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アメリカから日本へ

ブロックという言葉は固まりという英語からきていて、元々アメリカで建物に使用されていました。第二次世界大戦後にアメリカが九州に米軍キャンプをつくろうとしたときに、当時日本では木造建築が主流だったのでラワンがシロアリ被害にあってしまい、それならと自国のブロックの技術を日本に取り入れたのが始まりです。
 しかし、@日本にはあまりブロックはなじまない(景観が、ブロックよりも木造が合う)
     A日本は土地が狭いので、建物同士の間にはっきりとした境界線が必要であるということから、日本ではブロックが塀として使用されるようになりました。


 最初は軽石を原料とした軽量ブロックが主流でした。今回私たちが対象として調べていたのは、主にスタンダードブロックというブロックの種類のスカシだったのですが、スカシブロックもアメリカから日本に伝えられたものだそうです。
 日本では、@風通しをよくするため
Aデザイン性がある

という理由でスカシブロックが製造・使用されるようになっていきました。今回見学させていただいたエスビック株式会社さんは戦後からブロック製造を始められて、今年で50周年を迎えるそうです。設立当初からスカシブロックも製造しており、昭和39年の東京オリンピック開催を記念して五輪の形をモチーフにしたデザインをつくったそうです。他に代表的なものとして、日の出、Y字の透かしがありますが、会社によってオリジナルのデザインがあり、種類は多様です。ブロックの厚さによってもスカシは多くの種類があります。

 エスビック株式会社さんは群馬県に本社があり、本州では最大の規模を誇るブロック会社ですが、群馬県では
@近くにある榛名山が昔噴火をして原料となる軽石がとれた
A東京という大都市が近くにあった

以上の理由から、当時の群馬県ではブロック工業は養蚕や自動車工業とともに製造業の中心でした。また、ブロックは知識があれば誰でも塀がつくれることから職業訓練校ができ、塀つくりは休閑期の農村の大きな収入源になっていました。ブロック工業は戦後の群馬県を支えた産業のひとつといえるでしょう。
 また北海道は寒い・風が強く、ブロック住宅にすれば灯油があまりいらないので需要があるためブロック工場があり、その他に沖縄県や四国にもあるそうです。

昭和30年〜40年にかけて東京でビルラッシュがあった際には、ブロックが数多く建物に使用されました。例えば、新宿にある京王プラザホテルでは40万枚、霞ヶ関ビルでは30万枚の軽量ブロックが間仕切りに使用されました。その他、国会議事堂や衆議院会館にもブロックが使用されています。ブロックは材料費が安く済み、耐久性があり100年以上もつ上に高温多湿に強く、ローンが適用でき火災保険も安いため、当初は盛んに使用されていました。しかしブロックは人件費がかかることから敬遠され、その後はALCという発泡コンクリートに変わっていきます。ALCはブロックと異なり骨材のない地域でもでき、スウェーデンやロシアの近くでつくられました。
また、昭和40年を境にそれまでの軽量ブロックは侵食されやすいという理由から衰退していき、砂を原料とした重量ブロックも製造・使用されるようになりました。
 
ブロックが伝えられた当時は製造にアメリカ製の機械を使用しており、すべて手作業で行っていましたが、次第に手動から半自動、そして自動機械へと変わっていきました。い現在はアメリカ製をしのぐような日本製の機械もでてきており、砂やセメント等の材料はどこにでもあり、海外は雨が少ないので露天でできることから、機械を輸出して現地でダムも作っているそうです。
けれどもアメリカは合理主義でブロック積みを共同作業で行い、いかに短時間で終わらせるかを重要視するのに対し、日本は美観を重要視するので手間・時間・人件費がかかるためコストがり、特にスカシブロックは完全機械生産ができないため、より多くのコストがかかります。
また、近年のガーデニングの流行もあって徐々に塀の高さが低くなってきており、ブロック塀の需要が少なくなったのと、阪神大震災以後安全性の面でスカシブロックの使用が敬遠されるようになっていったのとで、スカシブロックの生産は衰退していきました。現在エスビック株式会社さんでは、スカシブロックは需要がなく生産量が少ないため委託生産になっているそうです。

このようにブロックは時代と共に変化していき、今は積み上げるものからインターという下に敷き詰めるブロックが主流になっています。また、ガーデニングブームの影響でイギリスやオランダや、オーストラリアから様々な種類のブロックやレンガがはいってきており、ブロック業界もグローバル化しています。