情報化社会とマス・メディア

情報学部
田中 淳


1.マスメディアの時代

1.1 マスメディアの誕生と浸透
 20世紀はどのような時代と呼びうるのだろうか。いろいろな呼び方があろうが、その共通の要素を科学技術の発展に求める得ることは確実であろう。その意味で、今世紀はマスメディアの時代と呼ぶこともできる。実際に、マスメディアの誕生と社会への浸透はこの100年に急激に進んだ。

表1 マスメディアの登場
西暦事項
1862「官板バタビヤ新聞」発行。新聞と名の付く初めての出版物
1870「横浜毎日新聞」創刊。初めての日刊紙1893「キネトスコープ」をエジソン発表
1895「シネマトグラフ」をリュミエール兄弟が発明。初の投影型の映画
1896「キネトスコープ」、神戸で一般公開
1897「シネマトグラフ」、大阪で公開
1899初めての日本製作の映画、東京・歌舞伎座で公開
1900初めてのニュース映画
1903浅草に初めての映画の常設館
1920世界初めての放送局「KDKA」がピッツバーグで設立
1925ラジオ放送開始。社)東京放送局、社)大阪放送局、社)名古屋放送局
1951民間放送が放送開始
1969NHK、FM放送開始(2月)、愛知音楽FM放送開始(12月)
1953テレビ放送開始
1960NHK、NTVなどカレーテレビ本放送
1963通信衛星による日米間テレビ中継実験
1968初の民放UHF局岐阜放送開局

(1)文明開化−新聞と映画の誕生
 新聞の機能を「ニュース」を広く伝えることに限れば、不定期ではあったものの日本では17世紀から19世紀にかけての瓦版に遡ることができる。しかし、社会的装置、産業として定着していったのは20世紀を迎える直前のことと考えてよかろう。新聞という呼称が使われたのは1862年の「官板バタビヤ新聞」が最初とされる(山本、1970)。また、日刊という面から見ると明治維新を迎えてからの1870年に発行された「横浜毎日新聞」が初めてであり、さらに政論よりも社会的事件の報道に重きを置く「小新聞」の誕生も1870年代であった。

 映画の誕生もやはり19世紀末であった。発明直後の1899年に日本にも輸入され、一般公開されている。そして、早その6年後の1903年には常設館が登場するように、そこから新聞も映画も急速に社会に定着していくのである。

(2)昭和の戦時体制−ラジオの登場
 日本でラジオ放送が開始されたのはアメリカに遅れること5年後の1925年であった。同年、普通選挙法そしてその裏面ともみえる治安維持法が施行された年でもあった。時まさに、大正デモクラシーの終わりと昭和の戦時体制下に向かう中で、ラジオが誕生したのである。そして、その後、マス・メディアは政府や軍部による統制下におかれる暗い時代を迎えることになる。

(3)終戦から−テレビの登場
 終戦を迎え、メディア環境は大きく変容する。ひとつは統制からの解放である。新聞も言論の自由を確保し、ラジオも1951年には民間放送が開始される。しかし、もうひとつの変化は、1953年にテレビ放送が開始されたことによる。ラジオは早1959年に放送開始間もないテレビに広告収入で抜かれることになる。しかし、ラジオは1960年代に聴取者のセグメンテーション別編成が行われるようになり若者を中心に深夜放送が、また1969年のFM局開局等音楽メディアとして新しく定着していく。その結果、ラジオは1970年に収益のピークを迎える。

 テレビ放送もまた、その後も1960年にカラーテレビ本放送、1968年からのUHF放送を契機とする県域複数局化、さらに衛星放送など多様な展開をし続けている。

1.2 効果論の系譜に見るマスメディア観
 マスメディアは社会の中でどのように受け止められてきたかは、マス・コミュニケーション研究の中の効果論に典型的に見ることができる。マスメディアの力、すなわち効果をどうみるかは、研究レベルでもこの100年の間に大きく変わったのである。ここでは、マクウェール(1983)に従って、その変遷を紹介してみることにしよう。

(1)強力効果論
 第1期を世紀の変わり目から1930年代の後半までとする。新聞や映画、ラジオといったマスメディアが急速に社会に浸透していった時代であった。さらに、第1次世界大戦中の戦争宣伝やその後の独裁国家におけるマスメディアを利用した大衆宣伝から、「メディアは、それらが十分発達しているところでは相当な力を持っており、メディアやその内容をコントロールしうる人々の意思に多かれ少なかれ従って、意見や信念を形づくり、生活習慣を変え、行動を積極的に作り出しうる」(前掲、210頁)と捉えられていた。すなわち、大衆操作の強力な武器と受け止められていた時代であった。

(2)限定効果論
 第2期は1930年代から60年代までで、科学的な研究に基づくマス・コミュニケーション論が始まった時期であった。なかでも選挙キャンペーンの効果に基づく一連の実証研究から、マス・コミュニケーションの影響は限定的であり、「社会関係の既存の構造や特定の社会的・文化的文脈の中で作用する」(前掲、211頁)という結論が導き出される。つまり、マス・コミュニケーションにさらされると誰もが影響されるという素朴な強力効果論に対して、マスメディアの力は限定されたものに過ぎない、と見なされた時代であった。

(3)再強力効果論
 1960年代から始まり現在も含まれる第3期には、強力な効果があるとの見方が復活してくる。そこにはテレビの登場があり、ヴェトナム戦争報道によって政府の意図しない反戦運動の広がりがあった。このため、その効果の捉え方は行動面の変化ばかりではなく認知面、つまり考え方や見方への影響に強く関心を持つ。なかでも長期的な影響と、送り手も意図しない、かつ受け手にも意識されない効果に焦点が当てられた。テレビに登場する職業や性別、年齢などの描き方や登場の割合自体がステレオタイプの形成や補強につながるいう主張に典型的に見ることができる。

 このようにマスメディア観は、マス・メディアが社会に定着するにつれ、意図した方向へ短期的に影響を受ける脅威の見方から徐々にさめた見方へと移り、さらにより長期的な、内面的な影響へとより洗練された見方へと移っていった、といってよかろう。

2.情報化社会

2.1 情報化の進展
 「情報化社会」、「マルチメディア社会」といった言葉は、現代社会の特徴を語る通念として広く受け入れられている。そしてその通念を裏付けるがごとく、実際に社会の様々な領域に情報技術、具体的にはコンピュータ化とネットワーク化が浸透し、活用されてきている。

表2 耐久消費財の世帯普及率
 パソコンファクシミリ衛星放送受信装置カラーテレビ乗用車
平成3年11.55.5*16.2*99.379.5
平成7年15.610.027.698.980.0
平成11年29.526.436.698.982.5
平成11年/平成3年2.564.82.261.001.04
平成7年/平成3年1.361.821.701.001.01
平成11年/平成7年1.892.641.331.001.03
(出典)「平成11年版 家計消費の動向」より作成。いずれも3月時の普及率。
 * 平成4年3月時点の普及率。調査対象になったのが平成4年からである。

(1)産業の情報化
 なかでも、産業の情報化は急速に進んだ。すなわち、産業の諸過程に情報技術が利用され、いわば「硬い情報化」と「柔らかい情報化」とが進むことによって、その高度化・効率化が図られたのである。その背景として、市場が成熟するにつれ、どの商品が売れるかの予測が難しくなる一方で、大量に生産するとその売れ残りは不良在庫に転化しやすくなってしまったという事情がある。それへの対応として、単純化すれば売れ行きを迅速に把握し、売れたものだけ作り、直ちに補充する戦略が志向された。店頭で売れた時点からメーカーにその情報が伝わるまでの時間を最短にする情報武装、あたかも硬い棒の一端を叩くと反対の端に直ちに伝わるような、「硬い情報化」が求められたのである(田中、1992)。

 そして、この硬い情報化は、柔軟な製造ラインや物流システムを前提としている。得られた情報、すなわちニーズの変化に合わせて柔軟に生産内容を変更したり、輸送距離を短くしつつ空車を減らすためのきめの細かい配車計画などである。このような柔軟なシステム形成のための情報武装、いわば「柔らかい情報化」ともよぶべき情報化も進行しているのである。

(2)生活の情報化
 他方、生活の情報化は産業の情報化に比べて緩慢な展開を示してきた。ここにきて、ハード面では変化が見え始めたところである。パソコンは平成3年時点では全世帯への普及率は11.5%にとどまっていたものが、平成11年3月には29.5%にまで上昇している(表2参照のこと)。平成7年からの4年間では1.9倍の伸びを示している。

 さらに、「平成10年度通信利用動向調査」によると、インターネット世帯普及率は11.0%に達しているという(平成11年度版 通信白書)。平成8年度においては3.3%にとどまっていたものが、2年間で3.3倍に急増していることになる。その結果、白書では現在のインターネット・ユーザは全国で1700万人(15歳から69歳まで)に上ると推定している。

 これらのデータは、コンピュータあるいはインターネットが最近とみに社会に広まってきているとの我々の実感とも一致する。それでは、この実感としての情報化は、我々の社会をどのような社会へと連れていくのだろうか。その前提として、情報化社会論が描いた世界を概観しておこう。

2.2 情報化社会論とは何か
(1)情報化社会論の描くイメージ
 情報化社会とは、発達した情報技術が広く定着し、産業面でも社会面でも情報が価値を持つ社会ということができる。しかし、その具体的なイメージや評価は論者によって大きく異なる。吉井(1996)は情報化社会論が描く社会イメージの多様性を5つの論点から整理している。第1に、現在の産業社会とは異なる政治・経済システム、社会・文化システムが登場すると見るか、それとも産業社会の枠組みの中で単により効率化、高度化が図られるに過ぎないとみるか、という点である。

 第2に、情報収集と情報操作によって少数の人が多数の人を管理する社会になるとみるか、それとも多数の人が情報収集、情報発信を行う参加社会と見るか、という点である。

 第3に、個々の組織レベルでの意思決定はより集権化しやすいとみるのか、それとも分散しやすいと見るのか、という点である。

 第4に、通信は空間を克服するので都市集中は解消されるとみるのか、それともメディアに載った情報は価値が低下するのだからそれ以外の対面コミュニケーションの重要性が増して都市集中が進むと見るのか、という点である。最後に、効率性、利便性がより重視される社会を作るとみるのか、それとも情報を個人の精神的な豊かさに結びつけうるとみるのか、という点である。

 これらの論点は相互に関連するものも多いが、それでも情報化社会論は多くの社会イメージを描いていることは事実である。

(2)イデオロギーとしての情報化社会論
 さらに、ここで情報化社会論自体は、元来、歴史的発展概念としての性格を内包していることを改めて指摘しておく必要がある。その典型として、 情報化社会論の代表的な論者であるダニエル・ベル(1973)は、農業社会そして工業化社会の次に来る社会として情報化社会を構想した。だからこそ、彼自身は来るべき社会を「脱工業化社会」と呼んだのである。このような彼の発想は、実は「イデオロギーの終焉論」に展開されるように、アメリカに代表される資本主義社会がソビエトに代表された社会主義社会へと発展するというマルクス史観への対抗論理として展開したという側面が強い。それだけに、情報化社会論自体を1つのイデオロギーとして批判する論も存在する(スラック・フェジェス、1987)。つまり、情報化社会が到来するというのは、未来予測シナリオのひとつでしかないのである。

 情報化社会についてまとめると、実情としては産業の情報化は進んだが、社会全体の情報化はこれからのことであり、そして、それが今後どのような社会となるのかのイメージは情報化社会論においては定位されているわけではない、と概括することができよう。

3.21世紀のメディア・コミュニケーション

3.1 インターネット社会とマス・メディア
 それでは、マス・コミュニケーションは、現実に進行しているメディア融合、多様化、双方向化というメディア変容の中で本質的性格に変容を迫られるのだろうか。幾つかの論点について分析してみることにしよう。

(1)情報産業としての市場性
 情報化社会が情報の価値が高まる社会であるならば、情報を扱う産業が発達してくるはずである。新たな社会的装置としてのメディアがその設備や人的資源を要求するわけで、その費用を支える仕組み、すなわち情報の産業化が必要だからである。多くの企業が情報化に関心を寄せる理由もまさにそこにある。しかし、産業の情報化と対比されるこの情報の産業化、すなわち情報の生産・加工・伝達過程が産業として成立する動きは必ずしも順調ではない。1980年代のニューメディア・ブームから、多くの省庁が地域情報化計画づくりと推進に関与した。しかし、残念ながらその試みが成功したとは言い難い。また、現時点でも、たとえばインターネット接続ビジネスを提供する企業でも61%が累積赤字であり、黒字は9.4%にとどまる。単年での収支を見ても44.1%が赤字であり、黒字は21.0%に過ぎない(平成11年度版 通信白書)。

 これは、家庭を対象とした情報産業には産業としての課題が幾つかあるからである。第1に対価の支払いのメカニズムを確立することが難しい。情報提供サービスが集金に問題を抱え、その解決のために代理徴収システムとしてダイヤルQ2サービスが登場したのは記憶に新しい。第2に、家庭の利用では利用が不安定な割には設備投資が大きい。また第3に、市場を確保できる領域は限られている。このため、限られた市場に多くの提供者が参入せざるを得ず、競争が激化するとともに領域間の格差は拡大する可能性がある。

(2)双方向性−受け手と送り手
 双方方向通信を活かし多くの人が情報生産に向かうかのだろうか。確かに、我々はインターネットというインフラストラクチャーによって世界中に情報を発信する能力を持つようになった。たとえば、万の単位でアクセスを集めるホームページは少なくない。つまり、自分の意見なり自分の持つ情報を何万、何十万という他者に伝えることができるのである。しかも、理論上はインターネットにアクセスできる何億という他者すべてに伝達する能力を持つのである。

 しかし、情報発信し続ける人に比べて、その内容を見に行く人の割合の方が高いのも事実である。もちろん、何かことがあれば、あるいは情報発信に慣れれば変化する可能性もないではない。そうではあるが、能力としては情報発信力を持っているが、実際にはその力を行使せずに受け手となる人が多いという予測がなりたつ。

(3)情報の評価機能
 情報の生産や流通が増大することは、我々により多くの情報を与え、より正しい判断を下す力を与え、あるいはより満足できる生活を送る可能性を与える。その反面、膨大な量の中から適切な情報を選び出し、その内容の真偽を評価することを強いる。しかし、マス・コミュニケーション論が示唆することは、我々は情報の内容を評価する力を必ずしも持っているわけではないという事実であった。自分の身の回りに関する情報を除けば、正しいかどうかの判断は、送り手への信頼に依存せざるをえない。逆に言えば、マス・メディアは内容に責任を持つという社会的機能を果たしてきたのである。したがって、放送と通信は、技術的には融合し得ても、社会的機能としてはまったく別のものなのである。

 もし、このマス・メディアの果たしてきた社会的機能がなくなるとすれば、それに代替する仕組みが必要となる。そうでないかぎりは、真偽の評価はひとえに個々人の能力にかかってきてしまうのである。

3.2 産業社会とボランティア社会
 これらの主張は、マス・メディアが産業としては存続し続けることを示唆する。つまり、産業として成立するには市場の制約がある上に大きな資本投下が必要であり、送り手よりも受け手の比率が高く、社会的に評価機能が求められる。したがって、マス・コミュニケーションという産業形態は、電子化やデジタル化という軌道修正はあり得るが社会的機能としては存続すると考えられる。

 しかし、その一方で、新しい意思決定や評価のための社会的仕組みの胎動も見られる。たとえば、インターネット上で多くの人間がアイデアを出し、問題の解決方法を見出し、ソフトウェアを改良していく事例がある。あるいは、ひとつひとつの意見には余り重視をおかず、多くの意見の分布を商品情報や意見の参考にする、といった利用者も多いとされる。つまり、これらに共通しているのは、情報の生産や評価の専門機関があるわけではなく、個々人がそれぞれの知識の範囲でボランティアで情報を提供し、流れる情報を正していく姿である。情報産業に代わり、代償を求めずに情報の生産や評価、受容自体を目的とする、いわばボランティア社会の形成の芽をみてとることができる。この傾向を大胆に外挿すれば、そこに産業社会からボランティア社会という情報化社会へと変容していく可能性がある。

 もちろん、このシナリオにも幾つかの課題は残されている。たとえば、マス・コミュニケーションは、個人的関心に加えて社会的な共通認識を与えてくれるものであった。もちろん、それが常に正しいものであったという保証はないが、一種のゲートキーパ機能の結果として、社会的・文化的統合の機能も果たしてきたのである。メディアの多様化、情報の受発信の個人化は、極めて狭い関心に人々の情報行動を閉じこめてしまう危険性も持つ。既に我々は、オタク化という言葉で既にその発生を危惧をしているのである。

 新しい情報技術は、マス・コミュニケーションの一方的な受け手であることから我々を解き放ってくれる可能性を秘めている。しかし、それは同時に様々な知恵や社会的仕組みを要請するのである。

〈引用文献〉
今井賢一 『情報・ネットワーク社会 日本の可能性』 TBSブリタニカ、1984
梅棹忠夫 『情報産業論』 『梅棹忠夫著作集14』
田中 淳 「高度情報社会の現実」 船津 衛編著 『現代社会論の展開』 北樹出版、1992
ダニエル・ベル "The Coming of Post Industrial Society" Basic Books,1973
 邦訳 内田忠夫ほか訳 『脱工業化社会の到来』 ダイヤモンド社、1975
マクウェール "MassCommunication Theory: An Introdduction",1983,Sage Publication
 邦訳 竹内郁男他訳 『マス・コミュニケーションの理論』、新曜社、1985
山本文雄編著 『日本マス・コミュニケーション史』 東海大学出版会、1970
吉井博明 『情報化と現代社会』 北樹出版、1996
スラック・フェジェス"The Ideology of Information Age" Ablex Publishing Corporation,1987
 邦訳 岩倉・岡山監訳 『神話としての情報社会』 日本評論社、1990



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