湘南の伝承と文学
――The 23rd Session of the UNESCO World Heritage Committee in Marrakesh――

湘短期大学部
紙 宏行


 寛仁四年(1020)晩秋、菅原孝標女は、長途の旅の不安と、それ以上の都と物語への憧れを胸に、京の都をめざして上総を出立した。時に十三歳の文学少女である。一行は、武蔵から相模へとさしかかる。

 野山蘆荻のなかをわくるよりほかのことなくて、武蔵と相模との中にゐてあすだ河といふ、在五中将の「いざ言問はむ」とよみける渡りなり。中将の集にはすみだ河とあり。舟にて渡りぬれば相模の国になりぬ。
 にしとみといふ所の山、絵よくかきたらむ屏風を立て並べたらむやうなり。かたつかたは、海、浜のさまも、よせかへる浪のけしきも、いみじうおもしろし。もろこしが原といふ所も、砂子のいみじう白きを、二、三日ゆく。(『更級日記』)

 隅田川を渡り、相模の国に入って「にしとみといふ所」を通り過ぎた。「にしとみ」とは、今の藤沢市西富をさすとする説と、箱根山中をいう説とがある。隅田川→「にしとみ」→「もろこしが原」→足柄と続く行程の途中であり、順路に従えば、「にしとみ」は藤沢の西富であろうが、この前後にも作者の記憶違いか地名の錯誤が多く、簡単には決められない。『大日本地名辞書』には、「中世私称の郡号にて、専箱根山中を指せる如し、西土肥の義にして、訛りて西土美と為れるなり」ともある。藤沢の西富は、遊行寺の北、ちょうど東海道が丘から西へ下るところとなっていて、晴れた日には、丹沢から箱根、富士山まで確かに「絵よくかきたらむ屏風を立て並べたらむやう」に鮮やかに見える。今はビルが建ち並び空気も濁り、視界不良であるが、往時ははるかに広がる相模野の向こうに山並みが立ち見えたことであろう。しかし、『更級日記』の描写は、西富からの眺望ではなく、「にしとみといふ所の山」の描写であって、それならば箱根の山にふさわしいと思われる。

 「もろこしが原」は、現在の大磯あたりであるらしい。同地は帰化人たちが多く居住したといい、今も「高麗」の地名が残る。

 続けて彼女は足柄山にさしかかる。足柄山の麓の関本(南足柄市、伊豆箱根鉄道大雄山線大雄山駅周辺)は、峠路への起点として賑わい多くの遊女がいた所として著名であるが、そこで自分と同年代の遊女が歌うのに出会うという、非常に印象的な場面がある。『梁塵秘抄』には、足柄の名は白拍子の拠点として登場、今様に「足柄」という名の秘曲もある。

 菅原孝標女が、箱根山を「絵よくかきたらむ屏風を立て並べたらむやうなり」と描写したように、相模は山の国であった。『古事記』中巻に、

さねさし 相模の小野に 燃ゆる火の 火中に立ちて 問ひし君はも

 という歌謡があり、「相模」の枕詞「さねさし」は、山の峰が険しいという意味で冠せられているのである(異説もあり)。この歌謡は、倭建命が走水(横須賀市)から房総半島に渡ろうとしたが、海が荒れていて渡れず、その難渋を見て弟橘比売命が身を投げて海を鎮め倭建命を助けた、その時彼女の歌った歌と伝える。現在、同地には、走水神社が鎮座し、倭建命と弟橘比売命の二人を祀っている。

 そのほか、古代には、『万葉集』巻十四東歌の項に十一首の相模歌(異伝歌を除く)を載せている。ここでは、五首ほど列記してみる。

我が背せ子こを大和へやりて待つしだす足柄山の杉の木の間か(3380)

鎌倉の見み越ごしの崎の岩崩くえの君が悔ゆべき心は持たじ(3382)

足柄あしがりの土肥の河内に出づる湯のよにもたよらに子ろが言はなくに(3385)

足柄のみ坂畏かしこみ曇り夜の我が下ばへを言出こちでつるかも(3388)

相模道さがむぢの余綾よろぎの浜の真砂なす子らは愛かなしく思はるるかも(3389)

 良材の産地としての険しい足柄山と温泉、海浜の変化に富んだ鎌倉や余綾(大磯町)の海岸を詠み、相模は、今と同様、海と山のイメージである。

 かの在原業平は、「京にありわび」「身を要なきものに思ひなして」(『伊勢物語』)東国に落ち、隅田川まで辿り着いたと伝えられてる。史実には、在原業平が東下りした事跡はないが、菅原孝標女は、隅田川などにおいて彼の孤愁を思いやり、業平の旅を逆にたどるようにして都をめざしていった。

  ◇

 菅原孝標女が湘南を通り足柄山を越えていった、その百三十年ほど後、西行は、初度の陸奥の旅にたった。仏道修行と歌枕探訪の数寄と高野山伽藍再建の勧進とを兼ね、東海道を辿り、白河関を越えて、信夫、武隈、名取川を通り、平泉に達した。途中、正確な経路は不明であるが、湘南の地を通っていったことであろう。

 さらに、彼は、六十九歳になって、二度目の陸奥旅を試みている。文治二年(1189)のことで、東大寺再建のための砂金勧進を目的に奥州平泉の藤原秀衡のもとへ出かけたものである。途中、同年八月十五、十六日に、鎌倉に立ち寄り、鶴岡八幡宮社頭において源頼朝に対面する(『吾妻鏡』)。当時、東海道から鎌倉へ出るには、足柄峠を越えて、関本から国府津へ出て、ほぼ今の東海道線、国道一号線に沿い、辻堂あたりから南東に折れて、鵠沼あたりで引地川、境川を渡り、江ノ島を右に見ながら海岸沿いに鎌倉へ入るというのが通常の経路であり、文治二年八月上旬には、西行は確実に湘南の地を通っている。しかし、湘南での詠歌は『山家集』などには見られず、史書類を見ても実在の西行と湘南との関わりはこの程度にとどまっている。

 しかし、伝承の世界での西行は、湘南の地と深い関わりを持っている。旧稿は、その伝承の西行と湘南とのゆかりを追尋してみたものである(末尾参照)。

 西行はその死の直後から、その自由な境涯をうらやまれ、早くも伝説の人物となっていたが、西行伝説をまとめ一代記ふうに仕立てた『西行物語』は、二度の陸奥旅をあえて一度のこととして、次のように語っている。伊勢を出立し、遠江国天中の渡り、小夜の中山、岡部を経、足柄山を越えて相模国に入り、

相模国大庭といふところ砥上とかみが原を過ぐるに、野原の霧のひまより、風にさそはれ鹿の鳴く声しければ、
えはまよふ葛のしげみに妻籠めて砥上が原に雄鹿鳴くなり
その夕暮がたに、沢辺の鴫飛び立つ音のしければ、
心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮

 と、二首の詠作をものしたことを伝えている。

 「大庭」というのは、当時は大庭御厨と称する伊勢神宮の領地であった。その範囲は、東は境川、南は海、西は寒川神社の神領に接し、北境は今の湘南台、長後あたりらしく、本学キャンパスを含み、藤沢・茅ヶ崎両市のほとんどを占める広大な地であったようである(後述)。その中心は今は大庭城址公園となって整備され、春には桜が美しく市民の憩いの場となっている。本学キャンパスからは、辻堂へ出る道をジャスコから左に入ったところにあり、ほど近い。「砥上が原」は、旧藤沢や鵠沼付近にあたるが、地名としては失われ、今は江ノ電の「石上」駅などに痕跡が残っている。『西行物語』では、この大庭で、西行は二首の歌を詠んだのである。

 このうち二首めの「心なき」の歌は、『新古今集』秋上巻にも選ばれ、三夕の歌の一として古来有名な歌である。『山家集』の詞書や配列からは、陸奥旅行の途次に詠まれたとは考えられないが、伝承ではこの名歌が相模国大庭砥上が原での詠ということに仕立て上げて伝えている。

 辻堂駅から南へ住宅街を五分ほど入ったところに、『西行物語』の「えはまよふ」歌を刻み込んだ歌碑が建っている(ただし、上句は「柴松のくずのしげみに妻こめて」となっている)。駅東方の海へ出るバス通りを南へゆくと、右に「タマヨシ」という中華料理店があり、その横の細い道を右に入ると、正面に新しいマンションが建ち、その壁に「熊ノ森権現」と刻んだ石が嵌め込んであって、右の階段を上がると小さな祠が残されている、その傍らである。マンション新築時にも一隅に辛うじて残されたものであろうが、今もささやかな存在感を主張している。

 語り手を西行に仮託する仏教説話集『撰集抄』には、「昔、相模の国に大庭という野の中に、かたのごとく庵むすびて居れる僧ひとり侍りき」と始まる説話がある。この僧は、貧しく病む寡婦のため、里に出て銭米を求めて養い、念仏を勧めていた。僧のありさまは「あはれみ深うて」里人の尊崇を集め、往生のときには、浄土の音楽が聞こえ紫雲がたなびいたという。この説話と西行とを直接結びつける手がかりはないが、ことさらに大庭の僧の事跡が、西行の語りとして伝承されているところに、やはり、大庭と伝承の西行との関わりを想定せずにはいられない。

 藤沢市片瀬二丁目、江ノ電江ノ島駅から徒歩五分ほどの片瀬公民館の前には「西行見返りの松」という遺跡もある。民家の塀に囲まれた一坪にも満たない小さな遺跡であるが、細い松と「西行見返りの松」と刻んだ標柱が残っている。この松について、「西行見返松は、片瀬村へ行く路辺の右にあり。枝葉西方へ指す。西行この所に来て西のかたを見返り、この松の枝を都のかたへねぢたりとなり。故に戻松ともいふ。」(『新編鎌倉志』巻六、西行見返松)という伝説がある。

 歌枕でも国府でもない大庭に、伝承の西行は意外に多くの足跡を残している。このような、伝承を作り伝え広めた人たちとして、廻国の伊勢の御師や神明巫女、あるいは大庭を拠点とした念仏聖の集団を、旧稿において想定してみた。詳細は拙稿を参照されたいが、ことほどさように、湘南と西行との意外な結びつきは強い。

 なお、「心なき」の名歌は、近世のころから、大磯で詠まれたこととなった。今、大磯駅から徒歩十分くらいの国道沿いに「鴫立沢」と称する小川が流れ、その傍に「鴫立庵」がある。庵自体は寛文年間(1661〜73)に崇雪が結んだのが起源であるが、同歌の詠作地として、いつ大磯まで移動してきたのか、今ではよくわからない。西行像や、江戸時代以来の有名歌人、俳人の碑があり、短歌、俳句会の催しも行われている。

  ◇

 大庭城址公園は、太田道灌の築城の遺跡で遺構などが残っている。中世にさかのぼりうる遺構はないが、もともとは大庭氏の居城の跡という。

 大庭氏の祖、大庭景政は鎌倉権五郎景政と称し、後三年の役では負傷をおして活躍した、勇敢な武将である。この景政が、領地を伊勢神宮に寄進し、御厨とした上で、自身は在地領主(本所)となって、実質的な領地支配を確保したものであろう。古く大庭には、『延喜式』のいわゆる式内社として、相模国十三社の一、大庭神社があった。現在も大庭神社は鎮座しているが、式内社の大庭神社は現在の大庭神社ではなく、辻堂駅寄りの熊野神社がそれであるらしいが、定かでない。

 景政の子孫に、大庭景義、景親兄弟がいる。頼朝の挙兵にあたって、兄は源氏につき、弟景親は平氏方に味方し、兄弟敵対することとした。そうすれば必ず一方は勝ち組に入れるわけで、そうした悲壮な手段によって家と領地を守ったのである。『平家物語』巻五「大庭が早馬の事」の章段には、「同じき(治承四年=1180)九月二日の日、相模国の住人、大庭三郎景親、福原へ早馬を以て申しけるは」として、大庭景親が頼朝挙兵の第一報を平清盛にもたらす功績をあげている。景親は、清盛に「望月」という名の名馬を献上してもいる。大庭氏は、馬の飼育を職掌としていたらしく、広大な大庭の領地は、牧場でもあったのだろう。また、そのことが「小栗判官」伝承の拡大に関わっていたという。小栗判官伝承に関しては、遊行寺と関わってさまざまな問題をはらんで非常に興味深く、なお今後の課題としたい。景親は同年、頼朝方に殺された。

 景親の兄の大庭景義は、合戦勝利の後、頼朝の信任を得て鎌倉幕府の開府に尽力したが、晩年は、領地の大庭御厨の一角の懐島ふところじまに隠棲し、同地で没した。懐島も今は佚名の地名であるが、現在の茅ヶ崎市円蔵の一帯にあたる。当地には、神明神社という神社があり、子供たちの格好の遊び場となっているが、そこが、景義が館の鬼門封じに伊勢神宮を勧請した所といわれている。同社には、円蔵祭囃子が現在に復元されて伝えられている。景義が酒宴を開き、楽人が太鼓をたたいて舞を舞った、その太鼓が起源であるというが、信憑性は低いようである。二本のイチョウの巨樹が眼をみはる。

 大庭景親の従兄弟に、梶原景時がいる。石橋山で頼朝を助け源氏方となった景時は、一ノ谷で平氏に奇襲をかけ、「昔八幡殿の、後三年の御戦に出羽国千福金沢の城を攻め給ひし時、生年十六歳と名のって、真っ先駆け、弓手の眼を甲の鉢付の板に射付けられながら、その矢を抜かで、当の矢を射返し、敵射落とし、勧賞蒙り、名を後代に揚げたりし鎌倉権五郎景政に、五代の末葉、梶原平三景時とて、東国に聞こえたる一人当千の兵ぞや。我と思はん人々は寄り合へや、見参せん」(『平家物語』巻九「二度の駆けの事」)と、堂々名のりを上げた。自身の系譜から名のり起こすのは常套だが、先祖の凄絶な武勇は子孫の誇りであった。

 宇治川合戦での先陣争いは、武士の功名をめぐる駆け引きが鮮やかに描かれた一齣として小林秀雄もとり上げ有名であるが、「生食いけづき」という名馬に乗った佐々木三郎秀義に惜しくも遅れをとり二番となったのが、景時の長子、梶原源太景季である。景季が乗ったのも名馬で名を「磨墨するすみ」という。

 その梶原景時は、源義経を頼朝に讒言し、義経を死に追いやった張本人として有名になっている。いわゆる判官贔屓にとっては、まさに悪役である。屋島や壇ノ浦での戦略をめぐって義経と対立して遺恨を含み、「それよりして、梶原、判官を憎み初め奉りて、讒言してついに失ひ奉ったりとぞ、後には聞こえし」(『平家物語』巻十一「壇の浦合戦の事」)と語り伝える。梶原が、権勢欲が強く陰謀家であったことは確かだが、義経の方にも、兄頼朝を越えようという野心があったこともあり、必ずしも梶原の怨念の讒訴ばかりが死に追いつめたわけではないようだ。頼朝の許しを請うべく鎌倉へ入ろうとして腰越に留め置かれ、泣く泣く謀反心のないことを書き綴ったのがいわゆる腰越状であるが、その下書きが同地の満福寺に今も残っている。

 大庭、梶原一族の活躍は、『平家物語』においても、名脇役としてひときわ鮮やかである。同じ東国武士でも、熊谷直実や那須与一のように一場面で輝くのではなく、物語展開の要所要所で重要な役割を担って登場するのである。

 梶原は、事務能力にたけ、和歌もたしなむ京都的な教養も持ち、有能な官吏であって、頼朝には厚く信任された。鎌倉市西部に今も梶原という地名が残るが、その地を本管としていわば地元の出身であり、重宝な存在であったのであろう。大庭景親も故実に詳しく、景親、景時は、幕府においては文官的な役割をはたすことのできる、貴重な存在であった。

 正治元年(1199)十一月、梶原景時は、結城七郎朝光を頼実に讒言したことからかえって諸将の反発を招き、鎌倉を追われるようにして相模国一之宮の領地にのがれた。一之宮は、大庭御厨の西隣で、現在の寒川町一宮である。翌年二月には、当地で「構城郭備防戦」(『吾妻鏡』)という挙に出、謀反の意を抱いて京都をめざしたが、途上、駿河国で北条方に二子ともども殺された。

 梶原景時館址と伝える遺跡が、寒川駅から南へ徒歩十分くらいのところに存している。かつては広大な屋敷で物見台も建っていたらしいが、今ではその一角にあたる狭い空間のみが残り、環壕の一部がわずかな痕跡をとどめているにすぎない。児童公園になっていて、小さな天満宮となぜか三基もあるブランコが印象的である。権勢と陰謀と、頼朝への忠義に生きた、相模武士の夢の跡である。

  ◇

 文学散歩が盛んである。作品に描かれた風景を訪ね、作家を育んだ故地を調べ、というのは、楽しい体験である。しかし、実際には、空間を追体験し時間を蘇らせる、生き生きした感覚を味わうのは、難しいことではないだろうか。それでも、近代以降の文学の場合には、太宰治生家や天城トンネルなど、そんな感覚を得ることがまだまだ可能であるが、近世以前、特に南北朝以前は、往時の面影の髣髴させる所はきわめてまれである。行ってみて、いつも「ここか」と複雑な感慨に沈潜するばかりである。

 本稿で、とりあげてみた、西富、西行歌碑、西行見返りの松、大庭や梶原の居館跡なども、ビルや塀や幹線道路に囲まれた、騒然、雑然たる雰囲気の所で、孝標女、西行や大庭、梶原らをしのぶどころではなかった。むしろ、こちら側で十分な下調べをし、ことさらな思い入れを持つよう努力しなければならない。

 それにしても、この国の風景の変貌ぶりは既に狂気に近い。最近も、飛鳥池遺跡をつぶして万葉ミュージアムなるものを建てようという倒錯した暴挙が、かの奈良で行われようとしている。

 しかし、それでも、作品とそれが生み出された土地との関わりを明らかにしてゆくことが、文学研究においてなおも意味を持っているのは、そこから作品の新しい読みに開かれてゆく可能性があるからである。表現は、個性あるいは時代相に基づいてばかりいるのではなく、空間、地域にも依存しているのであって、類型性を問う風土論の問題ではなく、むしろ身体論的な課題であるといえよう。

 本稿では、筆者の専門が平安から鎌倉初期にかけてである関係から、その時代の伝承、文学に限定し、調査したことの一端を書き綴ってみた。このほか、本学キャンパスの周辺に限ってみても、多くの伝承と文学が残されている。たとえば、遊行寺は、時衆の拠点として「小栗判官」を筆頭に多くの伝承を伝え広めている。鎌倉はいうに及ばず、江ノ島や大山は衆庶の信仰を集め、足柄は交通の要衝として、多くの伝承を残す。相模は、都から離れた僻遠の地であるにもかかわらず、関東の入り口であって、豊富に伝承が集まってきたものであろう。

 湘南キャンパスができて十五年になり、ようやく土地に根付こうとしているように思う。短期大学文芸科の田川邦子、実川恵子両先生と筆者とが、神奈川の伝承と文学の調査・研究を企図したのも、奇縁に触発されてのことであったが、十全とはいえぬ調査、研究とはいえ、意味なしとはしないはずである。相模という地が意外に豊かな文学的遺産を持ち続け得た意味とは何なのか、今後もささやかながらも踏査と考究を持続してゆきたいと思う。

○私たちの共同研究の成果として次のものがある。
田川邦子「物語の〈場〉としての「足柄」」(『文芸論叢』31号、平7・3)
拙稿「湘南の西行と西行伝説」(『文芸論叢』32号、平8・3)
実川恵子「神奈川の伝承と文学(3)――『更級日記』の中の「相模」――」(『文芸論叢』33  号、平9・3)

○主要参考文献
北沢瑞史『藤沢の文学』(藤沢文庫6、名著出版)
藤沢文庫刊行会編『藤沢史跡めぐり』(藤沢文庫9、名著出版)
『新版神奈川県の歴史散歩』下(山川出版社)
福田晃『中世語り物文芸』(三弥井書店)
永井路子『相模のもののふたち』(有隣新書10、有隣堂)
『神奈川県史』
『藤沢市史』
『茅ヶ崎市史』
(イラスト地図は、短大文芸科2年松島さくらさんの手をわずらわせました)



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