『教育研究所紀要第5号』文教大学付属教育研究所1996年発行

ワイマル共和国における学生の動向

−学生のナチス支持に対する一考察−

渡辺博明(文教大学教育専攻科卒業生)

はじめに

 1918年、ベルリンに革命が勃発しドイツ帝国は倒れ、新たにワイマル共和国が成立した。しかし、この民主的制度をもつ共和国は、ナチス(国民社会主義ドイツ労働者党、Natio-nalsozialistischeDeutsche Arbeiterpartei,NSDAP)が権力を掌握したことにより、成立後わずか数十年にして崩壊した。

 権力獲得を目標とする政治集団は、多数のインテリや専門家の帰順を必要とする。それらは単に知識階級として必要であるばかりでなく、政治集団が相互に対立する諸階層を統合し権力を獲得するために、そのイデオロギーに党派性を超えた国民的普遍的性格を付与する集団が必要不可欠なためである(1) 。ナチスにおいて、この知識人(2)の重要な一部は、ヒトラーが政権を獲得する以前にナチスに参加した「ナチス学生同盟(Nationalsoziali −stischer Deutscher Stude-ntenbund,NSDStB, )」の学生であった(3)。  

 共和国の学生は、ナチスが政権掌握を果たす 2年以上前、ドイツ学生自治組織連合 (Deutscher Studentenschaft,DSt, 各大学の学生自治組織〈Allgemeiner Studentenau −sschuβ =AStA〉の全国組織)の第14回全国学生大会において、ナチス学生同盟の活動家リーナウ(W.Lienau)をその第一議長に選出したことにより、他の社会層に先行してナチズムに「自発的に同質化」(4) した。彼らはナチスの知識人として、そのイデオロギーを創出し、それに大衆を吸収する力を与えた。

 共和国の学生についての国内における研究は、同盟の学生がナチス運動に果たした知識人としての役割、およびその思想についての田村栄子氏の研究(3)(5)。共和国における学生運動についての黒川康氏の研究(6)。伝統的な学生団体のナチス支持についての川手圭一氏の研究(7) がある。

 本稿では田村氏の研究にならい、学生を社会の代表的文化財を創り出し、それを擁護するという社会的機能を果たす知識人として捉える。そのうえで、なぜ彼らがナチスの知識人としての道を選択したのか、彼らの思想形成に多大な影響を与えたであろう教育制度のあり方側からその原因について考察する。

第一章 ドイツにおける「知識人」

    第一節 教養市民層

 ドイツにおいて知識人は教養市民層(Bi−ldungsb・rgertum )という、高等教育による教養を基盤とし、教育上の資格証明に立脚した特権的身分として社会に存在した(1) 。学生は大学教育を受けているという点で教養市民層の一員であった。

 教養市民層の起源は18世紀に求められる。当時、プロイセンにおいてヴィルヘルム一世のもと絶対主義体制が確立され、強大な君主権力による上からの権威的な近代化が進められた。この体制を支えていたのは官僚や軍隊の上層部を独占していたユンカー(Junker)であった。商業資本の発展が遅れ、国家の主導により経済が発展したドイツにおいて、中産階級は国家官僚の中に現れることとなる。 社会的地位の上昇をめざした貴族外の階級は、大学教育により専門的知識を身につけ、国家官僚制内の学識的職業に就き、中央集権化にともなう行政機構の強化過程においてその地位を強化していった(2) 。

 彼らの地位基盤である専門的知識は、プロイセンにおいて17世紀後半から18世紀初頭にかけて設立されたハレ大学やゲッチンゲン大学といった、伝統的スコラ哲学にかわり、官房学を主な教授内容とする大学で身につけたものであった。さらに18世紀後半には、このような大学において教養が、新人文主義者の手によって社会的意味を持つものとして確立された。

 新人文主義者は、古典語を単なる学術的な共通語ではなく、ドイツ文化の源流であり人間性の発露の場とされるギリシャ・ローマ文化に分け入る言語手段ととらえ、その学習を人格的完成に至る道であると定義した。

 この新人文主義運動は純粋な学問的欲求によるものであったが、彼らの理想と成果は、結果的に教養を単なる専門的知識から貴族の持つ世襲的権威に匹敵するまでに引き上げることとなった。このような動向に対し、官僚は行政に関する実践的訓練に基づいた専門的教養を求めることと同時に、教養がその身分を保証するものとなることについても積極的に肯定する態度をとった。この官僚の姿勢は「教育と官職の結合」(3) として、教育制度上に出現する。

 1770年代末以降、絶対主義体制の確立に伴い実施された高等教育分野の行政機構の再編成は、19世紀初頭のプロイセン改革において中等教育に関する二つの規程が法制化されたことにより完了する。まず、1810年に中等学校教師に関する国家試験が導入され、大学卒業が事実上中等学校教師の要件となった。その結果、国家の直接的監督下にある大学の中等学校への影響力が強化された。次いで1812年、大学入学資格(「アビトゥア」Abitur)試験に関する規程が公布され、中等学校において実施される卒業試験に国家的統一性と国家資格的性格が与えられ、その結果、大学独自に規定されていた入学の諸条件にも国家的制約が加えられることとなった。また資格試験の実施においては、規程にしたがった試験を実施できると認定されたラテン語学校(4) にのみ試験実施の権限を与え、このような中等学校に「ギムナジウム(Gymnasium )」の名称を与え、この規定に対応する形でギムナジウムの教科課程の統一がはかられ、同時に、国家公務員職に就く際の条件として入学資格の取得が要求された。

 さらに、ウィーン体制下のもと教育と官職の結合は確固たるものとなった。1812年のアビトゥア規程では、大学側の入学試験を廃止しなかったのでギムナジウムを卒業していない生徒が大学に進学するルートが残されていたが、1834年に規程が改定され大学独自の入学制度が廃止され、ギムナジウムの第8・9 学年に在籍することが受験資格とされた。

 法制度の整備により、教育資格と社会的地位とが完全に結合することとなり、その結果、貴族階層に代わり教育資格により証明される教養に立脚した教養市民層が国家を担う階層として確立した。教育制度の編成によって社会構造を突き破り社会的地位を確立した教養市民層は、この後の時代には自分たちの特権と社会的地位を擁護するために教育における諸要求の制限を主張する勢力となる。 

第二節 「大衆」の出現

 ドイツ諸国家もまたプロイセンの中等教育制度をモデルにしたため、ドイツ全土において特権的なギムナジウムとそれ以外の中等学校が存在することとなった。ギムナジウムが他の中等学校に対して正式に優位におかれたことは、人文主義的理想が形骸化し社会的特権の防衛装置に変貌していく過程の始まりであった。

 ギムナジウム以外の中等学校は法的な認知を受けないまま、ラテン語学校、都市学校、実業学校(Realschule)などさまざまな名称を持ち、商工業の事務や技術的職種に必要とされる非古典的実学的教育内容を提供していた。1830年代に入るとプロイセンの産業革命は急速に進行し、これら実学的教育内容を提供する実業系中等学校学校の整備が必要とされた。1832年、プロイセンにおいて公布された「高等市民学校および実科学校でなされるべき卒業試験に関する暫定規程」(5) により、実業系中等学校は法的認知を受けることとなり、卒業試験に合格した者に中・下級役人となる資格が与えられることになったが、大学進学に関しては認められなかった。このような措置は、新興の商工業市民層の大学進学を事実上阻むこととなり、教育制度の階層的閉鎖性を示すものであった

 1848年の三月革命において、教育制度に対する批判は保守勢力に対する民主的攻撃の様相を呈し、中等教育に関する徹底した改革案が多くの分野から提起された。改革案では実業主義的志向が強く打ち出され、また中等教育の統合が求められた。しかしながら、三月革命の結果、かえって保守化が進んだためこの要求は実現されなかった。

 19世紀後半においても政治的には保守反動勢力が強かったが経済的には産業革命により工業化が一層進展し、その結果として実業系学校の重要性はさらに高まりその地位向上を求める声も強まっていった。このような政治と経済の対照的な動きの中で、教養市民層はギムナジウムの特権的地位を固持させつつ、実科系学校に一定の権限を与えていくという妥協的教育政策を進めていく。

 1856年のギムナジウム新教科過程により、古典語の時間数が増加、数学・自然科学が減少され、ギムナジウムの人文主義的性格が強化された。その上で、1859年の「実科学校・高等市民学校の授業・試験規程」により実業系学校をラテン語を必修とする第一種実科学校と必修古典語をもたない第二種実科学校とに区分した。この規程の大学進学に関しては、実科ギムナジウムに哲学部への入学権が認められただけであった。

 さらに、1871年のドイツ帝国の成立により経済が急速に発展するが、1878年の皇帝暗殺未遂事件以降、保守主義もまた強化した。1882年の新教科課程により、第一種実科学校が実科ギムナジウム(Realgymnajium )、第二種実科学校が高等実科学校(Oberrealschule)へと名称変更され、ギムナジウム・実科ギムナジウム・高等実科学校という 9年生中等学校の三類型による複線型教育制度が確立した。しかし、大学進学に関しては、1859年の規程からほぼ変化はなく、基本的にギムナジウムの特権的地位は維持され続けた。

 19世紀末になるとドイツには大衆政治の登場と、帝国主義的膨脹に伴うナショナリズムの高揚という大きな二つの政治現象が出現し、教育政策に対しても大きな影響を与えていく。 前者に関しては、様々な大衆組織が結成され、中等学校の完全同格化が大衆的請願運動として発生した。この運動は新興の商工業市民層を中心に行われ、その意味で、中等学校を巡る政治闘争は教養市民層と新興有産市民層との抗争の場であった。

 後者は、皇帝ヴィルヘルム二世自のギムナジウム批判に始まる。批判の内容はカリキュラムにおける国家的・国民的教育、身体訓練の欠如であった。背景には近代化を進める軍隊からの実学的教育の要請があり、植民地主義者からの外国語教育批判などがあった。

 こうして、1892年の新教科課程では古典語教育の一定の後退、および君主主義・国家主義的色調の強化がみられたが、制度的な改革はなされなかった。この結果は有産市民層、軍部どちらの立場にとっても不満足なものであり、学校制度の根本的改革へと足並みをそろえることとなり、その結果、1901年の新教科課程により三系列の中等学校が大学進学に関して同格化された。  

第二章 ワイマル共和国

第一節 共和国の教育制度

 共和国はドイツの敗戦が明らかとなったことにより発生した革命の結果成立したものであるが、共和国の担い手であった社会民主党は革命による国内の混乱を恐れ、その抑圧に腐心した。その結果革命は不徹底な形で終結し、旧支配勢力および制度が社会のあらゆる分野で残存した。そのため、共和国の状況は左右どちらの陣営からも満足できないものとなった。加えて、憲法公布の直前において、ドイツに苛酷な負担を強いるヴェルサイユ条約が調印されたことにより、国民の間にも反共和国的な心情が高まることとなった。

 このような基本的性格をもつ共和国において、教育制度はどのように規定されたのか、第二帝政期において教養市民層と産業資本家層との政治的対立が露呈した中等教育政策を中心に検討していく。

 プロイセン君主政のもと官僚によって支配されていた教育制度は、共和国において「党派的対立の対象」(1)となった。しかしながら共和国は常に多党分立状態にあり、教育政策上の決定は妥協の産物でしかなく、行政上旧来の構造が存続し続け、学校管理・監督において、官僚制からの人的連続性が保持されていた。

 ワイマル憲法には「教科と学校(Bildung und schule )」という一節が設けられ、9ヶ条の教育条項が制定された。しかしながら、国家の統一的な学校法は制定されず、「国民学校(Volksschule)」の最初の4年間を義務教育とすることを規定した基礎学校法(「基礎学校および予備学校廃止に関する法律」(Gesetz betreffend die Grundschulenund Aufhebung der Vorschulen)のみが全邦で効力を持ち、教育制度の構成は各邦が独自に決定・実施することとなった。その際、プロイセンの教育行政改革がモデルとされた。

 プロイセンにおける教育改革の基本的理念は、従来の古典的教養による一般的陶冶ではなく宗教・ドイツ語・歴史および国家公民科・地理を基盤とした、「ドイツ的人間」の育成を目指す「ドイツ的陶冶」であった。このような理念に基づき、古典語をカリキュラムに持たない 9年制中等学校「ドイツ高等学校(Deutsche Oberschule )」および 7年制の「上構学校(Aufbauschule)」が新設された。しかしながら、先述の政治的状況により従来の複線型システムもそのまま引き継がれていた。1924年の「プロイセン中等学校制度の新秩序(die Neuordung des preuβisches h・−heren schulwesens )」では、複線型システムにおける中等学校の類型のそれぞれに特有の任務があるとし、さらに中等教育全体の任務として、ヨーロッパの文化闘争において「ドイツ精神」の前進をはかりドイツ国民を指導する能力を備えた「教養階層」の育成を課した。

 この理念に基づき、改革ではギムナジウムに古典文化、実科ギムナジウムに西欧的近代文化、高等実科学校に自然諸科学、ドイツ高等学校にドイツ学と、それぞれの学校類型に応じたドイツ的陶冶思想に基づく特定文化領域が奨励され、学校類型に統一性をもたせるものとして、ドイツ的精神の育成、つまりドイツ的陶冶という教育理念が定義された。

 しかしながら現実は、改革の理念を学校類型として代表していたドイツ高等学校および上構学校の生徒数は相対的に極めて低く、また、ラテン語必修校であったギムナジウムおよび実科ギムナジウムは、帝政末期に法的同格化されたものの、実質的には生徒数・アビトゥア取得者数・大学進学者数のいずれにおいても70%前後を占めており(2)、人文主義的教養は依然として重視されていた。このように、改革理念は人文主義的教養の伝統の壁に阻まれ確立されなかった。

 古典的人文主義的教育重視の傾向は、中等学校制度の複線型のシステムとあいまって、先述の教育制度の階層的閉鎖性をも維持する作用を持った。共和国期の生徒・学生の出身階層について、中等学校生徒数および大学学生数が漸次的に増加するにつれ(3)、中間層出身の生徒・学生は大幅に増加するが、人口構成で過半数を占める労働者層の子弟はほとんど進学できずにいた(4) 。

第三章 ドイツ学生運動

第一節 学生自治会の結成

 ドイツ革命では、革命勃発時に学生のほぼ80%が戦地にいたため、ほとんどの学生が革命に加わらなかった。また、国内にいた学生の多くも、先述の教育制度の階層的閉鎖性の恩恵にあずかる者の一部として、保守的立場にあった。しかしながら、労働者層の立場に立ち、社会主義の意味での大学改革・革命を要求し行動した学生も、少数ながら存在した。この社会主義学生グループは、ベルリン、ミュンヘンなど20地域の大学で行動を起こし、大学教育の機会均等、学生の経済的負担の軽減、学生・教職員の言論・出版・結社の自由、入学・任用の際のあらゆる差別の廃止、大学運営への教職員・学生の参加、学生の自治組織の結成、社会主義・社会学・教育学などの講座の設置といった改革を要求した(1)。彼らの試みは、革命および共和国の性格上、実現されることはなかったが、学生の自治組織は共和国成立とともに、ほぼドイツ全土の諸大学で結成されていった。

 この自治組織は「アシュタ(AStA=Allge-meiner Studentenausschuβ)」と称される学生会(Studentenschaft )として結成され、1919年に開催された第一回全国学生会において、その全国組織である「ドイツ学生会連合(Deutsche Studenschaft =DSt)」が結成された。この連合はヴェルサイユ条約によって縮小された国境を越えて、ドイツ本国のみならずドイツ語文化圏であるダンツィヒ、オーストリア、ズデーテンの学生会を含んでおり、ドイツ民族による統一的国家の形成を期待する「大ドイツ主義(Groβdeutsch )」的傾向を持っていたが、大会は現体制を肯定しワイマル国民議会に連帯の挨拶を送ったことに示されるように、それを政治的に実現させる意思はなかった。大会は連合の今後の方向として、学生の経済的・社会的救済を促進させるために必要な活動を行うこと、宗教的政治的な問題については審議・決定しないことを決議し、同時にプロイセン文部省に対し学生会が大学の公的機関としての承認および大学行政への参加を要求した。

 これに対し文部省は、1920年「プロイセンの諸大学における学生会の形成に関する布告」(2)を発して、共和国の精神に則ることを条件に承認し、強制的会費(Zwangsbeitrag )徴収権を認めた。これにより学生会は大学全体の財政運営会議への参加という形で大学行政へ参加することとなった。この布告の主たる内容は総合大学あるいは工科大学のドイツ国籍をもった全学生が学生会を構成するとし、学生会の規約については、第一に外国人学生の学生会への参加については学生会独自に規定できる。第二に他の組織との関わりについては学生会の自由裁量に任される。第三に政党政治的ないしは宗教的目標は排除されるというものであった。

 ところで、共和国の大学を中心とする知識人は共和国に対する態度により「帝政派」、「理性的共和派」、「共和派」に類別される。大学教授の大多数は敗戦と革命から生まれた共和国を承認することなく、これを嫌悪する「帝政派」であった。マイネッケ(Friedri-ch Meinecke)らに代表される少数派の「理性的共和派」は、心情的には君主制主義者であったが、共和国を現実として承認した。さらに少数の「共和派」はラートブルク(Gu−stav Radbruch )らを代表とするもので、深い信念から共和国を支持した(3)。プロイセン文部省の立場はむろん共和派であり、学生は「大ドイツ主義」的志向を持ち、民族主義的ではあったが、共和国には肯定的な態度をとっており、「理性的共和派」に分類される。共和国発足時、プロイセン文部省と学生が「学生の自治」という民主主義的基盤において協力態勢を築いたという点に関して、著しい不徹底におわったドイツ革命の数少ない成果の一つとされる。

第二節 民族主義的学生団体の台頭

 一方、伝統的な学生団体である「ブルシェンシャフト(Burschenschaft)」や「ドイツ学生同盟(Vereine deutscher studenten)」は依然として存在しており、さらに、ヴェルサイユ条約に対する国民的憤慨の中で、「ホッホシュールリンク(Deutscher Hochschulri-ng)」や「ヴァッフェンリンク(Waffenring)」などの民族主義的(v・lkisch(4))な学生団体が相次いで結成された。これらの団体は、ヴェルサイユ条約によるドイツのオーストリア併合禁止を不満とし、スローガンに「大ドイツ主義」を掲げていた。これらの団体に大戦後、オーストリアから急激に展開してきた反ユダヤ主義が大ドイツ主義と結合し、民族主義的原理による大ドイツ建設をめざす「大民族主義(Groβv・lkisch)」が支配的となった。この勢力は学生会全体に影響を与えるまでに成長した。

 民族主義的学生の台頭は、学生会連合内部に学生会の構成規約に関する対立を引き起こした。彼らは構成員の血統に重点を置く「民族原則(Volksburgergrundsatz)」を主張し、連合指導部と対立した。このような動きに対し、プロイセン文部省は1922年、プロイセンの学生会が反ユダヤ主義的立場から学生構成員を制限したり、人種理論が支配的な学生会と結合することを禁止した。しかしながら、同年開催された学生会連合大会において「ドイツ語圏の大学の学生会により結成されること」「ドイツ国内の学生会はその構成員をドイツ国籍をもち、ドイツ人の血統を有し、ドイツ語を母国語とする学生とすること」「在外ドイツ人の学生会はその構成員を自主的に決定すること」等、学生会の構成規約を規定したヴュルツブルク規約を定めた。

1923年のルール占領以降、学生と政府の関係は微妙なものとなる。学生会連合は政府のルール抵抗にあらゆる支援を与えると声明したが、同年 9月に政府が履行政策に転ずると、ホッホシュールリンクは反共和国の姿勢を明確にし、11月の「ヒトラー一揆」後は騒擾事件の中心的存在となった。

 ワイマル共和国発足以降の社会的・経済的に混乱した 4年間を通じて学生の中に民族主義的傾向が強まっていった。そのためにまず学生会の構成員規約をめぐって文部省と意見の相違が現れ、さらにホッホシュールリンクを先頭に反共和国の立場での政治化の傾向が現れることとなった。学生運動は全体として当初の「理性的共和派」的傾向を薄め「民族派」への移行を始め、これに対しプロイセン文部省は、学生が学生会連合当初の精神を大きく逸脱したと受け止めた。このような背景により、いわゆる相対的安定期において文部大臣ベッカー(Cari Heinrich Becker)の積極的な学生政策が開始される。

第三節 反ベッカー闘争

 ベッカーは学生の唱える大ドイツ主義が常に人種主義、直接的には反ユダヤ主義的排他性と一体になっていることを危惧し、1926年、学生会構成員をドイツ国籍の全ての学生とすることの再確認、および政府による自治会財政の監督権の強化を主たる内容とする新学生立法を議会に提出した。この法案成立を機に学生は激烈な反ベッカー闘争を展開する。ベッカーにとって、学生会は共和国の精神を遵守してこそ存在意義があるのであり、この新法はその最低限の要求を具体化したものであった。しかし、学生会連合は第四回全国大会においてその構成員に関する規約を独自に定めていたため新法を自治侵害として受け止めた。ベッカーは、新法の施行を強行手段で行うことをせず、その施行について1927年12月までにプロイセン学生会が直接選挙で決定することとした。そして学生が新法を拒否するならば、学生会の国家承認が廃止されることを再確認した。学生会連合は自治権擁護の立場から、民族主義的学生団体は大ドイツ主義的立場から新法を拒否する態度を決定した。学外の保守勢力が学生を支援するに至り、この対立は学園闘争から政治闘争へと変化していった。この闘争の中で学生は反共和国的な政治団体との接触により反共和国的姿勢を強めていった。

 1927年11月に行われた直接投票で、学生は新法を反対77%で拒否を決定した。学生をワイマル民主主義に誘導しようとした「共和派」は民族主義の台頭の前に敗北した。ベッカーの学生政策は結果的に学生の共和国への反逆を招くこととなった。

第四章 ナチス学生同盟

第一節 ナチス学生同盟の発足

m民族主義的思想を強めつつ、反共和国的態度を明確にして、政治運動へとかかわっていった学生を政党政治に吸収したのが、ナチス学生同盟である。

 同盟の発足は、1926年2月、ナチスの機関紙『フェルキッシャー・ベオーバハーター(V・lkischer Beobachter)』誌上においてナチス党員である学生テンペル(Wilhelm Te−mpel)とポドリッヒ(Helmut Podlich)は「あらゆる国民社会主義学生へ」という題で、ナチスの目的である「国民的」で「社会主義的」な民族共同体(Volksgemeinschaft )を目指して闘うこと、および学生が民族(Volk)の指導者になるために、ナチス内に独自の学生の組織をつくることを呼びかけたことに始まる。この呼びかけに応じる形で、各大学において党員である学生によって同盟は形成された。同盟の具体的な任務は、同盟規約によると、大学内部において先述のナチスの目的を主張し、宣伝することであり、行動的には「民族の統一」をドイツの再生のための前提とおき、そのために労働者と学生との結合を図ることであった。同盟が発足した1926年は、共和国の相対的安定期の頂点にあたる時期である一方で、ナチスが党内左派の封じ込めにより党体制をほぼ確立し、大衆運動として飛躍的に発展する体制を整えていた時期であった。また本稿第三章で述べたように、共和国発足時には一応共和国を支持した学生も、文部省との闘争の中で反共和国的傾向を強めていた時期であった。この時期同盟は、知識階層を批判・憎悪していたヒトラー(1)に無視され、学生の自発的意思によって創立された。

 同盟創立の呼びかけの中で述べられている民族の指導者としての学生の自己認識は、同盟独自のものではなかった。共和国の学生は、1920年の学生会連合第二回大会において、自己を「強大な影響力と重要な責任」を持った「崇高な天職(Beruf)」として規定しているように、民族の指導者としての強いエリート意識を共通のメンタリティーとして持っていた。ではなぜ同盟の学生はナチスに加わることで、民族の指導者になろうとしたのであろうか。

 学生は、既存の政党に対してベルサイユ条約の履行政策および労働者を搾取する金融資本を重視する姿勢への批判がり。マルクス主義に対してはそのインターナショナルな姿勢への批判があった。また、学生会および伝統的な学生団体に対しては、教育制度の閉鎖制により生成される旧来の階級構造の中に浸りきっている「ブルジョア的安逸」精神への批判があった。このような学生にとって、ナチスこそ「ブルジョア」世界に対置される「国民主義」と「社会主義」を結合した第三の「革命」を目指していると思われた(2)。そしてナチズム運動に参加することで「第三帝国」の創設に貢献することとなり、その貢献によって学生は「第三帝国」において民族の指導者になれるであろうと期待したと考えられる。 同盟の具体的な活動は、学生および既成の学生団体のブルジョア的精神を批判し、勃興しつつある労働者を開放する運動に加わり、民族の指導者としてのアイデンティティーの回復を訴えるものであった。学生のブルジョア的精神への攻撃から出発した同盟は、同時に民族と政治を統一的に把握する政治理論を構築していく。まず、他の政党が理念を犠牲にし、大臣の椅子を得るための自己目的であるのに対し、ナチスはドイツ民族による共同体を形成するという目的を果たす手段に過ぎず、目的が達成されたならば消滅するものであると定義し、政治的な概念である政党から政治性を消し去った。次に「民族」を文化的にとらえ、その核心に「人種」を据えた。すなわち、文化は人種が生み出したものであり、それゆえ文化の統一のためには民族における人種の統一性が必要であるというように民族を文化的側面からとらえ、ユダヤ人を国際金融資本の搾取者とする見解ではなく民族固有の文化創出のためにユダヤ人排斥を正当化した。そして、人種の純粋性を守ることが現実の政治・経済体制との決裂を意味する本当の革命となるという「反ユダヤ人革命論」を構築した。

 同盟はナショナリズムの極限的表現ともいうべき方向を、全ナチズム運動の先頭にたって指し示した。

第二節 飛躍的発展

 同盟が飛躍的に躍進するのは1928年、ヒトラーと親交のあったシーラッハ(Baidur vo-n Schirach)が同盟委員長に就任してからである。先述のように、ヒトラーは当初学生を独自に組織化することに消極的であったが、この時期、ナチスは国会内での勢力を急激に拡大させ、合法的政権奪取に向け資本家層・知識階層への接近を強力に進めていた。主として中間層を支持基盤としたナチ党が、社会的上層に接近し始めたた時、知識階層を嫌悪していたヒトラーにとっても、ナチズムを信奉する知識階層は中間層と上層とをつなぐ媒介者として獲得すべき対象となった。この時点において、学生をナチスに吸引していくことにも積極的となり、同盟はナチスに組織的に位置づけられることとなった。

 このような状況から、指導者交代後、同盟はその体制をナチスの下部組織へと改変していった。1929年の新規約により、同盟委員長はヒトラー個人により任命されることになり、その委員長は指導者原理の貫徹により大学班長を無条件に解任でき、そして大学班長は班員に対して強力な指導性を発揮できることとなった。また、その任務はナチズムに固有の問題を学術的に研究すること、大学でナチズムの思想を拡大すること、ナチスにおける将来の指導者を育成することと定めるというように、ナチスにおける知識人としての役割が強調された。また、反ユダヤ人革命論とも関係して同盟員の血統が重視されるようになった。このように体制を整備した同盟は、初期の活動のように他の学生団体を批判するのではなく、同盟との共通点をあげ、共闘できる存在として警戒心をとき、一般学生に浸透していった。同盟の主張は反ユダヤ人革命論に基づき、大学において、ドイツ民族の解体現象を防ぐと考えられた優生学・人種学などの講座を開くこと、大学および学生会をドイツ民族のみのものにするという「民族のための学問・大学」論を展開した。加えて、その学問・大学を担い、支える学生を「民族のための学問」の追求を通じ、「民族の指導者」になるべきものと定義した。この「民族の指導者」論はワイマル末期、閉塞状況に直面した学生に新たな方向を示すものであった。

 同盟の思想は、当時、多くの学生に支配的であった民族主義的な共同体国家創出の理想と、その目的は同質であった。また、伝統的学生団体がナチスおよび同盟に対し距離を保っていたのは、それが政党性を持つためのみであった。それゆえ、ナチスに最後まで反対したカトリック系学生、社会主義系団体、少数の民主主義的団体、極少数の共産主義系団体以外の学生の多くが、ナチスが大衆運動として成功を収めていくにつれ、同盟に賛同していった。

 1931年、同盟はその数は全学生の2 %にすぎなかったものの、同盟員リーナウが学生会連合の議長席を獲得し、さらに地区長ポスト・中央委員ポストの過半数を獲得した。

 続く1932年には学生会連合への指導者原理の導入が圧倒的賛成で採択された。これはナチスが政権を掌握する 6ヵ月前のことであった。

おわりに

 18世紀、封建主義体制から絶対主義体制への移行期における官僚制の確立過程において整備されていった教育制度は、職業上の地位を貴族階級の世襲的特権から開放する機能を果たした。さらに新人文主義運動の結果、高等教育が専門知識の修得から人格的完成へとその目的を変質させたことにより、教育上の資格証明は貴族階級の血統に代わる社会的地位基盤となった。

 封建的身分制度を打破する社会的機能を果たした教育制度は第二帝政期の産業の発展による産業資本家層の社会的上昇をその教育理念である新人文主義により阻む要因となり、教育制度をめぐる政策決定の場は階級闘争の舞台となっていった。

 不徹底に終わった革命の結果成立したワイマル共和国は様々な政治勢力の妥協の産物であったため、教育政策においても統一的な策がとられず、多くの矛盾が存在した。

 教育政策が社会・経済の現実に対応しえなかった状況において、その教育制度に基く学生のエリート意識もまた現実と隔絶したものになっていた。現実と隔絶したエリート意識による、現状において充足不可能と宣告されたプライドの維持をはかった結果がナチス支持であったと推測される。

注記

はじめに

(1)W,コーンハウザー『大衆社会の政治』辻村明訳、東京創元社、1961,p.26

(2)Th. ガイガー『知識階級』鈴木幸尋訳、玄海出版社、1953,p.22-35

(3)田村栄子「ワイマール共和国における学生とナチズム」(『西洋史学報』5,1977,)p.33-37  

(4)プラッハー『ドイツの独裁−ナチズムの生成・構造・帰結−』・、山口定・高橋進訳、岩波書店、1975,p.447

(5)田村「『ナチ学生同盟』の思想 1926−1928年」(『史学研究』149,1980)

(6)黒川康「ヴァイマル共和国におけるプロイセン文部省とドイツ学生運動」(『西洋史学』85,1972)

(7)川手圭一「ヴァイマール共和国における学生運動−フェルキッシュな学生のナチス支持をめぐって−」(『史友』20,1988)

第一章

(1)社会における教養市民層の存在については、ウェーバーが端的に述べている。

マックス・ウェーバー「ドイツにおける選挙法と民主主義」1917, 『政治論集』1,中村貞二・他訳、みすず書房、1982,p.266)

(2)プロイセン一般ラント法(1794年)では、学位保持者や学識的職業の人々を特別のエリートとして扱ってはいないものの、貴族・農民・市民の身分を定義した後に「国家の奉仕者」という章において官僚層の義務や特権について規定しており、出生による伝統的な階層区分と並行して職業と教育による新しい分類がなされている。フリッツ.K.リンガー『読書人の没落−世紀末から第三帝国までのドイツ知識人−』西村稔訳、名古屋大学出版局、1991,p.11

(3)ペーター・ルントグレーン『ドイツ学校社会史概観』望田幸男監訳、晃洋書房、1995,p.45-48

(4) 8世紀にその起源をもつ教会により運営された、キリスト教とラテン語を主な教育内容とする学校。

(5)M.クラウル『ドイツ・ギムナジウム 200年史』望田幸男他訳、ミネルヴァ書房、1986,p.58

第二章

(1)M.クラウル『ドイツ・ギムナジウム 200年史』望田幸男他訳、ミネルヴァ書房、1986,p.132

(2)Datenhandbuch zur deutschen Bildu- ngsgeschichte,Bd.・,1.Teil,S.160,278,・,1.Teil,S.208-224; (望田幸男・田村栄子『ハーケンクロイツに生きる若きエリートたち−青年・学校・ナチズム−』、有斐閣選書、1990,p.96,100)

(3)Kater,Studentenschaft,S.209;(潮木守一『近代大学の形成と変容−19世紀ドイツ大学の社会的構造−』東大出版界、1973,p.229)・H.graven,Gliederung der heutigen Stu−dentenschaft nach statistischen Ergebni-ssen,in:M.Doeberl(Hrsg.),Das akademischeDeutshiand,Bd.・,Berlin 1930,S.337;(田村「学生とナチズム」p.37)

第三章

(1)田村栄子「ドイツ革命期(1918〜1919年)の社会主義学生グループの『大学革命・革命』」(『史学研究』159、1983)

(2)川手圭一「ブァイマール共和国における学生運動−フェルキッシュな学生のナチス支持をめぐって−」(『史友』20、1988)p.55

(3)ピーター・ゲイ『ワイマル文化』到津十三夫訳、みすず書房、1970

(4)「v・lkisch」の概念は以下を参照とした。野田宣雄『教養市民層からナチズムへ』名古屋大学出版局、1988、p.52-56

第四章

(1)アドルフ・ヒトラー『わが闘争』黎明書房、第二巻、1961,p.236

(2)山口定「疑似革命論の生成と射程」(『書斎の窓』有斐閣選書、1980,p.295)