『教育研究所紀要第6号』文教大学付属教育研究所1997年発行

SPEEDにみる義務教育の崩壊

 中村 修也(文教大学教育学部)

1、SPEEDの登場-崩壊への序曲-

    欲しいものは  いつもあふれているから
    立ち止まってる  暇はないよね
    刺激がもっと欲しい
    [Body & Soul  作詞・作曲:伊秩弘将  編曲:水島康貴]

  1996年8月、少女グループSPEEDが芸能界にデビューした。島袋寛子12歳、今井絵理子13歳、上原多香子14歳、新垣仁絵15歳の4人である。
  沖縄出身、小学校6年生。なぜか、これまでとは違う衝撃を受けた。一つの理由は、デビュー曲の「Body & Soul」のヒット性とも共存している。その伏線には安室奈美恵やMAXの存在がもちろんある。明るい彼女たちの表情には、自分たちのせいいっぱいを生きているという喜びがあふれている。あっけらかんとした快活さが生むエネルギーへの恐怖感もある。受け止め側があまりにも通念的になりすぎているのだろうか。小6・沖縄。この事実は直感的に義務教育の崩壊を予感させる。
  彼女たちの先輩歌手・安室奈美恵も実は、中学を放り出して上京している。ある番組で1年以上遅れて、沖縄の中学校に卒業証書を貰いに行くというのを放映した。事実上の自主中退である。しかしその中学校の新校長は、テレビを意識してか、卒業証書を安室奈美恵に手渡した。なんの説教もなく。
  この時、安室奈美恵はどの大学卒業者より高給取りであった。はっきりいって、卒業証書も彼女には不要であった。彼女自身はそんなものをいまさら貰いに行こうとは考えたこともなかったであろう。それをディレクターが、「安室、故郷で遅れ馳せの卒業式」という図式を番組的に描いたから、実現してしまったにすぎない。
  「学校に行けるだけありがたいと思え」「勉強したくてもできない人がたくさんいるんだ」そんな言葉を何度となく聞いた。これらは正論と考えられた。だが、勉強したくない人がいること、学校がいきたくない場所である人の存在は完全に無視されている。彼らはいつも思っていたはずだ。「どうして自分たちは学校に行かなけりゃならないんだ」 と。誰もそれには答えない。ただ、「それがお前のためなんだ」と繰り返すのみである。

    たとえば、今、少子化が問題視されている。それがなぜ問題となるのか。増え続ける老人人口を支える若者が減ると困るから。しかし60年も我慢すれば、少子化時代の子どもは老人となり、結果的には年金生活者である老人がある時期から減少することを意味する。実際、ちょっと前までは人口増加が問題となり、未来の食糧不足が深刻に考えられていたではないか。少子化現象は、人口増加に歯止めをかけるよい結果ではないのか。
  次に少子化は教員採用に影響を与えている。子どもの数が減ると採用すべき教員が減り、教育界では就職難となる。しかしそれは子どもはすべからく教育機関に入るべきであるという大前提に立っており、子ども全員に教育が必要かどうかという根本的問題は、教育界の誰にも考えられていない。これもまた子どもの立場からの意見ではない。

2、明治の教育制度

  教育とは何なんだろうか。この素朴な疑問に答えることのできる人は何人いるだろうか。近代に入って、教育はあたりまえの存在となり、戦後は権利ともなった。「義務教育」を受ける権利があるというのは、言葉だけを見るとなんだかおかしい響きを持つ。義務をうける権利とは、いったいどんな権利なのだろうかと。しかし現実には義務教育の義務は教育を受けさせる保護者達にあり、教育を受ける権利は子ども達にあるわけで、義務と権利の主体が違うわけだから問題はないのである。
  近代教育におけるが如き教育は、前近代においては一般庶民には開かれていなかった。いや武士階級においてすら、武と文は分かれていたともいえる。ましてや農民が「読み書き・算盤」を学ぶことは否定されていた。なぜなら、知識は上級階級への反抗を生む源となり兼ねないし、また余計な知識は解消されない身分性や封建制の矛盾を露呈するだけで、苦悩の種となるからだった。
  ところが、近代になって日本は教育を制度として取り入れ始める。なぜだろうか。
  理由は明解である。「富国強兵」のためである。木戸孝允は明治元年12月に、学制に関して、「普通教育の振興を急務とすべき建言書案」[註1]を朝廷に提出している。

    臣準一郎謹て奉建言候、王政維新未出一年、東北之反徒尽伏其罪、従今勉て武政之専圧を解き、内は人民平等之政を施し、外は世界富強之各国江対峙する之思召、断て毫  も不容疑儀と奉恐察、微臣も夙に広大之朝旨を奉体し、不顧驚鈍尽微力、熟将来之形勢を推考仕候に、一般人民無識貧弱にして、終に今日之体面を不一変時は、譬二三之英豪朝政を補翼仕候共、決て不能振興全国之富強して、勢王政も亦不得不陥専圧、元来国之富強は人民之富強にして、一般之人民無識貧弱之境を不能離ときは、王政維新之美名も到底属空文、世界富強之各国に対峙する之目的も必失其実、付ては一般人民之知識進捗を期し、文明各国之規則を取捨し、徐々全国に学校を振興し、大に教育を被為布候儀、則今日之一大急務と奉存候、今日より端緒を被為開候とも、固より不尽多少之歳月ば不能挙其実は当然之道理にて、匁卒文明各国之形様而巳を模擬いたし候は、必良図に有之間敷、却て国家人民之不幸を醸成候も難計と奉存候、宜速に御決定被為在度奉仰願候、誠惶々々頓首再拝
      戊辰十二月二日     木戸準一郎敬白

  木戸の言わんとしていることは明確である。今のままでは西洋諸国に日本は負ける。日本が負けないためには国民が賢くならなければならない。そのためには学校が必要だ、ということである。岩倉具視・大久保利通・伊藤博文等も同様の意見を持っていた。案外、教育の必要性なんてものはそんなものかもしれない。国家を家におきかえれば簡単である。教育ママは「将来困らないように勉強しなさい」という。つまり賢くなって、いい会社に入ってお金を儲けて、快適な暮らしをしなさいということだ。そのための勉強である。
  明治期はしかも学閥が形成された時代でもあった。[註2]慶応義塾の学生達が三井系の会社に優先的に入社できた事実は小島直記の小説でも知られている。会社だけでなく官公庁も学閥主義である。学閥の形成が学歴社会の基礎である。本来の能力とは無関係に、出た学校で出世が決るという試験の得意な人間にとって非常に楽なシステムが近代を通じて形成されたわけである。
   近代教育史において、木戸達が考えた教育ともう一つ、昌平学校から大学校、そして大学と進んできた系列の、大学中心の人々がいたと、倉沢剛は指摘する。[註3]倉沢によれば、木戸・岩倉達の学校感は「人民大衆の教育をめざし」たもので、「地方分権的な学校構想をつらぬいてきた」もので、昌平学校以来の伝統的学校感は、「大学中心の、中央集権的な学校構想」であり、「この二つの構想が交わることなく平行的に行われたところに、学制以前における小学校政策の矛盾と混乱があった」[註4]ということになる。
  だが両者は異なるのだろうか。一方は全体のレベル・アップによる国力増強をめざし、もう一方は一部エリート集団による国家のレベル・アップをめざしている。どちらもめざすところは同じではないか。もし、教育が他国に負けない強い国、豊かな国をめざすものなら、日本は充分それを果たした。しかも戦争に負けて豊かな国になった。ここに強い国がイコール豊かな国ではないことを戦後の日本ははからずも証明してしまった。
  豊かな国を築くということが目的であるならば日本の教育はその使命を果たしたことになる。使命を果たした教育はどうなるのだろうか。 

3、戦後の義務教育と美空ひばり

  戦後の混乱期は、体験した者でしかわからない、凄まじさがあったと予想される。MP等の外人軍人が日本の駐留地を横行し、政策も進駐軍の影響なしには決定しえなかった。そのなんとも形容のし難い混沌の中で、人々は生活と闘いながら自分の「生」を守り続けいた。映画「肉体の門」は都会の下層女性の生き様を描いている。そうした混乱の中から人々は明るさを求め、第一にヒットしたのが並木路子の「リンゴの唄」(サトウハチロー作詞、万城目正作曲、仁木他喜雄編曲)であった。この曲のヒットについて、北中正和は「敗戦後の混乱期に、青空や可憐な赤いリンゴに夢や希望を託すには、霧島昇のまったりとした美声より、並木路子のあどけなさの残る芯の強い高音の歌声のほうがふさわしいと思われたのでしょう」と述べる[註5]。とにかく、復興をめざして、国内には明るさが求められた時期であった。
  1949年には美空ひばりがレコード・デビューしている。戦後は多くの戦災孤児が出現し、孤児でないまでも、生活のために働かなければならない子どもたちが多くいた。つまり教育よりも生活が優先する時代であった。美空ひばりは、その教育感が薄弱な時代に芸能界入りを果たした一人であったといえよう。
  ひばりの家はとくに貧しい家ではなかった。父・加藤増吉は魚屋を営んでおり、母・喜美枝も実家は東京・荒川の石炭商である。ではなぜ美空ひばりこと加藤和枝が芸能界に入ることになったのだろうか。上前淳一郎はその理由の一端を両親の音楽好き、ことに母・喜美枝の芸能好きに求めている。上前は「おそらく喜美枝には、若い日の芸能の世界への見果てぬ夢を、歌のうまいわが子の上に見てみたい思いが、ひんぱんに去来した」と述べる。[註6]両親の和枝に対する熱の入れ様は、1946年の和枝の楽団デビューでも充分理解される。この年、8歳の和枝は横浜・上大岡のアテネ劇場で、4人の楽団演奏にあわせて、「お山の杉の子」等の歌を歌っている。表のポスターには「スター美空楽団演奏会・豆歌手美空和枝出演」と書かれていた。
  ひばりは、後に古賀政男が「気持ち悪い」と評するほどに子ども離れしたうまさを和枝は持っていた。母・喜美枝の努力もあって、和枝は横浜国際劇場で専属的に歌うことができるようになる。そしてそこの支配人福島通人をマネージャーにして専属を離れる時代がくる。その時の状況は、福島が出演先を決め、横浜の和枝と喜美枝を迎えに行き、舞台が終わると、福島が母娘を横浜まで送るという日々であった。ギャラは200円そこそこで3人の交通費を払えば食事代もでないという有様で[註7]、ひばりにしても、学校に通う暇などない状況であった。山口組の3代目田岡一雄がひばりを可愛がったのもアウトサイダーとしての少女歌手に悲哀をみたからと上前は述べる。

     車椅子で舞台をつとめる中年すぎの歌謡漫談も、ズック靴で地方興行して歩く十一歳の少女も、ともにまっとうな社会からは脱落した存在である。田岡もまた、生き方こ  そ違っても、そこに背を向けて極道に入った男であった。[註8]

  では、戦後の教育方針はどうであったろうか。
  昭和22年3月の第92回帝国議会衆議院における国務大臣高橋誠一郎の「学校教育法案の提案理由説明」をみよう。[註9]

     政府は民主的な平和国家、文化国家の根底をなします教育の重要性に鑑みまして、さきに内閣に教育刷新委員会を設置したしまして、日本教育制度の根本的改革につきまして、慎重審議を煩わしてまゐったのでございます。

と前置きする。そして法案実施の理由として、

     第二に、普通教育の普及向上と男女の差別撤廃について申しますと、公民たる資質を啓発して、文化国家建設の根底に培ひますることは、文化国家建設を中外に標榜する  わが国の当然の責務であります。このため義務教育の年限を九箇年に延長いたしまするとともに、その範囲を拡充いたしまして、盲聾唖、不具者にもひとしく普通教育の普及徹底をはかりたいと存じます。

  敗戦国なので「文化国家建設」と文化を標榜しているが、ようは国家建設に主眼がある。基本的には明治維新の場合と変わらないのだが、運営は単純ではなかった。一途に富国強兵を掲げられないからだ。高橋は本根部分において、「この改革案は、アメリカの教育使節団の勧告案の線にそうものであり」「この改革案の速やかな実施が国際社会における日本の信用回復の契機となることを信じ、新憲法の実施と同時に新学制実施のことも発足することに決意した」と述べる。[註10]
  戦後の教育基本法が、平和主義と民主主義を採り入れ、個人の尊厳を重視して、真理と平和を希求する人間の育成を目標としたものであることは、充分に評価に値するが、教育委員会が1948年に任命制に改編されたことに如実に現れているように、やはり上からの制度的側面が強いことも否定できない。そういう意味で、敗戦を機に、真剣に教育の刷新を考えた人達も多くいたであろうが、国家としては、まずは高橋発言にみられるように、国際的信用を得るための民主主義のわかりやすい指標として教育が取り上げられた面もある。そのもっともわかりやすい例が教科書の墨塗りであろう。
  外国向けの看板「教育」が実施されている時、国民は飢えており、闇市で食糧を漁っていた。戦災孤児が街から消えるのもずっと後である。美空ひばりが、学校を無視して営業に出ることは、当時の社会としてさほど問題にされなかった。もちろん児童福祉法の面から批判する人もいたが、それは一時的・計画的批判でおわり、ひばりの芸能生活にさほどの影響をあたえなかった。 

4、山口百恵-親からの独立-

 美空ひばりが、教育環境を気にしないで母親の意向に従って芸能界に入った世代ならば、山口百恵はみずからを救うために芸能界に入った世代ということができよう。昭和34年生まれの彼女はちょうど、60年安保と70年安保に挟まれた時代に幼年期を送った。おそらく安保闘争そのものが彼女に与えた影響はほとんどないといってもよいであろう。
  しかし、安保闘争が繰り広げられた社会そのものは、彼女の成長になんらかの影響を与えずにはおかなかった。一つは、権力への抵抗であり、もう一つは、そういった闘争を横目で見ながら自己の安寧を一心に願う「小市民」的幸福願望である。
  昭和30年代の都会の子どもたちは遊び場として、新たにデパートという場所を開拓した時代であった。もちろんデパートといっても婦人服売り場ではない。おもちゃ売り場だ。彼らがなぜそのような場所を遊び場として開拓し得たかというと、ひとえに母親との同行の結果ということがいえよう。つまり、戦後の復興を果たし、ささやかながらも生活に余裕ができ、大量生産システムによる安価な品物も商店に並びはじめた時、女性の購買意欲は徐々に高められていったのである。プチブルという言葉も生まれ、それほどではないにしても、プチブルに近づきたい人たちで世の中はいっぱいになった。母親たちはこぞって、買う買わないは別にしてデパートに出かけたわけである。すると必然的に子どもたちもデパートに行くことになる。しかし子どもたちにしてみれば、いつまでも長い時間、母親の買物に付き合わされるのはかなわない。
  高度経済成長とともにすべての生活レベルがアップしはじめた時代。それが昭和30年代以降の日本社会であった。教育会では異常なほど大学受験が加熱し、和歌山市という地方都市ですら、昭和50年頃には高校生の就塾率が90%を超えていた。浪人生が急増し、受験産業は大躍進を遂げた時代であった。
  マスコミ社会は歌謡曲を中心に黄金時代を迎える。天地真理・小柳ルミ子・南沙織の第2期三人娘についで、森昌子・桜田淳子・山口百恵の中3トリオが登場するのが1973年であった。このうち山口百恵は映画にも出演し、美空ひばりに次ぐ大スターになってゆく。歌そのものはひばりのような大人はだしのうまさはなかったが、大人になりきらない危うさを魅力として、多くの若者やおじさん達に受け入れられた。また一見冷たそうに見えるマスクはクールなお姉様、中性的な魅力として女の子達からも支持された。
  しかしこの「大人になりきらなさ」「クールな表情」は、山口百恵の本来の資質というよりは、彼女の社会への反発から生み出された面が少なからずあった。彼女の自伝『蒼い時』には次のような記述がある。[註11]
     私には父はいない。
      一つの肉体としてのあの人が地球上に存在していたとしても、私はあの人の存在そのものを否定する。
  また、こうも言っている。[註12]
      私はあの人を愛してはいない。求めてもいない。他人は、娘として冷淡すぎるというかもしれない。事実、何人かの人は面と向って私にそう言った。
  山口百恵は自分を私生児にした父を心から憎むようになる。「スター誕生」という番組から飛び出したアイドル歌手にも暗い私生活があった。彼女はその「出生」を撥ね返すが如くみごとスターになる。しかしそこにも落とし穴は用意されていた。
      私が芸能界に入った途端、あの人は豹変した。(中略)貧しさが、あの人を変えたの かもしれない。しかし、私は次から次に起こる私を中心とした金銭的なトラブルだけでもあの人を許せなくなっていた。[註13]
  平岡正明は、山口百恵と父親の関係について、「山口百恵が、母方の血に同致するか、憎悪を介在させて父方の血との戦いをつづけるかは、日本社会のありかたをその毛深い深部でうらなう与件である」[註14]と分析する。美空ひばりが母親と共に芸能界を生きたのに対して、山口百恵は、父親と決別し、母親からも独立して自らのために、自らの力で芸能界を生きたといえよう。さらに芸能界をも捨て、自分の幸せを築くため結婚引退を行い、その幸せを守るために、結婚後は芸能界に近づかない。
  山口百恵の生き方の中に教育は存在するのだろうか。もちろんある。この時代、まだまだ学歴が重要な時代であった。東京には堀越学園という高校があり、芸能コースが設けられ、一般の学生より出席日数などが大目にみられるていた。形だけでも高卒の学歴は貰える。つまり教育は不要だが、学歴は必要とされていたわけである。しかし本質的にはスターになった芸能人には学歴すら不要であったろう。だが、本質を超えて世間体として最低限の学歴を無視できるじだいではなかった。山口百恵が堀越学園には入らず、明大附属中野高校に通い、芸能人特権を振り回していないのも、そこにこだわったからだろう。しかし、SPEEDの4人はそんなこだわりさえない。あっさり沖縄を出て、自分達が活躍できる東京に出てきている。もちろん転校という手段はとっている。だが、それは義務教育という教育制度に従っているだけ、まわりの大人が気を回しているだけで、おそらくSPEEDのメンバーにしてみれば、そんなものどうだっていいのである。自分達は売れている、その事実が彼女たちにとっては唯一であり、すべてである。 

5、オフコース-学歴社会の優駿-

   オフコースは小田和正、鈴木康博という二人の男性デュオで始まった。二人の出会いは小学校の6年の時である[註15]。小田は神奈川県横浜の金沢八景の生まれ。鈴木は静岡県の修善寺の生まれ。2人は横浜日の出町にある山手学院という進学塾に通っていた。1959年に2人はその進学塾で知り合い、共に聖光学園に入学した。
  そして2人は高校時代、フォークソング・ブームの洗礼を受け、ギターを弾きはじめた。高校3年の学園祭にも出場し、喝采を浴びている。高校卒業後、小田は東北大学工学部、鈴木は東京工業大学に進学する。その後も2人のフォーク活動は続く。休みになると、鈴木が自家用車に楽器を載せて仙台まで出かけていったのだ。
  1966年、オフコースは東北地区からヤマハ・ライト・ミュージック・コンテストに出場し、みごと2位になる。ちなみに1位は「赤い鳥」だった。後に「赤い鳥」は「ハイ・ファイ・セット」と「紙風船」という2組に別れる。 最初は2人も経済的に苦しい時代があった。しかし確実にファンは増え、次第にメジャーになっていた。
  この当時のフォークあるいはニューミュージックのメンバーの中でも、オフコースの学歴は異色であろう。小田は建築家として、鈴木はロボット工学の専門家として立派に就職することが充分可能であったし、目の前にそれはあった。多くのミュージッシャンは可能性としてはいろいろあったかもしれないが、早くから音楽にべったりで、社会的に安定した就職の前にまで至ったということは少ないであろう。
  その意味で、オフコースの二人は社会的にはエリートの道を歩み、その一方で「好きな道」を歩む準備をしていたといえる。まさにエリートたる周到さといえよう。ヒットメーカーであり自ら天才を称する松任谷由実ことユーミンですら、高校時代から音楽一筋であった。彼女のファースト・アルバム「ひこうき雲」は彼女が大学2年の1973年に発売された。シングル・デビューは大学1年の時の「返事はいらない」(B面:空と海の輝きに向けて)。この2曲は高校2年ぐらいで書いたものらしい[註16]。ユーミンは高校卒業後、そのまま多摩美術大学に入学する。そして即デビューだ。天才の名もまんざらではない。    高校時代の彼女はどうだったか。彼女の言葉を借りよう[註17]。
      その前はヒップしてたのよね。高校一、二年のことは、学校以外の生活ではヒップしていた。学校ではニュートラ崩れみたいな、私服だったかな。
  ようするに学校では普通の女子高生を演じながら、外にでれば流行していたヒッピーのような格好をしていたということであろう。彼女は音楽に天賦の才をもっていたゆえ、現在のユーミンが存在するわけだが、音楽以外の社会適応性は知られていない。少なくとも大学を出て一般就職する状況が彼女の前には呈示されていなかった。
  その意味で、繰り返しになるがオフコースはまさにエリートなのである。鈴木康博の言葉を聞こう。
    安川電機に行っても、音楽をやっていてもさほど変わりはなかったと思う。(中略)  まず第一に当時はロボット工学がまだ新しいジャンルだったからだし、安川電機という会社が一番進んだ研究をしていたからなんだ。最先端でやれたわけだから、それで もよかった。音楽をやることも、おれにとっては最先端だという意識があった。つづ けていくなかで、トップに立てるんじゃないかという意識だね。だから就職しなくてもこっちをやればいいんだと思っていた。[註18]
  この突き放したような冷徹さは、まさにエリートの言葉であろう。オフコースは、俺達は勉強もできる、だから大学もちゃんと出た。だから自分の好きな音楽をしてもいいだろう、と親に社会に免罪符を貰って音楽活動をしていたともいえる。自分は普通の社会にも適応できるし、普通以上に成績も挙げてきた。でも一番好きなのは音楽だったんだ。だからいいだろう?こう言わざるをえなかったのは、虚構とは知りながらも学歴社会が厳然として存在していたからであろう。
  もし、学歴社会がなければ音楽をやりたかったオフコースが、ロボット工学をやり、建築学をやる必要があったであろうか。学歴あるいは教育制度は、彼等にとって遠回りの道筋以外の何物でもなかったのではないか。学歴は人間性を問わない。試験に合格して難易度の高い学校に入ったことだけを評価する。試験の成績が大事なのである。斎藤利彦は試験は学校による人格への烙印であると指摘する。[註19]そして、敗者という烙印を押されることの恐怖が、「生徒や親たちを競争へと駆り立てる意識の基底に作用し、競争の過剰な展開へと結びついていった」と述べる。[註20]オフコースはその競争に勝利した側の人間であったというに過ぎない。だが競争自体が意味を持たなくなった時、どうなるのか。

6、尾崎豊-苦悩する若者達-

  突然死により神話を形成した若き旗手、尾崎豊。彼は卒業を間近に自主退学する。
  尾崎豊が登場した社会では、高校中退者が増加していた。大学進学は非常にややこしくなっていた。文部省の勝手な方針変更で入試制度はくるくると変わる。成績の低い者はなんとか大学に入ってもいい会社に入れないのは目にみえていた。「醒めてる」高校生は、無駄な努力はしない。大学に入っても仕方ないなら、親や教師にうるさく言われてまで高校に行き続ける意味は彼等にはなかった。つまり学歴が意味をなす人間と、意味をなさない(正確には意味のある学歴を持てない)人間とが明確になってきたのだ。
  学校が上昇志向を維持していても、社会は閉塞し、頭がつかえはじめていた1980年代後半、若者と学校には意思の疎通がなくなっていた。社会の人口構成は頭でっかちとなり、若者は一人で複数の老人を養わなければならなくなっていた。1999年地球破滅のノストラダムスの大予言も若者達の間ではまことしやかに信じられていた。また、西丸震哉の『四十一歳死亡説』という本も出たりして、若者には未来が失われつつあった。
  それでも若者は夢を持つ。しかしいつもの如く若者の夢は学歴信奉者には認められない。尾崎豊は自分の夢に今の不満をぶつけることで何か解消するのではないかと考えた。
    少しずつ  色んな意味が解りかけてるけど
    決して授業で教わったことなんかじゃない
    口うるさい大人達のルーズな生活に縛られても
    素敵な夢を忘れやしないよ    [セブンティーズ・マップ  作詞・作曲:尾崎豊]
  1983年12月1日、尾崎豊のデビュー・アルバム「十七歳の地図」が発売された。そして高校から留年の電話が入る。1984年1月25日、尾崎は自主退学する。留年という響きは感受性の強い尾崎には耐えられなかったのかもしれない。あるいは留年を言い渡されるひ弱な高校生と、アルバムをリリースする社会人の自分とのアンバランスな状況が滑稽に思えたのかもしれない。尾崎の心象風景を落合昇平は次のように描く[註21]。
      ランドセルをしょったまま、家へ回れ右をしていた登校拒否の小学生が、やがて、  自分の歌「街の風景」を歌い出すまでに必要とした時間は、五年。年月の感じ方にも  よるが、あっという間のことに思える。
  尾崎の歌詞を聞けば誰でもわかることだが、彼は現代社会に訴えていた。ことに大人達に訴えていた。まだうまく話せない子どもたちに代わって。しかし共感を得たのは同世代の若者達だけであった。彼の歌詞を理解しなければならない“大人”は誰も聞かない。聞かないどころか、彼を売り物にしようとする。彼が自主退学してまで訴えたかったものは、現代社会には届かなかったのである。
    僕が僕であるために
    勝ち続けなきゃならない
    正しいものは何なのか
    それがこの胸に解るまで
    僕は街にのまれて  少し心許しながら
    この冷たい街の風に歌い続けてる [僕が僕であるために  作詞・作曲:尾崎豊]
  尾崎は謎の死を遂げる。尾崎豊は負けたのだろうか。オフコースのようにエリートではなく、あるいは、オフコースの時代のように、努力がなんらかの形で報われる時代でもない。そんな時代に尾崎は苦悩した。

7、援助交際を生む社会ー大学の無能化ー

  尾崎豊が苦悩した学校というものを、あっけらかんと捨て去ったのがSPEEDである。学校の意向なんか気にしない。自分達のすることに自信を持って、どんどん前に進んでいく。そこには義務教育だけは終えなければなんていう見栄はない。見栄がないから苦悩もないのだ。
  1997年5月16日のニュース23で沖縄特集の番組が組まれていた。その中で安室・MAX・SPEEDを生み出した沖縄アクターズ・スクールの校長牧野正幸は次のように述べた。
「高校進学は無意味です」
  彼の経営する沖縄アクターズ・スクールは現在400人の生徒数を誇り、沖縄の注目の的となっており、彼は今や「那覇新都心」計画の中心人物の一人でもある。彼の来歴は、祖父に映画の父牧野省三をもち、父もやはり映画監督のマキノ雅弘である。つまり彼自身、学歴とは関係ない世界で育っているわけだ。牧野は最初、長門裕之の援助を得てアクターズ・スクールを開設するが失敗。失敗して初めて追い込まれ、自分自身本気になる。彼自身、東京との太いパイプを断ち切って初めて、沖縄の才能が見えてきた。そして「歌やダンスに大事なのは技術ではなく、うたうことによってあふれ出る心だ。その心を育てるのが僕の役目なんだ」[註22]と考えられるようになる。
  彼のアクターズ・スクールが成功しているのは、単に人気スターを輩出しているからだけではあるまい。そこでの稽古は教授式ではなく、先輩が後輩を教える、あるいは恥ずかしがらずに自分を表現できるように導くといった方式である。つまり個性を尊重し、その上で一生懸命を求めるといったやり方だ。それが今の子どもたちに受け入れられているわけだ。いささか時代が逆行しているかの感がする。合理的教育、科学的教育というものがここでは存在しない。おそらく牧野の教授技術もレベルが高いものではないかもしれない。だが、牧野が言うように技術や知識以外のものが人間を感動させ、スターを生むのであろう。
  牧野はSPEEDに対してこう言う[註23]。
    僕は、あの子たちは学校へ通う必要なんかないと思っています。学校に行く時間があ  れば、お客さんに喜んでもらうことを考えた方がいいというのが僕の考えです。彼女  たちは、そういう才能がいっぱいあるのだから。
  教育が富を求めるものならば、この牧野の発言に何も反論できない。私は職人というものが見直されるべきであると考えている。職人は学歴は必要としない。その専門の技術があれば立派に勝負できる世界である。たとえば我々は物を作るということを忘れてしまった。どの商品も機械が作ったもので人間の作ったものではない。その商品には我々は気持ちを通わせることができない。そして粗末にして、どんどん捨てる。どんどん捨てられるから、どんどん作れる。これが大量生産・大量消費の再生産構造であり、資本主義の理想的な姿である。この社会に職人はいらない。では富をお金と言い換えてみるとどうなるか。お金さえ儲ければその手段は何でもよいのだろうか。
  今、「援助交際」という名の売春がある。援助交際を行うのは中学生・高校生の女生徒だ。1回のセックスで5?7万円の収入になるという援助交際。資本主義は資本家・労働者・商品が利潤を生み出すことを基本とするが、彼女達は一人で三者をこなしているわけだ。資本主義が是とされている社会で、性を商品とすることを否定することは困難である。山田綾はこう述べる[註24]。
    近代資本制のもとで、「性」を「売る」行為だけを取り出し、安易に批判することは  できないであろうし、高校生の不信感をつのらせるだけであろう。彼女たちは、大人  が近代の構図のもとに生きていることを見破っているだろうから。
  同じく藤井誠二もこのように述懐する。[註25]
    「援助交際」の主人公たちに、「売春」は性に対しての差別・搾取であるというロジ  ックは通用しない。そういうことを言うと、女子高生は「だまされない方法あるよ。  前金でもらえばいいじゃん」などと言い返されるのがおちである。
  つまりお金が第一であるという社会に対して、子どもの側も見知らぬ社会として黙っているのではなく、積極的に参加しはじめたというに過ぎない。大人の社会では、営々として風俗業が行われ、売春が商売になっている。それが子どもの世界に引きずり降りてきた時、大人は自分のしてきたことを否定できない。しかも援助交際の消費者はれっきとした大人のオジさんなのだ。
  援助交際をしている女子高生にインタビューした宮淑子の報告を聞こう。[註26]援助交際の女子高生たちは稼いだお金を美容院や彼氏とのホテル代に使ってしまい、いつの間にか消えてしまうという。目的をもった商売ではないのだ。しかも、この商売が成り立つのは高校生の間だけ、制服を着ている間だけと割り切っている。つまり刹那的な商売で、儲けは所詮あぶく銭なのである。
  ではなぜこの商売が成り立つかというと、あまりに需要が多いからであろう。お金をもった性欲に支配された大人が多いということである。援助交際しているA子の夢は看護婦になることだった。それが管理主義の学校の中で夢がつぶされていったという。
    「決められた枠のなかにはいたくないからね。もうやれないなあと思ったけれど、学  校にいかないでやれるものなら、いまでも看護婦をやりたいと思うけどね」
とA子は語る。看護婦の社会がいかに管理社会かを知らない発言であるという批判はおくとして、学校が子どもの夢をつぶす機関であるというのはどういうことであろう。高校は義務教育ではないので、同一には論じられないが、文部省が六・三・三制にかわって、六・六制を打ちだそうとしている現在、同一に論じてもさほど問題は生じまい。
  大学は増え、「高等教育」への道は開かれているように見えながら、実際は一部の学閥をもつ大学のみが意味をなし、他は履歴書を埋めるだけの存在となっている今。女子大生の就職が絶望視される今。この状況下においても、一様に従前通り、学校内の成績のみで人間を評価する学校。義務教育においても大学入学のための準備としてしか意味をなさない学校。ここにおいて、試験でよい成績をとれない子どもたちが逃げ出したくなるのは当然ではないか。しかも、お金を儲けるだけなら学校にいかなくても方法はある。学校はなんのために存在するのか。義務教育とは何なのか。存在意義が問われる時代である。
    Body & Soul  太陽浴びて
    Body & Soul  踊り出そうよ
    同じStepの毎日じゃ
    生きてる事さえ忘れちゃう…
    それじゃ張りがない! [Body & Soul  作詞・作曲:伊秩弘将  編曲:水島康貴]
SPEEDは元気である。 

8、おわりにー大学教育への提言ー

  大学において教員は養成される。そこでは現在の教育について論じられることは少ない。学生達は現場でのテクニックと必要な知識を習得するだけである。彼らはおそらく、現代社会における義務教育の存在意義などについて考えたこともなかろう。ただ純粋に「教師になりたい」と考えているだけである。極言すれば、教師が自分のなりたい職業というに過ぎない。それはそれで間違っていない。誰もが自分の好きな職業を選択する自由をもっているのだから。だが、ここで再び職人論を持ち出させていただく。どのような職人にも向き不向きがあり、一人前になるまでは親方のもとを離れて独立することはできない。それだけ厳しい社会なのだ。教師を専門職と考えた時、人の子どもを預かって教育を施す資格があるところまで大学は学生を鍛えているだろうか。答は否である。資格の単位を与えているだけである。教員採用試験にしても主に一回きりのペーパーで合否を決めている。ようは点数であって、本当の意味の有資格ではないのである。
  そもそも、教育学部の入試にもおかしな点がいくつもある。初等教育課程について話を限定すれば、まずなぜ入試に英語が必須なのか、そしてなぜ英語が卒業必修科目なのか。大学が専門教養・専門技術を習得する場であるならば、小学校の教員になる学生達にとって英語が必修である必然性はどこにもない。
  もし、英語くらいできなければ小学校の先生にもなる資格がない、というのであれば、これは語学という学問を馬鹿にした論であり、教育学も英語学も独立した学問として認めていないことになる。今は国際化の時代だからという説明を受けるかもしれないが、英語が受験においても卒業においても必修だったのは、随分と以前からである。
  もし国際化が目的ならば、それは外国語であればよいのであって、英語に限定する必要はない。中国語でも韓国語でもタイ語でもベトナム語でもよいはずである。それが英語であるのは、明治のお雇い外国人に端を発する。明治4年に設置された文部省では、米・英・独・仏の4カ国から学者を招聘しようとする。それを担当するのが畠山義成である。彼はまず渡米し、恩師ダヴィッド・モルレーに相談し、文部省の学監となったモルレーのもと、英語が主要外国語となったわけである。[註27]しかし、その後も引き続き英語が第一外国語であり続けたにはさまざまな要因があったと考えられる。古くは開国がアメリカに主導されたことであり、近くは第2次世界大戦でアメリカに負けたからである。
  もしビジネスに英会話が必要ならば、駅前留学でも何でもして数ヶ月で会話を習えばよい。英語教育の無味乾燥さ、強制が中学教育からどれだけ多くの生徒を引き離してしまったかの罪科をもっと大学教育者は悟るべきであり、文部省は反省すべきであろう。
  実社会に必要でない知識で人間を判定する教育は、みごとにSPEEDにそっぽを向かれている。彼女たちは尾崎豊のように苦悩しない。オフコースのように前提条件を整える必要も感じない。今、チャイドル現象が起きている。[註28]子どもの無軌道を抑制するのが親であったが、今は母親が中心になって我が子を芸能界に売りだそうとしている。そこにはもちろん自分が果たせなかった夢の押し付けというエゴがある。しかし子ども達も進んでそれに従っている。決して無理強いではないのである。
  親子ともに義務教育を見捨てる時代。教育とは何なのか、我々はじっくりと考え直す必要があるのではなかろうか。 

[註]

(1)『木戸孝允文書』第八、pp.78-79。
(2)天野郁夫『学歴の社会-教育と日本の近代-』新潮選書、1992年。
(3)倉沢剛『小学校の歴史T-学制期小学校政策の発足過程?』ジャパンライブラリービューロー・日本放送出版協会、1963年、p.38。
(4)前掲『小学校の歴史T』pp.76-79。
(5)北中正和『にほんのうた  戦後歌謡曲史』新潮文庫、1995年、p.16。

(6)上前淳一郎『イカロスの翼 美空ひばりと日本人の40年』文春文庫、1985年、p.29。

(7)前掲『イカロスの翼』p.45。
(8)前掲『イカロスの翼』p.57。
(9)「戦後日本教育史料集成」編集委員会編『戦後日本教育史料集成』第二巻、三一書房、1983年、p.23。
(10)『戦後日本教育史料集成』第二巻、p.45。
(11)山口百恵『蒼い時』集英社文庫、1981年、p.18。
(12)前掲『蒼い時』p.20。
(13)前掲『蒼い時』pp.22-23。
(14)平岡正明『山口百恵は菩薩である』講談社文庫、1983年、p.239。
(15)山際淳司『Give Up オフコース・ストーリー』(角川文庫、1983年)。以下、オフコースの履歴は本書による。
(16)松任谷由実『ルージュの伝言』(角川文庫、1984年)、p.91。
(17)前掲『ルージュの伝言』p.93。
(18)前掲『Give Up』p.120。
(19)斎藤利彦『試験と競争の学校史』平凡社選書、1995年、p.243。
(20)『試験と競争の学校史』p.244。
(21)落合昇平『尾崎豊ストーリー  未成年のまんまで』新潮文庫、1987年、p.85。
(22)「「学歴不要」「闘争心」の教育と安室奈美恵無名時代の5年間」『女性セブン』pp.34-44、1996年11月28日号。
(23)前掲『女性セブン』pp.34-44。
(24)山田綾「“商品化される性”“商品化されない性”とはなにか  「セクシュアリティー神話」を超えて」『ひと』291号、1997年4月号。
(25)藤井誠二「無防備に“性”を売る少女たち  東京都「淫行処罰規定」条例の動きのなかで」 『ひと』291号、1997年4月号。
(26)宮淑子「「援助交際」の少女たち   バブル・イニシエーションまっただなかで」  『ひと』291号、1997年4月号。
(27)中山茂『帝国大学の誕生  国際比較の中での東大』中公新書、1978年、pp.50-51。
(28)高橋淳子「0歳児売り込むチャイドル前線」『AERA』478号、1997年。

 


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