癒しと旅行の関係とは……
Happy Travering?
今では「癒し」という言葉は世の中にはわんさかとあります。
世の中は疲れた人だらけ…?
疲れきった皆様は「癒し」求めてさまようのです。そして「癒し」を旅行にも求めているのです。
ここでは癒しと旅行の関係のほんの一部についてですが考えてみたいと思います。

はじめに

 私は暇なときや時間が空いたとき、街角などにおいてある旅行パンフレットを見る。そして気が付くのは、最近のパンフレットに「癒し」をテーマにしたものが多いのではないかということだ。はっきりと「癒し」という文字が使われているものもある。また、「癒し」という文字は使われていないまでも、「癒し」を意図したものを感じるものもある。

 確かに、最近「癒しブーム」という言葉がよく聞かれる。「癒しグッズ」といったものが店にはあふれ、「癒しコーナー」といったものができていたりする。

 香りで癒され、光で癒され、音楽で癒され、映像や、柔らかさや、可愛さで癒されるといった具合である。なんでもかんでも「癒し」である。現代社会はそんなにも「癒し」を必要としているのかと疑問に思うほど、「癒し」だらけだ。すべての人が頑張っていて、疲れ果てて、癒しを求めているのか。すべての人が頑張っていないとは言わないが、逆にすべての人が頑張っているとはいえないだろう。

 まぁ、そんな話は置いておくとして、さらに人は場所にも癒しを求めているのかもしれない。普段とは違う、日常から離れ美しい風景などに包まれることで「癒されている」と感じるのだ。そして、雑誌などではよく、「癒しの旅」といった特集が組まれている。

 では、「癒し」とはなんなのか。本当に人は、「癒し」を求めて旅行を考えるのだろうか。そして旅行パンフレットが癒しブームに乗っかり、「癒し」を意図して作っているのだろうか。ということを考えていきたいと思う。

癒しとはなにか

 ここでいう「癒し」とは、宗教や医療における「癒し」とはちがうことを初めに断っておきたい。


丸山達也氏による「癒しを求める心と体」によると、広義においての癒しとは、人間の全人格に働きかけるのもである。そういう意味で救いや治療を包括するものといえる。しかし狭義には癒しは、人間に知的に働きかける救いと違って、人間に直接的かつ具体的に働きかけ、生きている意味を体で感じさせるものである。

上田紀行氏の著書「癒しの時代をひらく」によると、「癒し」と「治療」は重なり合う部分がありながらも、異なる意味合いをもっている。治療が、障害のある部分や機能の回復であるとすれば、癒しとは存在全体に関わる言葉であるということである。治療という言葉には、病気でない状態が健康だという、二元論的な発想がある。治療が常に癒しになるとは限らない。癒しにおいては、単に身体が正常に回復することではなく、われわれが自分自身の存在のありかを見つけだしているか、それに満たされているかという次元こそが重要であるからだ。「癒し」とは極めて社会的なものでもある。つまり「個人の癒し」は「社会的な癒し」と表裏一体になっており、その両面が同時に進行していかなければ機能しないのである。そして「癒し」という観点から見れば、「社会」はよりマクロな視点から、「個人」はよりミクロな視点からの捕らえ直しが要求される。

癒しという「癒し」というコンセプトがわれわれを導くのは、一方では地球全体にまで視野を見つめ直し、自己を深く探求するという非常にダイナミックな視点であり、それを現実に自分が生きている場で形にしていくという実践的な行動である。ただし「癒し」とは、活気を生み出す、人間くさいエネルギーに満ちた言葉でもある。という風に述べている。

私なりに「癒し」について考えてみる。最近の殺伐とした世の中で人は「自分」という人間が分からなくなっているのではないかと思う。社会の中で自分を見失いがちなのかもしれない。身体は疲れていないのかもしれない。しかし心は、さまよい続けることで疲れきっているのだ。また、私が思うのは「疲れた」という言葉が世間の人たちの口癖になってはいないか、ということである。そう、確かに当事者にしてみたらその個人の生活の標準値からいったら「疲れている」というレベルにあるのかもしれない。しかし、その疲れたというレベルのランクがその人より10倍がんばっている人から見たら「疲れた」と言えるレベルではないのかもしれない。だけど「疲れた」と口にする。私は「疲れた」という単語によって人は口に出さなかったときよりも疲れが増してしまうのではないかと思ってしまう。「疲れた」と口に出したことでその心は本当の疲れよりも多くの疲れを作り出してしまうのではないだろうか。

また「癒された」と口に出して言うことによって、人はたいして癒されてもいないくせに癒されたのだと思い込み、勘違いが生まれるのではないかと思う。そしてまた、「疲れた」と口に出し、「癒されたい」と「癒し」を求める。そして本来本当に癒されているかもわからないものにすがり、癒されたと思い込む。確かにこの思い込みも大切であるとは思う。癒されたと思い込むことによって心は癒されうるとも思う。では、人は疲れたと感じたとき、何によって疲れを回復させようとするのだろうか。人によってそれらは様々であろう。外に目を向けたとき、世間には「癒しグッズ」と言われるものがあふれているのだ。自分が何によって「癒される」のか、その選択肢は様々なのだから。

癒されたい人は……

 夕刊フジ特捜班「追跡」によると、南の島を扱った書籍が冬の最中でも静かなブームとなるらしい。

 南の島の魅力とは「日常の喧騒から離れ、のんびり」といったイメージである。それが世間一般の人に共通する南の楽園の、またはその他の旅行地へのイメージと言えるのかもしれないと思う。実際に行ってみて、どうだという話は置いておいても旅行地を選ぶ人が、その旅行地に対して持っているイメージと旅行の計画をたてるまでの過程によって人は癒されるのだと思う。


癒しのポイントは??

 旅行パンフレット、旅行関連雑誌をもとに、癒しのポイントについて考えてみたいと思う。

「癒しの夏旅」

週刊東京ウォーカー7/22号のひときわ目立つ表紙である。その中では「島の自然に癒される」「野天風呂に癒される」「いにしえの里に癒される」の3つに分類されて、癒される旅についての特集を組んである。

悲しいことがあった時や疲れた時、

あなたはなにで癒されますか?

 今まで見たことも聞いたこともなかった

 知らない土地のやさしさに触れたら、

 すっと心が軽くなるかもしれません。

 出かけませんか?やすらぎの旅へ

美しい島の海岸の写真とともにこんなキャッチフレーズが書いてある。青い空、青い海、人っ子一人いなさそうな雰囲気。あまりにも自分たちの周りの日常からはかけ離れている光景に、その地に自分を癒すものがあるのかと思ってしまう。

 非日常的で、美しいと感じることのできる風景。これらが人を癒すという一つのイメージであると言える。

癒しとはイメージであるのかもしれない。雑誌やパンフレット、電車の中吊りやポスターなどで見かけた素晴らしい風景に憧れる。その地に行って、その風景を見ることによって自分は癒されるのではないか。この日常を頑張れるのではないか。そういう思いが人に生まれ、その思いが癒される土地、風景のイメージを作っていくのではないだろうか。

また、オズマガジン夏の増刊号では「私を癒す旅がここにある」というキャッチフレーズのもと癒しの旅特集が組まれている。その中の奄美大島ページに「日常とともにある奄美の海が癒しから和みの境地へと導く」という文章がある。なかなか興味深い文章である。「癒し」が日常になってしまったら人は「和み」というまた意味のわからない言葉で表される段階になるというのだ。

 

人が癒しの旅に求めるものとは??

 「癒し」という言葉のあるパンフレットや雑誌をもとにそのキーワードを見てみると次のようになった。

     知らない土地 (非日常)

     エステ

     ふれあい (地元の人と)

     美しい自然 (青い空、青い海、深い緑) 大自然

     のんびりとながれる時間 極上の時間

     高級感 (つまり、非日常)

     温泉 (露天風呂、展望風呂)

     おいしい食事

     やすらぎ、くつろぎ(リラクゼーション)

これらのキーワードは「癒し」という文字こそ使われてはいなかったが、他のパンフレットなどにも見られた。つまり、それらは「癒し」を目的にしているのだと言えなくもないのである。しかし、これらのコンセプトが見え隠れする対象となる地は、いわゆるリゾートと呼ばれる場所や、大自然が広がる場所、または温泉などである。つまり、人が癒されると感じる対象となるものが都市部には見出せないと言えるかもしれない。確かに、都市部での殺伐とした生活に疲れきっている人が、わざわざ人の大勢集まるような場所に「癒し」求めて行くとは思えない。また、自分自身も疲れて「癒されたい!!」と思い旅行に出かける際に、ニューヨークは選ばないだろう。だからこそ都市部などへの旅行パンフレットの中には「癒し」を発見することはなかなか難しいと言える。癒される場所として人がなんとなく想像するのは青い海や日常では触れることもできないような大自然である。それらを求め、癒されたいと願う人々が今日もまた南の国に青い空、青い海を求めて旅立つのかもしれない。しかし、人は旅行の計画を立てている段階で癒されているのだと思う。パンフレットや雑誌を見ながら、あれやこれやと想像を膨らませ「何を持っていこうか、どんな服を着ようか」と楽しみだけがどんどんと大きくなっていくのである。実はこの時間が一番、人をリラックスさせるのではないだろうか。実際に旅行に出かけてみて想像と違うことに戸惑うこともあるだろう。しかし、「癒されるため」旅行に来ているのである。「癒される」と思ったからこそ、旅行に来たのである。実際に来たというのに想像と違うからといって癒されないなんて、悔しすぎるだろう。ここで人は無理やりにでも「癒される」ポイントを探す。そして無理やりにでも旅行に来たおかげで「癒された」とするだろう。それでも人はまた旅行に出かける。パンフレットや雑誌では今日もまた、自分を癒してくれそうな写真が色鮮やかに「癒しの旅」へと誘っている。