人の授業の時に授業終了後、教室一杯の拍手が沸き起こった。とにかく学生たちが心の問題にいかに興味・関心をもっているかということを思い知らされた。

 平成5年の文部省刊「新しい学力観にたつ教育課程の創造と展開」に今後の日本の学校教育のすすむべき方向がつぎのように示されている。「これまでの教育においては、基礎・基本として知識や技能を中心にとらえる傾向が見られたが、これからの教育においては子供たちの豊かな自己実現に生きて働く関心・意欲・態度、思考力や判断力などの資質や能力を十分に育成していくことが求められてくる」と。ここに「自己実現」という言葉が使われていることに注目したい。この指針は高等教育の場にも十分あてはまることである。刀根(1996) は約15年前から「自己実現」という視点にたち、全人格を関わらせて学ぶという立場からの教育実践を行って来たといい、彼独自の授業方法を、事例として示してている。その中には筆者が過去に用いて来た方法もいくつかふくまれている。刀根もいうようにこれはロジャ−ズの「カウンセリングマインド」を意識して行われている。筆者の場合は「カウンセリングマインド」を育てるということは第一目標ではなく、自己をみつめ、自己の実存に気づき、自己信頼を得て、自分の人生に自己決定できることを、暗黙の目標にしている。当然の事であるが、重複するところ多く、技法も重複するが、教師の立っている位置が違う。筆者の場合は実存心理学、トランスパ−ソナル心理学の立場にたつので、自己関与(commitment) 、自己存在の充実(the fulfillment of one's being) 、真の自己(self) とのつながりを強調したい。   

6.授業に組み込んだ体験学習

 <事例1>「人間科学の基礎」(1年次)

 構成的グル−プワ−クを援用し、親睦を深め、信頼感を育てる。

a.ブラインドウォ−ク

 信頼の目かくし探検ともいわれ、二人組みになり、一方が目を閉じ、もう一人が目を閉じた人を教室以外のいろいろな所へつれて行く。目を閉じることで、目の不自由な人の不安感の一端に気づいたり、視覚以外の感覚が敏感になることも感じたりする。

b.おおへび

 先頭から一列にならび、前の人の肩に両手をかける。先頭以外の人は全員目を閉じる。先頭の人は後方の人達に注意しながら戸外を歩く。

c.グル−プに分かれて自己紹介 

 「好きな花」「好きな料理」「交通機関」「季節」「色彩」などを使い、「なぜ、その花が好きなのか」の理由を語りながら自己紹介をする。

d.一本の木を描く

 クレヨンを用いて一本の木を描き、その説明をくわえることで自己紹介する。木に自己像が出やすいし、自分を語るよりも抵抗が少ない。

e.ネ−ムゲ−ム

 円くなって席につく。順番に名前をいっていくが初めの名前から全部言わねばならない。名前を覚えるのによい。

f.自分の大切なもの

 普段、大切にしているものをひとつ持ってくる。それがどうして大切かを言える範囲で話す。

g.私の四つの窓

 johari's window ともいわれている。対人関係のなかでの自己を理解するひとつの図式である。  

h.私のしたい20のことがら

 三か月後に死ぬと想定し、やりたいことを20個あげる。自分の欲求や願望、価値に気づくきっかけになる。

 <事例2> 人間学特殊研究

i.A子の物語

 中学生A子をめぐる家族の物語を読み、各自、好感度の順位をつける。その後5人グル−プに分かれ、話し合う中で、グル−プ順位をつけさせる。各グル−プの順位を発表する。人の好き嫌いは様々であり、自分の投影であること、そして、すべての人に好かれようとすることは無理な事が学べる。

j.ブレ−ンスト−ミング

  「うそをつく心理・動機」「精神的大人とは」「なぜ、人は他人をいじめたくなるのか」「いじめをなくす対策」などのテ−マを5人のグル−プで話し合い、できるだけ多く模造紙に書かせる。その後グル−プごとに発表する。時間をかけて自分の頭と心をフルに使う体験になり、自分の意見を出す自己表現の練習になる。

k.ゼミ合宿でエンカウンタ−・グル−プ

 テ−マのない話しあいを重ねる事により、防衛や仮面がとれ、率直な感情表現がなされていく。その結果、メンバ−のあいだにより深い関わりが生まれる。人と人との出会いを体験することを目的にした訓練のグル−プである。その過程を通して自己理解・他者理解が深められる。人間学の方法としての現象学的アプロ−チ、内側からのアプロ−チに必須の共感的態度を養うために効果的方法である。ただし、あまりに自我の弱い人は自分の感情に触れるのが困難なために不向きなことがある。

l.夢のグル−プ

 筆者の著書(1994) にもすでに書いた事であるが、ゼミ合宿で「夢のシアタ−」をやることがある。誰かの夢あるいは全員の夢を劇にしてグル−プ全員で演じるのである。その場合、夢主が総監督で役者としても演じることになる。

 夢は集合的無意識につながっている。その無意識はすべての人につながっているからこそ、夢は人をつなぐことができる。そして心の深みの豊かな創造力をわきあがらせる。自分のなかのみずみずしい創造力とエネルギ−を一度体験すると、自分という存在に信頼を持てるようになる。無気力で自信をもてない学生に自分に触れる体験をしてもらいたいしそこから、学問にたいする真の興味を抱かせたいという思いがある。         

m.その他、身体表現を使ったエクササイズ

 ここでは紙数の関係上、詳細は省略するが、いずれも自分のなかからでてくる考え、感情、体験とふれあうことで、自分の体験を信頼し、自己信頼を増し、他者、社会、自然にたいして開かれていくことをめざしている。

 勿論、このような体験学習は授業の初めや合宿で取入れており、通常の時間では個人研究が進められている。

 <事例3> 人間学演習のなかでアサ−ション(自己表現).

bb対人関係についての講義と毎回、話し合い、ロ−ルプレイを入れている。4年生なので就職面接に役に立つように「自分を売り込む」練習をすることもある。

 アサ−ションとは、自分の考え、感情、気持ち、意見などを正直に率直に表現することであり、自分の人間としての基本的人権を守り、また他者の基本的人権を守ろうとすることである。

 後半は各自の対人関係の問題をグル−プの協力のもとでロ−ルプレイで改善する練習をする。

 自己表現という問題はたんに言動上の問題だけではなく、現代社会の病理、自己疎外、いじめの問題、摂食障害・アルコ−ル・ドラッグなどのアディクションの問題、共依存などとも深く結び付いていることを体験的に学ぶことになる。

 いくつか学生の感想を上げて見よう「私はいつも他人にあわせて、だれかの望む私でいました。気持ちを抑えて、我慢することで周りの人とうまくやっていくことを選んできました。そしてすごく辛くなってしまっていました。授業を通して、もう少し自分の気持ちや意見を出してもいいのだなと、許された気がします。……」「「アサ−ションの練習に参加し、あの出会いがなければ今の私はいなかったんだと思います。終りにみんなからほめてもらったことがうれしくて、曇りがちだった気持ちが、幼い頃に持っていた何の曇りもない感情を味わうことができました。何と表現してよいか分かりませんが、人間としてやすらぎがもてるんだという不思議な力がもてました。……」「アサ−ション、これを真剣に考えるようになって私の中の視界がパ−ッと開けたように思います。この考えによりより人間を理解することができ、本当の人間らしく、本来の姿を味わうことを知りました。……」「中でもロ−ルプレイをして、良い所をほめるということをしたことがとても印象に残っている。あの時、人をほめていて、何かとてもうれしかったし、他の人がほめている時も、ほめられているのをみていてもうれしかった。自分はほめられるのが苦手だったが、うれしさをどう表現できるかなど妙にりきんでいたように思う。何を言っても言わなくてもうれしいと思っているんだなと伝わって来て何か嬉しかったように思います。表情などで自然に表現していることに気付いたからでしょう。……」「私は内向的で言いたい事を言えないのを性分としてあきらめている部分があるんですが、この一年を通して少しずつ思い直すようになりました。これはとても新鮮な感じです。なにしろ私は高校時代からずっとそんなことかんがえたことがなかったのですから。……」「自分の知らない自分をみいだすことができました。それは行動はかなり柔軟なのですが、考えかたに偏見的な部分があったことです。私は、『こんな自分をあるがままに受入れいきよう』というアサ−ションでいくことにしました。それによって気分がさらに楽になり、自然と他人も自分も一人の人格として尊重するアサ−ションも身についてきました。今はとてもハッピ−です。他の人々、みんなを認めてあげたいです。もう、世界中に向かって『愛してる』と叫びたい気分です。」

7.新しい大学教育:ホリスティック教育

大学の教育を考える上で、大学の目的は何かということを考えることが先決であろう。大学の一つの目的は専門分野における専門家の養成・指導者の養成ということがある。もう一つには教育基本の第一条に述べられているように人格の完成である。金子(1984) 日本人教育の目的と題して「道徳的精神を持ち、健康であって常識に富んだ人間育成を目標とし、日常身辺の問題を合理的に処理することのできる知識と技術とを身につけた人間の教育こそは、世界に生きる日本人教育の目的であると考えるのである。」と述べている。この一文はもっともらしいが、このなかに明らかに差別の構造が含まれている。「道徳的」「健康」「常識」「合理的」という言葉の中身について深く考える必要がある。このような言葉のもとでいかに多くの人々が差別され、疎外され、我々自身の人間性が抑圧されてきたかをおもわざるをえない。

 今や人々の意識は明らかに進歩している。もう過去の古い体質に戻ることはできない。「人格の完成」という言葉の意味についても今後多くの議論が必要である。ただここでは、社会の機能が大学教育におよぼす影響と同時に大学教育が社会生活に貢献することの重要性も認識しておくべきであろう。現在の大学生たちをみると、社会、友達、親の影響や圧力で入学してくる場合も少なくない。このような学生は意欲も目的もないということがある。この現象が大学教育全体に影響を与えているといっても過言ではないだろう。筆者がアメリカで聞いた話しでは、大学生を12歳ぐらいとして扱う現象が起きているそうだ。そのために職業選択の問題も重要になっているという。また、自殺者、拒食、薬物、アルコ−ル、精神障害などの重いケ−スが増えている。日本でも大学の大衆化、学生の質の多様化と共に同じような現象が起こってきている。女子学生が増加しているのに、就職についてはいぜんと女子学生が不利な状態にあるし、差別がみられる。多様化といえば留学生、中年の人達の入学や聴講、身体障害や情緒障害の人達の入学も増えていくであろう。大学の民主化という点で良い方向へ進んでいると思う。そして私たち教師はもう一度カリキュラム、教育内容、教育方法、指導方法についても考え直す必要に迫られているのである。新しい大学、開かれた大学をめざすことは、社会の要求に応えると同時にさまざまな新しいタイプの学生の要求にも応えるなければならない。知識の伝達のみではなく、大学は学生の全人格的発達をめざすところと考えたい。そのためには、これまでの日本の偏った教育ではなく、教育の質を根本的に転換する理念が必要である。高橋(1996)は、「ホリスティックな教育」としてつぎのことを強調している。筆者なりにキ−ワ−ドをあげると、人間の弱さや心の痛みへの共感、自他のつながり、多様な個性の調和、開かれた覚醒のネットワ−ク、出会いと対話の場の創出、障害や老病死の受容と畏敬の念、などである。ホリスティック教育という言葉は1990年にアメリカのシカゴで開催された「第一回ホリスティック教育国際会議」に始まった。

 すでに述べてきたように、筆者の言葉で言えば、「自己実現欲求を満たす」教育であり、「創造のプロセスを大切にできる」教育である。これはカウンセリングやサイコセラピ−のめざす人間像でもある。ロジャ−ズは「自己が真の自己自身である」という言葉で述べている。上の事例の感想に示されるように学生が体験学習を通して、気づき、成長していくすがたのなかに筆者は自己受容、自己主張、自己信頼、自己一致、自己表現、他者理解と他者受容、柔軟性、責任感などをみることができる。このようなホリスティックな教育は今後大学教育のなかでもより具体化をしていく必要があるということを、今回は示しておきたい。

文   献

土沼雅子『夢と現実』二期出版,1994p.146-148

畠瀬稔『エンカウンタ−・グル−プと心理的成長』創元社,1990,

平木典子『アサ−ショントレ−ニング』日本・精神技術研究所

金子孫市『21世紀をめざす日本の教育システム』教育開発研究所,1984,p.364

佐治守夫・飯長喜一郎編『クライエント中心療法』有斐閣,1983,p.202-204

高尾・平出・手塚・吉田:喜びはいじめを超える,春秋社,1996, p.175-188

刀根良典「『カウンセリングマインド/教育相談の姿勢』を生かした授業は『喜び』を育てる」(『喜びはいじめを超える』1996,p208-22

柳原光『人間のための組織開発シリ−ズ』プレスタイム,1984