ロシア古代中世史

加藤一郎

最終修正日:2002年1月31日

目次 

はじめに  ロシア世界の自然環境とその歴史的発展の特質(西ヨーロッパ世界と比較して)

         <ロシア世界の地政学>

         <自然環境と農業>

第1章  古代スラヴ族と近隣の諸族

         <スラヴ族の名称と原住地問題>

         <近隣の諸族>

         <スラヴ族の分散>

         <古代のスラヴ族の社会と文化>

第2章  キーエフ・ルーシ

         <ヴァリャークの招致伝説>

         <キーエフ・ルーシの台頭>

         <聖ヴラヂーミルの改宗>

         <ヤロスラーフ賢公の治世とその後>

         <ルーシの分裂:ヴラヂーミル、ガリーチ・ヴォルイニ、ノーヴゴロト 

        

第3章  モンゴルの支配

         <モンゴルの東ヨーロッパ・ロシア遠征>

         <キプチャク汗国の成立>

         <モンゴル人のロシア支配>

         <ベルケ汗とメング・チムール汗の治世>

         <汗国の二重権力時代とロシア諸公>

         <汗国の最盛期>

         <モスクワ、トヴェーリ、リトアニア>

         <汗国の分裂>

         <汗国の動乱とロシア>

         <トフタムイシ汗による汗国の再建とチムールの侵攻>

        

第4章  モスクワ国家

         <リトアニア大公国の成長>

         <モスクワ国家の成立>

         <イヴァーン3世:北東ロシアの統一>

         <イヴァーン3世:対外関係>

         <イヴァーン3世とソフィア・パレオローグ>

         <ヴァシーリイ3世>

         <イヴァーン雷帝:その性格>

         <イヴァーン4世:国内諸改革>

         <イヴァーン4世:対外政策>

         <オプリーチニナ恐怖政治>

         <雷帝の晩年>

         <雷帝の評価>

         <ボリース・ゴドゥノーフと「動乱時代」の開始>

         <偽ドミートリイ1世>

         <ヴァシーリイ・シュイスキイ、ボロトニコフ、偽ドミートリイ2世>

         <「動乱時代」の終結とロマーノフ朝の成立>

  はじめに  ロシア世界の自然環境とその歴史的発展の特殊性(西ヨーロッパ世界と比較して)

  人間が自然環境から相対的に自由になったのは、ごく最近のことであった。人間はとくに産業革命以前には、自然環境に手を加えるというよりも、自分自身を自然環境に適応させて生活させなくてはならなかった。したがって、人間の諸活動の産物である国家、社会、文化は、とりわけ古代や中世においては、自然環境の制約を強く被ったはずであり、自然環境の特殊性が、その地域の国家、社会、文化の特殊性をもたらしたといえる。

  <ロシア世界の地政学>

  ヨーロッパの地図を一見すればすぐ気がつくように、ロシアは広大な大陸である。1160万平方キロメートルのヨーロッパのなかで、ウラル山脈以東のヨーロッパ・ロシアは実に半分の560万平方キロメートルを占めている。もちろん、太古から、ロシア国家はこの広大な面積を占めていたわけではなかったが、すでに15世紀末のイヴァーン3世の治世に、ロシアはヨーロッパ最大の国家であった。

  こうした広大な領域を占めているために、海への接近がロシアには困難であった。例えば、ヨーロッパ全体では51%の地域が海から250キロ以下の範囲内に存在するのに、ロシアでは250キロ以下の範囲内にある地域は15%にすぎない。また、ロシアが太古から比較的容易に接近できた北氷洋は、基本的に航海することが難しく(1年のうち航行可能なのはわずか4−5ヶ月)、さらに南の黒海にしても内海であり、ヨーロッパの国際的商業海路から隔てられていた(そのうえ、ロシアが黒海沿岸を獲得したのはやっと18世紀のことである)。これに対して、西ヨーロッパ世界の海は基本的に一年中航海可能であり、しかも国際的な商業海路と直接に結びついていた。この「海からの遠さ」は、ロシアの政治的、経済的、文化的な孤立をもたらすと同時に、海への「出口」を求めたロシアの渇望=軍事的野心(イヴァーン雷帝のリヴォニア戦争、ピョートル大帝の北方戦争、近代の帝政ロシアの満州・シナ・朝鮮半島への軍事的侵攻)を呼び起こさざるをえなかった。

  また、ロシア世界は、狭い空間に山、平原、丘陵が入り交じる西ヨーロッパ世界とは異なり、基本的に単調な平原で構成されている。ウラル山脈、カフカース山脈、カルパチア山脈は、ロシア世界の周辺にあり、中央部の大半は海抜250メートル以下の平原である。このことは、ロシア地域にはいわゆる「自然国境」がないことを意味しており、外部諸族の侵入を招きやすいと同時に、内部で生活するロシア人の地域的な凝集力を弱めるという結果をもたらした。広大なロシア世界が国家的な統一を達成できるとすれば、軍事力によって外敵を退け、強権によって国内を統合する能力を持つ専制的な国家(モスクワ国家、ロシア帝国、ソ連)のもとでしかありえなかったのである。

  さらに、中央アジアから、カスピ海北岸、黒海北岸をとおってハンガリーのパンノニア平原にいたるステップ地帯は、古来から「ヨーロッパにくいこんだアジア」とも呼ばれており、ロシア世界、とくに南ロシアは古来からここを通過するアジア起源の遊牧民の侵入にさらされざるをえなかった。このために、ロシア世界は西ヨーロッパ世界とはことなり、たびたび、アジア起源の諸族の侵攻を受け、彼らの支配に服することによって、その政治的、社会的、文化的影響を被り(例えば、2世紀半にわたるモンゴルの支配)、西ヨーロッパ世界とは異質な国家・社会を作り上げざるをえなかった。

  ロシア世界にはヴォルガ川、ドニエプル川をはじめとする大河が流れている。これらの河川はロシア世界とビザンツ世界(「ヴァリャークからギリシアへの道」)、ロシア世界と東方のアジアを結び、キーエフやモスクワといった主要都市もこれらの大河かその支流にそって発達してきた。この点で、こうした河川と湖沼、それらを結ぶ連水陸路がロシア世界の中で果たした役割も大きく、ロシア人も「母なるヴォルガ」、「やさしいドニエプル」、「静かなるドン」という表現に見られるように、河川に対して親愛の情を示してきた。しかし、ロシアの河川は、1年のうちかなりの期間凍結し(2−7ヶ月)、しかもその水源の多くが雪であるために、春先には氾濫を起こし、夏には大陸性の気候のために、著しく浅くなる。このような特徴を持つロシアの河川は、人間や物資を規則的かつ大量に運搬することができなかった。また、ロシア世界には、森林や沼地が多く、広大な地域を結び付ける道路を敷設することが困難であった。敷設に成功したとしても、道路は秋から冬にかけては氷結するか、雪に覆われ、春先には雪解けによる「ぬかるみ」のために通行不能となった。つまり、ロシア世界はその自然条件ゆえに、西ヨーロッパ世界と比べると、国家的発展、経済的発展の面で著しく不利な交通条件の中におかれていたことになる。したがって、ロシア世界は、産業発展に重要な天然資源を豊かに抱えてていたにもかかわらず、豊かな天然資源を結び付ける交通手段を欠いていたがゆえに、それらにもとづく産業を発展させることが近年にいたるまでできなかった。

  <自然環境と農業>

  ロシア世界と西ヨーロッパ世界の夏の気温はほぼ同様である。ところが、ロシア世界の冬の気温は、大西洋のメキシコ湾暖流、暖かい地中海の恩恵を被った西ヨーロッパ世界と比較するとかなり低い(1月の平均気温は、マドリード:4度、ロンドン:3度、パリ:2度、ベルリン:−1度に対し、モスクワやペテルブールクなどのロシア中央、北部:−8−−12度、キーエフやロストーフ・ナ・ドヌーなどロシア南部:−2−−8度)。西ヨーロッパ世界では、春と秋は暖かく、期間も長い。一方、ロシア世界では冬の到来が早く、春の到来が遅いために、残雪期間が長い(西ヨーロッパでは一部の地域を除いて残雪期間がないのに対し、ロシア南部では3−4ヶ月、ロシア北部では6−7ヶ月の残雪期間がある)。また、ロシア世界では、土壌の豊かな南部では降水量が少なく、地味の乏しい北部で多く、その上、例えばモスクワ地方では、夏の終わりから秋口にかけて、すなわち収穫期に集中的に雨が降る。

  こうした自然条件は、ロシア世界の農耕条件を不利なものにした。まず、ロシア世界の農業では、1年のうちで農耕可能な期間が西ヨーロッパの農業と比べるとかなり短くならざるをえなかった(モスクワ地方では4−9月末までの5ヶ月間、ペテルブールク地方では5月中旬−9月中旬までの4ヶ月間が農耕可能な期間であるのに対し、西ヨーロッパでは7−9ヶ月、ほぼロシア世界の2倍の農耕可能期間がある)。つまり、西ヨーロッパの農民はロシア農民の2倍の時間を農耕に割くことができたのであり、逆に、ロシアの農民は、短期間に集中的に労働力を農耕に投下しなくてはならなかった。この結果、西ヨーロッパ世界では個人あるいは小家族にもとづく農業経営が順調に発展していったのに対し、ロシア世界では、労働力を集中的に投下する必要から、大家族あるいは農村共同体にもとづく農業経営が、近代にいたるまで中心的な役割を果たし続けた。独立自営農民の成立・発展が近代市民社会の成立の前提であるとすれば、ロシア世界には、この前提が欠けていたことになる。

  さらに、ロシア世界は、農耕に不利な自然条件のために、今日にいたるまで農業生産力の停滞という宿命を抱かざるをえなかった。西ヨーロッパにおいてもロシアにおいても、農耕の初期の段階ではその生産力はいずれも低く、あまり差がなかった(一粒の種子が何倍の収穫をもたらすかという収穫率では、1:3から1:4)。しかし、西ヨーロッパでは13世紀以降に農業生産力が向上し、16−17世紀頃には1:6、19世紀には1:10にまで成長したのに対し、ロシア世界の農業生産力は19世紀に入ってもほとんど成長せず、19世紀末のロシアにおいて、1エーカーの小麦畑はイギリスの小麦畑の7分の1、プロイセン、オーストリアのせいぜい半分の収穫しかあげることができず、ヨーロッパ全体のなかで最低であったという。このため、ロシア世界の農業は、生産力を向上させて、余剰穀物を生み出し、富を増大させる手段(その結果、商業や手工業が発展し、都市が発達する)ではなく、たんにこれまでの生活を維持する手段にとどまるという停滞的な性格を持たざるをえなかった。19世紀の西ヨーロッパ人は「農業がこれほど怠慢に行われている国はヨーロッパにはない」と嘆息しているが、それはロシア世界の農民や地主の資質のためではなく、ロシア世界の自然条件の厳しさのためであった。ヨーロッパ諸民族の興亡というグローバルな視点から眺めると、ロシア世界の貧しさ、経済的後進性は、ラテン系諸族、ゲルマン系諸族、スラヴ系諸族によって演じられたヨーロッパ世界の「椅子とりゲーム」のなかで、スラヴ系諸族が敗北して、もっとも農業に不利な地域で生活せざるをえず、しかも農業を主な生業に選択してしまったことに起因する。農業がつい最近まで、ロシアも含めたヨーロッパ諸国、諸民族の主要な生業であったことを考えると、このことが今日までのロシアの歴史的発展のなかで持っている意味は、想像以上に大きいのである。

第1章  古代スラヴ族と近隣の諸族

  <スラブ族の名称と原住地問題>

  今日のロシア人、ポーランド人などのスラヴ諸族の祖先がヨーロッパ史の舞台に登場してくるのは、ゲルマンやラテン系の諸族にくらべてきわめて遅かった。スラヴ族がそれ自身の名称をおびて史料のなかに登場してくるのは、断片的な記述を別にすれば、6世紀頃のことであり、ここでも、彼らは、「ヴェネディ」とか「アント」の呼称で登場してきているのである。このために、彼らの名称の起源が何であるのか、彼らはもともとはどこに居住していたのか今日でも、判然としていない。

  「スラヴ」なる語、原スラヴ語では「スロヴェーニン」なる語の起源については、古来から3つの説明がなされてきた。「言葉」を意味するスラヴ語の「スローヴォ」に由来するとする説。「奴隷」を意味するラテン語の「スクラヴス」に由来するとする説。「栄光」を意味するスラヴ語の「スラーヴァ」に由来するとする説の三つである(また、アラブ史料には「サクラバ」という名称も登場している)。だが、この3つの説明にはそれぞれ、民俗学的、言語学的、歴史学的矛盾があり、十分に納得させるだけの根拠がない。このために、近年の研究には、これを、宗教民俗学的視点から、「崇拝する者」、「神を賛美する者」を意味する「スラーフ」に由来するとする説、あるいは「ヴェネディの土地(ヴェーネ)の代表(スィル)」(スラヴェン)と解釈するなど説が登場してきているが、今日でも定説はない。

  西ヨーロッパ世界が、ゲルマン民族の大移動によってその基本的な民族配置を完成させていったのと同様に、東ヨーロッパ・ロシア世界もスラヴ族の分散・拡大によって、その民族配置を完成させていった。だが、このスラヴ族の分散・拡大以前の、いわば原スラヴ族がどこで生活していたかについては、今日でも論争が続けられている(いわゆる「スラヴの原郷問題」)。近代歴史学が発達をとげる19世紀頃までは、『原初年代記』の記述「多くの年月ののち、ドナウにそってスロヴエン(スラヴ)が住んできた。そこには現在のウゴル(ハンガリー)とボルガル(ブルガリア)の国がある。それらのスロヴェンから人々が地上にひろがり、住んでいた場所を自分の名としてよばれた」にしたがって、スラヴ族の原住地はドナウ川流域であると考えられてきた。

  しかし、今日では、この伝統的な「ドナウ流域説」はしりぞけられている。例えば、『原初年代記』の作者である聖職者は、スラヴ族の原住地をなるべくキリスト教の総本山ビザンツの近くに設定しようとしたというのである。多くの研究者が文献学的方法、考古学的方法、言語学的方法から研究を進め、様々な学説を発表しているが、いまだに論争は決着を見ていない。大別すると、ドイツとポーランド領にまたがるオーデル・ヴィスワ両川にはさまれた地域という説、黒海の北方を想定する西ウクライナ説またはウクライナ全域説の二つが有力である。ここでは、原スラヴ族は、カルパチア山脈の北部にそって、西はオーデル川・ヴィスワ川、東はドニエプル川のあいだの地域、すなわち今日のポーランド、ベラ・ルーシ、北西ウクライナ地方で生活していたと考えておくこととする。

  <近隣の諸族>

  ハンガリーのパンノニア平原から黒海北岸とカスピ海北岸をへて、中央アジアおよびモンゴリアにいたるステップ遊牧地帯は、太古から様々な諸民族が活躍してきた舞台であった。このような民族には、前10−前7世紀のキンメル族、前7−後3世紀のスキタイ族、前3−後4世紀のサルマタイ族、3−4世紀のゴート族、4−5世紀のフン族、6−8世紀のアヴァール族、7−10世紀のハザール族、および紀元前7世紀頃から黒海沿岸に植民市を築き、多彩な活動を展開したギリシア人がいる。スラヴ族は、このような諸民族と接触・交渉をくりかえしながら、自分たちの運命を左右され、また大きな文化的影響を被った。また、すでに新石器時代の遺跡に、定住農耕民と侵入してきた遊牧民との抗争の跡がみられるが、この定住農耕民と遊牧民との対立抗争、あるいは相互の社会的・文化的浸透も、ロシア史の基本的な背景である。

  まず、ギリシア人たちは土壌の豊かさ、漁業資源、スキタイ族などのステップ民族との交易の可能性に惹かれて、前7世紀末−前6世紀初頭に黒海北岸に植民活動を開始した。こうした植民活動の結果、前6−前3世紀にかけて、イオニア、小アジア、エーゲ海地方からのギリシア人植民者たちによって、黒海の北岸にいくつもの居留地が建設され、そのなかから、ケルソネス、オルビア、テオドシア、パンティカペイオンなどの植民市が生まれていった。植民市は本国との商業的・文化的な関係を維持しており、本国から、ワイン、オリーブ油、貴金属製品、陶器、織物などを輸入して、これを周辺のステップ民族と交換することで、穀物、家畜、塩漬けの魚、奴隷を輸出した。とりわけ、南ロシアの穀物は重要な輸出品であった。さらに、こうした交易活動以外に、植民市自体が手工業生産、農業、牧畜にも従事していた。

  これらの植民市は、本国のポリスと同じく奴隷制の都市国家であった。その交易活動は前4世紀ごろには非常に繁栄していた。しかし、その後は、エジプトからの穀物輸出の増加が植民市の経済的繁栄の基盤を脅かし、さらにスキタイ族、サルマタイ族、ゴート族などが黒海北岸に登場したことが政治的・社会的動揺をもたらした。その結果、ギリシアの植民市は、様々な民族の活動の波の中で、本国との結び付きが弱まって来るにつれて、次第に衰退していった。しかし、このギリシア人植民市は黒海周辺の諸民族にギリシア、ローマ、ビザンツの文化を伝達し、いわばこれらの諸民族と古代地中海世界のセンターとの仲介者という重要な歴史的役割を果たした。

  キンメル族は、南ロシアのステップ地帯に登場してくる諸民族の中で、文献史料に言及される最初の民族であり、前10世紀にこの地域に姿をあらわした。ヘロドトスなどのギリシア人の史料によると、アジア地域に暮らしていたキンメル族はスキタイ族に追われて、カフカース地方を経由して、小アジアに入り、そこから黒海沿岸、クリミア半島に入って、当地に定住したという。また、アッシリアの史料によれば、彼らは紀元前8世紀には小アジアを経由して西アジアにも入り、ウラルト国やアッシリア軍と衝突したという。しかし、文献史料の不足のために、彼らの民族的な起源、彼らの社会の性格、彼らの移動方向と時期に関する様々な問題(「キンメル族問題」)は、近年の考古学的な成果を踏まえても、解決されていない。

  やはり北イラン系の遊牧騎馬民族と思われるスキタイ族は、前7世紀に先住のキンメル族を追放してドナウ川からドン川にかけての黒海北岸地方(スキュティア、スキフィア)に強力な遊牧国家を建設した。またキンメル族を追って西アジアにも侵入し、アッシリア、アケメネス朝ペルシアとも戦い、前4世紀ごろに全盛期をむかえた。この全盛期には20メートルにも及ぶ巨大な王族の墳墓が多数造営されており、そこには故人の妻や妾、召使いとともに、華麗なスキタイ文化をしのばせる豪華な副葬品も埋められた。スキタイ族はいくつかの部族に分かれていた。へロドトスの記述によると、王族スキタイ、遊牧スキタイ、農民スキタイ、農耕スキタイが地域に分かれて生活していたというから、彼らは遊牧生活とともに農耕生活も営んでいたと思われる。その中では王族スキタイが支配的な地位を占めていた。

  こうした繁栄にもかかわらず、スキタイ族は前4世紀後半にはマケドニアのアレクサンドロス大王の軍の侵入を受け、さらに前3世紀にはサルマタイ族が大挙して侵入して来ると、領土の縮小を余儀なくされ、クリミア半島とその周辺地域を確保するだけになってしまった。このクリミア半島のスキタイ国家は3世紀半ばまで存続したが、ゴート族の侵入をうけて滅び、スキタイ族も民族大移動の過程でその他の諸民族の中に溶解してしまった。しかし、スキタイ族の経済的発展(手工業、農業)、軍事技術、独自の文化と芸術は、のちの南ロシアの諸民族の歴史と文化に大きな影響を与えた。

  サルマタイ族は紀元前3世紀から後4世紀にかけて、カスピ海北岸からドナウ流域までのステップ地帯に分布していたイラン系の遊牧騎馬民族である。当初は、スキタイ族の国家の東方で生活していたが、前3世紀にドン川を越えてスキタイ族の土地に入り、彼らをクリミア半島に追い込めて、南ロシアのステップ地帯を支配した。この結果、古代の地図ではスキフィアと呼ばれていた地域の大半は、サルマティアと呼ばれるようになった。古代ギリシアの地理学者ストラボンによれば、このサルマティアでは東西を結ぶ交易活動が盛んであったという。彼らはいくつかの部族に分かれており、その中ではアラン族が有力であった。今日のオセット族は彼らの末裔である。その後、サルマタイ族はさらに西進してローマ帝国と衝突するまでに膨張したが、民族大移動の中で、3世紀にはゴート族によって黒海北岸地域の支配権を失い、4世紀にはフン族の侵入によって壊滅的な打撃を受けた。その後、彼らは地元の諸族、とりわけチュルク系の諸族と融合していった。

  ギリシア文明と遊牧民の文化の相互浸透の結果、黒海北岸のステップ地帯にギリシア・イラン文化が発達したのはこのスキタイ族とサルマタイ族の時代であった。

  アヴァール族は6世紀の中頃、南ロシアのステップ地帯に登場した有力なチュルク系の遊牧民であるが、その起源は明らかではない。558年にアヴァール族の使節がコンスタンチノープルを訪問したとき、ときの皇帝ユスチニアヌスはブルガール族、スラヴ族を攻撃するとの条件でドナウ北方の土地を与えたので、アヴァール族は根拠地をカフカース北部からドナウ下流に移した。その後、アヴァール族はビザンツ帝国とも対立を続けながら、560年代には、中央ヨーロッパに遠征し、パンノニア平原地帯に本拠をもつアヴァール汗国を建設し、周辺諸族を服従させながら、580年代にはビザンツ帝国の首都コンスタンチノープルをも脅かすまでに成長した。

  このようなアヴァール族の活動は、スラヴ諸族の分散に大きな影響を与えた。アヴァール族のビザンツ遠征はバルカン半島へのスラヴ諸族の移住を、すなわち南スラヴ諸族の形成を促進し、中央ヨーロッパのゲルマン民族への遠征は、この地域へのスラヴ族の定住を促したのである。さらに、『原初年代記』が「オブリ(アヴァール)はスロヴェンに戦いをいどみ、スロヴェンであるドウレブィを苦しめ、ドウレブィの女たちに暴力を振るった。」と記しているように、カルパチア地方のスラヴ族にたいするアヴァール族の支配は、非常に苛酷であったために、彼らの一部を北東のロシア地方に移住させたという(これに対して、スラヴ族はアヴァール族の出現以前から南西ウクライナ地方で生活していたという説もある)。

  アヴァール汗国は中央・東ヨーロッパの大国となり、7世紀の前半には全盛期をむかえた。だが、西ヨーロッパにおけるフランク王国=カール大帝の帝国の成長がアヴァール汗国を衰退へと向かわせた。カール大帝の軍は795−796年にアヴァール汗国領に侵入し、アヴァール族がその支配を維持するためにパンノニアに建設した9つの円陣(環=リング)を占領して、汗国を滅ぼした。アヴァール汗国は近隣の諸族を略奪し、彼らから貢税を集めて成立した遊牧国家であり、確固とした経済的な基盤を持っていなかった。したがって、近隣の諸族が弱体なときには成功を収めることができたが、カール大帝の帝国のような、組織されて強力な国家に遭遇すると、急速に瓦解してしまったのである。その後、アヴァール族はしだいに地元の住民と同化し、主体性を失っていった。

  ハザール族は、6世紀から10世紀にかけて、おもにカスピ海北岸を中心にハザール汗国を建設したチュルク系の民族である。ハザール族は6世紀には西チュルク汗国に従属していたが、7世紀に西チュルク汗国が解体すると、その後継国家として、チュルク族を受け入れつつ、ハザール汗国を形成した。ハザール族はアゾフ海沿岸のブルガール族を追放し、7世紀にはザカフカース地方の領有をめぐってイスラム帝国と対立し、またビザンツ帝国とも紛争を繰り返した。

  ヴォルガ河口に建設された汗国の首都イティリは当時の国際交易のセンターであり、汗国に多くの収益をもたらした。宗教的には、ビザンツ帝国とイスラム帝国に挟まれていたために、双方からキリスト教、イスラム教を受容せよとの働きかけを受けていた。735年にハザール汗国軍はイスラム軍から大敗を被り、その結果、汗国のカガンとその側近はイスラムを受容せざるを得なかった。その一方で、ビザンツ帝国との関係の改善のために、キリスト教の教会組織が汗国内に建設を許されていた。

  ハザール族の本拠地であった北ダゲスタン地方には、ササン朝ペルシア、ビザンツ帝国を追放されたユダヤ人が居住しており、ユダヤ教を受け入れたハザール族貴族も出現するようになった。8世紀末か9世紀初頭、その子孫のオバディアが汗国の長となり、ユダヤ教を国教とした。しかし、この宗教革命による混乱は大きく、9世紀後半になると、汗国は次第に衰退していった。

  <スラヴ族の分散>

  スラヴ族は、以上のような近隣諸族の活動を背景として、その影響をうけつつ、前2世紀頃から後7世紀中頃までのあいだに原住地からゆっくりと分散・移動していった。

  分散・移動の過程については、史料的な制約からいまだ判然としていないが、次のようなステップを踏んでいったと思われる。まず、前2世紀頃からゲルマン民族の大移動の開始頃までは、スラヴ族はオーデル・ヴィスワ川からドニエプル川のあいだの原住地で、スキタイ族、サルマタイ族、ゴート族、フン族その他に接触・従属しつつ、ゆっくりと膨張していった。ついで、フン族の侵入とゲルマン民族の大移動に伴う変動がスラヴ族の移動・分散に大きな影響を与えた。まず、前4−2世紀にかけてゴート族が南下しドナウ流域からアゾフ海までの地域を支配した。このゴート族の南下によって分断されたスラヴ族は、個々に西はエルべ川、東はドニエプル川以東、北はドウィナ川、南はドナウ川の線にまで進出した。ここに、西スラヴ族、東スラヴ族および南スラヴ族の祖先が形成された。共通スラヴ語の中にはゴート語からの借用語が多く見られるように、ゴート族の支配下に入った多くのスラヴ族が彼らの文化の影響を受けた。ついで、フン族の侵入は黒海沿岸からゴート族を放逐したために、スラヴ族の西進および南下に大きな刺激を与えた。結局、民族大移動の波の中で、スラヴ族は、ゲルマン民族が、西方に移動していったあとのバルト海沿岸からドナウ川下流域にいたる空白地帯を埋めるかたちとなった。

  さらに6世紀に入るとアヴァール族がビザンツ帝国と対決しつつバルカン半島に侵入すると、このアヴァール族の支配下に入っていたスラヴ族も、彼らと並行してバルカン半島に侵入し、ここに定住して、南スラヴ族が成立した。異教徒であるアヴァール族およびスラヴ族が、東西のキリスト教世界の接点であったバルカン半島のイリイクム地方を占領したことは、ローマ・カトリック圏とビザンツ・ギリシア正教圏の分裂を促していったという意味で、ヨーロッパ文化史上では大きな歴史的意義をもっていた。

  <古代のスラヴ族の社会と文化>

  古代スラヴ族の社会組織の基礎は、その他のインド・ヨーロッパ語族の諸族と同様に家族であった。近親の数家族が共同体(ヴェルフィ、ミール、ザドルーガ)を形成し、農耕と牧畜をいとなんでいた。土地は、全共同体の共有財産であり、その生産物は共有とされていた。ちなみに、ヴェルフィとは共同体の構成員が保有する土地区画を計るのに使われた「縄」に由来する。私有財産も存在したが、それは、個々の共同体構成員の日常生活に必要なものに限られていた。だが、この共同体の実態については、これを血縁的氏族関係の紐帯にもとづく「家父長制的大家族共同体」とみなす見解と、地縁的規制力に準拠した「隣保共同体」とみなす見解とが対立している。おそらく、共同体の性格は、農耕様式の変化にもとづく社会の発展段階にしたがって、血縁的なものから地縁的なものへ、すなわち共同体構成員の個人的単独経済を土台とする農村共同体へと変化していったと思われる。11世紀に編纂されたロシア最古の成文法『ルースカヤ・プラーヴダ』(簡素版)第13条の条文「もし誰かが他人の馬、または衣服を取り、そして、所有主が自分のミールのなかで、これを発見したときは、彼は自分のものをとり戻し、そして不法に対して3グリーヴナ(古代ロシアの貨幣単位)」は、すでに「ミール」が一定の領界をもつ地域的な共同体となっていることを示している。

  この共同体のすべての決定は、成人男子全員が参加する権利をもつ「民会(ヴェーチェ)」でなされ、その決定は共同体の最年長者である「スターロスタ」、「ジュパン」によって執行された。時代がたつにつれて、一定の数の共同体が集って、「部族(プレミア)」を形成し、この「部族」が一人の首長のもとに統合されて「部族同盟」に成長し、これがスラヴ諸族の国家の母体となっていった。こうした進展とともに、かつては共同体の長であった「スターロスタ」、「ジュパン」が一定の地域的な支配者(公、クニャーシ)として君臨するようになっていく。

  スラヴ族の社会・政治組織は、いまだ階級分化が未発達で、きわめてゆるいものであった。ビザンツ側の史料は、スラヴ族の政治組織について、「スラヴ族は一人のもとには統率されておらず、民主制度、それも古いかたちの民主制度のもとでくらしている。それゆえ、彼らにとっては、あらゆる幸いなことも、不幸なことも共通のことである」とか、「彼らは繁った森や、狭い谷間で敵と戦うことを好む。・・・統率者をもたず、たがいに仲の悪い彼らは戦陣隊形を知らず、正規の開戦で戦うために開けた平野にでることがない。戦闘にのぞむや、叫び声をあげて、いっせいに前進する」と記している。

  キリスト教に改宗する以前のスラヴ諸族の土着の信仰は、近隣のイラン系文化の強い影響を受けており、多神教的、汎神論的であった。例えば、イラン系の宗教は、「天」を意味する'Dieus'(ギリシア人の'Zeus'、ローマ人の'Deus' )を神の名前として採用しておらず、富と富の授与者を意味する'Baga'を神の名前としているが、スラヴ族も神の名前として'Bog'(富は'bogatstvo')を採用している。また、イラン系の宗教では'Deiwas'、'Daewa'が神に敵対する悪魔的存在であるが、スラヴ諸語でも、このなごりは「魔女」「奇跡」を意味する'dibo'として残っている。スラヴ族が信仰したペルーン(雷と稲妻の神、主神)、ダージボク(太陽と火の神)、ストリボーク(風、嵐の神)、ヴォーロス(家畜の神)といった神々には、語源の面でも起源の面でもイラン系のものが多い。このような土着の信仰は、ロシア世界がキリスト教を受けいれたのちにも、民衆のあいだで伝統的な信仰として長らく残り、のちに登場する異端的信仰の土台となった。

  第2章  キーエフ・ルーシ

  <ヴァリャークの招致伝説>

  11世紀末からキーエフの洞窟修道院でロシアで最初の年代記『原初年代記』が編纂された。「これはルーシの国がどこから出たか。誰が最初にキーエフに君臨したか、そしていかにルーシの国が興ったかについての、過ぎし年月の物語である」という長い表題から、『過ぎし年月の物語』とも、また、代表格の編集者である修道僧ネストルの名にちなんで「ネストル年代記」とも呼ばれている。この『原初年代記』は古代ルーシ(ロシアの古名)国家の成立についてこう述べている。

 「 6367年(859 年) ヴァリャークが海のかなたからチュージ、スロヴェーネ、メーリャおよびすべてのクリヴィチに貢税を課した。また、ハザールはポリャーニン、セヴェリャーニン、ヴャチチに貢税を課し、一戸について銀貨一枚とリスの毛皮一枚ずつを徴収した。・・・・・

   6370年(862 年) ヴァリャーク人を海のかなたに追いはらい、彼らに貢税を与えず、自らの手で治めはじめた。しかし、彼らのなかには正義がなく、氏族同士が対立し、そのあいだに内紛が生じてたがいに戦いはじめた。そこで彼らはこう言いあった。『われらを治め、法にしたがって裁く公を探そうではないか』と。そして彼らは海のかなたのヴァリャークであるルーシのもとへおもむいた。そのヴァリャークたちはルーシと呼ばれていたのである。あたかも一部のヴァリャークがスウェードと呼ばれ、ある者はノルマンとかアングルとか名づけられ、またある者はゴートと呼ばれているように、彼らはそう呼ばれていた。ルーシにむかって、チュージ、スロヴェーネ、クリヴイチおよびヴェーシの諸族が言った。『われらの土地は広大で豊かであるが、そこには秩序がない。われらの上に君臨し、支配するために来たれ』と。そこで三人の兄弟がその氏族とともに選ばれ、彼らは全ルーシをひきいてやってきた。長兄のリューリクはノーヴゴロトに、次のシネウスはべローゼロに、三番目のトルーヴォルはイズボールスクに居を定めた。・・・」

  これが古代ロシア史上最大の論点となっている「ヴァリャークの招致伝説」である。このヴァリャーク族とは誰であるのか、そして、彼らは地元の東スラヴ族とどのような関係を結びながら、古代ルーシ国家を建設していったのか、また、建国の祖とされるリューリクは実在の人物であるのか。こうした論点をめぐって、ヴァリァーク人とはゲルマン民族の一派のノルマン人であり、彼らが古代ルーシ国家の建設の面で重要な役割を果たしたことを認める「ノルマン派」のロシア史家、それを否定する「反ノルマン派」のロシア史家のあいだで200年以上も論争が続けられてきた。

  「ヴァリャーク」とは、古代ルーシ国家の成立時代にスカンディナビア・バルト海沿岸のノルマン人に与えられた名称であり、ビザンツ帝国に仕えたノルマン人の戦士を意味する古代スカンディナビア語の単語'vaeringjar'に由来する。そして、年代記の記述によれば、彼らは、正確には彼らの一部は「ルーシ」と呼ばれていた。その名称の由来には、異説があるが、スウェーデン沿岸の地名'Roslagen'、あるいは「漕ぎ手」・「舵取り」・「湾岸の住民」を意味する'rothskarlasr'、'rothmaen'、'rothbyggiar'などがあげられている(一方、「反ノルマン派」からの少数意見として、ロス川周辺に居住していた東スラヴ系のロス族、ルス族に起源を求める説、またサルマタイ族に起源を求める説がある)。「ノルマン派」の見解に従えば、最初に「ルーシ」すなわちロシア人と呼ばれたのは、スカンディナビア地方のノルマン人だったのである。彼らは、豊かなビザンツ帝国との交易のために、バルト海−イリメニ湖−ドニエプル川−黒海−ビザンツ帝国という水路(「ヴァリャークからギリシアへの道」を利用して活発な交易活動を展開し、この交易路にそって古代ロシアの町が生まれていった。

  一方、今日のロシア人、ウクライナ人、ベラ・ルーシ人の祖先にあたる東スラヴ族の起源と移住問題も、論争を呼びおこしている。大別すると、東スラヴ族はもともと、のちのキーエフ・ルーシ国家の領域のなかで生活していた土着の住民であったとする見解(「土着理論」)と、別の地域からある時期に移動してきたとする見解(「移住理論」)があるが、後者の方が説得的である。「移住理論」によれば、スラヴ族は、アヴァール族がドナウ川流域を支配するようになったことに刺激されて、6世紀末から7世紀初頭に、ドナウ下流とその周辺から南ロシアに移動しはじめ、9世紀の初頭には西はカルパチア山脈から東はドン川流域の森林ステップ地帯と黒土地帯に定住し(東スラヴ族の形成)、ここから次第に北ロシアにも移住していった。年代記には、キーエフ周辺のドニエプル右岸のポリャーニン族、ポリャーニン族とプリペト川の間のドレヴリャーニン族、プリペト川北部のドレゴヴィチ族など11の部族が登場している。

  最後に、『原初年代記』はヴァリャークの首長リューリクが兄弟トルーヴォル、シネウスとともに、東スラブ諸族からの招請をうけてノーヴゴロト公国を建国したと述べているが、このリューリクも半伝説上の人物である。ノルマン=ヴァイキングの活躍時代の西ヨーロッパの史料には、ユトランド半島出身でフリースランドを本拠地として北ドイツ、フランス、イギリスを再三略奪したロリクなる人物が登場するが、この彼をリューリクと同一人物であるとみなす説もある。

  以上のように、「ヴャリャークの招致伝説」に関しては、解決されていない問題も多く、結論を下すことは容易ではない。細部はともあれ、ノルマン人の全ヨーロッパ的な活動の中で、その一部であったヴァリャーク人が「ヴァリャークからギリシアへの道」を中心とした交易活動、略奪活動を展開する過程で、地元の東スラヴ諸族と接触し、その中で古代ルーシ国家が誕生していったといえる。

  <キーエフ・ルーシの台頭>

  『原初年代記』によれば、リユーリクは、その死に臨んで、自分の子イーゴリがまだ年少であったために、公位を一族の有力者オレーク(在位882−912)に譲った。オレークは、まず、周辺の東スラヴ諸族を統合するために、軍を率いて南下し、キーエフに向かった。彼は882 年に、キーエフの支配者であったアスコリドとディールを策略を使って殺し、ここを占領して、キーエフを「ルーシの町々の母」とした。この結果、ロシアの南北は統一され、北はラドガ地方から南はステップ地帯にまで広がる、ロシア史上「キーエフ・ルーシ」と呼ばれる国家が成立した。さらに、883−885年にはドレヴリャーニン族、セヴェリャーニン族、ラヂミチ族を服従させることに成功したために、ドニエプル中流域のほぼすべての東スラヴ諸族がハザール汗国への服従をやめ、キーエフ大公オレークに貢税を支払うことになった。

  オレークの治世の後半の最大の事業は、ビザンツ帝国の富とビザンツ帝国との有利な交易関係の締結を目指したコンスタンチノープル遠征であった。907年(911年とする説もある)、オレークはヴァリャーク族、東スラヴ諸族の軍を率いてコンスタンチノープルに向かい、コンスタンチノープル自体を占領することはできなかったものの、その周辺地域を略奪することに成功した。講和を求めたビザンツ帝国は賠償金の支払いと、コンスタンチノープルでのルーシの商人の交易条件を改善する通商条約の締結に同意せざるを得なかった。912年(922年とする説もある)、古代ルーシ国家の事実上の創設者、初代キーエフ大公オレークは愛馬の頭蓋骨に潜んでいたヘビにかまれるという伝説的な原因で死んだ。

  オレークを継いだイーゴリ(在位912−945)の治世の前半の記録はほとんどない。941 年、彼はオレークと同じくビザンツ遠征を企てたが、ビザンツ側の秘密兵器「ギリシアの火」などによって、大敗を喫してしまった。944年にビザンツ・ルーシの条約交渉が行われたが、その交渉団はビザンツ皇帝とその息子、イーゴリと妻オーリガ、息子のスヴャトスラーフ、22人のルーシ諸公を代表しており、さらに25人のルーシ商人も交渉に在席することを許されていたというから、当時のビザンツ・ルーシ交易が非常に大規模であったことが判る。907年の時とは逆に、今度は、ルーシ側が以前の商業的な特権の一部を失い、条約の改訂を余儀なくされた。

  当時、キーエフ・ルーシでは巡回徴貢(原語「ポリューヂエ」は「人々のあいだに」の意)という徴税方法が一般的であった。諸公たちは通常は収穫の終わった11月頃に、従士団を率いて帰属している領地を巡回し、住民から毛皮、獣皮、蜂蜜、蜜蝋などを貢税として徴収し、春になってドニエプル川の氷が解けてから帰途に着いた。しかし、諸公たちはなかば暴力的に貢税を徴収したために、しばしば住民の反抗を招いた。945年のイーゴリの死もこれに関連している。すなわち、ドレヴリャーニン族のもとに徴税に赴いたイーゴリは、通常の貢税額以上を要求したために、ドレヴリャーニン族の反抗を招き、彼らに殺されてしまったのである。この事件は、キーエフ大公の権威がなかば略奪に近い巡回徴貢という原始的な手段に基づいていたために、きわめて脆弱であったことを物語っていた。

  イーゴリの殺害後、息子のスヴャトスラーフがまだ年少であったために、妻オーリガ(?−969)が摂政の地位についた。彼女は、外にむかって拡大することよりも、内政面での充実に精力を注いだ。彼女は、ロシア古代史上有名な逸話「オーリガの四つの復讐」によって、ドレヴリャーニン族を討伐して夫の仇をうったものの、なかば強奪・略奪に近いイーゴリの強攻策を反省して、支配機構を合理的なものに整備していった。すなわち、徴税にあたっては、貢税の額を定め、貢税納入所を設立し、キーエフ大公の権威が制度的に全支配領域に及ぶようにしていったのである。

  オーリガの息子スヴャトスラーフ(在位945−972)は、年代記に「彼は豹のように軽快に歩きまわり、しばしば戦争を行なった。遠征に赴くときにも輸送隊をしたがえず、鍋をもち歩かず、肉は煮ることなく、馬肉であれ、野獣の肉であれ、牛肉であれ、細かくきざみ、炭火で焼いて食べた。また天幕をたずさえず、馬の腹掛けを敷き、鞍を枕にして寝た」と記されているとおり、まったくの「ヴァイキング戦士」であり、その生涯の大半を対外遠征ですごした。964−966年にかけて、彼はヴォルガ方面、ハザール汗国に向かい、ドン河畔のハザールの軍事拠点サルケルを占領し、汗国の首都イティリを破壊した。ついで、967−968年、ブルガリアに対抗するためにビザンツ帝国が同盟を提案してきたことを利用して、彼はドナウを越えてバルカン半島にまで侵入し、ブルガリアの北部を占領して、ドナウ河口のペレヤスラーヴェツに本拠地を置いた。彼は「予はキーエフにとどまることを好まぬ。ドナウ河畔のペレヤスラーヴェツに住みたい。それは、わが領土の中心であり、そこにはあらゆる財宝、すなわちギリシアからは金、錦、ブドー酒とさまざまな果実、チェクとウグルからは銀と馬、ルーシからは毛皮、蝋、蜜酒と奴隷が集ってくるからである」と述べているように、彼の夢は「大ヴァリャーク・スラヴ帝国」の建設であった。

  だが、彼がハザール族に大打撃を与えたことは彼にとって不運な事態をもたらした。ハザール汗国はステップ遊牧民がルーシの国土に侵入して来ることを防ぐという防波堤の機能を果たしていたからである。ハザール汗国の衰退によって、あらたな遊牧民ペチェネーク族が黒海北岸に侵入して来たのである。中央アジア起源のチュルク系遊牧民族であるペチェネーク族はウラル地方、ヴォルガ地域で暮らしており、ハザール汗国と抗争していたが、次第に黒海北岸のステップ地域に浸透し、900年頃までにはドナウ川とドン川のあいだのステップ地帯を支配するようになっていた。彼らは、『原初年代記』によれば、915年にはじめてルーシの国土に侵入してきており、968年には、スヴャトスラーフ軍の主力がペレヤスラーヴェツに逗留していることを利用して、キーエフを包囲した。ビザンツ帝国はこのペチェネーク族をキーエフ・ルーシ、ブルガリア、マジャール族を牽制するための有効な外交的な道具として利用しており、スヴャトスラーフは、972年バルカン半島からの帰途で、ペチェネーク族に殺されてしまった。彼らはスヴャトスラーフの頭蓋骨から金箔の酒杯をつくって戦勝を祝ったという。

  <聖ウラヂーミルの改宗>

  キーエフ・ルーシを建国したヴァリアーク人たちは、オレークとビザンツ帝国との条約にも「ルーシ人たちはおのれの武器にかけて、おのれの神ペルーンにかけて、さらに家畜の神ヴォーロスにかけて誓い・・・」とあるように、もともとは、雷の神ペルーンを主神とする多神教を信仰していた。だが、キーエフ・ルーシが東ヨーロッパ世界の国際的な舞台に登場し、キーエフ・ルーシの戦士や商人がコンスタンチノープルに常駐し、クレタと小アジアで戦い、エジプト人やシリア人と取り引きし、ヴォルガ・ブルガリアやホレズムにでかけるようになると、キーエフ・ルーシは隣国からさまざまな宗教的な働きかけを受けるようになった。当時の諸国、諸民族にとって、自国の宗教を他国・他民族に受け入れさせることは、宗教的・文化的のみならず、外交的・政治的影響力を拡大するという一種の安全保障政策であったからである。『原初年代記』は、ブルガール人(イスラム教)、ドイツ人(カトリック)、ユダヤ人(ユダヤ教)、ギリシア人(東方正教)がキーエフ・ルーシにやってきて、『われらのおきてを受けいれよ』とすすめたことを記している。

  ブルガール族とはアジア起源のチュルク系遊牧民であり、7世紀前半にはアゾフ海からカスピ北岸のステップ地帯に「大ブルガリア」を形成していた。しかし、7世紀中頃にハザール族が侵入してくると、「大ブルガリア」は、北東のヴォルガ方向に逃亡したヴォルガ・ブルガール族とドナウ方向に逃亡したドナウ・ブルガール族に分裂した。922年、アルマス汗がイスラム帝国の支援を受けつつ、ヴォルガ・ブルガール諸族を統合して、ハザール汗国から独立し、イスラム教を国教とするヴォルガ・ブルガリアを建国した。このヴォルガ・ブルガリアの首都ブルガールは、ヴォルガ水系の中央に位置していたために、東ヨーロッパとイスラム世界を結ぶ商業センターであった。ブルガール族は穀物、毛皮、奴隷、手工業製品を輸出し、ザカフカース地方、中央アジア、キーエフ・ルーシから物品を輸入した。キーエフ・ルーシとの商業的関係も深く、また北東ロシア地域で国境を接していたために、衝突も頻繁であった。

  また、ハザール汗国がユダヤ教を受け入れた後、南ロシア地方ではユダヤ教の影響力が、一層強くなっており、ユダヤ人商人は、キーエフという重要な商業センターとユダヤ人コロニーに強い関心をいだいていた。また、ドイツ人も、オーリガの時代に宣教師団を派遣している。

  なかでも、ビザンツ帝国は、860 年のルーシ人によるコンスタンチノープル襲撃に象徴されるスラヴ族の南下に対処するためにも、南ロシアのスラヴ族に対するキリスト教の布教に熱心とならざるをえなかった。この布教は864一866年に実施され、かなりのルーシ人がキリスト教に改宗したと思われる。キーエフの支配者アスコリドと彼の軍の一部がキリスト教徒となり、アスコリドはキーエフに聖職者を受け入れ、教会の建設に賛同したという。だが、この成果も、882 年にオレークがアスコリドとディールを殺して、キーエフを占領すると無に帰してしまった。オレークの907年のコンスタンチノープル襲撃、イーゴリの941年のコンスタンチノープル襲撃に象徴されるように、ビザンツ帝国にとって、ルーシの脅威は依然として大きかった。

  だが、イーゴリの未亡人オーリガはビザンツ帝国との商業的・軍事的関係を改善・強化するために、957年にコンスタンチノープルに赴き、ここで洗礼を受け、ロシアの支配層のなかではじめてのキリスト教徒となった。彼女は、東方正教会の手で改宗したものの、これによって、ビザンツ帝国の影響力が強まるのを恐れたためか、959年に神聖ローマ帝国のオット1世に宣教師の派遣を要請した。オットはこの要請を入れて、大司教アダルベルトをはじめとするドイツ人の司教をキーエフに派遣したが、キーエフではキリスト教に反感を抱くスヴャトスラーフが実権をもつようになっていたために、このドイツ人宣教師団は約一年でキーエフを引きあげた。したがって、オーリガの改宗も個人的な事件にとどまった。

  しかし、オーリガの孫ウラヂーミル大公(在位980年頃−1015)の時代に入ると、ビザンツ帝国はキーエフ・ルーシとの関係改善に熱心にならざるをえなくなった。ビザンツ皇帝バシレイオス2世は国内のバルダス・フォーカスの反乱に手をやき、皇女をウラヂーミルに提供するとの条件で、ウラヂーミルの支援を求めた。だが、バシレイオス2世は、反乱を鎮圧してしまうとこの約束の履行をしぶったために、今度はウラヂーミルが、クリミア半島でのビザンツ帝国の拠点ケルソネスを占領し、約束の履行を求めた。キーエフ・ルーシ側にとっても、ビザンツ帝国皇室と婚姻関係を結ぶことは、その対外的な地位を安定させるためにも必要なことであったのである。結局、バシレイオス2世は、ウラヂーミルの改宗を条件として、妹アンナを降嫁させることとし、ウラヂーミルはケルソネスにおいて洗礼を受け、キリスト教徒として結婚式をあげ、キーエフに戻った。これが、ウラヂーミルの改宗で、ロシアの公的なキリスト教受容であった(988年)。

  ロシアのキリスト教化に関するビザンツ帝国、キーエフ・ルーシの政治的な思惑、打算とは別に、『原初年代記』は、キリスト教(東方正教)の受容について、次のように記している。

  「ウラヂーミルは、貴族と町の長老たちを呼び集めて、彼らに言った。『予のもとにブルガール人が来て、われらのおきてを受けいれよとすすめた。それからドイツ人が来ておのれのおきてをほめそやした。そのあとでユダヤ人が来た。最後にギリシア人がやって来て、すべてのおきてをけなし、おのれのおきてをたたえて、全世界の創世の物語りを、この世のはじめから順々と話していった。』・・・

  公は貴族と長老たちを呼び集めて、『使いにだした家来たちが戻ってきた。彼らから話しを聞こう』といった。・・・彼らは次のように語った。『われらはブルガル人のもとに行き、彼らが帯びもしめずモスクという寺院のなかで礼拝するのを見た。彼らは礼拝をおえると腰をおろし、まるで気違いのようにあちらこちらを眺めまわしていた。彼らのなかには陽気さはなく、あるのは悲しみと大いなる悪臭のみである。彼らのおきては良きものではない。ついでドイツ人のところに行き、寺院のなかでさまざまの勤行を行なっているのを見た。だがそこにはいかなる美しさもなかった。それからわれらはギリシア人のもとにおもむいた。彼らはわれらを自分たちの神に仕える場所にみちびいたが、そのときわれらは天上にいたのか、それとも、地上にいたのか、わからなかった。地上にはあのような眺めも、あれほどの美しさもない。それは口ではいい尽しがたい。われわれにわかっているのは、かしこでは神は人とともにあり、彼らの勤行は他のいかなる国のものよりもすぐれているということだけである。われらはあの美しさを忘れることができない。人はだれでも、ひとたび甘味を味わったあとでは.苦いものを口にすることはできない。おなじように、われらはもはやここで暮すことはできない。』」

  イスラム教、ローマ・カトリック、東方正教を「品定め」するにあたって、ヴラヂーミルの使者が判断の基準としたのが宗教的な教義の合理性ではなく、「美しさ」といういわば情緒的な、あるいは直感的な価値判断であったことに注目すべきである。教義の合理性(神学論争)ではなく、神への非合理的な帰依を重視する傾向は、のちのロシア正教会にも受け継がれていくことであろう。

  ウラヂーミルは、キーエフに帰還すると、ペルーンなどの旧来の神々の木像をこわし「聖ヴラヂーミルの教会法」を定めた。この教会法は、教会の財政的な基盤を確立し(「数年以内に、予は聖母十分の一教会を建て、この教会にルーシの全国土にわたって、公の宮廷収入の十分の一、市場からの収入の十分の一、すべての家畜と穀物の十分の一を与えた」)、教会裁判権を保証したものであった(「予の息子も孫も親族も、今後、教会の人々やその法廷事件に干渉してはならない」)。だが、民衆レベルでは、『原初年代記』が「ヴラヂーミルは町中に使者を派遣して、こう言わしめた。『もし川に来ない者があれば、富める者であれ、貧しき者であれ、貧者であれ、奴隷であれ、予の意にかなわぬであろう』と。これを聞いて、人々は、『もしそれが良くないことであるならば、公も貴族もそれを受けなかったはずであると』言いながら、喜んで川に行った。翌日、ヴラヂーミルはコルスニの僧侶たちおよび皇女づきの僧侶たちとともにドニエプル川にでた。そこには、人々が無数に集まっていた。そして、水の中に入り、ある者は首まで、他の者は胸まで、幼き者は岸に立っており、ある者は赤子をかかえ、大人は水中を歩んだ。一方、僧侶たちは立って、祈りをとなえた」と記しているように、人々はキリスト教の何たるかも知らず、強制的に洗礼を受けさせられた。このために、それまでの異教的な要素がのちのちまで残り、表面的にはキリスト教信仰であるが、その実、異教的な信仰が残存する「二重信仰」という状態が続いていくことになる。

  中央・東・北ヨーロッパの諸国、諸民族の大半(モラヴィア、ポーランド、スカンディナビア)が9世紀から11世紀にかけて西方のローマ・カトリックを受け入れていったのにたいし、ロシアはこのヴラヂーミルの改宗によって、ビザンツ文明圏に帰属し、次第に西方カトリック文明圏から離反していくこととなった。このことは、のちのロシアの国家・社会・文化に重大な影響をもたらした。例えば、西方カトリック世界では、教会は国家から独立し、国家あるいは国王・皇帝は政治権力をになっているにすぎなかったが、ビザンツ世界では教会は国家に従属し、国家・皇帝は政治権力のみならず、宗教的権力をも掌握していた。こうした政治思想・宗教観はモンゴルの支配時代に一層強化され、、ロシアでは、最近のソ連共産党の支配にいたるまで、国家が国民のイデオロギーまでも統制するという事態が一般的であった。また、ビザンツ文明圏に帰属することで、ロシアの社会には西の「ラテン的文化」への嫌悪が広まり、このために、ロシアには例えば、西ヨーロッパでのルネサンス、宗教改革といった近代ヨーロッパ社会成立への波が伝わってこなかった。

  <ヤロスラーフ賢公の治世とその後>

  ヴラヂーミルには多くの息子がいたので、彼の死(1015)はキーエフ大公位をめぐる一族の内紛をすぐさま呼び起こした。

  まず、キーエフ公位を奪取したのはスヴャトポルク(1015−19)であった。彼は自分のライバルであるボリースとグレープ(後に聖人に列せられる)、スヴャトスラーフの暗殺を指令した。ヤロスラーフだけがスヴャトポルクの継承に反対して、彼と争い、結局、ヴァリャーク族の支援を受けたヤロスラーフが、ポーランド人とペチェネーク族の支援を受けたスヴャトポルクを打ち破り、キーエフ大公位を獲得した(1019)。

  だが、ヤロスラーフは唯一の支配者となったわけではなく、南ロシア地方のトムトロカンとチェルニゴーフに本拠地をおく弟ムスチスラーフの挑戦を受けねばならなかった。彼はヤロスラーフとの戦いに勝利を収め(1024−6)、ドニエプル川を境界として国土を分割するという協定を結んだ。ヤロスラーフはノーヴゴロト、キーエフ、ドニエプル右岸を確保した。ムスチスラーフの領土はチェルニゴーフ、ペレヤスラーヴリおよびトムトロカンを含む左岸に広がっていた。やっと、ムスチスラーフが後継者を残さないまま1036年に死ぬと、ヤロスラーフがキーエフ・ルーシの国土を再統一した。

  ヤロスラーフの治世(1019一1054)は、キーエフ・ルーシの対外的発展の頂点であった。その版図は、東はヴォルガ川水系のオカ川から西はカルパチア山脈、北はバルト海から南は黒海にまで拡がっていた。対外関係の面では、とりわけスカンディナビアとの関係は緊密であり、ヤロスラーフの宮廷にはノルウェー国王ハラルド・ハルドラーダなどの人物が出入りし、彼自身もスウェーデン国王の娘を妻にむかえていた。また、二人のあいだに生まれた娘アンナは、フランス国王アンリ1世に嫁ぎ、彼の死後は摂政としてフランスの国政にあたり、またアンナ以外の二人の娘もハンガリー王妃、ノルウェー王妃となっている。このように、ヤロスラーフは当時の全ヨーロッパ的な国際政治の舞台に参加した、ロシア史上はじめての君主であった。

  ウラヂーミルの改宗によってロシアにもたらされたキリスト教文化は、このヤロスラーフの時代に開花した。彼は、キーエフの聖ソフィア寺院に代表される教会や修道院をロシア各地に建設し、また、翻訳者・写本作成者を養成して、ギリシア語の宗教書をロシア語に翻訳させた。教会組織の面では、「ヤロスラーフの教会法」によって、教会裁判に関する具体的な罰則規定が定められ、1039年には、キーエフにロシア地域でのキリスト教会を管轄する府主教座がおかれた。もともとはコンスタンチノープルの総主教から派遣されるギリシア人が府主教の座に着くことが原則であったが、ヤロスラーフは地元のロシア人を1051年に府主教に任じた。ヤロスラーフの意図がビザンツからの独立にあったかどうかは判然としていないが、いずれにせよ、キーエフ・ルーシの台頭とともに、コンスタンチノープルを中心とする東方正教世界でのロシア教会の地位は高まっていった。

   法律分野でのヤロスラーフの仕事は、のちのロシアの法律・司法制度にたいして長く影響を及ぼした。彼はその治世の初期に(1016年頃)、それまで慣習法にもとずいて処理されてきたロシアの裁判司法制度を整備・体系化するために、当初はノーヴゴロトの地方法典として、ロシア最古の成文法『ルースカヤ・プラーヴダ(ロシアの真理)』の編纂に着手した。ノーヴゴロトの年代記によれば、ヤロスラーフは「プラーヴダ(真理)とウスターフ(規則)を書いて与えた。そして、こう言った。『余がお前たちのために書いたこの文書にしたがって生活せよ。それを遵守せよ』」というのである。11−12世紀に完成をみた『ルースカヤ・プラーヴダ』には、ヤロスラーフの法典、ヤロスラーフの息子たちの法典からなる「簡素版」(42条)と、改訂されたヤロスラーフの息子たちの法典、ウラヂーミル・モノマフの法規からなる「拡大版」があり、そこでは、例えば「簡素版」第5条「もしも誰かが誰かの手に切りつけ、この手が切り離されてしまったり、短くなってしまったならば、40グリーヴナである」のように、おもに、犯罪行為に対する罰則規定が定められている。この『ルースカヤ・プラーヴダ』はのちのロシアの法律作成事業の基礎となっていった。

  ヤロスラーフは、祖父スヴャトスラーフ、父ヴラヂーミルの死後に大公位をめぐる内紛が激化したことを懸念して、その遺言で、キーエフ・ルーシの国土を年長順にしたがって5人の自分の息子たちのあいだに分配した。「今、予はわが長子にして汝らの兄たるイジャスラーフに余にかわって王座につくことを委任する。彼は汝らにとって予のかわりとなるであろう。スヴャトスラーフにはチェルニゴーフを、フセーヴオロトにはペレヤスラーヴリを、ヴャチェスラーフにはスモレーンスクを与える」というのである。

  このヤロスラーフの遺言に見られる「父からその息子へ」ではなく「兄からその弟へ」という原則で一定の地域を相続するというこの制度は「年長順番制」と呼ばれる。この制度によれば、ヤロスラーフの子孫は、長幼の程度による系譜的な上下関係とキーエフ・ルーシを構成する諸公国の軍事的・商業的な重要度を対応させて、キーエフ大公国を頂点とする各公国を領有することになった。しかし、この制度は綿密に考えぬかれた方法ではなく、たんに、後継者をめぐる兄弟争いを阻止するための、その場しのぎの対応にすぎなかったので、世代の交代とともに実情にあわなくなり、かえって諸公たちのあいだの紛争をこみいったものにしていった。例えば、親族が増えると、甥の方が伯父よりも実年齢では年上となるケースが生じるが、この場合にはどちらを「年長者」、すなわち正当な後継者とするべきなのであろうか。また、この制度は「父から子に」家督相続させたいという自然の感情とも矛盾していた。このために、「兄弟は兄弟の意見を聞き、平和のうちに暮らせ」というヤロスラーフの願いにもかかわらず、すでに、ヤロスラーフの三人の最強の後継者イジャスラーフ、スヴャトスラーフ、フセーヴォロトのあいだで、キーエフ大公位をめぐる紛争が起っている。「6581(1073)年、悪魔が、ヤロスラーフの子なる兄弟たちのあいだに紛争をもちあげた。彼らのあいだに紛争があった。スヴャトスラーフがフセーヴォロトとともにイジャスラーフに対抗したのである。イジャスラーフがキーエフから出発し、スヴャトスラーフとフセーヴォロトは3 月22日にキーエフに入り、父の遺訓を破って、ベレストーヴオの玉座についたのである。スヴャトスラーフがより大いなる権力を望んで、兄弟追放という乱行をなしたのである」(『原初年代記』)というのである。

  結局、このヤロスラーフの三人の息子たちは相互に対立しつつも、なんとか交互にキーエフ大公位を占めた(イジャスラーフ(1054−68、1069−73、1077−78)、スヴャトスラーフ(1073−76)、フセーヴォロト(1076−77、1078−93)が、孫の代になると、紛争は一層紛糾していった。このために、イジャスラーフの息子スヴャトポルク(1093−1113)の時代には、紛争を調停するために1097年にキーエフの北の町リューベチで諸公会議が開催された。会議で諸公たちは、紛争を収拾して、新たなる敵ポーロヴェツ族に対抗するために、実情にあわなくなった「年長順番制」を放棄して、父の領地を「父祖からの土地」(ヴォチナ)として領有する「世襲地制」を認めた。「ポーロヴェツ人はわが国土を荒廃させ、われわれがたがいに戦争しているのを喜んでいるのである。今後は心を一つにして、ルーシの地を守ろうではないか。各自がおのれの世襲地を保有することとしよう。スヴャトポルクは(父)イジャスラーフの(世襲地)を、ヴラヂーミルは(父)フセーヴォロトの(世襲地)を・・・」というのである。当初は、諸公たちの和解が達成された(「彼らは・・誓って十字架に口付けした」)ように見えたが、会議の参加者たちはまもなく互いに陰謀をめぐらしはじめた。リューベチ会議の直後には、キーエフ大公スヴャトポルクがヤロスラーフ賢公の曾孫にあたるテレポヴィリ公ヴァシリコを策略を使って捕まえ、彼を盲目にするという事件がおきているが、この事件は、会議の合意がきわめて脆弱であることを示していた。

  さらに、11世紀後半に、新たな遊牧民ポーロヴェツ族が南ロシアに登場したことがキーエフ・ルーシの混乱に拍車をかけた。

  ペチェネーク族に代わって登場したポーロヴェツ族(東方の史料ではキプチャク族、ビザンツ史料ではクマン族)もやはりアジア起源のチュルク系の遊牧民であり、11世紀に南ロシアのステップ地帯に侵入し、13世紀のモンゴル人の侵入までカスピ海から黒海北岸のステップ地帯を支配した(彼らの生活するステップ地帯はロシア史料では「ポーロヴェツ族の土地」、東方史料では「キプチャク大草原」と呼ばれることとなる)。このポーロヴェツ族は、年代記の記述によれば、1061年にはじめてルーシの土地に侵攻してきた。「6569(1061)年 ポーロヴェツ人がはじめてルーシの地に襲来した。フセーヴォロトは2 月2 日に彼らにむかって出陣した。彼らポーロヴェツ人は戦い、フセーヴォロトに打ち勝ち、そして少し攻めてのち、去っていった。これは『邪教を信じる』そして神を知らぬ仇敵どもからの最初の災禍であった。彼らの公はソカルであった」。以後1世紀半のあいだに、50回ほど侵入・略奪を繰り返し、これに対してルーシ側もたびたび反撃を試みた。中世ロシア文学の代表的作品『イーゴリ公軍記』はノーヴゴロト・セヴェルスキイ公イーゴリが1185年の春にポーロヴェツ族に対して行なった遠征の史実をもとに作成された叙事詩である。彼らは1096年には、首都キーエフをも襲撃しているが、このポーロヴェツ族の南ロシア支配は、キーエフ・ルーシの繁栄の基盤であった国際貿易のルートを脅かすようになった。もはやキーエフは、東西貿易のセンターたりえなくなっていたのである。

  ただし、年代記の記述だけから判断すると、ルーシとポーロヴェツ族との敵対、軍事衝突の側面ばかりが印象づけられるが、、ルーシとポーロヴェツ族が協調し、同盟関係を結んだ事例も多いことにも留意しなくてはならない。ルーシの諸公は自分たちの権力闘争や対外遠征の過程で、しばしばポーロヴェツ族に援軍を要請している。だから、ポーロヴェツ族の襲撃と記録されている事件も、実際はルーシ諸公の内紛であることも多い。さらに、ルーシ諸公はポーロヴェツ族との同盟を強化するために婚姻関係を結んだ。例えば、1094年にキーエフ大公スヴャトポルクはポーロヴェツ族の汗トゥゴルカンと条約を結び、彼の娘と結婚した。このトゥゴルカン汗がスヴャトポルクとヴラヂーミル・モノマフの援軍とともにペレヤスラーヴリに対する略奪遠征を企てて、1096年に敗死すると、スヴャトポルクは義理の父の遺骸をキーエフで丁重に葬った。キーエフ・ルーシ=ポーロヴェツ関係は、年代記が強調するような、ともに一枚岩のキリスト教徒対「邪教を信じる」異教徒という不倶戴天の関係ではなく、互いに内部分裂を抱えており、政治情勢の変化の中で、敵対・同盟をくりかえし、文化的にも互いに相互浸透するような関係であった。つまり、ポーロヴェツ族はキーエフ・ルーシの社会の一部となっていた。のちの13世紀前半、ルーシとポーロヴェツ族は協調して、モンゴル軍の侵攻をむかえることになる。

  1113年、キーエフ大公スヴャトポルク・イジャスラヴィチが死ぬと、キーエフで民衆反乱が起った。キーエフの民会はポーロヴェツ族との戦いで名をあげていたヴラヂーミル・モノマフ(母がビザンツ皇帝コンスタンチヌス・モノマコスの娘であったためにモノマフと呼ばれた)をキーエフ大公位に招請した。

  大公位についたウラヂーミル・モノマフ(在1113−25)は、息子たちへの教訓の書である『モノマフ公の庭訓』のなかで、「予の行なった主要な遠征は83、残りの小なるものは記憶にとどめていない・・・・戦いのときにも狩りのおりにも、夜であれ昼であれ、暑さ寒さを問わず、予は従者のなすべきことをみずから行なって、わが身に休息を与えなかった」と述べているように、精力的な活動を展開した。まず彼は、過度の利子を取ることを禁止し、また債務者が奴隷身分に落とされることを防ぐ措置を講じて、キーエフでの反乱の背景にあった社会問題の解決に努めた。これらの措置は『ルースカヤ・プラーヴダ』拡大版の「モノマフの法規」にまとめられた。

  さらに、彼は諸公の内紛を緩和し、分裂傾向にあったキーエフ・ルーシの求心力を一時的に高めることに成功した。彼は、自分が計画した遠征に参加しなかった諸公、すなわち自分の意志に従おうとしない諸公、あるいは他の諸公の領地を奪おうとした諸公から領地を没収し、その土地を自分の息子たちに与えた。この結果、キーエフ・ルーシの領土の4分の3ほどを支配下に置いたため、「キーエフ・ルーシ中興の英主」と評されている。後年、このモノマフの治世は「タタールのくびき」時代と対照して、キーエフ・ルーシの「黄金時代」として美化されていった。北東ロシアのヴラヂーミル大公はロストーフ・スーズダリを領有していたモノマフをその直接の祖先と仰ぎ、旧キーエフ・ルーシの遺領への自分たちの権利の根拠とした。また、もともとは、モンゴル人の宗主から受け継いだにすぎない「王冠=帽子」は、モスクワ国家の君主によって、ビザンツ皇帝からその高い地位の象徴としてモノマフに与えられた「モノマフの王冠=帽子」という神話を付与され、ロマーノフ朝の皇帝にまで受け継がれていった。しかし、その彼をもってしても、キーエフ・ルーシの解体傾向を押しとどめることはできず、彼が死んでしまうと、再度、諸公間の内紛が深刻になり、ロシアの各地には、互いに抗争する独立した分領公国が成立していったのである。

  <ルーシの分裂:ヴラヂーミル、ガリーチ・ヴォルイニ、ノーヴゴロト 

  新たな遊牧民ポーロヴェツ族がドニエプル川流域に侵入してきたことは、この地域の荒廃をもたらし、住民たちは安全を求めて、ここから、北東方向、ヴォルガ川上流地域に移住していった。

  「森林の向こうの土地(ザレスカヤ・ゼムリャー)」と呼ばれるこの地域は、いわゆるヴォルガ・オカ水系のなかにあり、東方では、ヴォルガ川からカスピ海にいたる東方交易路と、西方ではスモレーンスク経由でバルト海から黒海を結ぶ「ヴァリャークからギリシアへの道」と結び付いていたために、きわめて好適な位置にある。だが、10世紀までは、主として、フィン・ウグル系のメーリャ族が、狩猟、漁業を生業として生活していた。この地域の河川の多くは、フィン語で水を意味する「ヴァ」にちなんだ名称を持っている(プロトヴァ川、モスクヴァ川、スィルヴァ川)。10世紀から、スラヴ諸族はこの地域に移住しはじめ、農耕、牧畜、漁労、毛皮・蜂蜜の収集に従事しながら、多くの定住地を築き、その中から、ロストーフ、スーズダリといった町が生まれていった。また、この過程で、スラヴ諸族と先住民のフィン諸族との混交が進み、いわゆる「大ロシア人種」が形成されていった。

  この地域が一つのまとまりをもった地域として、登場してくるのは、ヤロスラーフ賢公の治世であり、1054年ヤロスラーフの第三子「フセーヴォロトは、南のペレヤスラーヴリ、ロストーフ、スーズダリ、ベローゼロ、ポヴォルジエを受けとった。」(『ノーヴゴロト第一年代記』)」という。フセーヴォロトの息子ヴラヂーミル・モノマフはクリャジマ河畔に将来の首都ヴラヂーミルを建設し(1108年)、息子のユーリイをロストーフ・スーズダリ公に任命した。

  このユーリイ・ドルゴルーキイ(?−1157)は、ある歴史家が「ポヴォルジエ(ヴォルガ川中流域)のコロンブス」と呼んでいるように、ロストーフ・スーズダリ公国、のちのヴラヂーミル大公国の創設者といえる。彼は、モノマフの死後、兄のムスチスラーフがキーエフ大公となると、ロストーフ・スーズダリ公国の自立を宣言する一方で、キーエフをめぐる長期間の軍事・外交闘争を展開した(そのためにドルゴルーキイ=長手公と呼ばれた)。とくに注目すべきは、彼が自分のイニシアティヴで、公国の開拓を進め、自分の公国への住民の移住を積極的に奨励したために、西方のボヘミアから、南方のキーエフ地方から多くのスラヴ系住民がロストーフ・スーズダリ公国に移住してきたことである。公の権力の下で移住が行われた結果、移住して来た住民たち、彼らの居住地は、たとえば南西地方のガリーチやノーヴゴロトとは異なり、公の権力に従属的となった。このことは、ヴラヂーミル大公国やのちのモスクワ国家における大公権力の性格に影響を与えていった。

  ユーリイの息子アンドレーイ・ボゴリュープスキイ(在位1157−74)は、公国のキーエフからの自立をいっそう推し進めると同時に、公の権力を確立しようとした。彼は1157年に即位すると、ウラヂーミルを公国の中心とし(以後、ヴラヂーミル・スーズダリ公国)、ここにキーエフにならって聖母教会を建設した(そのためにボゴリュープスキイ=敬神公と呼ばれた)。彼は息子ムスチスラーフの軍をキーエフに派遣して、1169年、キーエフを占領することに成功したものの、大公位を弟のグレープに譲り、自分はヴラヂーミル近郊のボゴリュボヴォ村に留まった。この事件は、彼がキーエフの府主教座からの独立をはかって、北の府主教区を創設することを提案した(実際には失敗したが)事件とともに、キーエフの比重がすでに非常に低くなっていたことを象徴している。

  公の権力の強化の面では、彼は権力の中央集権化をはかるために、すなわち「全スーズダリの土地の専制君主」となるために、有力者を追放した。1162年「アンドレーイ公は主教レオンをスーズダリから放逐し、おのれの兄弟たちムスチスラーフ、ヴアシリコ、おのれの甥なるロスチスラーフの子二人をも放逐した。彼は全スーズダリの土地の専制君主となることを望んで、これをなしたのである」(『キーエフ年代記』)という。同時に彼は、公の一族のあいだの同族的な兄弟関係を家臣関係に基づく主従関係に意識的に変えようとした。「ムスチスラーフはアンドレーイの使者をとらえて、おのれの前で彼の頭髪と髭をそることを命じて、彼にいった。公のもとへ行って、彼に言え。『今日までわれらは汝を父と考えていた。しかしながら、もし汝がかかる言葉をもって公ではなく、手下の者およびただの人間に対するごとくに、われらに人を送ってきたとすれば、企てたことをなせ、神が万事の背後にあるであろう、と』。」(『キーエフ年代記』)。のちの歴史家はこうした専制政策をすすめたアンドレーイを、それまでのキーエフ・ルーシの諸公とは異なった、新しいタイプの君主、すなわちモスクワ国家の君主の先駆者とみなしている。しかし、彼はこの政策ゆえに周囲の反発を招き、1174年に暗殺されてしまった。

  つづく二年間、スーズダリ地方では内紛と混乱がつづき、アンドレーイの二人の母と彼の弟ミハルコが短期間ロストーフ、ウラヂーミルを統治した。しかし、ミハルコが1176年に死ぬと、彼の弟フセーヴォロトが即位し、彼は、ヴラヂーミル大公という称号を公的に採用した最初の公となった。彼はその長い統治時代(1176一1212)に、内政面では大公権力の確立に成功し、対外的には周辺の諸公国を服従させ領土を拡大するとともに、、ヴォルガ・ブルガリアへの遠征を再三実行して、ヴラヂーミル大公国が東方貿易を制する可能性を手に入れた。

  フセーヴォロトの時代に、ヴラヂーミル大公国は北東ロシアの最強国に成長し、彼自身も、ロシアの諸公のあいだの第一人者と認められた。1194年、キーエフ大公リューリク・ロスチスラヴィチはフセーヴォロトをヴラヂーミル・モノマフの一族の「最年長者」と認めている。また『イーゴリ公軍記』も、「フセーヴォロト大公よ。汝は、父祖の王座を守るために、はるかかなたよりはせ参じようとは思わぬか。汝は船のかいによってヴォルガの流れにしぶきをあげ、兜をもってドンの流れを汲みつくすことができるのに」と記しているが、これは、フセーヴォロトとその公国が軍事的・政治的にきわめて高い権威をもっていたことを示している(これ以後、ロシアの諸公の一族の大半はフセーヴォロトの家系から出てくるようになったので、彼はボリショエ・グネズドー=大巣公と呼ばれている)。

  北東ロシアでヴラヂーミル公国が発展していったのと平行して、南西ロシアではガリーチ・ヴォルイニ公国が独自の発展を遂げていた。

  カルパチア山脈北東に位置するガリーチとヴォルイニ地方は経済的に豊かな地域であった。「ヴァリャークからギリシアへの道」はこの地域を経由し、、東方からのキャラバンもこの地域を経由して西のプラハ、クラクフ、ブタペスト、レーゲンスブルクに向かっていった。この地域は北西でポーランドと南西でハンガリーと接していたために、北東ロシア地方と比較すると中央・西ヨーロッパからの影響を多大に受け、のちのロシア史の中で独自の地位を占めることとなる。しかし、この地域は、キーエフ・ルーシ−>ヴラヂーミル大公国−>モスクワ国家−>ロシア帝国という伝統的なロシア史の本流から外れているために、看過されがちであった。

  ガリーチとヴォルイニはヴラヂーミル聖公の時代にキーエフ・ルーシの版図に組み入れられたが、キーエフ・ルーシの衰退に伴って、次第に自立的な歩みをはじめていった。1141年、ガリーチ公となったヴラヂミルコ・ヴォロダレヴィチは地域の統一を進めて首都をペレムイスリからガリーチに移した。その息子のヤロスラーフ・オスモムイスルは公国の版図を拡大し、彼は南西ロシア地方の最強の公となった。「ガリーチの『八重に賢き(オスモムイスル)』よ。御身は黄金の御座所に座し、鉄壁の軍勢をもってウグルの山々をささえ、マジャール王の進路をさえぎった。またドナウの門を閉ざして、雲のかなたに重いいわおを投げかけながら、ドナウの岸まで裁きを行なった。その威光はもろもろの地にとどろいている」(『イーゴリ公軍記』)と称えられているほどである。

  1199年、ヤロスラーフ・オスモムイスル死後の権力闘争に勝ち抜いて、ガリーチ公となったのは、ヴォルイニ公ローマン・ムスチスラヴィチであった。この結果、ガリーチ、ヴォルイニ両公国は、ローマンのもとで、当時のロシア地域の最強の公国の一つガリーチ・ヴォルイニ公国となった。ローマンは、国内の貴族たちの権力を制限して、公の権威を高め、対外遠征にも積極的であった。ガリーチ・ヴォルイニ年代記は彼のことを「全ルーシの大公にして、専制君主」と呼んでいる。とくに指摘しておかなくてはならないのは、当時のロシア諸公の中で、ローマンは他のヨーロッパ諸国と一番緊密な関係を維持していたことである。ビザンツ帝国とはポーロヴェツ族に対抗する同盟を結んでおり、彼の妻はビザンツのアンゲルス家の皇女であった。また、ポーランドのカジミェシ2世とも、複雑な東ヨーロッパの国際政治の舞台では、しばしば協力して活動している。さらに、ローマ教皇インノケンティウス3世も、彼に「王」の称号を提供しようとした。ローマンの治世に、その地理的な位置からも、カトリックのポーランドおよびハンガリーとの関係が深かった南西ロシア地方は、東方正教の影響(後にはモンゴルの支配の影響)を強く受けた北東ロシアとは異なる、独自の政治・文化圏になろうとしていた。

  ノーヴゴロトは、キーエフに次ぐ第二の都市であり、バルト海から黒海にいたる「ヴァリャークからギリシアへの道」という南北ルートとヴォルガ方面への東西ルートという商業交易上の要衝に位置しており、毛皮や天然資源の豊かなウラル地方と北極海にいたる広大な植民地を所有していた。このために、ノーヴゴロトの商業活動は古くから非常に活発であり、西ヨーロッパ、とくにハンザ同盟諸市との交易も盛んであった。ノーヴゴロトの町は、ヴォルホフ川を境としてソフィア区と商業区に分けられ、商業区には、ノーヴゴロトと西ヨーロッパとの商業的な結びつきを象徴するかのようにドイツ人のハンザ商人の商館、ロシア人商人団体「イヴァーンの百人団」の教会が設置されていた。ノーヴゴロトはロシアの西ヨーロッパへの窓口でもあった。

  ノーヴゴロトは、同時代のロシアの諸公国、諸地域とは異なった政治制度を持つようになった。すなわち、諸公が市を専制的に統治するのではなく、「民会」に結集するノーヴゴロト市民たちが市の政治を自立的に動かしたのである。これを「ノーヴゴロトの自由」という。ノーヴゴロトが経済的に繁栄していたこと、しかも、ロシアの北辺に位置していたために諸公間の政争にまきこまれずにすんだこと、丁度この時代には、のちのチュートン騎士団やリトアニアといった対外的脅威が存在せず、ために特定の公国に軍事的に依存せずにすんだことといった事情が、「ノーヴゴロトの自由」の成立の背景であった。

  まず、1126年、ノーヴゴロト市民は自分たちのあいだから市長官(ポサードニク)を選出した。1136年には、ノーヴゴロト市民は気にいらない公を追放して、自分たちに好ましい公を招請した。「1136年 ノーヴゴロトの人々は、プスコーフとラードガの人々を招請して、会議を開き、自分たちの公であるフセーヴォロトの追放を決定した。そして5 月28日に彼を妻・子供・義理の母とともに、主教の館に拘禁し、武装した兵士が昼夜、彼を監視した。一日に30名が監視した。フセーヴォロトは二ヶ月間、囚れの身であった。7月15日に、彼らはフセーヴォロトを市から追放し、代わりに彼の息子ヴラヂーミルが迎えられた」(『ノーヴゴロト第一年代記』)という。ついで、1156年、ノーヴゴロト市民は、ノーヴゴロトの主教の選出権を握った。「同年(1156) 全市の住民は集って、自分たちのために神に選ばれしアルカヂイを主教に任命することに決定した」(『ノーヴゴロト第一年代記』)。さらに、1218年には、ノーヴゴロト公スヴャトスラーフが市長官を解任しようとしたところ、ノーヴゴロト市民に「これはわれわれの市長官の問題であり、われわれはこの点で譲ることはできない」と拒否される事件が起っている。このように、12世紀半ばには、ノーヴゴロトの市民は市の政治権力と宗教権力を左右するまでにいたり、自分たちの市を「主権者大ノーヴゴロト」と称した(ロシア史上では、「ノーヴゴロト自治共和国」とか「ノーヴゴロト都市共和国」と呼ばれる)。

  ただし、  まったく公の権威がなくなってしまったわけではない。たしかに、ノーヴゴロトの公は、市長官の同意なくして統治権・裁判権を行使できず、収入源についても、市の規制を受けるなどの統制を課せられていた。例えば、13世紀後半のトヴェーリ公ヤロスラーフとノーヴゴロトとの条約では、「市長官なしに、公よ、汝は法廷を開くべきではなく、郷を分配すべきではなく、文書を発行すべきではない」、「汝はノーヴゴロトの郷でスロボート(免税居住地)や通関税(ムイト)を設立すべきではなく、汝は金を、イモヴォロスクのボゴスト(納入所)とヴァジャンスクの納入所で受けとるべきである」、というように公の権限が規制されている。しかし、ノーヴゴロト公は外敵の脅威が迫っているという緊急事態や、ノーヴゴロト市民とくにその実力者である大貴族・大商人たちの派閥抗争を利用して、かなりの統治権をふるうこともできた。

  ノーヴゴロトの最高意志決定機関は、成人男子によって構成される民会(ヴェーチェ)であり、この民会が、公の招請や追放、市長官・千人長の選出、戦争や講和の決定、諸立法をつかさどった(ただし、実際には、主権者会議と呼ばれる市の有力者たちの談合が非公式の中心機関であった)。民会によって選出された市長官は文民行政を、千人長は軍事・警察部門を担当した。

  だが、一見西ヨーロッパの中世都市との類似を可能にするようなノーヴゴロト自治共和国も、ロシアにあっては例外的な存在にとどまり、その自由自体も、最終的には、15世紀に新興国家モスクワによって圧殺されてしまうのである。

  第3章  モンゴルの支配

  <モンゴルの東ヨーロッパ・ロシア遠征>

  1219年、すでに北アジア地域を統一していたチンギス汗は、自分の派遣した隊商使節が中央アジアのイスラム国家ホレズム帝国の知事に殺されるというオトラール事件をきっかけに、ホレズムの討伐を決意し、ジェベ、スブデイ両将軍の率いるモンゴル軍をホレズムに向けて派遣した。1223年のモンゴルの第一次ロシア遠征は、このホレズム遠征から派生した事件であった。

  モンゴル軍が、中央アジアの豊かな都市サマルカンド、ブハラを攻略しながら、西方に破竹の進撃をするとともに、ホレズム皇帝ムハンマドも西方への逃避行を続けた。ホレズム皇帝ムハンマドは、実際は逃亡先のカスピ海の孤島で他界していたのであるが、モンゴル軍は、彼の逃亡先を北イランひいてはザカフカース地方と推定し、西は天山山脈から東はドナウ川にまで広がる「キプチャク大草原」に進出してきた。

  当時この地には、その名の由来であるキプチャク族、ロシア史上ではポーロヴェツ族が生活していた。チュルク系の遊牧民であるポーロヴェツ族は、個々の部族連合を形成して遊牧生活をおくっており、ヴォルガ河以東の東ポーロヴェツ族は、ホレズム帝国や北カフカースのアラン族と、ヴォルガ河以西の西ポーロヴェツ族は、キーエフ・ロシア、ビザンツ帝国、ブルガリアと恒常的な関係をもっていた。とりわけ南西ロシアの諸公国とポーロヴェツ族との関係は緊密であった。南西ロシア諸公の従士団のなかにはポーロヴェツ族出身者も多数存在した。ガリーチ公国のムスチスラーフ勇猛公はポーロヴェツ族の汗コーチャンの娘と結婚していた。したがって、ホレズム−>ポーロヴェツ族−>ロシアという結び付きがモンゴル軍の南ロシア侵攻を招いたといえる。

  総勢2−3万のモンゴル軍は、まず、北カフカース地方でアラン族=ポーロヴェツ族連合軍と対峙して、これを撃破したのち、一部がクリミア半島に入って、ポーロヴェツ族に貢税を支払っていたスダク市を占領した。敗北したポーロヴェツ族は長年の結び付きを頼って南ロシアに逃亡し、南ロシアの諸公に支援を要請した。「ポーロヴェツ族はルーシの地に逃げてきて、ルーシの諸公に言った。『もし汝らがわれわれを助けないならば、今日われわれは打ち破られるであろう。そして、明日には汝らが打ち破られるであろう』」(『ガリーチ・ヴオルイニ年代記』)という。これをうけて、ポーロヴェツ汗の女婿ムスチスラーフ勇猛公は、キーエフに南ロシアの諸公会議を招集して、ポーロヴェツ族への支援と、ロシアの国境の外でモンゴル軍を迎え撃つことを決定した。1223年4月、ロシア=ポーロヴェツ連合軍はドニエプル川に沿って南下し、5月、アゾフ海近くのカルカ河畔でモンゴル軍と遭遇した。しかし、ロシア=ポーロヴェツ連合軍は、まったく統一の戦闘計画を持っておらず、各諸公も勝手に戦闘に突入してしまったために、大敗を喫した。勝ち誇ったモンゴル軍の司令官達は捕虜としたロシア諸公の上に台を敷き、その上で祝宴をあげたという。

  モンゴル軍はもともとこの地域の軍事的占領を意図していたわけではなかったから、途中ヴォルガ・ブルガリアを略奪しながら、帰還していった。また、当時のロシア人にとっても、モンゴルの出現はあまりにも唐突であったために、彼らの素性に関する情報をほとんど持っていなかった。「6732(1223)年、われわれの罪のために、知られざる民族がやってきた。彼らが誰であるのか、どこからやってきたのか、どのような言葉を話すのか、どのような部族なのか、どのような信仰を抱いているのか、誰も知らなかった。ある者は彼らのことを『タタール人』と、ある者は『タウルメン人』と、ある者は『ペチェネーク人』と呼んだ」(『ノーヴゴロト第一年代記』)という。したがって、ロシア諸公もまもなくモンゴル族のことを忘れ、ふたたび、従来からの内紛に関心を向けていった。とはいえ、短期間で少規模なこの遠征でさえもキプチャク大草原での隊商貿易に、一時的であるにせよ大打撃を与えたことに留意しておかなくてはならない。アラブ側史料は、「タタール人がキプチャク人の土地に侵入して以来、この土地との道(交通)は遮断され、ブルタス毛皮、リス、ビーバー毛皮、その他この国から運ばれていた(すべてのもの)を、彼ら(キプチャク人)からまったく入手できなくなった。彼ら(タタール人)がこの土地を離れ、自分たちの土地にもどったとき、道は復旧し、商品は(以前と)同じように運びこまれるようになった」と伝えている。はるかに大規模なバトゥの遠征が東ヨーロッパ・ロシア世界に大変動を与えたであろうことは容易に推察できる。

  モンゴル帝国の第二代大汗ウゲデイ(オゴタイ)は、1235年、帝国の首都カラコルムにクリルタイ(モンゴル王侯・貴族の総会)を招集し、東ヨーロッパ・ロシア世界に対するはるかに大規模な遠征を決定した。チンギス汗の長子ジュチの采領(ウルス)は帝国のもっとも西に割り当てられていたので、ジュチの息子バトゥがこの遠征の総司令官とされ、その他のモンゴルの王侯も多数動員された。ただし、モンゴル遠征軍の兵力に関しては、50−60万から3万まで、史料・研究書によってかなりの幅がある。ここでは、12−14万と推定しておくこととする。

  バトゥのモンゴル遠征軍は、1236年秋にヴォルガ・ブルガリアの国境地帯に集結した。モンゴルの「皇子たちは、軍勢を集めるために、各自の本営に帰り、春になってから、本営を出発して、各自、指定地に急いだ。ブルガールの国境に皇子たちは集結した。あまりの大軍のために、大地は揺らぎ、うなり声をあげ、その喧騒のために、野獣たちも恐れをなしたほどであった」(ジュワイニー『世界征服者の歴史』、13世紀中頃)という。ヴォルガ・ブルガリアを制圧した後、バトゥは川や沼地が氷結する冬の到来を待って、1237年12月にリャザーン公国を襲撃した。ロシア側もモンゴル族に関する情報をヴォルガ・ブルガール族から入手していたが、冬という侵入の時期はロシア側には唐突であった。これまで、ポーロヴェツ族などの遊牧民は春に襲撃して来たからである。リャザーンは6日間の抵抗の後に陥落した。13世紀に編集された『バトゥのリャザーン襲撃の物語』は正確に史実を反映しているわけではないが、ロシア側から見た町の陥落の様子をこう描いている。

  「6745(1237)年、神を知らぬバトゥ汗がタタールの大軍を牽いてルーシの地に押しよせ、リャザーンの地にほど近いヴォローネシ河畔に陣をはった。バトゥはリャザーン大公ユーリイ・インゴレヴィチのもとに無頼漢の軍使を派遣して、諸公とすべての住民のあらゆる収入から、10分の1 税を支払うことを要求した。リャザーン大公ユーリイ・インゴレヴィチは不徳なるバトゥ汗の襲来を知ると、ヴラヂーミル大公ユーリイ・フセヴォロトヴィチに使者を送り、不徳なるバトゥ汗に対する戦いに援軍を派遣するか、さもなくば、大公自身が出馬するように要請した。しかし、ヴラヂーミル大公ユーリイ・フセヴォロトヴィチは自ら出馬せぬばかりか、援軍も派遣しなかった。彼は自分ひとりでバトゥと戦うことを望んだのである。・・・呪われたバトゥ汗はリャザーンの地に攻めいってリャザーンの町に迫った。そして町を取り囲み、5日間のあいだ絶え間なく攻めたてた。バトゥの軍は次々と新手を繰りだしたが、住民たちは、休む間もなく戦った。住民の多くは殺され、残りのある者は負傷し、ある者は疲労しつくしてしまった。6日目の朝早く、異教徒どもは、あるいはたいまつを手にし、あるいは破城用の大づちをひき、あるいは無数のはしごをもって城壁に近づき、ついに、リャザーンの町を占領した。・・・タタール勢は町のなかで、あまたの住民を女子供にいたるまで剣で切り殺し、ある者は川でおぼれさせ、僧侶と修道士をひとりもあまさず切りつくして、町全体を焼きはらった。・・・・神を知らぬバトゥ汗はキリスト教徒の血がおびただしく流されるのを見て、ますますたけり狂い、心すさび、ルーシの地をくまなく攻めとってキリストの教えを滅ぼし、神の教会を根こそぎ打ちこわさんものと、スーズダリとヴラヂーミルの町へ向った。」

  このリャザーンをはじめとして、1237年末から1238年春にかけて、コロームナ、ヴラヂーミル、トヴェーリなど北東ロシアの有力都市はすべて陥落した。ウラヂーミル大公ユーリイ・フセヴォロドヴィチはヴラヂーミルを放棄して北方に後退し、軍の結集を計っていたが、その彼も1238年3月のシチ河畔の戦いで、ブルンダイの率いるモンゴル軍に敗れ、戦死した。ロシア諸公ならびに諸市の兵力はきわめて広大な地域に分散しており、連携を欠いていたこと、逆に、モンゴル軍は単一の指揮下に統合されており、その機動力を使って兵力を集中し、連携を欠くロシア軍を各個撃破することができたことが、ロシア側の敗因であった。

  北東ロシアを制圧したモンゴル軍は、1238年後半を休養と兵力の補充に費やし、1239年から南ロシアに対する軍事行動を開始した。そして、チェルニゴーフなど南ロシアの諸公国を制圧しながら、1240年末にキーエフの攻略に成功した。占領されたキーエフの町の様子について、数年後にローマ教皇の使節としてモンゴル帝国の首都カラコルムに派遣されたプラーノ・カルピニは「わたしどもが旅行の途中にその土地を通ったさい、死者の頭蓋骨と骨とが数え切れぬほど地面に散らばっているのに出くわしました。キーエフは以前は非常に大きく人口過密な町だったのですが、いまではほとんど無に帰してしまいました。こう申しますのは、今日ではそこの人家はせいぜい200戸あるかないかで、住民は全くの奴隷状態におちいっているからです」と報告していることからもわかるように、モンゴル軍の破壊はかなり徹底したものだった。

  こうして、1240年までにはロシアの征服に成功したモンゴル軍は、1241年にハンガリーへと侵攻した。そして、リーグニッツァの戦いでポーランド=チュートン騎士団連合軍を撃破することによって、中部ならびに西ヨーロッパ諸国を戦慄せしめたのち、1241年末、突然、本国に帰還していった。大汗ウゲディが急死したため、バトゥたちモンゴルの王侯貴族は後継者問題を討議しなくてはならなかったためであった。

  <キプチャク汗国の成立>

  バトゥの東ヨーロッパ・ロシア遠征によって、ほぼドナウ河以東の土地がモンゴル人の支配下に入り、ここに史上「キプチャク汗国」(金帳汗国)と呼ばれる広大な国家が成立した。モンゴル語において「国家」という概念に近い用語は「ウルス(采領)」である。ウルスとは支配者あるいは支配王家の名と結びついた、すなわち彼らに隷属した「人民=封領」を意味しており、ウルスの支配者は自分のウルスを自分自身の私有財産とみなした。

  キプチャク汗国の直接的前身はチンギス汗の長子ジュチのウルスであった。もともとチンギス汗がジュチにゆだねていたウルスは、バルハシ湖北部の一帯であった。「チンギス汗は、イルトゥイシ川とアルタイ山脈の枠内にあるすべての地域とウルス、その地域のすべての夏営地と冬営地をまったくジュチ汗の統治にまかせていた」(ラシード・ウッディーン、『集史』)。またジュチはチンギス汗の129000名の軍のうち4000名をうけついた。「今日、トフタ(13世紀後半のキプチャク汗)とバヤンの軍の大半はこの4000名をもとに編成されており、それは最近、ルーシ人、チェルケス人、キプチャク人、マジャール人その他彼らに加わった軍によって補充され、構成されている」(『集史』))というから、この4000名のモンゴル人戦士が、のちのキプチャク汗国軍の中核となったのであろう。

  以上のようなジュチのウルスとバトゥの遠征による征服地方を合わせたキプチャク汗国の版図は広大であり、その正確な国境を確定することは難しい。アラブの史料は、「彼(キプチャク汗ウズベク)の王国はエジプトの北東に位置し、東西方向にはコンスタンチノープルの海からイルトゥイシ川まで800ファルサー、南北方向にはバベレブヴナブ(デルベンド)からブルガール市まで約600ファルサーにわたって拡がっている」、「ゼイフン川(アムダリア川)からドナウ川までの領域がこの国の東西方向である」と記している。また1331年のシナの地図はカザフスタン、ヴォルガ川流域、北カフカースの各地方をウズベク汗のウルスに入れている。整理すると、キプチャク汗国の版図は、西部国境:ドナウ川下流、南部国境:クリミアをふくむ黒海北岸から北カフカース地方、南東国境:ウルゲンチ市をふくむ北ホレズム、北東国境:イルトゥイシ川からバルハシ湖となる。バトゥはヴォルガ河口、今日のアーストラハンの近くに首都サライを建設し、ここを汗国の中心とした。

  ジュチ家のウルスであったキプチャク汗国は、ジュチ家一門の各王侯のウルスで構成されていた。「ジュチ家の軍のうち、半分を彼(オルダ)が統括し、他の半分をバトゥが統括した。彼(オルダ)は軍と四人の兄弟ウドゥル、トゥカ・チムール、シュソグクル、シソグクルとともに軍隊の左翼を構成した。彼らは現在まで左翼の王侯と呼ばれている」(『集史』)というから、ジュチのウルスはまずジュチの二人の息子、すなわちバトゥ(右翼、西半部)とオルダ(左翼、東半部)のあいだで二分されていた。さらに、バトゥの他の兄弟も汗国内に自分のウルスをもっていた。たとえばシャイバン(シーバン)のウルスは今日のカザフスタン地方に、ベルケのウルスは北カフカース地方に存在した。

  キプチャク汗国はこうした諸ウルスの連合体であったために、バトゥをはじめとする歴代のキプチャク汗は、ジュチ家の頭領であったにもかかわらず、個々のウルスの長に対して必ずしも強力な統率力をもっていたわけではなかった。「当初から、オルダのウルスから、オルダの地位についた彼の後継者が、バトゥの後継者である汗のもとにやってくることはまったくなかった。なぜならば、彼らはたがいに遠く離れて生活しており、各人が自分のウルスの独立した君主であったからである」(『集史』)という状況であった。したがってキプチャク汗とは、汗国の末期にオルダの系統から登場してきた汗(ウルス汗、トフタムイシ汗など)を除けば、狭い意味では汗国の右翼=バトゥのウルスの支配者であった。ただし、「彼ら(オルダの後継者)には、バトゥの後継者を自分たちの君主・支配者と認め、ヤルリイク(特別証書)では自分たちの名の上位に彼らの名を記す慣習がある」(『集史』)というから、キプチャク汗がジュチ家の頭領として諸王侯から尊重されていたことも確認できる。

  汗国の中央権力機構では、権力は軍の指揮権、他国との交渉権をもつ「ベクリャリベク(長老エミール)」を長とする系列と財政・徴税部門を担当する「ヴィジール(宰相)」を長とする系列に二分されていたが、軍事的征服国家としての出自を反映して前者の比重が高かった。「ベクリャリベク」のもとに包括的な地域を担当する4人の「ウルス・ベク」がおり、その下に70名の「チョームニク(万戸長)、その下に「トゥイシャチニク(千戸長)」がそれぞれ配置されていた。「ヴィジール」のもとに、各都市、各地域にはおもに徴税を担当する「ダルーガ」が置かれていた。

  汗国の住民構成は、人種的観点からすれば、きわめて雑多であった。固有のモンゴル人の数はごく少数であり、住民の大半は、ポーロヴェツ族(キプチャク族)、ヴォルガ・ブルガール族、ルーシ人、ブルタス族、バシキール族、ヤス族、チェルケス族その他であった。とくに、汗国の中心「キプチャク大草原」の住民ポーロヴェツ族は圧倒的であり、モンゴル人も含めて、様々な民族は急速に彼らと混交していった。同時代のアラブ人の証言によれば、「昔、この国はキプチャク族の国であった。しかし、タタール族が彼らを征服したとき、キプチャク族はその臣民となった。しかし、この後、彼ら(タタール族)は彼ら(キプチャク族)と混血し、親族関係を結んだ。・・・モンゴル族(タタール族も)はキプチャク族の土地に居住し、彼らと婚姻関係に入って彼らの土地で暮らしつづけたので、まるで同族のようにキプチャク族となってしまった」というのである。

  汗国は、広大な版図と様々な民族を統治するにあたって、大別すれば、直接統治と間接統治という方法を用いた。そして、厳格な区分があったわけではないが、前者をステップ遊牧地帯と当地の遊牧民に、後者をロシアのような定住農耕地帯と当地の住民に適用していった。

  モンゴル人支配層はポーロヴェツ族などが生活していたステップ遊牧地帯にたいしては、自らが直接支配者として統治した。自らも遊牧民であったモンゴル人は定住農耕社会、都市生活とは疎遠であり、農村や都市の住民を当初は略奪の対象、貢税の納入者とみなしていた。一方、ステップ地帯と遊牧民に対しては、モンゴル人は、自分たちの遊牧社会で成熟していた政治・社会関係を適用することができたのである。モンゴル人はロシア諸公やハンガリー王あての書状のなかで、ポーロヴェツ族のことを「奴隷」とよんでいる。

  このために直接統治下のステップ地帯では、ステップ遊牧民の社会関係は大きく変った。第一に、ステップ遊牧民の旧支配者はその地位を失い、かわってモンゴル人貴族が直接に支配権を掌握した。ロシアの年代記は、モンゴル人の侵入以前には、ポーロヴェツ族の諸公の名を数十名も言及しているが、侵入以後には一名も言及していない。また、自分たちの氏族や部族の英雄=貴族の像を作成するというポーロヴェツ族の風習は、モンゴル人の支配下にあった13、14世紀には消滅してしまっている。すなわち、旧来のポーロヴェツ族支配層はその地位を失ってしまったのである。第二に、ステップ遊牧民の生活空間がモンゴル人の支配によって大きな地理的変化を被った。モンゴル社会における支配=搾取関係の特徴は、王侯・万戸長・千戸長といった支配層が、自分の隷属下にある遊牧民を、自分の意のままに移動させ、放牧地を配分し、夏営地・冬営地を指定するという点にあったからである。 この典型的な事例は「黒頭巾族」である。もともと彼らはキーエフ・ルーシ時代には南ロシアのステップ地帯で生活していた。ところがモンゴル人の侵入以後の13、14世紀には、ヴォルガ川流域で遊牧するようになっている。このことは、モンゴル人の支配下に入った「黒頭巾族」が、新しい支配者の命令によってヴォルガ川流域に移動させられたことを示している。同様のことが他の遊牧諸族にも起ったことであろう。

  一方、間接統治に関しては、14世紀前半にシリアとエジプトで活躍したエロマリーの著書『諸王国視察旅行記』が次のように描いている。

 「この国家のスルタン(キプチャク汗)のもとには、チェルケス人、ルーシ人、ヤス人の軍がいた。彼らはよく整備された人口の多い都市の住民、および森林が多く果実の豊かな山の住民である。彼らのところでは播種穀物が成育し、家畜の乳房からは乳が流れ(すなわち牧畜が行われている)、川が流れ、果実が採取されている。彼ら(チェルケス人、ルーシ人、ヤス人)はこの諸国のスルタンに抵抗することができず、それゆえ(自分たちの)君主をもっているにもかかわらず、スルタンの臣民として彼に(対している)。もし彼らがスルタンに服従、贈り物、供物を約束したならば、スルタンは彼らを平穏のままにしておいた。その反対の場合、スルタンは彼らに対して掠奪的襲撃を行なったり、彼らを包囲して圧迫した。すなわちスルタンはいく度となく、彼らの男性を殺し、その妻と子供を捕え、彼らを奴隷として色々な国々に輸出した。」

  モンゴル人支配者は、定住農耕民に対しては、彼らが政治的服従と貢税の支払いを約束するかぎり、彼らの内政には直接干渉しようとはせず、それを征服以前の支配者にゆだねた。

  <モンゴル人のロシア支配>

  キプチャク汗国の属領となったロシア地域も、モンゴル人による直接の占領支配ではなく、間接支配の対象となった。それは、ロシア地域が汗国の周辺に位置しており、しかも定住農耕地帯であったこともさることながら、汗国にとっては、ホレズム、ヴォルガ・ブルガリア、クリミア、カフカース地方(いずれも、直接統治の対象となった)と比べると、政治的にも、経済的にも重要ではなかったからであった。大ユーラシア国家であるキプチャク汗国から見れば、ロシア国内の交易ルートや、ロシアからの貢税収入は、ヴォルガ下流域−クリミア−黒海という隊商ルート、上記の諸地域からの経済的収入に比べるとさしたる重要性を持っていなかったのである。したがって、キプチャク汗国にとってのロシアの位置は、例えば、元帝国にとっての高麗の位置に類似していた。

  元のクビライは征服した高麗に対する統治方針に関して、高麗王あての詔勅の中で、「「おもうにわが太祖チンギス皇帝の制度においては、すべて内属の国は質を納め、軍を助け、糧を輸し、駅を設け、戸籍を供数し、達魯花赤(ダルガチ)を置くべきものと定まっている」と述べている。「内属の国」には、人口調査に基づく貢税の納入、兵力の提供、駅伝の設置の義務があり、監督官として「ダルガチ」が置かれるというのである。キプチャク汗国も自分の「内属の国」ロシアに対して、基本的にはこのクビライの方針と同様に統治している。

  モンゴル人はロシアを征服すると、それまでの既存の政治制度の上にキプチャク汗が君臨するという方針を選択した。キプチャク汗は、ロシア諸公が汗国に忠誠を誓う限り、具体的には貢税の納入と軍役を果たしている限り、彼らに汗の特別証書「ヤルリイク」を与えて、彼らの既存の統治権を承認してやった。この「ヤルリイク」の授与を介して、ロシア諸公を統制したのである。

  北東ロシア諸公は、南西ロシア諸公と比べると、「本領安堵」を求めて、すすんで征服者に恭順の意をあらわした。彼らは、モンゴル軍によって潰滅的打撃をうけ、しかも南西ロシアの諸公とはちがって、汗国に対抗して依拠することのできるポーランドやハンガリーという後方避難所をもっていなかったからである。さらに、モンゴル軍侵入以前の北東ロシアには、「自由な伝統」(「中央国家的統制からのすべての社会階級の自由、経済的自由、貴族的・民主的分子による公の権力の制限」)をもつ南西ロシアとは異なって、絶対的専制権力をうけ入れやすい土壌がすでに培われていた。事実、北東ロシアの諸公は、ヤルリイクを求めて、きわめて頻繁に汗国の首都サライを、ひいてはモンゴル世界帝国の首都カラコルムを訪れている。例えば、シチ河畔の戦いで敗死したヴラヂーミル大公ユーリイの弟ヤロスラーフ・フセーヴォロトヴィチは1243年にサライのバトゥのもとを訪れ、モンゴルの支配下での最初のヴラヂーミル大公の地位を保証されている。「(1243)大公ヤロスラーフは、タタールの土地のバトゥのもとに行き、息子コンスタンチンを大汗のもとに派遣した。バトゥはヤロスラーフとその部下を名誉をもって処遇し、こう言った。『ヤロスラーフよ、汝はすべてのロシアの諸公の最年長者となれ』」(『スーズダリ年代記』)という。息子のアレクサーンドル・ネフスキイは1246年、1252年に汗国を訪れている。また、もっとのちの時代のことではあるが、汗の助けによってヴラヂーミル大公の地位を獲得し、のちのモスクワ国家の発展の基礎を確立したイヴァーン・カリターなどは、その治世の大半を汗国への旅行に費やしていると言っても過言ではないほどである。

  ロシアの直接の宗主はキプチャク汗家=ジュチ家であった。しかし、そのジュチ家はモンゴル世界帝国の大汗家に従属していたために、ロシアの諸公はこの大汗家にも仕えなくてはならなかった。年代記の記述にもあるように、バトゥを訪問したヤロスラーフは、息子のコンスタンチンをカラコルムの大汗のもとに送っている。ロシアの年代記がキプチャク汗のことを皇帝を意味する「ツァーリ」とか「ツェザール」と呼びはじめたのは、汗国がモンゴル世界帝国から自立する13世紀後半のメング・チムール汗の時代以後のことであり、バトゥ、サルタク、ウラグチといった初期のキプチャク汗は「ツァーリ」と呼ばれていないから、ロシア側からも、キプチャク汗と大汗との関係は明確に把握されていた。しかし、このために、ロシア諸公は、キプチャク汗と大汗の政争に巻き込まれることになった。

  第2代大汗ウゲデイが1241年に他界すると、皇妃トレゲネは自分の息子グユクを大汗位につけようとした。だが、かねてからグユクと不仲であったバトゥは、「一族の長老」として大汗推挙のクリルタイの招集を引き伸ばしていた。結局、トレゲネは1246年に、バトゥ不在のまま、クリルタイを招集し、モンゴル帝国の支配下にある諸王侯をカラコルムに集めた。この中に、ヴラヂーミル大公ヤロスラーフもいたが、彼は当地でか、ロシアへの帰途に急死した。トレゲネ=グユク派がヤロスラーフをバトゥ派とみなし、毒殺したのだという。ヤロスラーフの死後、ヴラヂーミル大公位は年長制にしたがって、彼の弟スヴャトスラーフの手に移り、この件はバトゥによって承認されていた。しかし、カラコルムの大汗家(1248年にグユクが死ぬと、皇妃オグル・ガイムイシが摂政をつとめていた)は、バトゥの意向を無視して、ヤロスラーフの次男アレクサーンドル・ネフスキイと三男アンドレーイをカラコルムに直接召喚して、前者に「キーエフとロシアの土地のすべて」を、後者にヴラヂーミル大公位を与えた。この結果、1249−1250年には、バトゥの認可を得たスヴャトスラーフと大汗家の認可を得たアンドレーイという二人のヴラヂーミル大公が登場することになった。

  バトゥと反目する大汗家の後押しをうけたアンドレーイは、キプチャク汗国のロシア支配に挑戦的な態度を取った。彼は「我々はいつまで自分たちのあいだで争って、タタール人の方に互いの顔を向けなくてはならないのか。タタール人と仲良くして、彼らに奉公するよりも、他の土地へ逃げた方がましだ」と述べたという。彼はまた、やはり汗国の支配に抵抗していたガリーチ・ヴォルイニ公ダニイール・ロマノヴィチと手を結ぼうとし、彼の娘を妻にむかえた。これに対して、彼の兄アレクサーンドル・ネフスキイは汗国の支配に恭順する路線をとった。彼は、若いときから、スウェーデン軍やチュートン騎士団という「西の脅威」=十字軍と対決しており、ロシアの宗教的なアイデンティティーを滅ぼしかねない西方の「カトリック勢力」に抵抗するために、宗教的に寛容なモンゴル人の支配を容認するという路線を選択したのである。

  1251年、モンゴル世界帝国では、モンケがバトゥの後押しを受けて、大汗位についた。大汗モンケは支援の見返りに、バトゥにかなりの権限を与え、バトゥは実質的にモンゴル帝国西半部の大汗となった。この機を利用して、アレクサーンドル・ネフスキイはすぐさま1252年にサライに赴き、当時父バトゥに代わってロシア政策に責任を負っていたサルタクと会った。サルタクは、前大汗家の息のかかっていたアンドレーイを退け、アレクサーンドル・ネフスキイにヴラヂーミル大公位を与えた。アンドレーイはスウェーデンに逃亡し、以後北東ロシアの諸公は、ネフスキイにならって、汗国への恭順路線を採用していった。

  一方、南西ロシアの諸公に対する政治的支配の確立はいささか難行した。南西ロシアの諸公はポーランドやハンガリーと政治的結びつきをもっていたからである。

  バトゥの遠征当時のこの地域の覇者はチェルニゴーフ公ミハイール・フセヴォロドヴィチであった。彼はモンゴル軍の到来を知ると、ハンガリー、ポーランドに逃亡し、バトゥのもとを訪れたのは、やっと1246年のことであった。北東ロシアの諸公が1240年代前半に訪問しているのと比べると、かなり遅い。バトゥはこのミハイールを峻厳に処分した。プラーノ・カルピニはこのミハイールの処刑についてこう伝えている。「ロシアの大公の一人ミハイールがやって来てバトゥを訪問したとき、タタール人が彼に、まず火と火の間を通らせ、そのあとで南面してチンギス汗の像に礼拝するように言いました。ミハイールは、バトゥとその従者たちには喜んで礼をするが、すでに死んだものの像には頭を下げない。何とならば、キリスト教徒がそんなことをするのは許されぬからだ、と答えました。・・・そこで、バトゥはその従者の一人をつかわしましたが、彼はミハイールの腹部を心臓にむかって蹴りつづけましたので、とうとうミハイールは弱りはじめました」。

  また、ガリーチ・ヴォルイニ両公国を統一したローマン・ムスチスラヴィチの息子ダニイール・ロマノヴィチもポーランドやハンガリーに依拠して、モンゴルの支配に抵抗する姿勢を示していた。ダニイールがバトゥのもとに赴いたのは、1250年のことであり、彼は汗国に臣従を誓って、その代わりにガリーチ・ヴォルイニ公国を「本領安堵」された。しかし、後述するように、ダニイールが汗国に完全に屈伏するのは、もっと先のことであり、汗国も南西ロシア地方を服従させるために、たびたび懲罰遠征軍を送らなくてはならなかったのである。

  政治的忠誠と軍事的奉公( 汗国遠征軍への参加と国内治安維持 )を条件として「本領安堵」するというヤルリイク授与制度は、汗国のロシア諸公統制の骨格であった。おそらく、主君と従臣との「双務的契約」、相互の「誠実義務」にもとづく西ヨーロッパ封建社会の「恩貸地」制とは異質な、のちのモスクワ国家の「ポメースチエ」 (知行地 )制は、このヤルリイク授与制度から大きな影響を受けたと思われる。 

  1257年、クビライの女婿キタトがロシアの「ダルガチ」に任命された。ダルガチ(ロシア語ではダルーガ)とは、「印を押す」とのモンゴル語に由来し、属領定住民に対する「制圧官」のことであった。一般的に、ダルガチは担当区域での、人口調査(チスロ)、徴兵、課税と徴税、駅伝制の確保、法と秩序の維持に責任を負っていた。同年、ロシアでは人口調査が実施された。「この年( 1257 )の冬、タタールの人口調査官がやってきて、スーズタリ、リャザーン、ムーロムの諸公国を読み通し、十戸( 長 )、百戸( 長 )、千戸( 長 )、万戸( 長 )をおいて、汗国に帰った。修道院長、修道僧、司祭、聖歌隊僧など聖母たちをみつめる人々たちに対しては読み通しを行なわなかった」(『ニコン年代記』)という。この人口調査の結果、ロシアの住民は、ノーヴゴロト周辺地帯と教会関係者を除いて、十戸、百戸、千戸、万戸という行政単位に区分され、『納税者原簿』に登録された。十戸とは10人の兵士を供出できる住民集団であり、兵士の比率を5%と想定すると、十戸の構成員は200名、百戸は2000名、千戸は20000名、万戸は200000名となる。ロシア史の流れの中で注目すべきは、のちのモスクワ国家も、このモンゴル人征服者の方式を踏襲したことである。すなわち、西ヨーロッパの王権は人口調査による徴税と徴兵という方策をほとんど実行し得なかったが、一方、モスクワ国家の大公・ツァーリ権力はモンゴル人が残した人口調査による徴税と徴兵という方策を介して、西ヨーロッパの王権よりも確固として住民を統制下に置くことができたのである。ちなみに、今日でも、「金銭」を意味する「デーニガ」、「国庫」を意味する「カズナー」、「税関」を意味する「タモージニア」など税金や財政に関係するロシア語の単語の中には、モンゴル・チュルク語起源のものが多い。

  キタトや人口調査官が、人口調査を終えて帰国したのち、ロシア地域には、この地域を統制・監視するためにバスカクが置かれた。バスカクもダルガチと同様に、「押す、圧する」を意味するチュルク系の単語に由来している。ただし、その実態については判然としていない点が多い。伝統的な解釈に従えば、バスカクは大きな軍事・行政権力を与えられ、治安部隊をもった地方総督であった。その基本的な職務は、ロシア諸公と住民の統制、貢税の納入の監督であった。とすれば、ロシアは汗国という宗主権に貢税を支払う属邦というよりも、汗国の常設機関の軍事的政治的統制下にある被占領国に近い。しかし、汗国はロシア諸公や住民がモンゴルの支配に反抗的な姿勢を見せるたびに、ステップ地帯から懲罰遠征軍を派遣しなくてはならなかったという事実経過を見ると、バスカクをかなりの軍事力をもった武装組織の長とは考えにくく、せいぜい少数の手兵をもった「諸公の活動の監督官」と考える方が適切であろう。いずれにせよ、バスカクは「タタールのくびき」の象徴であった。

  さらに、モンゴル人は「ジャムチ」と呼ばれた駅伝制度をロシアに持ち込んだ。ジャムチの制度はモンゴル帝国において、首都と地方を結ぶ主要道路に10里ごとに駅伝を設け、そこを旅行する役人に宿泊施設、食事、馬を提供するもので、これを維持するために周辺の住民から駅伝税を徴収したものであった。ジャムチによって中央政府は広大な地域を統制することが可能となったわけであるが、この制度はロシアを征服したモンゴル人によってロシアにも移植され、ジャムチから派生した「ヤム」と呼ばれるようになった(ちなみに、今日でも郵便配達人は、ロシア語で「ヤムシチク」と呼ばれている)。

  のちのモスクワ国家で広大な地方と中央とを結合する国内通信制度あるいは駅伝制度が整備され始めたのは、15世紀末のイヴァーン3世の時代であり、その制度は16世紀末のイヴァーン4世の時代までに急速に整備された。16世紀のイギリス使節ジェローム・ホーセイは駅伝制度の発展の様子について「この皇帝(イヴァーン4世)は、彼の治世に、王国の各地に155の城を築き、守備隊を駐屯させた。彼は荒れ地に1、2マイルごとにヤムと呼ばれる300の宿駅を建設した。そして、その町の住民に、必要な場合には多くの馬を迅速に提供するために土地を与えた」と記している。

  もちろん、モスクワ国家の駅伝制度を整備するにあたって、モスクワ国家の役人達がモデルとしたのは、モンゴルの支配時代に導入されたジャムチであった。そして、この制度は、この時代のヨーロッパ諸国の中では最良の国内通信制度であったのである。神聖ローマ帝国大使として16世紀末にロシアを訪問したヘルベルシュタインは、ロシアの駅伝制の安全さ、旅行速度の速さに強い印象を受けて、次のように記している。

「君主はその領地の各地に至る駅伝ルートを持っており、様々なところに多くの馬が備えてあり、急使が何処かに送られたときに、彼は遅れることなく馬を手に入れ、自分が望む馬を選択できる。大ノーヴゴロトからモスクワ国家に急いで旅行したとき、彼らの言葉ではヤムシチクと呼ばれる駅伝の主人が世話をしてくれて、日の出に、30頭、ときには40、50頭の馬を紹介してくれた。しかし、私には12頭ぐらいが必要であった。それゆえ、われわれのメンバーは、自分にあった馬を連れてくることができた。馬が疲労したときには、ヤマと呼ばれている別の駅伝に到着し、すぐに馬を交換して、鞍を付けて乗馬した。誰もがもっとも速いスピードで乗馬することを許され、馬がだめになるか、乗り続けることができなくなった場合、近くの家で馬を交換することが許されていた。あるいは、急使以外ならば、途中で出会った人から馬を借用することが許されていた。ヤムシチクは馬の世話をし、馬を徴発された人に馬を返還し、旅行の距離に応じて価格を設定した。通常、10−12ヴェルスタで6デンガであった。こうしたやり方で、私の召使いはノーヴゴロトからモスクワに駅伝経由でむかったが、それは600ヴェルスタすなわち120ドイツマイルであり、72時間であった。」

  ちなみにある試算によると、ロシアのヤムを使った旅行速度は、当時のイギリスでの旅行速度の二倍弱であったという。

  <ベルケ汗とメング・チムール汗の治世>

  キプチャク汗国の創設者バトゥは後継者として長男サルタクを考えており、これをモンゴル帝国の大汗モンケに承認してもらうために、彼をモンケのもとに派遣した。モンケはこれを承認したが、バトゥが、サルタクのカラコルム逗留中の1256年に死んでしまったために、バトゥの弟ベルケが、サルタクの不在を利用して汗位をうかがった。

  ベルケはバトゥの意向と大汗モンケの承認に抗しているわけであるから、不利な条件のもとにおかれていたが、サルタクがネストリウス派のキリスト教徒であり、ベルケがイスラム教徒であったことが、後者に有利に作用した。汗国の徴税人に登用されるなど、有力な社会勢力となっていたイスラム商人や、ホレズムやヴォルガ・ブルガリア地方のイスラム聖職者層がベルケを支持したからである。また、長子相続制度が定着していない当時のモンゴル人社会にあっては、前汗の息子サルタクと前汗の弟ベルケは資格の点では同等であった。

  サルタクは汗位についたものの1257年に死んでしまった。大汗モンケは、あくまでも盟友バトゥの遺志に忠実で、サルタクの息子( 弟という説もある )ウラグチをキプチャク汗に任命し、バトゥの未亡人ボラクチンを摂政皇后に指名した。「大汗モンケはエミールを(キプチャク汗国に)派遣した。彼(バトゥ)の夫人たち、息子たち、兄弟たちを愛情を持って扱い、バトゥの第一夫人ボラクチン・ハトゥンが、サルタクの息子ウラグチが成長して父の地位につくまで、命令を発し、ウラグチを養育するようにと命じた」(『世界征服者の歴史』)という。ところが、このウラグチもすぐに死んでしまったために( 1257年 )、ここで汗位継承問題が再度もちあがった。摂政ボラクチンは、バトゥの直系を維持しようとして、バトゥの次男トゥガンの息子トゥダ・メングを汗位につけようとしたが、ベルケ支持派の強硬な反対にあった。ジュチ家内部で孤立したボラクチンは、ペルシアのイル汗国の当主フラグの支持をあおごうとした。このボラクチンの策動は実現をみるにいたらず、彼女は結局殺されてしまった。しかし、この事件はのちにキプチャク汗ベルケとイル汗フラグとが対立し、これが二つのモンゴル汗国とのあいだの百年戦争にまで発展していく過程の遠因となっている。ベルケが待望の汗位についたのは、おそらく1258年のことであった。

  ベルケは汗位につく以前にイスラム教に帰依していた。そのベルケがキプチャク汗になったことによって、イスラム教は汗国に急速に浸透し、それまで、主としてシャーマニズムを信仰していたモンゴル人貴族のあいだにも、イスラム教に改宗する者が登場した。ただし、イスラム教は都市文化を代表していたから、遊牧生活の旧来の慣習や信仰に執着する一部のモンゴル人貴族は、このイスラム教の浸透をこころよく思っていなかった。彼らは、イスラム教の受容を、自分たちの権利の侵害、その結果としてのキプチャク汗の中央集権的権力の強化と受けとったのである。しかし、イスラム教は汗国に着実に浸透していき、その中で支配的な地位を獲得していった。その結果、比較的高度なアラブの文化がキプチャクの土地に流入するようになり、また、全能の神アラーとその地上における代理人=汗およびその支配層への服従を説くイスラム教が大衆のあいだに普及することによって、汗国支配層の権力が安定していった。

  キプチャク汗国はモンゴル世界帝国の構成部分であり、その汗はカラコルムの大汗に臣従していた。バトゥは「一族の長老」として、また大汗モンケの盟友として世界帝国の西半部の実質的な支配者であったが、サルタクを後継者として承認してもらうために大汗モンケのもとに派遣していることからも判るように、たとえ形式的であるにせよ大汗に臣従していた。

  だがベルケ汗の治世に入ると、モンゴル帝国とキプチャク汗国との宗主国・属国関係、大汗とキプチャク汗との主君・臣下関係は崩れていった。この契機となったのは、大汗モンケ死後に( 1259年 )、その弟クビライと末弟アリク・ブガとのあいだに発生した大汗位をめぐる抗争であった。クビライ派はシナ北部の開平府において、アリク・ブガはカラコルムにおいてそれぞれクリルタイを開き、この二人を大汗に推挙していた。

  モンゴル帝国に二人の大汗が登場するという事態にあって、キプチャク汗ベルケはアリク・ブガを支援し、一方、ペルシアのイル汗国のフラグは兄のクビライを支援した。したがって、全モンゴル帝国の視野からこの紛争を眺めると、シナとイランという高い文明をもった地域が、伝統的な遊牧生活を重視するヴォルガ・ステップ地帯とモンゴリア地域に対抗していたことになる。

  結局、この抗争はクビライの勝利に終り、クビライが唯一の大汗となった。だが、ベルケはこのクビライの権威を認めようとはしなかった。キプチャク汗国の貨幣には、主君であることを明示するように、大汗の名が刻印されてきたが(モンケの名、内紛中はアリク・ブガの名)、ベルケはクビライが唯一の大汗となっても、彼の名を刻印しようとはせず、その代りにバグダッドのカリフの名を刻印させ、これによって、カリフの宗教的な権威のみが、自分の上位にあること、すなわちキプチャク汗は大汗クビライには臣従しないという姿勢を明らかにした。さらにベルケは、モンゴル帝国への臣従を誓ってサライにやってきたグルジアやルームの使者・国王をもはやカラコルムには送ろうとしなかった( グルジア王ダヴィド4世の例 )。

  このように、キプチャク汗国はベルケの治世に入ると、クビライの元朝から政治的な自立をとげるのであるが、両国の関係がまったく断たれたわけではない。ベルケ以降のメング・チムール汗、トゥダ・メング汗は大汗クビライから承認を受けているし、ウズベク汗は、シナ領内の自分の分封地からの収益を請求するために使者を元朝に派遣している。だが、これはあくまでも形式的なものにとどまり、かつて大汗グユクがキプチャク汗国の政治に直接干渉したというような、大汗の政治的権威はもはや汗国には及ばなくなった。

  ペルシアのイル汗国とキプチャク汗国は、ともにモンゴル人の国家でありながら( ベルケとフラグはチンギス汗の孫で、従兄弟同士である )、1262年から公然とした戦争状態に入った。対立の原因は、征服地からの収益の分配問題とアゼルバイジャン地方の領有問題であった。ベルケは、のちに汗国において実力をふるうようになるノガイの率いる2万の軍をイラン方面に派遣し、これをイル汗国側が迎え撃つことから、両汗国は戦争に突入した。1262年にはじまるこの戦争は、二人の汗があいついで死んだ(フラグは1265年、ベルケは1266年に死んだ)のちも、ほぼ百年にわたって、断続的ではあるが継続され、両汗国の国力を消耗させると同時に、エジプト、ビザンツ帝国、ヴェネツィア、ジェノヴァなど東地中海世界の国際関係に大きな影響を与えた。

  ここで、両汗国の関係に、軍事的・地理的に重要な位置を占めるようになったのが、エジプトとシリアを支配していたイスラム国家のマムルーク朝であった。13世紀後半にはアラビア半島にまでその版図を拡げていたマムルーク朝は、イランの地にフラグのイル汗国が登場すると、東部国境方面でその直接的脅威をうけることとなったのである。イル汗国軍はシリアに侵入し、1260年にはエルサレム北方のアイン・ジャルートでマムルーク軍と衝突し、ここで大敗を喫すると、イスラム国家という共通の敵と戦うための同盟を西ヨーロッパの十字軍と結ぼうとしていた。一方、ベルケ治世下のキプチャク汗国も、イル汗国と対立していたから、ここに、十字軍と同盟しネストリウス派のキリスト教に傾いていたフラグのイル汗国を共通の敵として、さらにイスラム教を共通の信仰として、キプチャク汗国とマムルーク朝とのあいだに同盟が結ばれる可能性が生まれた。マムルーク朝のスルタン・バイバルスが1263年にベルケに送った親書は、「予は正しい信仰の友であり、一方、この敵すなわちフラグは異教徒である。フラグは邪悪にもイスラム教徒を迫害し、その土地を奪った。予は汝が汝の側からフラグに向って前進し、予が予の側からフラグに向って前進することを思案してみた。われわれは一度に彼を攻撃して、この土地からフラグを追い出すであろう。予は、フラグの手中にある( すべての )イスラム教徒の土地を汝に手渡すであろう」と述べているが、これは、両国の同盟の性格を的確にあらわしている。この親書を契機として、両国の同盟が成立し、これ以降、双方はきわめて友好的な関係をとり結んだ。さらに、両国の交通が盛んになることによって、当時としては先進的なアラブ・イスラム文化が、キプチャク汗国に流入することとなったのである。また、汗国の懲罰遠征によって捕虜となった大量のロシア人が、マムルーク朝に奴隷として売却された。

  ベルケ汗の政治的関心は、前述したようにモンゴル帝国内の紛争とアゼルバイジャン方面への進出政策に注がれており、彼はロシアに対してはあまり関心を向けなかった。だが、彼は、南西ロシアでのダニイール・ロマノヴィチ公の反モンゴル運動と北東ロシアでの反モンゴル住民蜂起に対処しなくてはならなかった。南西ロシアの覇者ガリーチ・ヴォルイニ公国のダニイール・ロマノヴィチ公は、やむやむバトゥに屈服していたが、ベルケの時代に入ると再度汗国の支配に反対する動きをみせはじめ、西方に台頭しつつあったリトアニアの勢力に注目していた。

  リトアニアはミンダウカス( ミンドフク )のもとで国家的統一に成功しており、1240年代に入ると、チュートン騎士団の攻勢が一時的に弱まった機会をとらえて、東のロシアに拡張を企てた。彼は、1250年代には、ヴォルイニ公国の北部に隣接する「黒いロシア」の諸市を支配下においた。西からはチュートン騎士団、東からは汗国軍の侵入に脅えていたこれらの諸市は、強力な軍隊をもつリトアニアをむしろ歓迎したのである。ミンダウカスは、1250年にローマ・カトリックに改宗し、チュートン騎士団にジムート地方の一部を割譲することで、西からの騎士団の圧力を緩和すると、今度は東方に隣接するガリーチ・ヴォルイニ公国との関係を改善しようとした。

  ガリーチ・ヴォルイニ公国のダニイールは、汗国と対抗するためにも同盟国を必要としていたし、ミンダウカスも、西方の脅威チュートン騎士団との平和が一時的なものにすぎないことを承知していたから、双方の交渉は容易に進んだ。まず1251年頃、ダニイールはミンダウカスの姪を妻にむかえた。そして、ローマ・カトリックとギリシア正教という宗教問題の調整をはかるために、ミンダウカスの息子ヴォイシェルクがギリシア正教に改宗した。このヴォイシェルクの仲介で、1254年にはダニイールとミンダウカスのあいだで平和条約が結ばれた。これによると、ミンダウカスは「黒いロシア」をダニイールの息子ローマンに譲り、ローマンはミンダウカスの家臣となった。またミンダウカスの娘( ヴォイシェルクの妹 )が、ローマンの弟のシヴァルンに嫁ぎ、ヴォイシェルクはギリシア正教の僧院に入った。

  このような婚姻関係と家臣関係の締結、宗教上の問題の調整によって、リトアニアとガリーチ・ヴォルイニ公国との同盟は成立した。この結果、ロシアの西部国境地帯に、強力な反モンゴル勢力が出現することとなった。

  北東ロシアに較べて、南西ロシアに対する汗国の支配は比較的ゆるいものであったが、ミンダウカスとダニイールの同盟が成立しているころ、汗国はこの支配を強化しようとしていた。しかし、この地方に駐屯する汗国軍司令官クレムサの兵力は少く、クレムサ軍は、ガリーチ・ヴォルイニ公国の懲罰を命令されていたにもかかわらず、リトアニアとの同盟に成功していたダニイールがクレムサ軍に対する反撃を組織していたために、この任務を果たすことができなかった。

  ベルケ汗は、このクレムサ軍の不首尾を知って、猛将ブルンダイの率いる強力な汗国軍を南西ロシアとリトアニアに派遣した。リトアニアの台頭は汗国のロシア支配に対する脅威となることを察知したベルケは、ダニイールも含む南西ロシアの諸公を威嚇して、リトアニアから離反させること、リトアニアとガリーチ・ヴォルイニ公国との同盟関係を断つことを目指した。この意を受けたブルンダイは、汗国軍のリトアニア遠征に参加することを南西ロシアの諸公に強要した。圧倒的な軍事的圧力に直面した南西ロシアの諸公は、この要求を受けいれざるをえず、たとえば、ダニイールの弟ヴァシリコはヴォルイニのべレスチエからリトアニア領を略奪しながらブルンダイのもとにはせ参じた。ダニイール自身も、ブルンダイ軍のリトアニア遠征には直接参加しなかったものの、リトアニアの支配下にあった「黒いロシア」地方に侵入した。こうした動きに対して、リトアニアのヴォイシェルクとトフチヴィルは、ダニイールの息子ローマンを殺害するという挙に及んだから、汗国による南西ロシアとリトアニアの離反政策は成功したといえよう。さらに、ブルンダイは、1259年に、南西ロシアの主要都市の砦を破壊することを命じた。南西ロシアの諸公はこの命令に従わざるをえず、ダニーロフ、ストジェスク、クレメンツ、ルーツク、ヴォルイニのウラヂーミルといった各市の砦がうち壊された。

  ブルンダイ軍の遠征によって汗国軍の軍事的制圧下におかれた南西ロシアは、リトアニアといった西方の同盟国に依拠して汗国の支配に抵抗する可能性を奪われ、ここに汗国の完全な支配下に入った。この結果、バトゥの時代からしばしば反抗的態度を示し、北東ロシアに較べて一定の独立を確保していた南西ロシアも、北東ロシアと同様に、汗国の完全な属国と化した。南西ロシアの諸公は、公位を認可してもらうために、汗のヤルリイクが必要となったし、バスカク、ダルガチといった汗国の役人が南西ロシアの各地に任命されたのである。ダニイール・ロマノヴィチ公は失意のうちに1264年に死んだ。

  南西ロシアでのダニイールの反モンゴル運動が平定されると、1262年には、北東ロシアのウラヂーミル、ロストーフ、スーズダリ、ヤロスラーヴリの諸市で汗国の支配に対する反乱が勃発した。反乱の中心となったのは、バトゥの遠征の痛手から立ち直っていないウラヂーミルではなく、ロストーフであった。反乱の拠点は市の民会であり、ここに参集した住民は、その憤激をまず汗国の徴税人に向けた。徴税人の多くは、中央アジアからやってきたイスラム商人であったが、彼らは、租税を支払えない者に高利貸しをしたり、債務者を奴隷に売りとばしたりすることで汗国の圧制の象徴となっていたからである。こうした徴税人のなかで悪名高かったのは、ヤロスラーヴリのゾシマなる人物である。ロシア側の史料はこのゾシマについて「以前はキリスト教徒で、僧侶でもあり、のちに汗のバスカクに気に入られるためにイスラム教に改宗した。彼は背教者には多く見られるように、自分の以前の信仰と兄弟たちを罵り、・・・さらに呪われたことに、自分の以前の同胞を迫害した」と述べている。結局、彼は住民に殺されてしまった。

  ベルケはこのようなスーズダリ地方の住民反乱に対して懲罰遠征軍を派遣して、これを鎮圧した。しかし、この反乱は汗国の統治様式を転換させ、ベルケの次のメング・チムール汗は、イスラム商人による徴税の請負いを中止し、汗国の役人に直接徴税にあたらせることとした。

  ベルケ汗は1266年に死に、バトゥの孫にあたるメング・チムールがその後継者となった。

  モンゴル人征服者は、チンギス汗のヤサにも「彼(チンギス汗 )はいずれの信仰にも重きをおかず、すべての信仰を尊重することを決定した」とあるように、宗教的には寛容な政策をとっていた。

  キプチャク汗も例外はあるにせよ、このヤサの指示に忠実であり、自分がどの宗派に帰依していようとも、これを強制的に臣民に押しつけたり、他の宗派を迫害したりはしなかった。バトゥは伝統的なモンゴルのシャーマニズムを信奉し、、息子のサルタクはネストリウス派のキリスト教徒であった。ベルケがイスラム教に改宗したといっても、その次のメング・チムール汗は、自分の娘をキリスト教徒に改宗させて、ロシアのヤロスラーフ公に嫁がせている。またイスラム教徒として名高いウズベク汗にしても、イスラム教を汗国の統治に厳格に適用するのではなく、古くからの慣習を十分に尊重していた。。

  キプチャク汗はロシアを統治するにあたって、ロシアの教会や教会の所領を人口調査の対象から除外した、すなわち課税対象とはしなかった。そして、メング・チムール汗は、このようなロシア教会に対する寛容政策を文書として確定した。彼が「ロシアの主教と誰かれの区別なくすべての教会の人々」に与えたヤルリイクによれば、教会や修道院の所領とそこで働いている人々は課税対象とはならず、すべての聖職者は兵役を免除され、さらに、汗国の役人が教会の所領に手をつけたり、聖職者に何らかの「奉公」を求めることは死刑をもって禁止されたのである。後年、イヴァーン4世は、教会所領の制限を試みようとしたとき大きな抵抗に遭遇した。総主教マカリイは、「不信心な汗の多くも神聖なる教会と修道院から何もとらなかったし、あえて、不動産を移そうとはしなかった……彼らは神聖なる主教にヤルリイクを与え、誰かが修道院や教会の土地を攻撃したり、とりあげることを禁止した」と述べて、汗国の教会保護政策を引きあいにだしながら、イヴァーン4世の政策に反対しているほどであるから、この政策はロシアの聖職者に強く好意的な印象を与えていたと思われる。

  このような汗国の教会保護政策は、短期的には、ロシア人のあいだで大きな道徳的・精神的権威をもっていた聖職者の汗国に対する服従を保証することによって、ロシア人の反モンゴル意識を弱め、汗国のロシア支配を容易とした。しかし、長期的には、教会を政治的・経済的に強化することによって、教会をロシアの中央集権化のセンターとし、その結果、汗国のロシア支配を揺がしていくこととなった。すなわち、課税対象とならなかった教会は、経済的に豊かとなり、政治的に分裂状態であったロシアにおいて、唯一の全ロシア的な組織に成長していったのである。

  メング・チムール治世下のキプチャク汗国が順調な発展をとげていたころ、中央アジアの情勢は不穏な動きを示していた。第二代大汗ウゲデイの孫カイドゥがクビライの宗主権を認めず、彼に公然と反旗をひるがえしており、大汗クビライはそれに対して、チャガタイの曾孫バラクをチャガタイ汗に任命して、カイドゥに対抗させていたからである。

  中央アジアでのカイドゥとバラクの戦争にあたって、メング・チムール汗は、最初は、バラクに、のちにはカイドゥに助勢したが、この矛盾した態度は、彼が、バラクとカイドゥのどちらが勝利するかというよりも、キプチャク汗国の商業的利益、すなわち東西貿易の要路であるサマルカンド・ブハラなどのトランスオクシアナ地方を戦乱による荒廃から守ることを第一としていたためであった。事実、バラクがメング・チムールの支援を受けてこの地方を占領したことは、東方とのキャラバン貿易に大打撃を与えていたのである。

  メング・チムールの5万の援兵をえたカイドゥはバラクを撃破し、1269年春、キプチャク汗国、バラクのチャガタイ汗国、カイドゥのウゲテイ汗国の代表が和議のクリルタイを開いた。この和議によって、三つの汗国のあいだに平和が確立され、トランスオクシアナ地方は三汗国のあいだで分割された。さらに、カイドゥは「中央アジアの大汗」に推挙され、イル汗国に対する三汗国の同盟が締結された。この同盟は、この三汗国が、チンギス一門の血筋からすればトゥルイ家の元朝ならびにイル汗国と完全に訣別したことを示していた。

  メング・チムール汗は、1270年後半に、ヤス人、チェルケス人に対するカフカース遠征を企てた。このカフカース遠征には、汗国に臣従を誓っていたロシアの諸公も多数参加した。1277年2月、汗国軍はアラン人の町ヂェヂャコヴォを占領し、メング・チムールはテレク川西岸にあったヂェヂャコヴォ市の代りに、東岸に新しいヂェヂャコヴォ市を建設した。この町は、デルベンド市、マジャール市と並んで、汗国のカフカース支配の中心となっていった。

  <汗国の二重権力時代とロシア諸公>

  メング・チムール汗が1282年に死ぬと、ノガイ( 「犬」を意味する )なる人物が汗に並びたつほどの権威をもつようになり、汗国は汗とノガイを中心とする二重権力時代に入った。キプチャク汗国の右翼=バトゥのウルスが再度、右翼と左翼に分裂したのである。

  ノガイはジュチ一門では傍流にあたるとはいえ、ジュチの曾孫であり、ベルケの治世には、イル汗国との戦争の軍司令官であったし、メング・チムールの治世には、マムルーク朝やビザンツ帝国側からキプチャク汗に匹敵する実力者とみなされており、軍の指揮権、他国との交渉権をもつ「ベクリャリベク(長老エミール)」の地位についていた。彼は、このような高い政治的地位とともに、ドナウ川から黒海北岸の南口シア・ステップ地帯に広大な所領をもっており、モルダヴィアに本営(ユルト)をおいていた。

  ドナウ川下流地域に強大な勢力を保持したノガイは、メング・チムールの後継者問題に干渉し、後継者に予定されていたメング・チムールの甥トレボガに代って、メング・チムールの弟のトゥダ・メングを汗位につけた。しかし、このトゥダ・メング汗も、宗教に熱中するあまり国政から離れ、1287年に退位してしまったので、トレボガが汗位についた。

  新しい汗トレボガは当然のことながら、トゥダ・メング汗を支持していたノガイと不和になった。トレボガはノガイの殺害を計画したが、これを察知したノガイはトレボガを逮捕し、彼を故メング・チムールの息子トフタに引き渡した。このトフタは、父メング・チムールはトレボガによって殺されたとノガイから吹きこまれており、トレボガとその息子を殺し、自らが1291年に汗位についた。

  このトフタ汗は、ノガイの援助を受けて汗位についたものの、きわめて精力的な人物であり、単にノガイの「政治的あやつり人形」の地位にとどまろうとはしなかった。それどころか、彼はノガイをとりのぞいて、キプチャク汗国の再統一をはかろうとした。トフタはノガイの勢力圏に軍を進め、両軍は1297年/1298年にヤサ(プルート)川付近で衝突した。20万の騎兵を主力とするノガイ軍は、トフタ軍を撃破した。トフタはかろうじて戦場を離脱し逃亡することができたという(第一次会戦)。

  第一次会戦に勝利を収めると、ノガイはクリミアに軍をさし向けた。当時、ジェノヴァ人が黒海貿易の重要拠点であるクリミアを独占していたが、ライバルのヴェネツィア人がノガイの力を借りてこの独占をくつがえそうとしたからである。ノガイは女婿アクダンをクリミアに派遣して徴税させようとしたが、クリミアのカッファ市のジェノヴァ人住民はこのアクダンを殺してしまった。これに激怒したノガイは、大軍をクリミアに派遣し、カッファやスダクなどの大都市を略奪させた。

  しかし、このような戦果を収めたノガイの王国も、その絶頂点の時期に内部的な亀裂にみまわれた。ノガイの陣営のなかで、戦勝の分け前をめぐって、ノガイとその三人の息子たちジェケ、テケ、トゥライと、その他のノガイ派のエミールたちのあいだで紛争が起り、多くのエミールおよび3万の騎兵がトフタ側に寝返ったのである。

  この機をとらえて、トフタ汗は再度、ノガイに対する戦いを起した。この第二次会戦は1299年/1300年にクカンリイク−−ポルターヴァ県のカガムリイク川−−で起り、今度はトフタ側が勝利を収めた。ノガイはあるロシア人の兵士に殺されたという。

  ノガイの死後、息子たちはノガイの所領を守ろうとしたが、二人の息子ジェケとテケのあいだに後継者争いが起り、テケはジェケに殺された。ジェケは、残存のノガイ軍とともに、最初はモルダヴィアに、ついでブルガリアに入った。前ブルガリア皇帝ゲオルク・テルテルはキプチャク汗ではなく、ノガイを宗主とみなしており、ジェケに自分の娘を嫁がしていたし、現ブルガリア皇帝スミレスもノガイにまったく依存していたという事情があったためである。このように、ブルガリアで強い影響力をもっていたノガイ一族のジェケは、1298年にブルガリア皇帝スミレスが死ぬと、前帝テルテルの皇子スヴェトスラフの承諾をえて、ブルガリア皇帝になった。だが、これもつかのまのことで、トフタ汗からの攻撃を恐れたスヴェトスラフは、ジェケを裏切り、彼を投獄、殺害して、自らが皇位についた。

  ノガイの三人の息子のうち、残ったトゥライはトフタ汗の代理として旧ノガイ領に任命されたサライブガと協力して、1301年/1302年、トフタに対する反乱を計画していた。トフタの弟であったサライブガは兄をしりぞけて、汗位につこうとする野心をもっていたのであろう。だが、この計画は事前に露見し、トゥライとサライブガはトフタの軍に殺された。

  こうしてノガイ一族は滅んだ。トフタ汗は旧ノガイ領を二人の息子トゥクルブガとイリ・バザールに分け与えた。メング・チムール汗の時代から独立王国と化していたノガイの王国すなわちバトゥのウルスの右翼はふたたび、キプチャク汗トフタの支配下に入ったのである。

  汗国の再統一を達成したトフタは1310年/11年、汗国の幣制改革を実施した。これ以前には、キプチャク汗国の様々な経済活動地域(クリミア、ヴォルガ・ブルガリア、ヴォルガ川下流地域)では、外形も雑多で、重さも市価もまちまちの独自の貨幣が流通していた。トフタ汗の弊制改革は規定の重量基準にしたがって鋳造されたサライのディルヘムを導入した。この結果、汗国経済おいて、貨幣の鋳造センターとしてのサライの地位は高まり、同時に、サライのキプチャク汗の中央権力も強化された。

  宗主国たるキプチャク汗国に、汗とノガイという二つの政治的中心が並立していたことは、公位や所領の獲得をめざして互いに抗争していたロシア諸公の関係にも強い影響を及ぼした。

  1276年に大公ヴァシーリイ・ヤロスラヴィチが死ぬと、大公位はアレクサーンドル・ネフスキイの息子ドミートリイ・アレクサンドロヴィチの手に移った。ところが、このドミートリイは、ノーヴゴロトなどに勢力を拡大することに夢中のあまり、宗主たるキプチャク汗の好意をえることをおこたっていた。一方、彼の弟アンドレーイ・アレクサンドロヴィチは、当時のメング・チムール汗に忠勤をはげんでいた。彼は、1277年にメング・チムールがカフカース遠征を企てると、ロストーフ公ボリース・ヴァシリコヴィチ、ベローゼル公グレープ・ヴァシリコヴィチ、ヤロスラーフ公フョードル・ロスチスラヴィチとともに、手勢を率いて汗国の遠征軍に参加した。

  1281年にメング・チムール汗が死に、トゥダ・メングが新しい汗になると、ドミートリイがノーヴゴロドとの紛争に忙殺されているあいだに、アンドレーイは大公位のヤルリイクを求めて、すぐさま汗国におもむいた。この結果、トゥダ・メング汗は、以前から汗国に忠勤をはけんでいたアンドレーイに大公位を与えた。アンドレーイは、カフガデイ、アルチェダイの率いる汗国軍とともに帰国し、ペレヤスラーヴリにいたドミートリイを攻撃した。

  宗主であるキプチャク汗がアンドレーイを大公に指名したのであるから、以前ならば、ドミートリイはこの決定に服するほかなかった。しかし、前述したように、この当時、汗国には、もう一人の実力者ノガイがいたために、ドミートリイはこのノガイの保護を求めた。ノガイとしても、汗と対抗するために、ロシアへの支配権をドミートリイを介して確保しようとしていた。このような情勢に対応して、ロシアの諸公も、ノガイ=ドミートリイ派と、汗=アンドレーイ派に分かれた。トヴェーリ公ミハイール、モスクワ公ダニイールは前者に、ロストーフ公ボリース、ベローゼル公グレープ、ヤロスラーフ公フョードルは後者に組していた。

  1283年、今度はドミートリイがノガイの援兵とともにロシアに帰国してきた。アンドレーイは彼と和解せざるをえず、大公位を譲った。しかし、アンドレーイは再度汗国軍の支援をえて、ドミートリイを1285年に攻撃した。ドミートリイは、ノガイ軍とともに、さらに、トヴェーリ公ミハイール、モスクワ公ダニイールといった同盟諸公と協力してアンドレーイを撃破した。

  このように、トゥダ・メング汗、トレボガ汗時代の北東ロシアでは、キプチャク汗ではなく、ノガイの支援を受けたドミートリイが、中断期間はあるにせよ、大公位を確保し続けた(通常、ロシアの年代記はドミートリイの在位を1276−82年、1284−93年、アンドレーイの在位を1282−84年、1293−1304年としている)。しかしトフタが汗位につき、ノガイとの亀裂を深めていくと、情勢は変っていく。汗国の再統一を目指していたトフタ汗は、汗国の属領であるロシアにおいてノガイ派のドミートリイが大公位についており、自分の権勢がこの地に及ばないことに不満であったからである。トフタ汗は、ドミートリイのライバルであったアンドレーイを大公として承認し、汗派のロシア諸公にてこいれするために、自分の弟トゥダンの率いる汗国軍を北東ロシアに派遣した。この懲罰遠征軍は、ウラヂーミル、モスクワ、コロームナその他の諸市を略奪したために、大公ドミートリイはプスコーフに逃亡せざるをえなくなった。

  キプチャク汗国に汗とノガイという二つの政治センターが存在し、互いに覇を競ったことは、北東ロシアに対する汗国の支配を弱めた。すでにメング・チムール汗の時代には、前述したように、イスラム商人による徴税の請負い制度は廃止されていたが、トゥダ・メング、トレボガ、トフタの治世になると、イスラム商人の代りに正規に任命された汗国の徴税官さえも姿を消し、ロシアの諸公が自ら徴税にあたるようになった。ノガイ派のドミートリイは、自分で徴税して、これをノガイのもとに送っているし、のちにウラヂーミル大公となったトヴェーリのミハイールも、やはり自分で徴税してこれを汗国に送っている。互いに抗争する汗とノガイは、ロシアの諸公を味方とするために(ノガイがロシア人の兵士に殺されたことからも判るように、ロシアの諸公の手勢も一定の戦力となっていたのである)、彼らに徴税権という特典を与えたのである。

  ノガイをとりのぞいて汗国の再統一の達成をめざしたトフタは、汗国の二重権力時代にたがの緩んだロシア支配をも再建しようとした。

  1293−94年のトゥダンの率いる汗国軍の北東ロシア遠征の結果、ノガイ・ドミートリイ派の諸公は、トフタ汗の決定に服せざるをえず、1294年には、北東ロシアの全諸公がアンドレーイをウラヂーミル大公として承認することとなった。だが、この時点では、ノガイはまだ実力者として存在しており、トフタ汗の権勢がノガイ派の諸公を完全に屈服させていたわけではなかったから、依然として、情勢は不安定なままであった。トフタ汗はノガイに対する攻撃を準備するにあたって、ロシアの政治情勢を安定させておく必要に迫られ、汗使ネヴルイを派遣して、1297年に、彼のもとで、ウラヂーミルでロシア諸公会議を開かせた。この会議では汗使の臨席にもかかわらず、諸公は斬りあいをはじめそうになったが、ウラヂーミルの主教シメオンとサライの主教イズマイロの仲裁によって、流血にはいたらなかった。彼らは一旦は事態を収拾して散会した。

  だが、ロシア諸公間の紛争は、このウラヂーミルでの諸公会議によっても収まらなかった。大公アンドレーイが、会議での調停事項を守らず、ライバルであった前大公ドミートリイの息子イヴァーン・ドミトリエヴィチの所領であるペレヤスラーヴリを奪おうと、軍をさし向けたからである。アンドレーイ軍の進撃は、ウラヂーミルとペレヤスラーヴリの中間にあるユリエフでドミートリイ派であったモスクワ公ダニイールとトヴェーリ公ミハイールの軍に阻まれたが、このペレヤスラーヴリ問題を討議するために、1301年にドミトロフで諸公会議が再度開かれた。大公アンドレーイ、トヴェーリ公ミハイール、モスクワ公ダニイール、それにペレヤスラーヴリのイヴァーンが参加した。アンドレーイとミハイールが手を組んで、ダニイールとイヴァーンに対抗した。ミハイールもアンドレーイと同じくペレヤスラーヴリに何らかの権益を要求していたのに対して、イヴァーンはむしろモスクワ公ダニイールに好意的であったからである(事実、イヴァーンの死後、ペレヤスラーヴリはダニイールに帰属した)。

  このドミトロフでの諸公会議以後、それまで北東ロシアでは目立った存在ではなかったモスクワ公国が、めざましい領土的拡大をとげた。モスクワ公ダニイールはほんの数年間で、コロームナ、ペレヤスラーヴリ、モジャイスクを併合したのである。コロームナはモスクワ市の南東に、ペレヤスラーヴリは北東に、モジャイスクは西に位置していたから、モスクワ公国はモスクワ市を中心として、四方に拡大し、ロシア中央部の要衝を抑えることになった。

  大公アンドレーイは、このようなモスクワの急速な拡大に不満を抱き、1303年、汗国におもむいて、ダニイールの所業についてトフタに苦情を申したてた。すると、トフタ汗は、1304年、ペレヤスラーヴリに諸公会議を招集させた。大公アンドレーイ、トヴェーリ公ミハイール、モスクワ公ユーリイ(ダニイールの長男、ダニイールはこの直前に死んでいた )に加えて、トフタの使者と主教マキシムが参加した。この会議では、紛争の中止を諸公に呼びかけるトフタ汗のヤルリイクが読まれ、北東ロシアの政治的安定を求めるトフタ汗の強い意志が、諸公に示された。懸案のペレヤスラーヴリは大公アンドレーイにではなく、モスクワ公ユーリイに帰属することが承認された。

  以上の事件からも判るように、トフタ汗は、これまでのキプチャク汗に較べて、かなり精力的にロシアの政治に干渉している。彼は、「全ロシアの長老」の地位をもつウラヂーミル大公位を廃して、すべてのロシアの諸公を直接自分の家臣とし、諸公間の紛争を調停する機関として、汗国の高官を議長とする恒常的な諸公会議を設置するつもりであったという。だが、彼は、この計画を実施するために自らロシアにおもむこうとした途中で、1313年に死んでしまった。

  <汗国の最盛期>

  汗国の再統一に力をつくしたトフタ汗が1313年に死ぬと、汗国では、汗位をめぐる抗争が発生した。トフタ汗はその遺言のなかで、息子のイリバスムイシを後継者に指名しており、伝統的な生活様式を維持しようとする遊牧=非中央集権志向の貴族層によって支持された。一方、イスラム教を信仰し、主として都市の豊かな商人とイスラム聖職者層と結びついていた貴族層は、トフタ汗の弟タグルルの息子、したがってメング・チムールの孫にあたるウズベクを候補者にたてた。後者が勝利を収め、イリバスムイシとその支持派は殺され、ウズベクが汗位についた。

  30年にわたるウズベク汗の治世(1313-1342 )は、キプチャク汗国の最盛期であった。彼はトフタ汗が進めていた汗国の中央集権化を完成した。それまで、ややもすれば離心的な傾向を示していた汗国の諸皇子、エミールたちも彼の権威を十分に認め、諸外国にも彼の威勢は広く伝わっていた。彼の統治時代の半ば1313年に汗国を訪問した旅行家イブン・バトゥータは、「このスルタン(ウズベク汗)は、広大な王国を所有し、強力で権威があり、偉大な人物であり、高い徳をそなえており、アラーの敵すなわち大コンスタンチノープルの住民(ビザンツ帝国)の破壊者であり、彼らとの戦争において、熱心な信仰の戦士である。彼の領地は広大で、都市は大きい。その都市にはカッフア、クリム、マジャール、アゾフ、スダク、ホレズム、彼の首都サライが入っている。彼は、世界でもっとも偉大で権威のある七人の君主のうちの一人である」と記している。また、同時代のシナの地図には、青帳汗国、シャイバンのウルスなど諸ウルスは記されておらず、イルトゥイシ川とシルダリア河口から西のすべての土地が、ウズベク汗の領地とみなされているという。もしも、ウズベク汗がキリスト教を国教としていたならば、リューリク一族ではなく、ウズベクの子孫が東ヨーロッパ・ロシア世界にその後も長く君臨したかもしれない。

  ウズベク汗は汗国の内政の安定に成功したために、積極的な対外政策を実行したものの、さしたる成果をあげることができなかった。

  彼はバルカン方面に軍事的干渉を行ない、1319年には汗国軍をアドリアノープルの近くにまで進出させ、また、1324年にはビザンツ帝国とブルガリアとの紛争に介入して、ブルガリアの新皇帝ゲオルギ2世テルテルを支援した。かねてから、汗国とビザンツ帝国とは、バルカン諸国をめぐって政治的に対立していた。だが、14世紀初頭から小アジアの土地に台頭しつつあったオスマン・トルコの脅威が増大すると、和解へと向った。ビザンツ皇帝アンドロニクス3世(1328-1341) は、自分の娘をウズベク汗に嫁がせている。

  一方、キプチャク汗国とエジプト・マムルーク朝との同盟関係は、ウズベク汗の治世の当初はかなり友好的であった。マムルーク朝のスルタン、アル・マリク=アル・ナシールは、汗国の皇女を自分の妃に迎えることをウズベク汗に申しでていた。かねてからカフカース地方でイル汗国と対立していたウズベク汗は、エジプトとの同盟関係の強化を歓迎し、1320年にはエジプトのスルタンと汗国の皇女トゥルンベイとの結婚が成立した。ところが、両国の関係は、1328年に、パレスチナとシリアへのエジプトの支配権を保証することに基づいて、マムルーク朝とイル汗国とのあいだに講和条約が結ばれてからは冷却していく。イル汗国から脅威をうけなくなったマムルーク朝のスルタンは、イル汗国を共同して攻撃しようというウズベク汗の要請を拒絶した。さらに、スルタンは両国の同盟の象徴であったトゥルンベイと離婚し、自分の部下に嫁がせてしまった。

  <モスクワ、トヴェーリ、リトアニア>

  イル汗国およびエジプト・マムルーク朝との対外関係が不首尾になればなるほど、ウズベク汗の関心は、東方すなわちロシアおよび東ヨーロッパへと向っていった。当時、北東ロシア諸公国の中では、モスクワとトヴェーリが台頭しつつあった。年代記にモスクワがはじめて登場するのは、1147年、トヴェーリは1209年であり、当初はヴラヂーミル・スーズダリ公国の小さな町にすぎなかった。しかし、双方とも、ヴォルガ・オカ水系の交通上の要衝に位置していたために、13世紀後半には、北東ロシアの覇権を競うライバルに成長してきていた。

  トフタ汗のあと押しをえて大公位を確保していたトヴェーリ公アンドレーイが、1304年7月に死ぬと、トヴェーリ公ミハイールは、大公位とペレヤスラーヴリの領有を求めて汗国に赴いた。アンドレーイの兄ドミートリイ、弟ダニーイル、息子のボリースもすでに死んでいたから、ミハイールはアンドレーイの従兄弟たちの中で最年長、すなわち「ヤロスラーフ・フセヴォロトヴィチ一族の最年長者」であったから、大公位は当然彼のものになるはずであった。

  このミハイールの動きに対して、モスクワ公ユーリイも大公位をねらっていた。しかし、「年長順番制」の法則にしたがうと、大公の甥(ユーリイは前大公アンドレーイの甥)は、自分の父が大公よりも先に死んだ場合には(ユーリイの父ダニーイルは、兄であるアンドレーイ大公より先に死んでいる)、自動的に大公位の継承者とはなりえなかったから、ユーリイの立場は不利であった。さらに、ユーリイは汗国に対する金銭工作の面でも、ミハイールに劣っていた。ミハイールは金を惜しまなかったのに対して、ユーリイの方は「もしもっと多くの貢納金を提供すれば、ヤルリイクを得ることができるのだが」と汗国の有力者に忠告されたという。

  当然、ミハイールが1305年に汗からウラヂーミル大公位を認められてロシアに戻ってきた。大公ミハイールは、北東ロシアでの支配権を強化すべく、ノーヴゴロト、ペレヤスラーヴリ、モスクワを自分に服従させようとした。

  ウラヂーミル大公がノーヴゴロト公を兼任するのが古くからの慣習であったから、ミハイールは汗国にたつ前に、自分の代官をノーヴゴロトに派遣し、ここを統制しようとした。しかし、ノーヴコロトの住民はこの代官を追放してしまい、トヴェーリと戦争状態に入った。この紛争は講和条約をもって終了したのであるが、ノーヴゴロトはこれ以降もしばしばトヴェーリに反抗し、その際トヴェーリのライバルであるモスクワに肩入れするようになっていく。

  ペレヤスラーヴリは、前大公アンドレーイの時代から、トヴェーリやモスクワがその獲得をめざしていた懸案の土地であった。この当時は、モスクワ公ユーリイが支配していたが、ミハイールはここにトヴェーリ軍を送った。しかし、ペレヤスラーヴリの諸公はすでに確固としてモスクワを支持しており、トヴェーリ軍は敗北した。

  さらに、ミハイールは1304年にモスクワに対して軍を送ったが、それも不首尾に終り、ユーリイと和解して、トヴェーリにひきあげざるをえなかった。

  以上のように、大公ミハイールは、ライバルであるモスクワ公ユーリイを打倒することに失敗しただけではなく、北東ロシアにおける政治的支配権の確立にも成功せず、困難な状況におかれた。

  一方、モスクワ公ユーリイはむしろ着実に成功を収めていた。すでにユーリイの父ダニーイルは1301年にリャザーンに軍を進めて、リャザーン公コンスタンチン・ロマノヴィチを捕虜としていた。モスクワとリャザーンの紛争の原因は、モスクワがリャザーン公国の町であるコロームナを奪おうとしていたことである。事の非はモスクワにあったのであるが、ユーリイは1306年にコンスタンチンの殺害を命じ、実力でコロームナを奪取してしまった。このようなユーリイの膨張政策を汗国側は支持していたようである。1306年には、タイルの率いる汗国軍が、ユーリイを支援するために北東ロシアに派遣されている。ユーリイの攻撃を受けたリャザーン公コンスタンチンの息子ヴァシーリイは、1308年に汗国に赴いて、ユーリイの無法な行動についてトフタ汗に直訴した。しかし、トフタ汗はヴァシーリイの訴えを聞きいれるところか、逆に彼をサライで殺し、汗国軍をリャザーンに派遣した。汗国は、トヴェーリ公ミハイールに大公位を与えていたものの、ミハイールの勢力がとびぬけて強大になることを阻止するために、モスクワ公ユーリイに肩入れすることで北東ロシア諸公国のあいだの政治的均衡を保とうとしたのである。

  ウズベクが新しいキプチャク汗となると、大公ミハイールは、ヤルリイクを更新するために、汗国に赴いた。当初、ミハイールはウズベク汗の好意を得ていたようである。彼はヤルリイクの更新を認められただけではなく、ノーヴゴロトの反抗を鎮圧するために、汗国軍の援兵を得ており、さらにモスクワ公ユーリイを北東ロシアの政治的舞台から引き離して、汗国に召喚させることに成功しているからである。

  ユーリイは、ミハイールが汗国軍の協力を得てノーヴゴロトへの支配権を確立している間、何年間も汗国に留めおかれた。だが、ユーリイはこの機会を利用して、汗国の宮廷にとりいり、ウズベク汗の好意を獲得した。ウズベク汗はユーリイに自分の娘コンチャカを嫁がせ、ウラヂミール大公位も与えた。1317年、ユーリイは、カフガディ、アストラヴィルというニ人の汗国の使者および汗国軍を伴って、北東ロシアに帰還した。

  これに対して、ミハイールは、スーズダリ諸公の協力をとりつけて、コストロマーに進撃したが、汗使カフガディからウズベク汗の意向を知らされると、不本意ながら、ユーリイに大公位を譲った。キブチャク汗の権威は北東ロシアの諸公たちのあいだで、きわめて高く、ユーリイがウズベク汗の好意を勝ちえていることを知ると、スーズダリ諸公も、ミハイールからユーリイの側に寝返ってしまった。優位な立場にたったユーリイは、モスクワ軍、スーズダリ諸公軍、それにカフガディの汗国軍とともにトヴェーリに進撃した。カフガディの計画によれば、北西からノーヴコロト軍が、南からユーリイ軍がトヴェーリに向うというものであった。しかし、ノーヴゴロト軍はユーリイ軍と合流する前に、ミハイールと単独講和を結んでしまったので、1317年12月2日、ユーリイ軍だけが、トヴェーリ郊外のボルテネヴォでトヴェーリ軍と遭遇した。この戦いで、ユーリイ軍は敗北し、彼の妻コンチャカと弟ボリースはミハイールの捕虜となってしまった。

  ミハイールは、この戦いで汗国との全面的な対立を回避するために、カフガディの汗国軍との衝突を意識的に避け、カフガディとの交渉に入った。ミハイールは汗使カフガディを丁重に扱い、汗国に対しては敵意を抱いていないことを釈明したようである。一方、カフガディは、汗の承認なくしては大公位につくことはできないこと、ユーリイと和解することを勧告した。ユーリイに加担していたカフガディは、汗の権威をもって、勝者ミハイールが敗者ユーリイをこれ以上攻撃することを抑止すると同時に、両者にウズベク汗の裁定を求めることを勧めた。

  ミハイールとユーリイはこの裁定を求めて汗国に赴いた。ところが、ユーリイとカフガディはミハイールよりも早く到着して、ウズベク汗に反ミハイール工作を行なっていた。このために、遅れて到着したミハイールは、汗の裁定をあおぐどころか、汗国への貢納金を支払わなかった点、汗使カフガディに反抗した点、ユーリイの妻でありウズベク汗の妹であったコンチャカを殺害した点の3つの罪状で糾弾されてしまった。ミハイールは、逐一反論したものの、すでにユーリイとカフガディの工作が効を奏しており、1318年に処刑されてしまった。

  ミハイールの処刑で終る14世紀初頭の北東ロシアにおける紛争の経緯は、以下のことを明かにしている。まず、北東ロシアの諸公は、単に軍事的・経済的に強力になっただけでは、ウラヂーミル大公として、他の諸公に対して政治的支配権を行使することはできなかった。トヴェーリ公ミハイールは、明かにユーリイをはじめとする他の諸公よりも軍事的に優勢であったにもかかわらず、汗の支持を得ることができずに失脚してしまった。汗の支持を得るには、第一に、汗の意志の忠実な執行者となること、第二に、金銭その他の物質的な手段を使って、汗とその周辺の役人にとりいることが必要であった。しかし、汗国は、単に自分の「お気にいり」をウラヂミール大公位につけていたわけではない。最後には処刑されてしまったミハイールも、当初はトフタ汗、ウズベク汗の好意をえていたのである。問題は、このミハイールが北東ロシアの諸公の中であまりにも強くなりすぎたことにあった。「分割して統治せよ」という原則にもとづいてロシアを支配していた汗国は、北東ロシア諸公国のいずれか一国が強力になって、従来の「分領制的な分裂」という意味での「政治的均衡」を破壊し、ひいては統一したロシアが出現してくることを危惧していたのである。だから、ミハイールが、抵抗に遭遇したとはいえノーヴゴロトをある程度掌握し、スーズダリ諸公から大公として承認されると、汗国は モスクワ公ユーリイの側に加担して、軍事的干渉を行ない(カフガディの派遣)、この干渉さえも失敗すると(ボルテネヴォの戦い)、ミハイールの 殺害という非常手段にうったえたのである。つまり、ミハイールの罪状は、 先の3点ではなく、「彼が強くなりすぎた」ことにあったのである。さらに、ミハイールが西方の強国リトアニアと結びつこうとしていたことも、汗国がミハイールの忠誠を疑うのに十分な材料であった。後述するように、リトアニアの台頭は、汗国とロシアの関係、汗国の対ロシア政策に重大な影響を及ぼすのである。

  ミハイールの処刑後、当初緊張していたモスクワとトヴェーリの関係は、次第に和解へと向かった。1319年には、ロストーフ主教プロホルの仲介で和解が成立し、翌年にはミハイールの三男コンスタンチンがユーリイの娘ソフィアと結婚している。

  だが、モスクワ、トヴェーリ両公国の和解は、分割統治を原則とする汗国にとっては、好ましい事態ではなかったようである。ウズベク汗は両公国を意識的に対立させようとし、1321年には、ガヤンチャルの率いる汗国軍をトヴェーリ公国の町カシンに派遣した。このガヤンチャルの任務はカシンを攻撃することだけではなく、ユーリイにトヴェーリへの進撃を命じることでもあったというから、ウズベク汗の意図は、和解していた両公国を再度敵対させようとしたことにあったのである。ユーリイ軍とトヴェーリのドミートリイ(ミハイールの長男)の軍は衝突しそうになったが、戦闘にまではいたらず、ドミートリイは大公位への野心を示さないこと、カシンあるいはトヴェーリから汗国への貢納金として2000銀ルーブリをユーリイに渡すことという条件で和解した。

  ユーリイはドミートリイと和解すると、汗国への貢納金である2000銀ルーブリを汗国に手渡そうとするのではなくノーヴゴロトに向い、ここに長期間滞在した。トヴェーリ公ドミートリイは、この機会を利用して、汗国に赴き、ウズベク汗に貢納金の着服の件などでユーリイのことを中傷し、大公位を獲得した。一方ユーリイも、1325年に汗国を訪れたが、ドミートリイによって殺害されてしまった。この行為が、汗の承認のもとになされたのか、それとも汗の暗黙の同意があったのかは判然としていないが、当のドミートリイも汗の承認のもとに処刑された。

  ドミートリイの処刑後、大公位は、彼の弟アレクサーンドルの手に渡った。だが、ウズベク汗が再度トヴェーリ公に大公位を認めたのは、策略を使ってトヴェーリ公国を破壊するためであった。ウズベク汗は、トヴェーリ公に大公位を与えたにもかかわらず、トヴェーリに対して挑発的な態度をとり、自分の従兄弟チョルハン(シェルカンあるいはシェフカル)の率いる汗国軍を、トヴェーリに派遣したのである。チョルハンの汗国軍は、トヴェーリ市を占領し、トヴェーリ市民をかなり意図的に挑発・虐待した。はたして、トヴェーリ市民はこの挑発にのり、チョルハンおよびヴォルガ・ブルガリア地方からやってきた商人を殺害した。これが、1327年のトヴェーリ反乱である。

  このトヴェーリ反乱に際して、北東ロシアの政治の舞台に華々しく登場してきたのがモスクワ公イヴァーン・ダニロヴィチ(カリター)であった。彼は、兄ユーリイの死後モスクワ公国を相続しており、ライバルであるトヴェーリの反乱という好機をとらえて、早速汗国に赴いた。そして、5人の万戸長の率いる強力な汗国軍とともにロシアに帰還し、トヴェーリ、カシン、トルジョークなどを懲罰したのである。トヴェーリ公かつウラヂミール大公であったアレクサーンドルは、ノーヴゴロトついでプスコーフに逃亡した。その弟コンスタンチンとヴァシーリイもラードガに身をかくした。こうして、このトヴェーリ反乱を契機として、トヴェーリのミハイール一族は、北東ロシアの政治の舞台から追放されたのである。

  多くの年代記は、イヴァーン・カリターが大公位についた年代を、トヴェー リ反乱の翌年の1328年としている。イヴァーン自身も、汗国軍とともに率先してトヴェーリ反乱を鎮圧したわけであるから、すぐさま自分がアレクサーンドルにかわって大公位につくことができると期待していたことであろう。だが、ウズベク汗はヴラヂーミル大公国をこのイヴァーンとスーズダリ公アレクサーンドル・ヴァシリエヴィチのあいだで分割した。ウズベク汗は、統一のセンターとなる可能性をもつ強力な公が北東ロシアに登場することを防止するという従来の汗国の対ロシア政策にしたがって、トヴェーリ没落後最強者であるモスクワの対抗馬として、スーズダリ公アレクサーンドルに着目したのである。この結果、1328年から1331年の3 年間、ウラヂミール大公国は、スーズダリ公アレクサーンドルとモスクワ公イヴァーンのあいだで分割された。前者が、首都ウラヂーミルを含む大公国の東部、後者が、大公国の北部と西部への支配権を与えられた。

  だが、この時代に、汗国の伝統的な対ロシア政策は転換を余儀なくされた。13世紀初頭にミンダウカスのもとで国家的統一を達成したリトアニアが、14世紀前半のゲディミナス(ゲヂミン)の時代に、東ヨーロッパの大国に成長して、汗国の属領たるロシア方面に影響力を拡大しはじめてきたからである。たとえば、1325年頃、ゲディミナスの遠征によって、キーエフから汗国の勢力は追放され、彼の弟フョードルがキーエフの代官となっている。このリトアニアの台頭という脅威に直面して、汗国がとった政策は、モスクワ公イヴァーンにてこ入れして、リトアニアの膨脹を阻止することであった。すなわち、汗国の対ロシア政策は、たんに北東ロシア諸国の動向だけではなく、東ヨーロッパ全体の政治的力関係を考慮して立案されなくてはならなくなったのである。

  このような汗国の対ロシア政策の転換の結果、1331年に大公アレクサーンドルが死ぬとすぐに汗国を訪れたイヴァーン・カリターは、すんなりと大公位を手にいれた。イヴァーンは、汗国への貢税を納め、対外的には汗国に従属し、リトアニアと対抗しているかぎり、内政面では、モスクワ公国を強化したとしても、かつてのような汗国からの軍事的干渉にあうことはなくなった。年代記が、「このときから40年間、全ルーシの国土に平安が訪れ、タタール人がルーシの国土を略奪することは止んだ」と記しているのは、このことを指している。

  イヴァーン・カリターがリトアニアの膨脹に対抗する汗国の先兵として行動した事例の一つに、1339年のスモレーンスク侵攻がある。

  13世紀には独立公国と成っていたスモレーンスクは、その交易ルートの大半がリトアニアを通っていることからも判るように、地理的にも商業的にもリトアニアの影響を被らざるをえなかった。1340年にスモレーンスクがドイツ人と結んだ条約の中で、スモレーンスク公イヴァーン・アレクサンドロヴィチはリトアニア大公ゲディミナスのことを「私の兄」と呼んでいる(事実、15世紀には、スモレーンスクはリトアニア大公国に帰属する)。

  1333年、汗国軍とブリャーンスク公ドミートリイの軍が、スモレーンスクに侵攻した。これは、ロシアへの膨脹をはかるリトアニア大公ゲディミナスに対する汗国の警告であった。

  ウズベク汗は、1339年冬に再度スモレーンスク侵攻を企てた。彼は、汗使トヴルビを派遣して、イヴァーン・カリターをはじめとして、モスクワ、リャザーン、スーズダリ、ロストーフ、ユリエーフの諸公にスモレーンスク攻撃を命じた。「イヴァーン・コロトボルが、トヴルビその他のタタール人とともにやってきた。大公イヴァーン・ダニロヴィチは、ツァーリの命令にしたがって、彼らとともに自分の軍ならびに自分の軍司令官アレクサーンドル・イヴァノーフ、フョードル・オキノヴィチをスモレーンスクに派遣した。また、以下の諸公も、タタール軍とともに、ツァーリの命令にしたがって、スモレーンスクに向った。スーズダリ公コンスタンチン・ヴァシリエヴィチ、ロストーフ公コンスタンチン・ボリソヴィチ、ユリエーフ公イヴァーン・ヤロスラヴィチ・・・・・」(『ニコン年代記』)。「ツァーリ(ウズベク汗)の命令にしたがって」とあるように、ウズベク汗の大号令のもと、きわめて大規模なロシア諸公軍が動員されたわけである。

  このように、イヴァーン・カリターは外交面では、リトアニアに対する汗国の先兵として使用されたのであるが、内政面では、汗の意志の忠実なる執行者であり、汗国への貢納金を確実に納めているかぎり、かなりの自由を享受することができた。これに対応して、汗国のロシア統治政策にも変化が生じた。貢税の徴収・軍の徴募・情報収集・諸公の監督を任務としていたバスカクは、ロシア各地の主要都市から召還された。代わって、汗国内で執務をとるダルガチが、ロシアの統治を担当し、問題が生じた場合には、汗使としてポソールがロシア諸公に派遣されたのである。

  <汗国の分裂>

  キプチャク汗国の最強の汗の一人ウズベク汗は1342年に死んだ。彼には三人の息子がいたが、後継汗位をめぐって、2人の息子ティニベクとジャニベクが対立した。二人の後継者のうちティニベクは宮廷内の陰謀によって殺されたか、ジャニベクとの戦闘で敗死した。当時、この汗国の権力闘争の帰趨を左右していたのは、キプチャク汗国の国家制度が整備・強化されていくにしたがって、国家行政の重要部門を担当する有力な官僚層に成長していたモンゴル人貴族上層部(エミール)の動きであった。アラブ側史料に「このスルタン・ウズベクは自分の国の事業のうち、その本質に関心をむけ、ことの詳細にはたち入らない。そして、報告されたことに満足し、税収と歳出について明細を知ろうとはしない」とあるように、汗の背後に、多くの行政官僚が成長してきていたのである。汗位につくには、まず彼らの支持が必要だったのであり、彼らの支持を得て汗位についたジャニベク汗は、まず彼らの意向を尊重しなくてはならなかった。

  ペルシアのイル汗国は、第7代ガザン汗の治世に、その黄金時代を迎えた。だが、第9代アブ・サイド汗が1335年に没し、イル汗国の宗主フラグの家系が断絶すると、諸勢力が分立・抗争するようになり、汗国の国勢は急速に弱まっていた。こうしたイル汗国の混乱に乗じて、ジャニベク汗は、キブチャク汗国の積年の課題であったカフカース地方における汗国支配の再興に着手しようとした。ジャニベク汗は、約30万の大軍を率いて、1357年春、テレク川を越えて、アゼルバイジャン地方に侵入した。イル汗国の支配者メリク・アシレフは緒戦で敗北し、捕虜となって処刑された。ジャニベク汗は、イル汗国全体を征服する意図をもっていたが、この当時汗国において、ペストが流行していたために、征服地の支配権を息子のベルヂベクに譲り、突然帰国していった。征服事業を中断させたペストは、シナかインドからキャラバン交易ルートにそって、まずホレズム地方に侵入してきたものであり、1346年には、クリミアを襲って、85000名の死者をだした。この14世紀中頃のペストの大流行は、キプチャク汗国を内部から弱体化させていった。

  一方、キプチャク汗国と北東ロシアの西に目を転じれば、リトアニアとポーランドが強国として台頭しつつあった。すでにウズベク汗の時代に、大公ゲディミナスのもとで東ヨーロッパの強国に成長していたリトアニアは、ジャニベク汗の時代には、汗国にとって、ますます脅威となっていた。リトアニア大公アルギルダス(オリゲルド)は、汗国にたいして、守勢から攻勢に転じ、汗国の支配下にあった南西ロシアの諸市を占領した。リトアニアは、汗国のロシア支配を直接に脅かす存在に成長したのである。また、ポーランド王カジミェシ3世は、ジャニベク汗がクリミアのヴェネツィァ人、ジェノヴァ人との紛争によって困難な状況におちいっていたのを利用して、南西ロシアに進出し、1349年には、ベルス、ブレスチェフ、ウラヂーミル・ヴォルインスクを占領した

  このように、ジャニベク汗治世下のキブチャク汗国は、もはや、バトゥ、ベルケ、トフタ、ウズベクの各汗の時代のような、東ヨーロッパに君臨する威勢は失いつつあった。かつて、バトゥの大軍に席捲された東ヨーロッパ諸国は、いまだ本格的ではないとしても、汗国に対して攻撃的姿勢をとるようになってきていた。つまり、東ヨーロッパの国際政治の舞台では、汗国は、もはや覇者ではなく、リトアニアやポーランドなどとならぶ、一つの強国にすぎなくなったのである。こうした、汗国の地位の低下をさらに促進したのが、ジャニベク汗死後の大混乱時代であった。 

  ジャニベク汗は、アゼルバイジャン遠征から帰国すると1357年5月家臣によって殺され、息子のベルヂベクが汗位についた。ベルヂベクは自分のライバルとなる可能性をもつ兄弟たちを殺して、権力紛争を収拾しようとしたが、やはり1359年に殺されてしまい、以後、汗国は、汗国最後の英主トフタムイシが1380年に即位するまで、大混乱時代に入る。わずか、20年間のあいだに25名ほどの汗が登場したのである。この時期のキプチャク汗を年表的に整理すると以下のとおりである。

        統一国家時代

   クリパ:1359年秋一1360年2月

   ノヴルス:1360年

   ヒジル:1360年春一1361年

   チムール・ホジャ:1361年

 ママーイが反乱を起し、アブドラフを汗とする:1361年

   オルドメリク:1361年

   キルヂベク:1361年

 ママーイがヴオルガ以西の地域を占領し、キプチャク汗国はサライ政権とママーイ政権に分裂する。

   サライ政権             ママーイ政権

ミュリト:1361-1363年      アブドラフ:1361−69

ハイル・ブラト:1363年

アブドラフ:(ママーイが短期間

サラィを占領したため)

ブラト・ホジャ:1364年

アジス・シェイフ:1364-1367年

アブドラフ(再度ママーイがサラ

イを占領したため)

ブラト・チムール:1367年

ジャニベク2世:1367年

ハサン:イスラム暦771年     ムハメッド・ブラク:1369-75

        (1369一1370)

トゥルンベク・ハトゥン:同773年

        (1371-1372)

???

カガンベク:同777年(1375−1376)

ジャニベク3世:同777年

アラブシャフ:1377年

ウルス:1377年

                 トゥルンベク:1375-1380

トフタムイシ:1380年以降


 ローマ帝国の「軍人皇帝時代」にも比すべきこの時代に、汗国の国勢は急速に低下していった。第一に、サライのキプチャク汗の権威はその全版図にはいきわたらなくなった。たとえば、1360年に汗位についたノヴルスはその本拠地をヴォルガ川流域においており、ロシアの年代記では「ヴォルガのツァーリ」と呼ばれている。また第二のノガイともいえるママーイは、ヴォルガ以西の地域を支配下におき、サライの汗とは別の汗(アブドラフ、ムハメッド・ブラク、トゥルンベク)を「政治的あやつり人形」としてたてていたから、正式の汗の権威はこの地域には及ばなくなっていた。

  第二に、それまでキプチャク汗国の汗位についたのは、バトゥ家の血筋をひく王侯だけであったのが、この混乱時代には、はじめてバトゥの兄弟オルダ・イチェン家(青帳汗国)の血筋から汗位につく者が登場するようになった。たとえば、ヒジル汗は、青帳汗国の支配者シニブカの息子であった。このことは、ジュチ・ウルスの右翼(バトゥのウルス、狭義のキプチャク汗国)の汗やエミールたちが、相互の抗争のために、もはや汗国の有力な政治的中心たりえなくなったことを意味している。のちに、汗国を再統一することになるトフタムイシ汗も、このオルダ・イチェン家出身の汗であったのである。

  以上のような汗国の混乱時代には、汗の権威が地域的に限定され、しかも、同時に二人の汗が登場したりしたために、サライの中央権力の威勢は地におちていた。かねてから分離主義的な傾向を示しつつあった地方の有力エミールたちは、こうした事態を利用して、サライから独立した公国を形成するようになっていた。

  その一つは、ブルガール地方で活躍していたブラート・チムールが1361年にブルガール地方とヴォルガ川東岸地方に独自の支配圏を設定したブラート・チムール公国である。また、ヴォルガ西岸には、やはり汗国の公タガイがリャザーンの東、タムボーフの北に位置するナロフチャトを中心に独立公国をうちたてていた。有力なエミールたちがサライの支配を脱して、独立公国を形成するという傾向は、この二つの公国だけのことではなかった。アラブ側の史料によれば、「やはり、若干の(その他の)モンゴル人エミールがおり、彼らはサライ周辺地域の領地の統治をわかちあっていた。彼らは互いに反目しており、自分の所領を独立して支配していた。こうして、ハジ・チェルケスはアーストラハンの周辺地域を、ウルス汗も自己の分封地を領有し、またアイベク汗も同様であった。彼らすべては行軍のエミール(左翼のエミール)と呼ばれていた。ベルヂベクが死に、(最高)権力がなくなると、これらの(エミール)が地方において独立して支配した」という。さらに、ホレズム地方もキプチャク汗国から分離し、そこにイスラム教神秘主義派=スーフィ派の政権が生まれた。

  <汗国の動乱とロシア>

 汗国の混乱時代の初期、正確に言えばベルヂベク汗の死後からチムール・ホジャ汗の治世(1361)まで、北東ロシアに対する汗国の支配は、汗国宮廷での内紛にもかかわらず動揺せず、ロシア諸公はクリパ、ノヴルス、ヒジルの各汗の即位にあたっても旧来どおりサライ詣でをしている。汗国のロシア支配が動揺するためには、キプチャク汗国の分裂という激変が必要であったのである。

 この激変は、汗国の有力なエミールであるママーイがサライから独立して、ヴォルガ以西の地域を支配するようになったことでもたらされた。ママーイは、混乱時代以前から汗国の最有力エミールであったが、ついにサライの汗とは別個の自分の汗を擁立し、汗国を二分したのである。

 北東ロシアでは、ウラヂーミル大公位は、イヴァーン・カリターの死後も、セミョー ン・イヴァノヴィチ(1341−53)、イヴァーン・イヴァノヴィチ(1353−59)というようにモスクワ大公家に継承されていた。ところが、1360年、クリパ汗を殺害して汗位についたノヴルス汗は、前大公イヴァーン・イヴァノヴィチの息子ドミートリイ・イヴァノヴィチ(のちのドンスコイ)ではなく、スーズダリ公ドミートリイ・コンスタンチノヴィチに大公位のヤルリイクを与えた。年代記も「この任命は父祖の土地の制度、先祖からの土地の制度にそっていない」と記しており、さらに、この当時すでにウラヂーミル大公位はモスクワ大公家の「世襲的財産」と考えられつつあったのだから、スーズダリ公をウラヂーミル大公に任命したことは異例のことであった。しかし、サライの宮廷では内紛が続いていたとはいえ、ロシア諸公のあいだでの汗の権威はまだ高く、不満を抱いていたと思われるドミートリイ・イヴァノヴィチも承服するほかはなかった。さらに、その他のロシア諸公も「本領安堵」を求めて、ノヴルス汗の宗主権を承認した。したがって、この時点では、ロシアに対する汗国の支配体制はいまだ揺らいではいなかった。

  ところが、1361年に汗国が分裂して、汗国東半部を支配するサライ政権と、西半部を支配するママーイ政権が互いに抗争するようになると、この事態は北東ロシアの政治的関係に強く作用した。ママーイ(名目上はアブドラフ汗)は、サライ政権がスーズダリのドミーイトリイ・コンスタンチノヴィチをヴラヂーミル大公位につけていたのに対抗して、モスクワのドミートリイ・イヴァノヴィチに大公位を与えたのである。北東ロシアは地理的にママーイ政権の勢力圏に近く、ママーイの意向の方が現実的な威力をもっていたために、モスクワ公ドミートリイは、軍勢とともにスーズダリ公ドミートリイを攻め、彼をウラヂーミルから追放してしまった。

 サライ政権側は、なおもスーズダリ公ドミートリイにてこいれしようとして、1364年、使者を介して、彼に大公位のヤルリイクをおくった。だが、すでにモスクワ公国が強力になりつつあること、サライ政権が北東ロシアに対しては現実的な力をもっていないことを自覚していたスーズダリ公ドミートリイは、大公位の受諾を拒否した。これを契機に、それまで大公位をめぐって争っていた両ドミートリイ、およびモスクワ公国とスーズダリ・ニジェゴロト公国は和解へと向い、1366年には、モスクワ公ドミートリイが、スーズダリ公ドミートリイの娘エヴドキアを妻とし、両公国のきずなが深められた。

 こうしてモスクワ公ドミートリイはウラヂーミル大公位を確保したものの、今度はドヴェーリ公ミハイール・アレクサンドロヴィチの挑戦を受けねばならなかった。紛争の直接的な原因は、トヴェーリ公ミハイールと、その伯父ヴァシーリイ・ミハイロヴィチ、従兄弟エレミア・コンスタンチノヴィチとの紛争にドミートリイが介入して後者を支援し、これに対してトヴェーリ公ミハイールは、リトアニアの援助をあてにしたことであった。リトアニア大公アルギルダス(オリゲルト)の積極的なロシア進出政策にとっても、強力なモスクワ公国の存在は障害となっていたために、リトアニアはトヴェーリ公国に加担した(ミハイールはアルギルダスの妹と結婚している)。1367年秋、ミハイールはリトアニアの援兵とともに、ヴァシーリイとエレミアを攻撃したが、モスクワ公ドミートリイは策略を使って、このミハイールを逮捕した。

 だが、ここでママーイ政権は、このモスクワ・トヴェーリ紛争に干渉した。ママーイは、カラチャイ、オヤンダル、チュチェカシの三名の汗使をモスクワに派遣し、逮捕・拘禁されていたミハイールを釈放させたのである。ママーイは、前述したように、かつてはサライ政権との対抗上、モスクワ公ドミートリイを支援していたのであるが、急速なモスクワの台頭を危惧して、今度はトヴェーリを支援するようになったのである。この意味で、ママーイは勢力均衡の観点から北東ロシア諸公国のなかで弱者を支援するというかつての汗国の対ロシア政策を踏襲していたといえる。

 1368年秋、ドミートリイはトヴェーリを攻撃し、ミハイールはリトアニアへの逃亡を余儀なくされた。しかし、今度はリトアニア軍がモスクワに侵攻し(リトアニアの第一次侵攻)、トロストナ河畔の戦いでモスクワ軍を撃破したのち、三日間にわたってモスクワを包囲し周辺地域を略奪したために、 ドミートリイはミハイールに譲歩せざるをえなかった。1370年、ドミートリイは再度トヴェーリを攻撃した。ミハイールは再びリトアニアに逃亡し、アルギルダスの支援を求めたが、アルギルダスはチュートン騎士団との紛争に忙殺されており、ミハイールを支援できなかったために、ミハイールはママーイにすがった。ママーイ政権はミハイールにウラヂーミル大公位のヤルリイクを与えたが、実際の支援兵力を提供しなかった。

 そこで、ミハイールはウラヂーミル大公位のヤルリイクと汗使サリ・ホジャとともに、ロシアに帰還しようとしたが、ドミートリイに阻止され、再度リトアニアに逃亡した。アルギルダスは今度はミハイールの要請を受け入れて、1370年11月、モスクワに侵攻したものの(リトアニアの第二次侵攻)、ドミートリイも準備を整えていたために、リトアニア軍はさしたる戦果もあげずに撤退した。

 リトアニアの支援をあてにできなくなったミハイールは再度ママーイにすがった。1371年、ミハイールはママーイのもとを訪れ、大公位のヤルリイクを受けて、汗使サリ・ホジャとともにウラヂーミルに向った。だが、ドミートリイはもはやママーイの意向に従おうとはしなかった。汗使サリ・ホジャがドミートリイをウラヂーミルに召喚しようとしたとき、ドミートリイはミハイールをヴラヂーミル大公として認めるわけにはいかないと拒否回答をした。だが、ドミートリイは、汗国との直接対決の道に踏みだしたわけではなかった。彼は、汗使サリ・ホジャに十分な贈り物を与え、みずからママーイのもとを訪れている。

  一方、ミハイールもリトアニアの協力をもとにモスクワへの攻撃を継続していた。1372年中頃、トヴェーリ・リトアニア連合軍は、リュブツク近くでモスクワ軍と衝突したが、敗北した。この結果、同年にはリトアニアとモスクワのあいだで、翌年にはモスクワとトヴェーリのあいだで和解条約が結ばれた。後者の条約にしたがって、ドミートリイは自分の手中にあったミハイールの息子を釈放し、ミハイールは、自分が占領したモスクワ公国の諸郷から自分の代官を引きあげた。

  こうして、モスクワ公ドミートリイは、北東ロシアの盟主としての地位を着々と固めつつあったのであるが、モスクワの急速な成長を危惧したママーイは再度弱者であるミハイールにてこいれしようとした。ミハイールはモスクワからの亡命者イヴァーン・ヴェリャミノフとネコマート・スロジャーニンとをママーイ政権のもとに送った。両者ともモスクワの有力な貴族であり、権力を集中しつつあったドミートリイと対立してトヴェーリに逃れてきていたのであるから、おそらくママーイにドミートリイの危険性について忠告したのであろう。ママーイはミハイールに大公位のヤルリイクを与え、汗使アチ・ホジャをトヴェーリに派遣した。ミハイール自身はこの当時リトアニアに出かけており、その援助を約束されており、その上ママーイの支援も確保することができたので、1375年7月、再びモスクワに宣戦した。

 ドミートリイもこれに対抗して軍を動員し、ほぼ北東ロシアのすべての諸公がこれに呼応して、トヴェーリに進撃した。あてにしていたリトアニアとママーイ政権からの援兵を得られなかったミハイールは、このドミートリイの大軍に直面して、ドミートリイに和を請わなくてはならなかった。和約によると、ミハイールはウラヂーミル大公位への野心を放棄すること、かねてからミハイールと対立していたカシン公国の独立を承認すること、ミハイールはドミートリイの弟となること(すなわちドミートリイに政治的に従属すること)が決定された。注目すべきは、汗国への態度に関して、 「タタール人が予や汝のもとに侵攻してきたならば、予と汝とは協力して彼らにあたる」とのとり決めが結ばれたことである。キプチャク汗国はいまやロシアの宗主ではなくロシアの敵とみなされはじめたのである。

 モスクワがロシアの盟主として強力になるにしたがって、モスクワのドミートリイとママーイ政権とのあいだの亀裂は深まっていった。ママーイがミハイールに大公位のヤルリイクを与えたことは、明らかにママーイの懸念の表現であった。

 ママーイはまず、1374年に汗使と1500名の軍をスーズダリ・ニジニ・ノーヴゴロト公国に派遣し、同公国をモスクワへの政治的従属から強制的に離反させようとした。ところが、ニジニ・ノーヴゴロトの住民はこれらの汗使と軍の多くを殺害し、スーズダリ・ニジニ・ノーヴゴロト公ドミートリイ・コンスタンチノヴィチ(彼の娘はモスクワ公ドミートリイに嫁いでいた)も、この住民の行動を承認した。当時、このスーズダリ・ニジニ・ノーヴゴロト公ドミートリイはモスクワに逗留中であったのだから、彼の反ママーイ的政策はモスクワ公ドミートリイの意図に沿っていたと思われる。

 1377年に入ると、アラプ・シャの率いる汗国軍がニジニ・ノーヴゴロトに進撃してきた。アラプ・シャは青帳汗国の皇子であり、ヴォルガ川を越えてママーイの支配領域に進入してきた。彼とママーイとの関係は判然としていないが、この進撃は何らかの事前の了解をママーイからとりつけていたことであろう。アラプ・シャ軍の接近を知つたスーズダリ・ニジニ・ノーヴゴロト公ドミートリイは、すぐさまモスクワのドミートリイに支援を要請し、後者はすぐさまニジニ・ノーヴゴロトに援軍を派遣した。両軍はピヤナ河畔で遭遇し、ロシア側が敗北して、ドミートリイ・コンスタンチノヴィチの息子イヴァーン・ドミトリエヴィチなど多くが戦死した。勝利を収めたアラプ・シャ軍は、ニジニ・ノーヴゴロト市を占領・略奪した。また、翌1378年にはママーイの軍もニジニ・ノーヴゴロトに侵攻した。

 一方、ママーイ政権と対立するサライでは、のちにママーイを打倒してキプチャク汗国を再統一することになるトフタムイシ汗が頭角をあらわしており、ママーイの支配領域に進出しようとしていた。したがって、ママーイは、トフタムイシに対する遠征を実施して、モスクワを強力にしたままでおくか、それとも最初にモスクワを打ちまかして、それからロシアの軍勢に補強されて、トフタムイシにあたるかというディレンマに直面していたのであるが、ピヤナ河畔の戦いでのロシア軍の敗北、ニジニ・ノーヴゴロト占領などをみて、まずモスクワを中心とするロシアをたたくことを決意した。

 1378年、ママーイはべギチ指揮下の軍をロシアの地に派遣した。これに対して、モスクワ公ドミートリイの指揮するロシア軍は、先年のピヤナ河畔の戦いでの敗北の経験をふまえて、軍事的な準備をおこたらなかった。1378年8月、両軍はリャザーン公国の北部のヴォジャ河畔で衝突し、ロシア軍が勝利を収めた。このヴォジャ河畔の戦いは、汗国軍・モンゴル軍に対して、バトゥの遠征以来はじめてロシア側が勝利した戦いであった。

 ヴォジャ河畔での敗戦を知ったママーイは、モスクワ公国を討伐すべく、より周到な軍事的、外交的準備を進めた。まず、彼は自軍をジェノヴァ人、チェルケス人、ヤス人の兵で補強した。とくにジェノヴァ人歩兵は、この当時、その装備・練度の点で高い評価をえていた。ついで、彼はリトアニアとリャザーン公国と同盟を結んだ。1377年にアルギルダスをついでリトアニア大公になっていたヤガイロにとっては、モスクワの強大化はリトアニアのロシア進出(当時、ロシアの統一の主導権をめぐってモスクワ・ロシアとリトアニア・ロシアが争っていたと考えれば、リトアニアによるロシアの統一)の障害であり、1379年にはモスクワのドミートリイがリトアニア大公位の継承をめぐる内紛に乗じてリトアニアを攻撃していたから、ママーイとの同盟は当然であった。これに対して、リャザーン公国の立場は複雑であった。1373年、1377年とモンゴル軍の侵入を受けて荒廃していたリャザーン公国は、いずれにせよママーイ軍とモスクワ軍の進路、戦場になることが予想され、リャザーン公オレーク・イヴァノヴィチはママーイとドミートリイのいずれに加担しても難しい立場におかれるからである。このために、彼は、モスクワを打倒したあかつきにはママーイの従臣としてのロシアの地をヤガイロと二分して統治するというママーイ側の条件にひかれて、基本的にママーイに加担したけれども、ドミートリイにも友好的な態度を示そうとした。

  こうして軍事的、外交的な準備を完了したママーイは、まずドミートリイに使者を派遣して、ママーイ政権の従臣になること、ウズベク汗の治世にヴラヂーミル大公が汗国に支払っていたのと同額の貢税を支払うことを、すなわち汗国のロシア支配を名実ともに再建することを要求した。ドミートリイはこの最後通牒的な要求をすぐさま拒否したわけではなかったが、ママーイ軍の接近を知ると、戦いを決意し、諸公の軍勢を動員した。諸公軍は8月15日までにコロームナに集結することになっていた。

  ロシア側の計画は、ママーイがリトアニア大公ヤガイロの軍、リャザーン公オレークの軍と合流する地点であったオカ川を越えて、もっと南下してママーイ軍を迎え撃つことであった。ロシア軍は9月8日にドン川を越え、その支流ネプリャドヴァ川の右岸、クリコーヴォ平原に布陣した。自軍の背後にドン川とネプリャドヴァ川をおいたことは、ロシア側の不退転の決意をあらわしているとともに、戦術的にはママーイ軍の騎兵が迂回してロシア軍の側面や背後を奇襲することを困難にしていた。ロシア軍の布陣は、騎兵からなる前哨部隊、歩兵からなる先遣部隊が前衛を構成し、その後に右翼部隊、主力部隊、左翼部隊が配置され(この三部隊は、両翼の騎兵が中央の歩兵をとりかこむというように組立てられていた)、後方に予備部隊と騎兵からなる伏兵部隊が配置されているというものであった。一方、ママーイ軍の布陣は、軽騎兵からなる先遣部隊、歩兵(ジェノヴァ人傭兵も含む)からなる中央部隊、騎兵からなる右翼部隊と左翼部隊といったものであった。

 9月8日朝にはじまる「クリコーヴォ平原の戦い」は、三段階に分けられる。第一段階では、ロシア軍の前哨部隊および先遣部隊とママーイ軍の先遣部隊が衝突し、前者が敗北して後退した。第二段階では、両軍の主力が遭遇した。ママーイ軍の右翼の騎兵が、ロシア軍の左翼を強襲して、ロシア軍の中央主力部隊を包囲しようとしたが、その戦線が伸びきったところで、ロシア軍の伏兵部隊が投入され、ママーイ軍の右翼の騎兵隊も混乱して、後退しはじめる。第三段階では、自軍の右翼の後退を知ったママーイ軍全体が混乱におちいって逃亡しはじめ、これをロシア軍が追撃して勝利を収める。

 このクリコーヴオの戦いの勝利は、モンゴル人に対するロシア人のはじめての大勝利であった。このために、過度に「愛国的」な旧ソ連邦の歴史家たちはこの勝利をこれまで過大評価してきた。しかし、ロシア側にとってはこの戦いが総力をあげたものであったのに対し、ママーイ側にとっては様々な戦線の一つであり、ママーイ側は十分な予備兵力をまだ確保していたことに留意しなくてはならない。事実、ママーイは第ニのロシア遠征を準備していたのであるが、これが実行されなかったのは、同じモンゴル人のトフタムイシ汗との権力闘争に敗北したためであった。そして、このトフタムイシ汗は、1382年のモスクワ遠征に勝利を収め、汗国のロシア支配を再建するのである。

  <トフタムイシ汗による汗国の再建とチムールの侵攻>

  1359年のベルヂベク汗の死後約50年間続いた汗国の混乱時代は、汗国最後の英主トフタムイシ汗による汗国の再統一で一応終了する。しかし、この再統一もつかのまのことで、汗国は再度分解に向かっていくが、この過程に強い影響を及ぼしたのが、広義のキプチャク汗国の東半部=青帳汗国と、疾風のように14世紀後半に登場してきて大帝国をうちたてたチムールであった。

  汗国の混乱時代、バトゥ汗の兄弟オルダ・イチェンの系統の汗がはじめてキプチャク汗に即位していた(ヒジル汗、チムール・ホジャ汗、オルドメリク汗、ミュリト汗)。彼らを汗位につけたのは、強力な中央集権国家と、汗国の再統一を望んだ青帳汗国の貴族層であった。彼らは、まずウルス汗を支持し、ついで東方からチムールに支持されたトフタムイシ汗が登場すると、彼を支持した。

  サマルカンドを首都とする帝国の建設に成功していたチムールは、1372年からホレズム遠征を企てたが、当時ホレズム地方を支配していたイスラム教スーフィ政権と、ホレズム地方への支配権を主張する青帳汗国のウルス汗の抵抗に遭遇した。このために、チムールは当時自分のもとに亡命して来ていたトフタムイシを利用しようと考えた。トフタムイシはチンギス汗一族の血をひいており、彼の父はウルス汗によって殺されていたからである。

  チムールの支援を受けたトフタムイシ汗はウルス汗、ついでその息子のチムール・メリク汗と再三にわたって戦い、1370年代の後半に青帳汗国を征服し、ついで、1380年春に、サライ、ママーイの支配地域、アーストラハン(ハジ・チェルケスの独立公国があった)の征服、すなわちキプチャク汗国の再統一に着手した。クリコーヴォの戦いに敗れたママーイは、モスクワ大公ドミートリイ・ドンスコイを打ち破るために、軍を集結させていたが、トフタムイシ軍の進撃を知ると、この軍をトフタムイシ軍にさしむけた。両軍は1381年コルマク河畔(カルカ河畔という説もある)で衝突し、ママーイ軍が敗れた。ママーイはクリミアに逃亡したが、カッファ市のジェノヴァ人の手で殺されてしまった。

  こうして、分裂状態にあった汗国はトフタムイシ汗のもとで再統一された。トフタムイシ汗は当時の史書に「有能で、勇敢で、・・・立派な君主であった。彼の公正さと善良な性格は広く知れわたっていた」と記されているように、人望があり、精力的かつ野心的な人物であった。しかし、彼が汗国を再統一することができたのはチムールの軍事的支援のおかげであり、チムールとの同盟、より正確にはチムールの庇護がトフタムイシの権力と汗国の統一を支えていた。

  汗国を統一したトフタムイシ汗は当然のことながら、ロシアにたいする支配の再建に着手した。彼は、汗使を派遣してモスクワ公ドミートリイを筆頭とするロシア諸公に、ママーイに対する勝利と自分の即位を伝えた。以前ならば、ドミートリイは自身がトフタムイシ汗のもとを訪れて、恭順の意志をあらわさなくてはならなかったのであるが、クリコーヴォでの戦勝に意気上がるドミートリイは贈り物を持たせた使者を派遣したにすぎなかった。ロシア諸公に恭順の意志がないことを見て取ったトフタムイシ汗はロシア遠征を決意した。

  トフタムイシ汗の汗国軍がヴォルガを渡河したという知らせはロシア諸公には不意のことであった。ニジニ・ノーヴゴロト公ドミートリイ・コンスタンチノヴィチは自分の息子をトフタムイシ汗のもとに送って、あわてて恭順の意を表した。リャザーン公オレーク・イヴァノヴィチも汗国軍に協力して、モスクワに通じるオカ川の浅瀬を教えた。

  汗国軍の進撃の知らせが届くと、モスクワ市は混乱した。ドミートリイ・ドンスコイは軍を集めるために、コストロマーに退去した。残された市民も抵抗を決意し、防備を固めて、逃亡を禁止した。汗国軍は1382年8月23日にモスクワに接近して、これを包囲した。汗国軍の3日間の包囲攻撃にもかかわらず、モスクワが陥落しなかったので、トフタムイシ汗は汗使を送り、自分はモスクワを視察するためにやって来たこと、モスクワ市民に危害を加える意図がないことを伝えた。モスクワ市民はこの提案を軽信して、モスクワを開門した。ロシア側史料によれば、開かれた門を通って市内になだれ込んだ汗国軍は、殺戮・略奪をほしいままにし、約24000名が殺されたという。

  汗国軍のモスクワ占領は、それまで北東ロシアの盟主としての地位を固めつつあったドミートリイ・ドンスコイの地位を著しく弱めた。ライバルのトヴェーリ公ミハイールはこの機に乗じて、トフタムイシ汗に接近した。彼はヴラヂーミル大公位を手にすることはできなかったものの、モスクワへの政治的従属を定めた1375年のモスクワ・トヴェーリ条約の破棄に成功した。ニジニ・ノーヴゴロト公国では、ドミートリイ・ドンスコイに敵対していたボリース・コンスタンチノヴィチが、トフタムイシ汗の許可を得て、ニジニ・ノーヴゴロト公の地位を獲得した。これまで、汗国とモスクワ公とのあいだの紛争で微妙な立場を取ってきたリャザーン公オレークも、1385年春、モスクワ公国が支配するコロームナを強襲した。ドミートリイ・ドンスコイはヴラヂーミル大公位は確保したものの、汗国に忠実に貢税を支払い、汗使の監督を受けなくては成らなかった。1384年、ドミートリイ・ドンスコイは各村から貢税を徴収することを命令し、汗使アダシがヴラヂーミルに到着した。また、1388年のトフタムイシ汗の中央アジア遠征には、多数のロシア人が徴兵された。汗国のロシア支配が再度揺らぐには、チムールの汗国侵攻が必要であった。

  トフタムイシ汗はその成功の多くをチムールの支援に負っていたものの、汗国の統一を達成すると、次第にチムールとの亀裂を深めていった。両者の対立の原因は、アゼルバイジャン地方、あるいは中央アジアのホレズム地方の領有問題であった。1385年、トフタムイシ軍がシルヴァーン地方に侵攻し、デルベンドを越えてタブリース市を占領・略奪した。これに対して、チムールはトフタムイシ汗との軍事的対決ではなく、極力紛争を回避する方策を取った。チンギス汗家直系の血をひくトフタムイシ汗に敬意を払っていたためであった。だが、そのチムールも、1387年にトフタムイシ軍がマウランナウル地方に侵攻して来ると、反撃を決意し、トフタムイシ軍を敗走させた。さらに、トフタムイシ汗は1388−89年にも、中央アジア遠征を企てたが、これもチムール軍によって撃破された。この敗戦の結果、それまでトフタムイシ汗を支持していた多くの青帳汗国の貴族がチムールのもとに寝返り、チムールにキプチャク汗国への侵攻を進言した。

  チムールは1391年2月、クリルタイを開いてキプチャク汗国への侵攻を決定した。総勢20万の大軍が同年4月に、カザフスタン地方に終結し、トフタムイシ汗も軍を集め、反撃の姿勢をととのえていた。両軍は6月、ヴォルガ中流の今日のサマーラ近郊のクンドゥルチャ河畔で遭遇した。トフタムイシ軍は数的に有利であったにもかかわらず、10万の戦死者を出して、敗走した。だが、チムール軍も大遠征のための疲労と食料不足のために進撃を中止して、サマルカンドに帰還した。

  クンドゥルチャ河畔の戦いでの敗戦にもかかわらず、トフタムイシ汗はすみやかに自分の陣営、軍を立て直し、1393年初頭には、かつてのキプチャク汗国の大半を掌握するようになっていた。ただし、ロシアのような周辺地域には、トフタムイシ汗は多くの譲歩をしている。彼は、モスクワ公国がニジニ・ノーヴゴロト公国を保護することを認めたのである。それまで、トフタムイシ汗はモスクワ、トヴェーリ、ニジニ・ノーヴゴロト、リャザーンの4つの公国の均衡を保つことによってロシアを支配しようとしていたが、モスクワ大公国に譲歩することによってしか、ロシア支配を確保し得なくなっていた。

  このように一時的にではあるにせよ、自己の地位を回復したトフタムイシ汗は、再度1394年秋、チムールに反撃を企て、デルベンドを越えて、シルヴァーン地方に進出した。チムールは和平提案をしたが、トフタムイシ汗の非礼な回答に激怒し、戦闘を決意した。両軍の再度の雌雄を決する戦いは、1395年4月14日、テレク河畔で行われた。またもや、トフタムイシ汗は敗れ、ブルガール地方に敗走した。前回のクンドゥルチャ河畔の戦いのときとは異なり、チムールは残敵の追討を命令し、さらに、トフタムイシ汗に代わって、ウルス汗の息子コイリチャク・オグランをキプチャク汗に任じた。

  トフタムイシ汗を追うチムール軍はブルガール地方、クリミア地方に進出した後、1395年夏、ロシアの地に進出しようとして、リャザーン公国に接近した。これに対して、モスクワ大公ヴァシーリイ・ドミトリエヴィチは反撃の準備を整え、さらに、ヴラヂーミルにあった聖母のイコンをモスクワに移転させた。しかし、チムール軍はモスクワ攻略には向かわず、反転していった。チムール軍は帰国するにあたって、アーストラハンの町とキプチャク汗国の首都サライを破壊した。とくに、サライは徹底的に破壊された。チムールの遠征を記述した史書によれば、「勝利の軍(チムール軍)はサライを占領し、火をつけて、それを焼き払った。彼らはこの地域の部族と遊牧民の大半を略奪し、追い出して、連行した。サライの破壊は、草原の軍(キプチャク汗国軍)がゼンジル・サライを乱暴に破壊した行為に対する復讐であった。草原の軍はチムールがファルスとイラクの征服に従事していたときに、がら空きになったマウランナウル地方を襲撃し、ゼンジル・サライの名で知られるカザーン・スルタン汗の居城を破壊したからである」という。

  チムール軍のキプチャク汗国侵攻・略奪はキプチャク汗国とロシアの運命に大きな影響をもたらした。政治的には、まず、汗国最後の英主トフタムイシ汗が打倒され、彼によって一時的に統一されていた汗国の政治的分解が進んでいった。汗国の各地には有力な王侯、エミールたちが独自の支配権を確立していった。ヴォルガ左岸のサライを中心とする地方にはチムールが擁立したコイリチャク汗が、ヴォルガ下流のアーストラハンを中心とする地方には、やはりウルス汗の息子で、チムールに臣従するチムール・クトルクが、ヤイク川周辺地方には汗国の有力なエミールであったエディゲイが、そして、クリミアにはトフタムイシ汗を支持するエミールが擁立したタシ・チムールが、それぞれ独立勢力として登場した。さらに、トフタムイシ汗も再起の機会をうかがっていたが、キプチャク汗国がかつての統一された強国として復活することはもはやなかった。経済的には、ウルゲンチ、アーストラハン、サライ、アザク(タナ)といった汗国の重要な交易センターの破壊によって、汗国の経済活動は深刻な打撃を被った。当時の史書はキャラバン交易の崩壊をこのように記している。「以前は、キャラバンはホレズムから出発して、クリミアにいたるまで、馬車に乗って、平穏に、恐怖もなく、危険もなく進んだ。・・・キャラバンは食糧も、馬の飼料も持たず、(現地の)住民が多いために、案内人も連れていかなかった。安全であり、(そこで生活する)人々が食糧と飲み物を持っていたからである。・・・今では(チムール軍の汗国侵攻以後)、そこの住民と人々のうち誰も動かず、生活していない、そして、鹿とラクダ以外の社会は存在しない。」

  こうした汗国の政治的・経済的な弱体化はロシア支配も弱めっていった。ロシアがモンゴル人の宗主権を完全に否定するのは、まだのちのことであるが、モスクワ大公ドミートリイ・ドンスコイの息子ヴァシーリイ1世(在位1389−1425)の時代に、汗国の宗主権を否定し、モスクワ公国こそが、旧キーエフ・ルーシの遺領の継承者であることを主張するような変化が見られる。すなわち、ドミートリイ・ドンスコイ時代のモスクワ公国の貨幣には、「大公ドミートリイ」(ロシア語)と「スルタン・トフタムイシ、長命であらんことを」(アラビア文字)という刻印が押されており、モスクワ公国はトフタムイシ汗ひいてはモンゴル人の宗主権を公的に認めていたのにたいし、ヴァシーリイ1世時代の貨幣には、一時的にではあるが、トフタムイシ汗への言及が消え、「ヴァシーリイ・ドミトリエヴィチ」と「全ルーシの大公ヴァシーリイ」との刻印を持つものが登場している。このことは、ヴァシーリイ1世がチムールによるトフタムイシ汗の撃破、エディゲイ軍によるリトアニア軍の撃破(1399年のフォルクスラ河畔の戦い)という政治情勢の変化を踏まえて、ロシア地域がキプチャク汗国の宗主権から離脱し、モスクワ公国が旧キーエフ・ルーシの遺領の継承者であることを自己主張しはじめたことを意味している。

  第4章  モスクワ国家

  キプチャク汗国の分裂・解体が進んでいくとともに、汗国の属領であった旧キーエフ・ルーシの遺領のうち、北東ロシア地域では、モスクワ公国が台頭し、北東ロシアはこのモスクワ公国を中心に再統一されていく。一方、西ロシア、南西ロシアではリトアニア大公国が成長し、両者は、キーエフ・ルーシの後継者を競う「モスクワ・ロシア」と「リトアニア・ロシア」として、汗国の解体とその後継諸汗国の分立・抗争という複雑な東ヨーロッパ・ロシア世界の政治状況に関与していく。

  <リトアニア大公国の成長>

  中世東ヨーロッパ・ロシア世界の舞台で、モスクワ国家と対立関係にあったリトアニア大公国を形成したリトアニア人は、もともとは紀元前2000年頃にネマン川と西ドヴィナ川地方に生活するバルト族に属する。このリトアニア人が文献史料に登場するのは11世紀のことであるが、彼らはゲルマン系諸族の活動とスラヴ系諸族の活動のあいだにはさまれて、その国家形成もキリスト教化もおくれ、部族ごとの異教的な生活をおくっていた。しかし、彼らは13世紀に入ると、チュートン騎士団の東進の圧迫をうけて、急速に統一へとむかっていった。

  ミンダウカス(ミンドフク)は、モンゴル軍の侵入という混乱を利用して、諸部族を統一して、1251年には異教徒に対する「十字軍」という意味付けをされていたチュートン騎士団の圧迫を緩和するためにカトリックを受け入れ、1253年にはローマ教皇から王位をさずけられた。彼の時代にリトアニアの領土は拡大し、リトアニア、サモギティア、黒ロシア、ポーロツク、ヴィーチェプスクなどを含んでいた。

  これを継承して、リトアニア大公国の事実上の創設者となったのはゲディミナス(ゲディミン、1316−41)であった。彼は首都をヴィリニュスに定め、近隣諸国、とくに東方のロシア地域に進出していった(このために、彼の時代からリトアニアのロシア化が進んでいった)。彼の死後、かれの二人の息子アルギルダス(オリゲルド、1345−77)とケイストゥディス(ケイストゥト、1345−82)が争ったが、アルギルダスは東方と南方に対する拡大を進め、ヴォルイニ、キーエフ、チェルニゴーフ、スモレーンスクの大半を占領し、ここにリトアニア大公国はバルト海から黒海にまでいたる東ヨーロッパの大国となった。こうして、ロシアの南西部分を占領していく過程で、ギリシア正教を信じるロシア人住民の数が急速に増大していったために、リトアニア大公国は、ロシア語やロシア風の法律・制度を受けいれ、さらにはモンゴル人の圧迫からのがれようとするロシア諸公の支持をうけたために、ロシアの統一をめぐってモスクワ国家=モスクワ・ロシアと競うリトアニア・ロシアとなっていった。

  だが、チュートン騎士団が、ゲディミナス死後の混乱を利用して再度その活動を活発にしたために、アルギルダスの息子ヤガイラ(ヤゲロー、1377−92)は、チュートン騎士団という共通の敵に対抗するためにポーランドとの同盟にむかった。1385年クレヴォ僧院で調印された協定によって、ヤガイラは兄弟、親族、貴族、庶民とともにカトリックに改宗し、ポーランド女王ヤドヴィガと結婚して、ポーランド国王も兼任することとなった。この結果、首都ヴィリニュスにはカトリックの司教座がおかれ、リトアニア大公国のカトリック化・ポーランド化が進展した。ポーランド人聖職者はリトアニアの宗教、教育、文化の中で大きな役割を果たすようになり、リトアニア人貴族たちは積極的にポーランド文化を吸収するようになっていった。

  しかし、リトアニアでは、こうしたカトリック化・ポーランド化に対する反対も根強かった。ヤガイラの従兄弟でケイストゥディスの息子ヴィタウカス(ヴィトフト、1392−1430)はこの反対勢力の支持をうけて、リトアニアの独立をはかり、1392年に、ヤガイラの宗主権を認めた上で、独立したリトアニア大公として活動した。このヴィタウカスの治世はリトアニア大公国の権勢の頂点であった。彼は汗国との関係では、1399年のフォルスクラの戦いで大敗を喫したものの、ポドリア南部を獲得し、黒海にまで領土を拡張した。また、チュートン騎士団に対しては1410年のグリュンヴァルト(タンネンベルク)の戦いで大勝を収め、チュートン騎士団の脅威をとり除いた。さらに、ロシアとの関係では、ロシアの統一をめぐってモスクワ国家とたびたび対抗し、それを牽制した。彼はモスクワに敵対するトヴェーリ公、リャザーン公、プロンスク公と同盟して、モスクワ国家領に再三進出し、1403年にはスモレーンスクを奪取した。彼の治世にリトアニア大公国の領土は、オカ川上流、モジャイスクにまで達した。

  その後、ロシアの統一をめぐるモスクワとリトアニアの抗争は、モスクワがイヴァーン3世の時代以降その基礎を固めていくにつれて、次第にリトアニア側に不利になっていった。イヴァーン3世は、しばしばリトアニアと同盟関係を結んだノーヴゴロト、トヴェーリをモスクワに帰属させた。ヴァシーリイ3世はスモレーンスクをリトアニアから奪還した。さらに、イヴァーン4世がバルト海への出口をめざすリヴォニア戦争を開始すると、リトアニア大公国はポーランドとの確固とした同盟を確立せざるをえなくなった。この結果、1569年の「リュブリンの合同」によって、ポーランドとリトアニアは「レーチ・ポスポリタ」(ポーランド・リトアニア連合王国)として完全に統合された。

  <モスクワ国家の成立>

  モスクワが文献史料のなかにはじめて登場してくるのは、1147年のことであり、当時はまだロストーフ・スーズダリ公国に属する小さな村・町であったが(ウラヂーミル公国の基礎を固めたユーリイ・ドルゴルーキイが町の建設者とされている)、モンゴル人の侵入の時代には、リャザーンの次の攻略目標になっていたことからも判るように、かなり大きな町に成長してきていた。モスクワを分領として受けとった、したがって最初のモスクワ公となったのは、アレクサーンドル・ネフスキイの第四子ダニイール・アレクサンドロヴイチ (在位1261−1303)であった。

  その息子イヴアーン・カリター(在位1331−41)は、ロシアの宗主国であるキプチャク汗国に忠勤をはげんだ。彼は、トヴェーリで汗国の支配に対する反乱が起ると、汗国軍とともにこれを鎮圧した。この忠勤によって、彼はウラヂーミル大公位を与えられ、汗国に提供する貢税(ヴィーホト)の徴収を担当する汗国のロシア代官とでもいえる地位を獲得した。モスクワが北東ロシアの中心となりつつあったことは、ロシアの宗教的な中心である府主教座が1326年にウラヂーミルからモスクワに移転したことにも反映していた。その息子セミョーン・イヴアノヴィチ(尊大公、在位1341−53)とイヴァーン・イヴァノヴイチ(在位1353−59)の時代は、イヴァーン・カリターの時代と同様であり、彼らは汗国の忠実な召使いでありつづけることによって、モスクワ公国の利益を確保した。

  こうして、14世紀後半にかけて、モスクワ公国は急速に台頭してくるのであるが、その理由としては、モスクワがロシアの中央部にあり外敵の侵入を受けにくかったという地理上の理由(逆に、有力なリャザーン公国はその地理上の位置のために再三、東からの遊牧民の侵攻の対象となった)、水陸の交通の要所に位置しており商業・手工業が発展したという経済上の理由、モスクワを育成して西方の新興国家リトアニアに対抗せしめようとした汗国の対ロシア政策という政治上の理由が考えられる。さらに、モスクワ公国の創立者であるダニイール・アレクサンドロヴィチの後継者が、それぞれ比較的長命であり、長く公国を統治することによって、一貫した政策を実行することができたことをあげることができる。例えば、ダニイール・アレクサンドロヴィチは20年、イヴァーン・カリターは15年、ドミートリイ・ドンスコイは30年、イヴァーン3世は40年ほど統治している。

  ロシアの宗主国であったキプチャク汗国は14世紀後半には、20年間に25人の汗が登場するという混乱時代を経験し、そのためにロシア支配は弱まらざるをえず、モスクワだけではなく、その他の諸公国も汗国から自立する動きをみせはじめた.弱体となったロシア支配を再建するため、汗国の実力者ママーイは、ロシア遠征を行ない、モスクワ大公ドミートリイ・ドンスコイの率いるロシア諸公国軍と1380年にクリコーヴオ平原で衝突した。ドミートリイ・ドンスコイはこの戦いに勝利を収め、ロシアの中心としてのモスクワの地位を高めた。だがその直後(1382)、汗国の統一を再建したトフタムイシ汗は、モスクワに侵攻し、ドミートリイは再度汗国の宗主権を認め、貢税を支払わなくてはならなかった。

  ドンスコイの息子ヴァシーリイ1世(在位1389−1425)は、その即位にあたって、キプチャク汗の承認を求めざるをえなかったけれども、その後、チムールによってトフタムイシ汗が敗れたために、国内・国外政策の面で、かなり自由に振る舞うことができるようになった。北東ロシアでのモスクワの地位は一層高まっていった。まず、1392−93年に、ニジニ・ノーヴゴロト公国がモスクワの支配下に入り、1397−98年にはウスチュークなどの地方がモスクワ公国に併合された。また、リャザーン公はヴァシーリイ1世を「自分の兄」とみなすことを承認した。ヴァシーリイ1世はノーヴゴロトに対しても、モスクワの府主教の権威をノーヴゴロトに武力で認めさせようとし、1396年にはトルジョークを占領し、1404年にはノーヴゴロト大主教を逮捕・連行した。

  モスクワ大公の地位が高まると同時に、ロシア正教会も次第に独自の動きを見せはじめる。1390年、ギリシア人ではなく、ブルガリア人のキプリアンが府主教となった。ブルガリア正教会はコンスタンチノープル総主教を中心とする東方ギリシア正教会の中で、コンスタンチノープルからの独立という長い伝統を持っていた。当時、ロシア正教会はその典礼の中でビザンツ皇帝をたたえることをやめたという噂がたったため、コンスタンチノープル総主教は、正教会とビザンツ皇帝は不可分であることをロシア正教会に諭さねばならなかった。のちのヴァシーリイ2世の時代には、教会合同問題をめぐって、ロシア正教会はコンスタンチノープルから独立することになる。

  ロシアの統一をめぐるリトアニア大公国との関係は、キプチャク汗国との関係も絡んで、複雑であった。ヴァシーリイ1世はリトアニア大公ヴィタウカスの娘を妻にむかえており、同盟関係を結んでいたにもかかわらず、ヴィタウカスは1403−04年にはスモレーンスクを占領し、リトアニアと全ルーシの大公と称した。モスクワ国家とリトアニア大公国の境界地域では、しばしば武力衝突が起っていた。

  ヴァシーリイ1世の息子ヴァシーリイ2世の時代(在位1425−1462)は、長子相続によるモスクワ大公が大公国の君主として他の分領諸公の上に君臨するという原則とキーエフ・ルーシ時代からの伝統的な年長順番制による相続という原則が衝突した時代であった。前者の原則に従えば、モスクワ大公国は大公を君主とする中央集権的なモスクワ国家へと変っていくだろうし、後者の原則に従えば、モスクワ大公国は、独立した諸公の中の最年長者である大公をいただく分領諸公国の連合体にとどまることになるはずであった。

  ヴァシーリイ2世がわずか10才で大公に即位したとき、後者の原則に忠実であった彼の伯父ユーリイ・ドミトリエヴィチ(ドミートリイ・ドンスコイの次男)が彼の息子ヴァシーリイ・コソイ、ドミートリイ・シェミャーカとともに、ヴァシーリイ2世への忠誠を誓う宣誓を拒否したことから、混乱が始まった。年代記には「大公(ヴァシーリイ2世)は、自分の父(ヴァシーリイ1世)、祖父(ドミートリイ・ドンスコイ)からの相続によって大公位への権利を要求した。ユーリイ公は、年代記、古い登録簿、自分の父である大公ドミートリイ(ドンスコイ)の遺言によって大公位への権利を要求した」とある。1434年、ユーリイはモスクワを占領し、年長順番制の原則にしたがって自分が大公であると宣言したが、彼はその直後に急死してしまった。ついで、ヴァシーリイ2世とユーリイの息子ヴァシーリイ・コソイが争い、ヴァシーリイ2世が勝利を収めて、コソイを捕らえ、彼を盲目にした(1436年)。今度は、残ったドミートリイ・シェミャーカがヴァシーリイ2世に挑戦し、ヴァシーリイ2世がウルク・ムハメド汗の率いるタタール軍との戦いに敗れ、捕虜となった事件を利用して、1446年、ヴァシーリイ2世を捕らえて、彼を盲目とした。だが、ヴァシーリイ2世は支持者を糾合してシェミャーカを打ち破って、大公位の確保に成功した。彼は自分の長男イヴァーン(のちのイヴァーン3世)を1449年に「共同統治者」と公式に宣言しているが、このことは、伝統的な年長順番制度が終焉し、長子相続制度によるモスクワ大公位の継承、ひいてはモスクワ国家の土台が成立したことを意味していた。

  ロシア教会は、ヴァシーリイ2世とユーリイ・ドミトリエヴィチ一族との血生臭い権力闘争の過程で、国家的な統一を体現するヴァシーリイ2世の側を一貫して支持しつづけ、このことがヴァシーリイ2世の勝因の一つとなったのであるが、このロシア教会の地位に大きな変化がヴァシーリイ2世の時代に生じた。1421年に府主教フォーチイが死ぬと、ヴァシーリイ2世は権力闘争の渦中で自分を支持してくれたリャザーン主教ヨナを後継の府主教につけることを望んだ。ヨナは正式の叙任をもとめてコンスタンチノープルの総主教のもとに赴いたが、総主教はギリシア人のイシドールを府主教に叙任した。当時、東西教会のあいだで教会再合同の話しがすすめられていたが、イシドールは再合同の線でロシア教会をまとめることを期待されていたのである。しかし、ヴァシーリイ2世とロシア教会は東西教会の再合同に反対であった。イシドールは1437年にモスクワを訪問し、ヴァシーリイ2世とあっているが、このときもロシア教会の伝統的な信仰を守ることを求められている。イシドールはロシアの聖職者を引率して、教会合同に関する会議が開かれようとしていたイタリアに向かった。

  教会合同に関する会議は1438年から1439年にかけて、最初はフェララで、ついで場所をうつしてフィレンツェで開かれた(フェララ・フィレンツェ公会議)。キリスト教会は、最初のキリスト教皇帝コンスタンチヌスがローマ帝国の首都をローマから「新しいローマ」=コンスタンチノープルに移して以来、その文化的・歴史的な背景の相違から、ローマ教皇を中心とする西方ローマ・カトリック教会とコンスタンチノープル総主教を中心とする東方ギリシア正教会に分裂し(正式には11世紀)、互いに敵対するまでになっていた。しかし、東方正教会のバックボーンであったビザンツ帝国がオスマン・トルコの圧迫によって衰退し、ビザンツ皇帝はトルコに対する西ヨーロッパの支援を求めようと西方教会に接近せざるをえなくなったために、15世紀初頭に、再合同の気運が生まれた。この結果、東西教会の代表者がフェララ・フィレンツェに集まり、教会合同問題を協議したのである。会議は東西教会の長年の対立問題(「フィリオクエ」問題、煉獄問題、ローマ教皇の首位権問題)をめぐって紛糾したが、結局、トルコの新たな攻撃のニュースをしった東方教会側がかなりの譲歩をするかたちで、東西教会の再合同を決定した。のちにロシアの年代記は、この教会再合同の決定に関して、「何と有害な虚偽であろうか。正教に対する嫌悪すべき行為に加担したことであろうか。暗闇が光にとってかわり、敬虔なる信仰はラテン人に屈服してしまった。正教の皇帝と総主教はラテン的異端の中に陥ってしまった」と非難している。

  ロシア府主教イシドールは会議で再合同を支持する発言をし、公式の布告に署名した。ローマ教皇エウゲニウス4世は、教会合同の決定をロシア、ポーランド、リトアニアに伝達し、かつ再合同の促進をうながす教皇使節にイシドールを任命した。だが、この再合同の決定はロシアでは受け入れられなかった。イシドールはカトリックのポーランドの支配下にあるウクライナでは歓迎されたものの、モスクワ大公ヴァシーリイ2世の前で教会合同を宣言し、教皇の書簡をヴァシーリイに手渡すと、彼は修道院に拘禁された。年代記によれば、ヴァシーリイ2世は、「強欲な狼イシドールが異端であることを知り、彼の手から祝福を受けることを拒否し、彼のことを異端のラテン信仰の詐欺師であると呼んだ。そして、すばやく彼を非難して、彼を侮辱し、彼のことを狼であると呼んだ。そして、すぐに彼を狂った詐欺師、背教者として府主教の地位から免職するように命じた。そして、彼には修道院に行くように命じた」という。その後イシドールは釈放されイタリアに向かい、ロシアには戻らなかった。ヴァシーリイはロシア主教会議を招集し、コンスタンチノープルの総主教の許可を求めることなく、ロシア人のヨナを府主教に任命した。この結果、ロシア教会は長らくその管轄下に置かれていたコンスタンチノープルから独立した歩みへと進み出すことになった(ちなみに、これに対抗してローマ側も「全ルーシとキーエフの」府主教座をキーエフとモスクワの府主教座に分割している)。

  さらに、ヴァシーリイ2世の時代には、モンゴル・タタール人との関係の面でも注目すべき変化が生じた。ヴァシーリイ2世を捕らえたウルク・ムハメド汗はカザーンを占領して独立汗国=カザーン汗国を創立するにいたるが、自分の権力を固めるために、兄弟のカシムとヤコフを殺そうとし、二人はモスクワのヴァシーリイ2世に庇護を求めてきた。その後、二人の兄弟はモンゴル・タタール軍とともにドミートリイ・シェミャーカと戦うヴァシーリイ2世に忠実に仕え、ヴァシーリイはその恩賞として1452年にオカ河畔のゴロヂェツ・メシチェルスキイの町をカシムに与えた。カシムの死後この土地はカシモフ公国と呼ばれるようになり、モスクワ国家に仕えようとするモンゴル・タタール人の結集点となると同時に、南東地方からのモンゴル・タタール人の襲撃に対してモスクワを防衛した。のちのイヴァーン3世の時代、カシムの息子ダニヤルは自分の軍隊を率いてイヴァーン3世のノーヴゴロト遠征に参加し、また大汗国のアフマト汗の軍に対抗するロシア側の作戦でもサライ襲撃など重要な役割を果たした。イヴァーン3世はカシモフ公国の君主にツァーリの称号を与えている。さらに、カシムの一族はカザーン汗国の君主の一族と血縁関係を持っていたから、その存在はモスクワ国家とカザーン汗国との関係、ひいてはのちのイヴァーン雷帝のカザーン汗国の征服の面でモスクワに有利に働いた。カシモフ皇帝はイヴァーン雷帝のカザーン遠征に参加し、また、カシモフ皇帝サイン・ブラート(ロシア正教に改宗してシメオン・ベクブラトヴィチ)はイヴァーン雷帝がモスクワ国家を二つに分割するオプリーチニナ政策を実行したとき、「全ルーシのツァーリにして大公」という称号までも与えられ、モスクワ国家の君主という奇妙な役割を一時期演じることとなる。

  ヴァシーリイ2世は祖父のドミートリイ・ドンスコイ、息子のイヴァーン3世と比べると地味な存在であるが、前述したとおり、彼の治世は君主制度の在り方の面でも、ロシア教会の独立の面でも、モンゴル・タタール人との関係の変化の面でも、モスクワ国家の枠組みを設定した時代であった。息子イヴァーン3世がこの枠組みを踏まえて、モスクワ国家の基礎を完成させていった。

  <イヴァーン3世:北東ロシアの統一>

 イヴァーン3世(在位1462−1505)は、モスクワ大公ヴァシーリイ2世とその妻マリア・ヤロスラヴナとのあいだに生まれ、ヴァシーリイ2世から1449年に公式に共同統治者に指名されており、早くから、父に協力して国政に参与していた。例えば、ヴァシーリイ2世の終生のライバルであったドミートリイ・シェミャーカを滅ぼした軍の指揮をとったのはイヴァーンであった。

 1462年にモスクワ大公位を継承したイヴァーン3世はロシア史上「ロシアの国土の集積者」と呼ばれている。イヴァーンは自分の弟たち、トヴェーリ、ノーヴゴロトといった北東ロシアの諸公国に対して主権を確立し、彼らの分領を基本的にモスクワ大公国に組み入れることによって、いわゆる「分領時代」を清算し、モスクワによる北東ロシアの統一を完成させたからである。

 ヴァシーリイ2世はその遺言の中でイヴァーンだけではなく、彼の兄弟(ユーリイ、アンドレーイ・ボリショイ、ボリース、アンドレーイ・メーニシェイその他)にも土地を与えており、弟たちは伝統的な意味で「分領公」であった。当初、イヴァーンと弟たちの関係にはさしたる軋轢はなかったが、イヴァーンがキーエフ・ルーシ以来の伝統的な諸権利に挑戦し、自らの権力を強化しはじめると、紛争が起った。イヴァーンは、1472年にドミトロフのユーリイが子供を残さず死ぬと、その遺領を、他の弟たちに分け前を与えることなく、自分のものにしてしまった。1479年、イヴァーンは、弟ボリースのもとに離反していった自分の家臣を、ボリースの許可を得ることなく逮捕・連行してしまった。憤激したボリースは、兄であるイヴァーンが弟たちの権利を尊重してこなかった、死んだユーリイの分領から何も与えなかった、ノーヴゴロト遠征の報奨を何も与えなかった、ある公から他の公に移った大貴族を裁判なく取り返してはならないという協定を侵犯したとの科でイヴァーン3世を非難しているが、これはイヴァーン3世が意識的に年長順番制度と大貴族の自由離脱権という、キーエフ・ルーシ以来の古い伝統を壊そうとしていたことを示している。しかし、ボリースとアンドレーイ・ボリショイは、後述するアフマド汗のロシア侵攻という危機的な状況を利用して、イヴァーンに反抗する姿勢を見せていたために、イヴァーンは彼らに譲歩せざるをえなかった。一方、かねてからイヴァーンに好意的であった最年少の弟アンドレーイ・メーニシェイは1481年に、子を残さずに死んだが、彼は自分の遺領をモスクワ大公に譲ると遺言していたので、ヴォローグダとコストロマーにあった彼の分領がイヴァーンの手に入った。その後10年あまりは、紛争は収まっていたようであるが、1491年、イヴァーンは策略を使ってアンドレーイ・ボリショイを逮捕させた。アンドレーイ・ボリショイが、クリミア汗メングリ・ギレイに援軍を提供するようにとの命令を拒否したことが直接の理由であった。アンドレーイは獄中で死んだ。また、ボリースは1494年に死に、彼の分領は二人の息子の間で分割されたが、1501年、そのうちの半分はイヴァーンに譲られた。結局、イヴァーン3世は反抗的な弟たちを処分すると同時に、父ヴァシーリイ2世が自分の弟たちに与えた分領を、ボリースの分領の半分を残して、すべて回収したことになる。

 ロシアの国土を「集積」するにあたって、イヴァーン3世の最大の懸案は北ロシア地方に広大な領土を所有し、その豊かな経済力を背景に、自由な自治の伝統をつちかっていたノーヴゴロト共和国であった。父ヴァシーリイ2世はドミートリイ・シェミャーカをかくまっていたノーヴゴロトに軍を派遣し、軍事的な圧力によって1456年にヤジェルビーツィ条約の締結を強要した。その結果、ノーヴゴロトはモスクワに10000ルーブリ支払うとともに、ノーヴゴロトの自治の象徴であった民会はモスクワ大公の承認なしで法律を公布してはならないこと、モスクワ大公の勤務から離脱した者やモスクワ大公の政敵を保護してはならないことが義務づけられた。ノーヴゴロトは立法権と外交自主権を制限されたのである。しかし、イヴァーン3世の治世に入ると、ノーヴゴロトは、市長官夫人マルファ・ボレツカヤを中心に、この屈辱と制限を免れるために、ポーランド国王でリトアニア大公カジミェシ4世と結んでモスクワ大公国に対抗しようとする動きを見せていた。ノーヴゴロトはリトアニア人をノーヴゴロト公にむかえ、ノーヴゴロト大主教の候補者をモスクワではなく、リトアニアの支配するキーエフに求めようとしたが、この反モスクワ、親リトアニア的な動きはイヴァーン3世を大きく刺激した。

 1471年春、イヴァーン3世はノーヴゴロトを軍事的に懲罰することを決意し、モスクワ軍をノーヴゴロトに派遣した。数では劣勢であったモスクワ軍は、7月のシェローニ河畔の戦いで準備の整っていないノーヴゴロト軍に決定的な勝利を収め、ノーヴゴロトはリトアニアと同盟を結ばないことを確約させられた。さらに、イヴァーンは1477−78年に第二次ノーヴゴロト攻撃を実行し、ノーヴゴロトの完全な屈伏を要求した。「ノーヴゴロトというわが世襲地には民会の鐘は在ってはならない。市長官も在ってはならない。われわれはわれわれの世襲地と同じ様に、ノーヴゴロトでは統治しなくてはならない。」というのである。ノーヴゴロトはイヴァーンを自分たちの「君主」となかなか認めようとはしなかったが、一枚岩ではなく、市内では親モスクワ派と反モスクワ派が対立していた。結局、ノーヴゴロトはイヴァーンの要求を受け入れざるをえなかった。ノーヴゴロトの自由の象徴であった民会の鐘はモスクワに移され、ノーヴゴロトの政治権力は民会と市長官から、イヴァーン3世の派遣した代官の手に移った。ノーヴゴロト自治共和国の終焉であった。

 このノーヴゴロトの処分にあたって注目すべきは、これがロシアにおける「ポメースチエ(知行地)」の起源と考えられていることである。キーエフ・ルーシ以来、ロシアの諸公、大貴族は土地を世襲地(「ヴォチナ(父祖からの土地)」として所有しており、自分の上級の君主から自由に離脱する権利を持っていた。14世紀なかばのイヴァーン・カリターの息子たちのあいだの条約文書にも、「大貴族と自由身分の家臣は自由である。われらを離れて、汝のもとに赴こうと、汝を離れてわれらのもとに来ようと、われらは悪意を持たぬ」とある。この意味で、家臣の側からの勤務(奉公)の提供と君主の側からの封地の授与という契約関係にもとづく西ヨーロッパ的な封建制は中世ロシアには発展してこなかった。しかし、モンゴルの支配のもとで、土地の上級所有者としての公=大公という概念が定着し、政治権力が公=大公に集中するようになると、大公は大貴族の自由離脱権を次第に制限し、彼らの土地の世襲地性=私的不可侵性を侵犯するようになっていった。この結果、大公への勤務(奉公)と大公からの知行地の授与が結び付いた「条件づき土地所有制度」がうまれてきた。大公はみずからの権威を高める上でも、世襲地制度を基盤とする「大貴族層(ボヤールストヴォ」ではなく、勤務を義務づけられた知行地制度にもとづく「勤務士族層(ドヴォリャンストヴォ)」を育成しようとした。イヴァーン3世のノーヴゴロト併合は、この知行地(ポメースチエ)制度が生まれる端緒となった。彼は、ノーヴゴロトの有力者をモスクワ地方に移し、かわりに、モスクワ人をノーヴゴロトに移住させていった。1488年、8000名のノーヴゴロトの大貴族、商人がモスクワ大公国の諸市に強制的に移住させられ、彼らの土地は、モスクワ大公に仕える人々に、「知行地」として与えられた。このような、知行地制度は、一見すると、軍事的な奉公と封地の授与が結びついた西ヨーロッパの封建制に類似しているようにみえる。しかし、中世ロシアの知行地制度では、家臣が君主として大公に一方的に従属するという側面の方が強く、西ヨーロッパの封建制度にみられた君主と家臣とのあいだの双務的な契約という側面が欠けていた。

 イヴァーン3世はその他の北東ロシアの諸公国の併合も進めていった。ロストーフ公国はすでに、ドミートリイ・ドンスコイの時代にモスクワに従属していたが、15世紀の前半に、公国の半分がモスクワ大公国に併合され、1474年にロストーフ公が残りの半分をモスクワに売却したことで、完全にモスクワ大公国の一部となった。ヤロスラーフ公国もイヴァーン3世の時代に入ると、すでにその周囲をモスクワ大公国領に包囲されており、モスクワの支配に抵抗する姿勢を見せていたアレクサーンドル公が1471年に死ぬと、結局モスクワ大公国に併合された。

 かつてはロシアの統一をめぐるライバルであったトヴェーリ公国は、宗主であったモンゴル人への恭順路線をとったモスクワとは異なり、モンゴル人に支配に抵抗する動きを示したために、モスクワに肩入れする汗国によって勢力をそがれてしまってきた。トヴェーリの最後のチャンスはヴァシーリイ2世とドミートリイ・シェミャーカの内紛の時期に訪れ、トヴェーリ公ボリースはモスクワ大公の派遣の確立を阻止するためにシェミャーカに味方したが、ヴァシーリイ2世の勝利によってそのチャンスも失われた。イヴァーン3世による諸公国の併合によって包囲されたトヴェーリ公ミハイールは、ノーヴゴロトと同様に、ポーランド国王=リトアニア大公カジミェシ4世と相互援助条約を結んでモスクワに対抗しようとした。イヴァーン3世はこの同盟を知ると、トヴェーリに軍を派遣した。ミハイールはリトアニアの支援があてにできないことを知ると、イヴァーンに和議を求め、カジミェシとの同盟の破棄、自主的な外交権の放棄を誓約した。この事件ののち、多くのトヴェーリの諸公や貴族たちがトヴェーリを離れて、モスクワ大公に仕えるようになった。モスクワ大公に使えたほうが領土争いなどのもめごとで有利であったからである。さらに、イヴァーン3世は1486年に、トヴェーリ公ミハイールがカジミェシ4世に再度助力を求めた件をとらえて、トヴェーリに出兵した。ミハイールは少数の従者とともにリトアニアに逃亡し、イヴァーンは息子イヴァーン・イヴァノヴィチにトヴェーリを与えた。

  <イヴァーン3世:対外関係>

 14世紀末のチムール軍の侵攻によって壊滅的な打撃を被っていたキプチャク汗国は、15世紀に入ると、一時、有力なエミールのエディゲイのもとで再統一されるかにみえたが、彼の死後、各地のモンゴル人有力者の独立が進行し、地域的に分裂していった。まず、ウルク・ムハメド汗が1438年にカザーンを占領し、そこを根拠地としてカザーン汗国をうちたてた。カザーン汗国はその創立当初からロシアを襲撃し、とくに、ヴァシーリイ2世とドミートリイ・シェミャーカとの内戦にしばしば干渉し、1439年には大公ヴァシーリイ2世を捕虜にして、莫大な身の代金を獲得した。また、キプチャク汗国の創立当初から、その地理的・経済的な関係から独立的な傾向をもっていたクリミアでは、1430年代にハジ・ギレイ汗が独立したクリミア汗国をうちたてた。このクリミア汗国は、1453年にオスマン・トルコがコンスタンチノープルを占領して以降、その影響下に入り、オスマン・トルコの属国となった。さらに、同じ15世紀なかば、ヴォルガ河口の地には、アーストラハン汗国が成立した。最後に、サライにはキプチャク汗国の正統なる後継国家を称する大汗国が存在した。このような、キプチャク汗国後継国家が、かつてのキプチャク汗国の支配地域の覇権をめぐって、互いに争った。実は、モンゴル・ロシア関係を長期的に眺めれば、モスクワ大公国=モスクワ国家もそのような後継国家の一つであったといえる。

 大汗国のアフマド汗は、キプチャク汗国を再統一しようと、精力的な外交活動、軍事行動を繰り広げた。彼はモスクワに対抗するために、やはりモスクワと対立していたリトアニアとの同盟を求め、1472年にロシアに侵攻した。しかし、この時は、リトアニアの援軍が到着せず、また、モスクワに組みしていたカシモフ汗の軍がサライを襲撃したので、アフマド汗は撤退せざるをえなかった。

 こうしたアフマド汗の精力的な行動と、大汗国=リトアニア同盟に対抗するために、イヴァーン3世はクリミア汗国の支援を求めざるをえなかった。クリミア汗国では、創立者のハジ・ギレイ汗の死後、メングリ・ギレイと大汗国を後ろ盾とするヌル・デヴレットが、後継汗の地位をめぐって死闘を繰り広げ、即位・追放・復位を繰り返していたが、最終的には、オスマン・トルコの支持を得たメングリ・ギレイがクリミア汗となった。首都をバフチ・サライとするクリミア汗国は、オスマン・トルコの影響下にあり、基本的には南ロシアのステップ地帯の支配をめぐってモスクワ国家と敵対関係にあったが、メングリ・ギレイ汗の治世には、共通の敵=大汗国と対立していた。イヴァーン3世はこのメングリ・ギレイ汗あての外交文書の中で、彼のことを「偉大なるツァーリ」と呼び、「叩頭する」とか、「あなたの弟イヴァーン」という表現を使用しており、また伝統的なモンゴル人に対する貢税に匹敵する贈り物を送っていることが示しているように、クリミア汗国に対して、かつての宗主国=キプチャク汗国に対してと同様な、従属的な立場にあることを明らかにすることによって、クリミア汗国の協力を取り付けた。

 にもかかわらず、1480年、イヴァーン3世は、大汗国とリトアニアの攻勢に直面した。さらに、かねてより不満を抱いていた弟たちボリースとアンドレーイ・ボリショイが反乱を起こしたことで、事態は一層紛糾した。また、併合されたばかりのノーヴゴロトの情勢も不穏であった。こうした情勢に乗じて、アフマド汗は約10万の軍を率いて1480年6月にモスクワ遠征をはじめた。アフマド汗侵攻の知らせは7月にモスクワに届き、モスクワ軍も動員を開始した、各地で両軍の小競合いが始まっていた。9月、イヴァーン3世は前線からモスクワに帰還して、家族や財産を非難させ、弟たちとの和解を達成し、防衛軍を強化した。

 アフマド汗の軍は10月8日に、ウグラ川下流に姿をあらわし、渡河しようとしたが、大きな損失を出して、撃退された。モスクワ軍は数的には劣っていたが、火器の面では優勢であり、さらに川の流れが速かったためであった。アフマド汗は「川が凍り付けば、それが私のモスクワへの道となる」と豪語していたにもかかわらず、次第に不利な状況におちいっていった。クリミア汗国軍が攻勢に移ったために、アフマド汗が支援を期待していたリトアニア大公カジミェシ4世はモスクワと敵対することをためらった。 

 ウグラ川をはさんだ双方のあいだで交渉が進められた。アフマド汗はイヴァーン3世が個人で出頭すること、貢税の支払い、カシモフ公国の廃止を要求したが、イヴァーン3世はこれを拒否した。この交渉のあいだに、イヴァーン3世は時間を稼ぐことに成功し、和解した弟たちの部隊によって自軍を増強した。10月下旬、ウグラ川は氷結したが、リトアニアの援軍をあてにできないことを知ったアフマド汗は、渡河して、増強されたモスクワ軍を攻撃することをためらい、11月中旬にウグラ川から撤退した。アフマド汗はモスクワ遠征を考えていたようであるが、自軍の撤退の途中での内部争いの渦中で殺されてしまった。その後、大汗国はアフマド汗の息子たちに受け継がれたが、 1502年にクリミア汗国、アーストラハン汗国に分割されてしまった。

 伝統的なロシア史学は、この「ウグラ河畔での逗留」を、2世紀半続いた「タタールのくびき」の終焉を象徴する歴史的事件と扱ってきたが、それは過大評価である。ことの本質は、キプチャク汗国の解体とその後継国家による争いの中で、モスクワ国家が一つの後継国家=クリミア汗国と協力して、もう一つの後継国家=大汗国に対抗したにすぎない。確かに、イヴァーン3世は1476年以降アフマド汗には貢税を支払っていない。しかし、イヴァーン3世はメングリ・ギレイ汗に対して従属的な立場をとり、またその遺言の中で、クリミア、カシモフ、アーストラハン、ノガイの諸汗国に貢税を割り当てているように、モスクワと諸汗国との関係には決定的な変化が生じたわけではなかった。ただし、アフマド汗の殺害が示しているように、これらの諸汗国の抗争が全体としてのモンゴル・タタール人の勢力を弱め、そのことがモスクワに有利に働いていったことは否定できない。

 イヴァーン3世の時代、、ロシアの統一をめぐるライバルであったリトアニアとの関係、当時北ヨーロッパおよびバルト地方の強国であったスウェーデンとの関係でも、力関係はモスクワ国家に有利になろうとしていた。イヴァーン3世はリトアニア大公国との紛争地域であった西ロシア国境地帯に対しても軍事行動を起こし、当地の諸公は次第にリトアニアを離反して、モスクワ国家に勤務するようになっていった。1490年に、イヴァーンの長年のライバルであったポーランド国王=リトアニア大公カジミェシ4世が死に、ポーランドとリトアニアが一時的に分離すると、イヴァーン3世はこれに乗じて、リトアニア大公アレクサーンドルに軍事的な圧力をかけ、彼に領土的な譲歩を強いた。また、北部で国境を接するスウェーデンとの関係では、1323年にスウェーデンとノーヴゴロトの間で結ばれたオレシェク(オレホヴェツ)条約によってスウェーデンとの国境が定められていたが、イヴァーン3世はスウェーデン国内での権力闘争に乗じて、攻勢に転じ、北部国境地域でのモスクワ国家の地位を固めた。

  <イヴァーン3世とソフィア・パレオローグ>

 イヴァーン3世の最初の妻マリアは1467年に死んでおり、彼は1472年にビザンツ帝国最後の皇帝の姪ゾエ(正教に改宗してソフィア)・パレオローグを二番目の妻に迎えた。ゾエはビザンツ帝国の滅亡後ローマ教皇に保護されており、ローマ教皇はモスクワをカトリック世界に引き入れるためにも、ゾエとイヴァーンとの結婚を望んでいたのである。伝統的なロシア史学では、このソフィアとの結婚を介して、ビザンツ的な儀礼、西ヨーロッパの文化、ひいてはビザンツ帝国の後継者としての地位がモスクワ国家に持ち込まれたという。確かに、ソフィアは「モスクワ大公妃にしてコンスタンチノープルの皇女」という称号を使っており、また、イヴァーン3世も、ビザンツ帝国の国章であった「双頭の鷲」の国章、「ツァーリ」という称号を公的な儀式の中で使いはじめている。しかし、このことをもって、イヴァーン3世がビザンツ皇帝の後継者であると意識しはじめたとか、モスクワ国家がビザンツ帝国の後継者となったと断定することはできない。ソフィア自身がビザンツ帝国の遺産の相続者ではないし、「双頭の鷲」の国章にしても、それがビザンツ帝国の後継者となることを意識して採用されたかどうかも疑わしい。さらに、何よりも、モスクワ国家自身の国際的な地位は、諸汗国との従属関係にみられるように、ビザンツ帝国の後継者を任じることができるほど高くはなかった。また、ソフィアの生活していたイタリアからアリストートル・フェオラヴァンチなどの優秀な建設職人がモスクワ国家にやってきて、クレムリンのウスペンスキイ寺院などを設計しているが、こうしたイタリア・ルネサンスの息吹きもその後のロシア建築に定着することはなかった。

 ソフィアはイヴァーン3世とのあいだに10人の子供をもうけたが、長男ヴァシーリイの誕生は、イヴァーンの前妻の子イヴァーン・イヴァノヴィチとその妻エレーナとのあいだの相続者争いをもたらした。1490年イヴァーン・イヴァノヴィチが32歳で死ぬと(このときも、ソフィアが毒殺したのではないかという噂が立った)、エレーナは残された息子ドミートリイの相続権を主張した。1497年、イヴァーンがドミートリイを継承者として宣言することを決心したとき、ソフィアとヴァシーリイは反乱を企て、ヴォローグダとベローゼロで軍を集めようとした。この反乱計画を事前に察知したイヴァーン3世は、ヴァシーリイを逮捕し、その同調者を処刑するとともに、1498年、イヴァーンは、ドミートリイ・イヴァノヴィチを大公にして後継者と宣言した。当時、イヴァーン3世はリトアニアとの戦争を再開しようとしており、ソフィアとヴァシーリイはリトアニアと結び付きすぎていたためであった(イヴァーン3世とソフィアとのあいだの長女エレーナはリトアニア大公アレクサーンドルに嫁いでいた)。また、イヴァーン3世は教会財産を世俗化しようとしていたが、エレーナとドミートリイは、教会財産の世俗化を支持する「非所有派」=「ユダヤ派」という異端運動に好意的であったからであった。1499年3月、イヴァーンはヴァシーリイを釈放しノーヴゴロトとプスコーフの公とした。リトアニアとの戦争の前夜にあって、ソフィア派の忠誠を取り付けるためであった。結局、ソフィアとヴァシーリイはこのリトアニア・カードを使って、イヴァーン3世に妥協を強いた。1502年4月、エレーナとドミートリイは投獄され、ヴァシーリイは「ヴラヂーミルとモスクワ大公にして全ルーシの専制君主」と宣言された。

  <ヴァシーリイ3世>

  イヴァーン3世晩年の後継者争いを勝ち抜き、1503年に即位したヴァシーリイ3世の治世(1503ー1533)は、モスクワ国家の歴史の中で、父イヴァーン3世、息子のイヴァーン4世の治世と比較すると安定しており、モスクワ国家が対外的にも国内的にも順調にその基盤を固めていった時代であった。

  ヴァシーリイ3世は、イヴァーン3世の「国土の集積」という課題を前進させ、西方ではロシア統一をめぐるライバルであったリトアニア大公国と戦い、プスコーフを併合し(1510年)、さらに1514年にはリトアニアとの紛争の懸案の町スモレーンスクを併合した。また、彼は、北東ロシアのなかでしばしばヴラヂーミル大公国のちにはモスクワ大公国の覇権に難色を示していたリャザーン公国を1521年に併合し、1522年にはノーヴゴロト・セヴェルスキイ公国を併合することによって、オカ川、ドニエプル川上流地帯すべてをモスクワの支配下に置いた。タタール人勢力に関しては、クリミア汗国との同盟の更新に失敗し、のちのクリミア・タタールのモスクワ侵攻を招く原因を作ったけれども、カザーン汗国に対してはモスクワを支持する汗を即位させ、また汗国に対する前進基地を築き、息子イヴァーン4世がカザーンを占領する道を切り開いた。

  このようなモスクワ国家の成長を背景として、「モスクワ=第三のローマ」論が、16世紀初頭頃から主張されはじめた。これは、プスコーフの僧侶フィロフェイによってヴァシーリイ3世らのモスクワ大公あての書簡のなかで初めて表明されたものである。それによると、古代ローマ帝国(第一のローマ)とビザンツ帝国(第二のローマ)は、正教から逸脱したために滅んでいったが、正教の伝統を受け継いだモスクワ国家(第三のローマ)は、最後のキリスト教帝国として永遠に繁栄するであろう、というのである。この思想は、モスクワ国家、のちのロシア帝国が国際政治のなかで重要な役割を果たしていくにつれて、ロシアこそが全人類をを救済するという思想(ロシア・メシアニズム)、また、農村共同体を基盤としたロシア社会は資本主義によって腐敗した西ヨーロッパ社会よりも高度な段階にあるという19世紀の革命思想(ナロードニキ主義)、さらには、最初の社会主義革命を達成した先進的なロシア(ソ連)こそが人類を共産主義に向かわせるというイデオロギー(ロシア共産主義)の思想的底流となっていった。

  こうして、イヴァーン3世、ヴァシーリイ3世の治世を通じて中央集権的な国家制度を完成させていったモスクワ国家とその頂点に立つモスクワ大公の専制的権力は、この当時の西・中央ヨーロッパ諸国の皇帝、国王の権力とくらべても、かなり強大であった。ヴァシーリイ3世の治世にモスクワを訪問した神聖ローマ皇帝マキシミリアンの大使ヘルベルシュタインは、モスクワ大公の権力についてこう述べている。

 「公は、聖職者に対しても俗人に対しても権力を行使しており、臣民すべての生命と財産を無制限にコントロールしている。その側近の誰一人として、どのような問題であっても、あえて彼に反対したり、ましてや別の意見をだすような権威をもっていない。彼らは、公の意志は神の意志であり、公の行為はすべて神の意志にしたがっているとあからさまに語っている。彼らはこの意味で、公を神の鍵番、侍従とみなしている。要するに、彼らは公を神の意志の執行者であると信じているのである。だからこそ、捕虜の釈放についてや、重要事件について、嘆願書が提出されたときには、公はいつも『神が御下命くださったとき、この者は釈放されるであろう』と答えるのである。同様にして、疑問の余地があり、不明瞭な事件の調査が請求されると、『神と公のみぞ知る』というのが普通の答えであった。国民の野蛮な性格が、公を専制君主にしてしまったのか、それとも公が専制君主であるために、国民がかくも野蛮で残酷な境遇に置かれてしまっているのか、この問題は定かではない。」

  今日まで西ヨーロッパ人のロシア観の底流に流れているロシア=後進国観、極言すれば「ロシア=野蛮国」観がすでに16世紀のヘルベルシュタインの心性のなかに形成されていることに注目すべきであろう。

  <イヴァーン雷帝:その性格>

  オプリーチニナ恐怖政治に象徴されるイヴァーン4世(雷帝)の治世(1533−84)はモスクワ国家の歴史の中でも、ひいてはロシア史全体の中でも、国内外の問題で波乱にとんだ時期であり、それだけにロシア史上さまざまな論争を呼び起こしてきた時代であった。

  イヴァーン4世は1530年、父ヴァシーリイ3世、母エレーナ・グリンスカヤのあいだに生まれたが、3才のときに父を、8才のときに母を失った。ヴァシーリイ3世は息子が成人するまでは、有力大貴族たちにイヴァーンを保護するように命令していた。このために、幼少のイヴァーンは、モスクワ国家の権力闘争の渦中に身をさらすことになった。ヴァシーリイ3世の死後、モスクワ国家の実権はエレーナ・グリンスカヤとその側近たちの手に移ったが、エレーナが1537年に一説には毒殺されると、有力な大貴族たちのあいだで血なまぐさい権力闘争が頻発し、イヴァーンはさまざまな暴力事件、自分に対する侮辱を経験し、このことが彼の心に深く傷を残し、大貴族に対する過度の猜疑心、ひいてはパラノイア的な性格の形成を促したという。のちにイヴァーンは自分の不幸な少年時代について、いささか感傷的にこう述べている。

  「われらの母、敬虔なる大公妃エレーナが地上を去って、神のもとにみまかれたとき、弟ユーリイと私は完全な孤独となって、この世にとり残された。誰も私たちを助けなかった。私たちの希望は、神、聖母、すべての神聖なる祈りにかかっていただけであった。このとき私は8歳であった。臣下は、それぞれの願いを実現するときが来たと考えた。君主のいない王国を手に入れたのである。自分たちの君主であるわれわれにいかなる配慮もしたことがなかった。彼らは富と栄誉を奪い、そのためにまた次々と共倒れになっていった。彼らは忌まわしい行為のみを行なっていた。何人の私たちの貴族、私たちの父の側近、軍司令官を殺したことだろうか。我が祖父の宮廷、村落、財産を奪い、私物化した。・・・一方、弟ユーリイと私は、彼らからよそ者か物乞いのようにあしらわれた。・・・着るものも、食べるものもなく、どれほどの貧しさに耐えたことか。われわれにはいかなる自由もなかった。子どもを育てるのにふさわしいやり方でわれわれは育てられなかった。」

  成人したイヴァーンは1547年1月の戴冠式で、歴代のロシアの君主としては初めて公式に「ツァーリ」として即位した。モスクワ大公は長らく「全ルーシの大公」と称しており、イヴァーンの祖父イヴァーン3世が「全ルーシのツァーリ」と称したこともあったが、それはごく限定された、非公式のことであった。同年、彼は大貴族の娘アナスタシア・ロマノヴナと結婚しているが、彼女はリューリク朝が絶えたのちのロマーノフ朝の最初のツァーリであるミハイール・ロマーノフの曾祖母にあたる。

  こうしてツァーリとしての親政を開始したイヴァーン4世の治世は国内の改革と対外的拡張に成功した第1期(1547−64)、国内外の困難に直面し、オプリーチニナ政策を実行した第2期(1565−72)、国内の混乱を収拾しようとした晩年の最後の10年の第3期(1573−84)に区分することができる。

  <イヴァーン4世:国内諸改革>

  イヴァーン4世は幼・少年時代、大貴族の専横のために屈辱的な経験をしていた。それゆえ、彼の国内改革の目標は、まず分領諸公の子孫と大貴族を中心とした旧来の上層貴族層の権限を制限し、ツァーリに従属する勤務士族層の育成をはかって、自分を中心とする専制体制を固めることであった。このために、彼は、従来からの最高諮問機関であった名門の大貴族から構成される貴族会議に相談するのではなく、自分が登用した、勤務士族出身のアダシェフ、ノーヴゴロト出身の司祭シリヴェストル、それに府主教マカリイなどの側近(「選抜者会議」と呼ぶこともある)を重用して、自分の政策を推し進めようとした。アダシェフは1550年代の国内改革の実質的な指導者であり、シリヴェストルは宗教的な観点からイヴァーン4世に帝王学を授け、府主教マカリイはツァーリ権力の「神寵性」を唱え、シリヴェストルとともにイヴァーン4世の政治思想・宗教思想に大きな影響を与えた。

  イヴァーン4世は1549年に全国会議(ゼームスキイ・ソボール)を招集した。そこには大貴族や高位の聖職者の代表だけではなく、地方長官、勤務士族の代表者も参加しており、イヴァーン4世は後者に好意的な発言をした。1549年の全国会議は、イヴァーン3世の治世に編集された「1497年法典」の改訂を決定し、翌年、「1550年法典」が編纂された。この法典は中央権力の権限を強め、地方の代官の権限を制限した。翌1551年、イヴァーン4世は聖職者会議(のちに「百章会議」と呼ばれることになる)を招集して、教会の典礼の統一、聖職者の規律の厳格化を提案すると同時に、教会領・修道院領の世俗化、教会の法廷に対する世俗の法廷の優位を目指すような改革案を提起した。会議では、前者については賛同を得たものの、後者については、教会財産の不可侵性を主張する「ヨシフ派」を中心とした聖職者の抵抗のために、教会の土地取得に制限を付けるにとどまった。

  モスクワ国家の中央行政機関は、もともとは分領公国時代の諸公の宮廷経営から発展してきたものであった。分領公国時代の諸公の宮廷経営は、経済的な収入をもたらす個々の部門を担当する「部局(プーチ)」、例えば、公の馬や牧草地を管理する馬丁局、養蜂業や蜜酒製造を管理する酒蔵局などで構成されており、それらの部局の長である「部局大貴族(プートヌイ・ボヤーリン)」−馬丁頭(コニューシイ・ボヤーリン)」、酒蔵頭(チャーシニク)など−はこの部局に属する地域の住民への行政権・司法権も持っていた。したがって、「部局」は行政単位であると同時に領域的な単位であった。ちなみに、もともと「道」を意味する「プーチ」なるロシア語が、モンゴル・チュルク的な用語法の影響を受けて、公の行政部局を意味する単語として使われはじめたのは、モンゴルの支配以後のことであり、ここでも、国家制度に対するモンゴルの支配の影響を見て取ることができる。しかし、モスクワ公国が一分領公国からモスクワ国家という全国組織に成長し、新しい行政職務が登場し、旧来の行政事務も複雑となると、「部局」というような個々人への行政の委任ではなく、常設的な行政機関が必要になってきた。これが、「官庁(プリカース)」制度である。この「官庁制度」は、文字どおり一回の「プリカース(命令)」というかたちから、個人への恒常的な委任としての「プリカース」(「部局」スタイル)を経て、独立した事務処理機構と担当役人を持つ常設的国家機関としての「官庁制度」へと発展していった。イヴァーン4世の治世には、外交を担当する外交使節庁、強盗検察庁、領主の土地の管理と農民の土地登録を担当する知行地庁、軍事業務を担当する補任庁などが生まれている。こうした官庁は、長官、書記官、書記官補で構成され、大貴族、宮廷侍従官(オコリニチイ)がそれらに任命された。

  しかし、こうした官庁制度の導入をロシアが近代的な中央集権国家に脱皮しつつある証として過大評価することはできない。確かに、官庁制度はその名称だけをとらえれば、近代的な官僚制度の原型のようにみえるが、実は、その活動の収入源として一定の地域と住民を割り当てられており、その住民たちに対する行政権と司法権をもつ行政=領域単位であった。この意味では、ほとんどかつての「部局制度」とかわることがない。それゆえ、モスクワ国家の行政制度は、分領公国時代の諸公の宮廷経営の色彩(家産制的性格)を強く持っていた。西ヨーロッパ諸国の国家行政制度も、やはり王室領を経営する家産制的な組織から成長してきており、それが次第に公的な中央権力機関にかわっていった。この点では、ロシアも同様であるが、ロシアの特殊な点は、ロシアの中央権力機関は家産制的な特質をかなりのちの時代まで持ち続け、したがって、君主の私的な帝室行政と国家の公的な行政との区分がきわめてあいまいとなり、そのために、ロシアの君主の専制的な振る舞いに歯止めがかけられなかったことである(18世紀に入っても、ロシアの皇帝は、私的な御料地と公的な国有地が法的に異なった存在であるという意識をほとんど持っていなかった)。

  また、イヴァーン4世は1566年にもリヴォニア戦争の継続の是非に関して「全国会議」を招集した。ここには貴族会議、聖職者会議、政府高官、勤務士族の代表者だけではなく、商工民の代表も参加を許されていた。この「全国会議」は、僧侶身分、貴族身分、市民身分で構成されたフランスの「三部会」に代表される西ヨーロッパの身分制議会に外見的に類似していたために、「全国会議」は身分制議会であり、この時期のモスクワ国家に「身分代表君主制」が成立していたと主張する説がある。しかし、モスクワ国家の諸身分は、あくまでもツァーリが任命した「官等」によって決定されていたのであり、独自の権利と利害を持つ社会集団ではなく、「全国会議」への彼らの代表も、彼らのあいだから選出されたのではなく、彼らのあいだからツァーリが任命した人々であった(したがって、全国会議への出席は「権利」ではなく、「義務」であった)。さらに、招集された「全国会議」は、西ヨーロッパの身分制議会が持っていたような立法権、課税協賛権、弾劾権、請願権を与えられていなかった。それゆえ、「全国会議」は、しばしば王権と対立し、王権を制限する能力を持っていた西ヨーロッパの身分制議会ではなく、ツァーリが招集する政府の諮問機関にすぎなかった。

  地方行政に関しては、16世紀前半に「郡制改革」が実行された。分領公国時代、諸公は、自分の代官(ナメーストニク)−公に「代わって(ヴメスト)に由来する−と地元の郷長(ヴォロスチェリ)その他の役人に行政権・司法権を与えて、地方を統治していた。彼らの俸給は地元の住民からの扶持(コルム)に依存していた。地元の住民は、こうした役人の在職期間中、通常は年に三回、すなわち誕生日、復活祭、聖ペテロの日(6月29日)に扶持を支払わなくてはならなかった。この「扶持制度(コルムレーニエ)」は14−15世紀にもっとも広まったが、自分の任期にできるかぎり蓄財することに関心を抱く代官たちの気ままな振る舞いは、次第にモスクワ大公の政治権力への障害、公国の税収入への障害となった。このために、15世紀に入ると、モスクワ大公は代官の職務を規制し、「扶持制度」の乱用を防ぐ措置を講じはじめた。16世紀前半からイヴァーン4世の治世にかけて実行された「郡制改革」は、刑事裁判権を代官や郷長の管轄から取り上げて、地元の「大貴族の息子たち」から選出された「郡長老」の管轄に移した。また、この「郡長老」の仕事を補佐するための「宣誓者」が地元の富裕な農民のあいだから選出されることになった。さらに、1555−56年の改革は、この傾向を一層進めて、富裕な農民と商工業者から選出された「地方長老」とその役所に、「郡長老」の管轄のもとで、郡の刑事裁判、警察業務、徴税・債務記録の管理を委ねた。都市では、ツァーリが勤務士族のあいだから任命した「市の命令者」が同様な役割を果たすことになった。同時に、それまでの扶持制度を廃止して、地方で徴収された税金が直接中央に入ってくる措置を講じた。しかし、こうした改革措置がどの地域に適用されるのかについては、明記されておらず、また、扶持制度の特権を享受していた大貴族、上級勤務士族の抵抗もあって、この郡制改革も全国的に一挙に実行されたわけではなく、改革の程度についても、地域的にその度合いが異なっていた。

  1556年の「勤務」規定は、すでに軍役勤務を前提条件としていた知行地領主と、離脱権を含む伝統的な特権を確保していた世襲地領主との格差を縮めた。この規定は、その人物が誰であるかにではなく、どれだけの土地を所有しているかで軍役を定め、100チェトヴェルチの土地につき完全装備の騎兵1名を提供することを世俗の領主に義務づけたのである。領主は、何らかの理由で定められた軍役を提供できないときには、金銭を支払わなくてはならず、逃亡などした場合には、土地の一部かすべてを没収された。また、名門貴族は下位のものに服従することはないという門地制度を弱める措置も導入され、戦時には、門地をめぐる争論はツァーリによって禁止され、中央政府は門地を無視して、下位の貴族から司令官を任命することができるようになった。

  <イヴァーン4世:対外政策>

  対外的な拡張については、イヴァーン4世は、まず東のカザーン汗国の併合を目指した。ヴォルガ上流に位置するカザーン汗国はヴォルガ川にそった商業ルートを押さえており、モスクワ国家の東方への拡張にとっての障害であると同時に、他のタタール勢力と連携して、しばしばロシア侵攻を企てていたからである。カザーン汗国を併合する軍事的な試みは、すでにヴァシーリイ3世の時代から始まっていたが、イヴァーン4世は、汗国の中でモスクワ国家への臣従を認めようとする勢力が台頭しはじめたことを利用して、1540年代中頃からカザーン汗国に再三軍事干渉をくわだてた。1552年6月、150門の大砲を備えた15万のモスクワ軍がモスクワを出発し、カザーン汗国を支援するクリミア・タタール軍を撃破したのちに、8月にカザーンを包囲した。モスクワ軍は、戦闘櫓、攻城砲を使い、地下にトンネルを掘って城壁を爆破するといった作戦を実行して、10月にカザーンの占領に成功した。その後、ヴォルガ下流のアーストラハン汗国、ノガイ・タタールなども次々とモスクワ国家に服従するようになり、モスクワ国家はヴォルガ全流域を支配するようになった。イヴァーン4世のカザーン占領は、その後のロシア帝国の東方・南方への膨張・拡大の道を切り開いたという意味で、ロシア史上画期的な事件であった(イヴァーン4世の治世の後半の1581年、イェルマークの率いるカザーク部隊のシベリア遠征が始まっている)。

  カザーン攻略の後、イヴァーン4世はリヴォニア地方の占領を目指した。リヴォニアは大きな戦略的・商業的な価値を持った東バルト地方の土地であり、ロシアと西ヨーロッパとの交易ルートの大半はこの地方を通過していた。リヴォニア騎士団がこの地方を支配していたが、騎士団長は何人かの司教、商業都市と権力を分有しており、16世紀に入ると、宗教改革問題なども関連して、リヴォニアは政治的に分裂状態に陥っていた。イヴァーン4世はこのリヴォニアを占領することで、西ヨーロッパへの直接の窓を開けようとしたのである。一方、側近のアダシェフ、シリヴェストルたちは、直接の脅威であったクリミア・タタールに反撃する拠点の確保を提案し、リヴォニア遠征には難色を示していた。リヴォニア遠征は、やはりリヴォニアをねらうポーランド・リトアニアなどの周辺諸国との紛争にモスクワ国家を巻き込み、南部国境地帯が手薄になるというのである。当初、クリミアへの遠征が企てられ一時的な成功が収められたが、自然条件その他によりモスクワ軍のこれ以上の侵攻が不可能であることが明らかになると、イヴァーン4世の意見が支配的となった。

  1558年、イヴァーン4世は、前年にリヴォニアがリトアニアと反モスクワ的な同盟条約を結んだことを口実に、リヴォニアに侵攻した。緒戦、ロシア側は大きな戦果をあげ、商業港ナルヴァ、商業都市ドルパトなどを含むリヴォニア東部の占領に成功した。しかし、クリミア・タタールの脅威を力説するアダシェフたちの提案もあって、1559年に休戦条約が結ばれた。この休戦を利用して、リヴォニアの領主はポーランド国王ジギスムント2世と協定を結び、リヴォニア騎士団領とリガ大司教領はポーランド国王の保護下に入った。さらに、スウェーデンがリヴォニア北部に、デンマークが西部にそれぞれ勢力を拡張したために、戦争は紛糾し、長期化することになった。モスクワ国家はリヴォニア騎士団だけではなく、ポーランド・リトアニア、スウェーデンとも戦わなくてはならなかった。1563年までは、モスクワ軍はリトアニアの首都ヴィリニュスを占領するなど、軍事的に優勢であったが、1564年に大敗を喫し、さらにクールプスキイ公など有力な軍司令官がリトアニアに逃亡すると、以後、モスクワ国家側は苦境に追い込まれていった。

  <オプリーチニナ恐怖政治>

  このリヴォニア戦争の苦境を契機に、1565年以降、イヴァーン4世の治世は第2期オプリーチニナ恐怖政治時代に入る。もともとパラノイア的な性格で、猜疑心の強いイヴァーンは、リヴォニア戦争の失敗の原因を大貴族層を中心とする国内の反対派の裏切りに求め、彼らを一掃しようとしたからである。

  当初から、彼の改革政策と戦争政策は、大貴族層の抵抗にあっていた。改革政策は大貴族層の特権を制限し、戦争政策は大貴族層に人的・物的な犠牲を強いるものであったからである。イヴァーンと大貴族層との衝突が初めて表面化したのは、1553年のことであった。重病に罹ったイヴァーンは、幼い息子ドミートリイに忠誠を誓うように大貴族に求めたが、何人かの大貴族がこれを拒否し、イヴァーンの従兄弟ヴラヂーミル・スタリツキイ公を後継者にすることを望んだ。また、改革時代の側近アダシェフとシリヴェストルでさえも、皇妃アナスタシア毒殺の嫌疑を受けて1560年に追放されていた。さらに、1560年代に入ると、有力ロシア諸公を引き寄せようとするポーランド国王ジギスムント2世の政策もあって、次々と有力大貴族がポーランド・リトアニアに逃亡していた。1563年、それまで、イヴァーンが大貴族層に対する強攻策を実行することを抑制していた府主教マカリイが死に、1564年、モスクワ軍が軍事的敗北を喫すると、イヴァーン4世は緊急措置にうったえた。

  1564年、12月3日、イヴァーン4世は従者と家族とともにモスクワを退去し、トロイツァ・セルギエフ修道院に巡礼してから、アレクサンドロフ村におちついた。翌年の1月3日、彼はそこから二つの手紙をモスクワに送った。第一の手紙は大貴族、高級聖職者、役人あてのもので、彼らの横暴・専横・裏切りを非難して、退位する意向を明らかにしていた。第二の手紙は商人とモスクワ住民あてのもので、彼らにはそのような怒りを感じていないこと、むしろ彼らの忠誠心を高く評価していることを明らかにしていた。これはきわめて危険な政治的冒険であったが、イヴァーンは賭けに成功した。貴族会議と高級聖職者は、モスクワの庶民層の圧力を受けて、イヴァーンに退位の翻意とモスクワ帰還を嘆願し、どのような条件も受け入れざるをえなかったからである。1月5日、イヴァーン4世は退位を撤回することに同意したが、その際、(1)自分の敵や国家への裏切り者を断罪するにあたって、無条件の権力を享受し、いかなる人物も機関も彼の決定や行動に干渉する権力を持たないこと、(2)国土は二つの部分に分けられ、一つ(いわゆるゼームスチナ)は旧来の制度を維持し、以前と同じように、ツァーリ、貴族会議、役人によって統治され、もう一方(オプリーチニナ、「特別の」、「以外の」を意味する「オプリーチ」に由来する)は伝統的な行政制度の枠を越えて、イヴァーンが作った特別法廷、その地方行政、警察、軍隊によって支配されることを認めさせた。

  1565年2月、モスクワに帰還したイヴァーン4世は「オプリーチニナ」を創設する布告を発し、貴族会議もこれを承認した。イヴァーンはこの布告を即座に実行し、政治的、経済的、軍事的に重要な地域をオプリーチニナに編入した。オプリーチニナに編入された領土は、一説によれば国土の2分の1に達し、その過程で、古くからの世襲地を没収された大貴族層は大きな打撃を被った。同時に、オプリーチニナ隊員として知られるツァーリ直属の親衛隊が組織された。彼らは黒い装束をまとい、馬の鞍には犬の頭のレプリカと箒(国中から裏切りを一掃するという任務をあらわしていた)をつけ、反対派の処罰の面で特別な権限を与えられていたから、オプリーチニナ恐怖政治の象徴となった。オプリーチニナ創設直後の2月、有力な大貴族に対する弾圧が始まり、ツァーリと国家に対する陰謀の科で、何人かの大貴族、軍司令官、官僚たちが「串刺しの刑」などの残酷な方法で処刑された。

  イヴァーン4世は1566年、全国会議を招集した。リヴォニア戦争の継続とその財政的な措置の承認を取り付けると同時に、オプリーチニナ政策による大貴族層の不満を緩和するためであった。全国会議はリヴォニア戦争の継続を承認し、オプリーチニナ政策は緩和された。処刑は中止され、追放された人々の多くが赦免された。だが、このような和解政策は、オプリーチニナ反対派を勢いづけ、彼らはオプリーチニナの廃止を公然と求めはじめた。オプリーチニナ反対派であった府主教アファナシイが辞任しても、そのあとを継いだのは、やはり反対派のフィリップ府主教であった。

  1568年、イヴァーン4世は大貴族の陰謀という密告を受けると、再び、大弾圧を開始した。陰謀の首謀者とされた馬丁長チェラドニンは処刑され、彼の領地はオプリーチニナ隊員によって略奪された(史料によれば、彼とともに150名に達する士族と役人、さらにその倍の数の家臣や奴隷が殺された)。大貴族層の支持を得ていたヴラヂーミル・スタリツキイ公は自殺に追い込まれ、彼の一族の大半は殺された。また、府主教フィリップは火刑を宣告された。

  さらに、自治共和国の伝統を持つノーヴゴロトの運命は悲惨なものであった。大主教ピーメンの率いるノーヴゴロトがポーランド・リトアニアと同盟しようとしているとの偽造文書を受け取ったイヴァーン4世は、1569年12月、ノーヴゴロトに懲罰遠征軍を派遣した。1570年1月初旬、ノーヴゴロトを包囲したオプリーチニナ懲罰遠征軍は、市内の教会、修道院、商店、人家を略奪した。オプリーチニナ隊員は手足を縛った女子どもを冬のヴォルホフ川に投げ込み、浮き上がったものを斧と槍で突いて溺死させたという。裏切り者として告発されたものは残酷な拷問を伴う裁判にかけられ、ヴォルホフ川の氷の下に投げ込まれた。年代記作者のいささか誇張された数字では、数万名が虐殺・処刑されたという。このノーヴゴロトの「裏切り」の共犯の科で、モスクワでも中央政府の高官も含む300名が死刑を宣せられた。うち180名は死刑の執行直前に赦免されたが、120名が「切り刻み刑」、「釜ゆでの刑」で処刑された。処刑された有能な外交官イヴァーン・ヴァスコヴァーティイの最後の言葉は「吸血鬼たちよ、汝らのツァーリとともに呪われよ」であったという。また、オプリーチニナ政治の中で頭角をあらわし、一連のテロルを指導したオプリーチニナ隊員マリュータ・スクラトフは、その後のロシアの民話の中でオプリーチニナ恐怖政治を象徴する人物となった。

  全国的なオプリーチニナのテロルはモスクワ国家の基礎を揺るがし、行政機関と軍を麻痺状態に陥れた。この混乱に乗じて、1571年、クリミア・タタール軍がモスクワに進撃した。イヴァーンはモスクワを逃れ、モスクワはクリミア・タタール軍に焼き尽くされた。もしも、クリミア・タタール軍が撤退しなければ、ロシアは再びモンゴル・タタールの支配下に入ったかもしれないほどであった。この敗戦の原因は、オプリーチニナ軍とモスクワ国家正規軍との不和であった。このために、さしものイヴァーン4世も、オプリーチニナ政治のマイナス面を自覚するようになり、1572年に、オプリーチニナを廃止し、その名前を口にすることまでも禁止した。

  <雷帝の晩年>

   1573年から、イヴァーン4世の治世の第3期が始まる。イヴァーンはリヴォニア戦争とオプリーチニナ政策による国内外の混乱を収拾しなくてはならなかった。

  リヴォニア戦争後半でのモスクワ国家の主な敵はポーランド・リトアニアであった。両国は1569年の「リュブリンの合同」で、正式に連合し、「レーチ・ポスポリタ(王国)」となっていたが、1572年国王ジギスムント2世が死ぬと、イヴァーン4世はポーランド・リトアニアへの王位継承権を主張して、リヴォニアでの軍事行動を再開し、リヴォニアのほぼ全域を占領した。ところが、1575年にポーランド・リトアニア国王に選出されたステファン・バトリイは有能な君主であると同時に有能な軍司令官でもあった。彼は1576年からこのモスクワの攻勢に反撃を開始し、1579年にはポーロツクを奪回し、逆に、ロシアの町プスコーフを包囲し、ノーヴゴロトとモスクワへの進撃をうかがっていた。さらに、スウェーデン軍もカレリア地方に侵攻してきており、軍事的・経済的に疲弊したモスクワ国家は軍事的な崩壊の危機に直面した。

  このとき、イヴァーン4世は彼の生涯の中でもっとも輝かしい外交的な成果をあげた。彼は苦境を脱するために、ステファン・バトリイと交渉するのではなく、直接にローマ教皇に紛争の仲介を依頼したのである。宗教改革によってプロテスタント系の信者を失っていたローマ教皇は、ロシア教会をローマ・カトリックに帰属させる事ができるかもしれないこのチャンスに飛びつき、イエズス会士アントニオ・ポゼヴィノを紛争の調停者に任命したのである。彼の仲介のもとで、モスクワ国家とポーランドの講和交渉が、ヴェリーキエ・ルーキイからプスコーフに至る途中の村ヤム・ザポリスキイで1581年12月から1582年1月まで開かれた。ポーランド側はリヴォニアと一部のモスクワ国家領からのモスクワ軍の完全撤兵を要求し、モスクワ国家側はリヴォニア戦争での成果をすべて維持しようとした。また、モスクワ国家側は「カザーンとアーストラハンのツァーリ」という称号を認めることを、ポーランド側に要求した。交渉は難航したが、有能な外交官でもあったポゼヴィノの調停により(皮肉なことに、ロシア教会をローマ・カトリックに帰属させるという、ローマ教皇の主なもくろみは成功しなかったが)、妥協がはかられ、1月15日ヤム・ザポリスキイ条約が調印された。10年間の休戦が約束され、モスクワ国家はリヴォニアの全占領地をポーランドに移譲し、ポーランドはヴェリーキエ・ルーキイなどバトリイが占領した町をモスクワ国家に返却した。翌年、スウェーデンとのあいだにも、3年間の休戦条約が調印され、スウェーデンは占領したロシアの町を保持することに成功した。モスクワ国家は25年間におよぶリヴォニア戦争で敗北し、西ヨーロッパへの窓を開くという当初の目的を達成することに失敗した。西ヨーロッパへの窓をロシアが開くことに成功するには、100年以上ものちのピョートル大帝の治世を待たねばならなかった。

  1575年、イヴァーン4世はツァーリの称号を、キリスト教に改宗したタタール人の公シメオン・ベクブラトヴィチに譲り、自分はモスクワ大公の称号だけを確保し、自分の「分領」に引きこもった。これがたんにイヴァーン4世の遊び、気まぐれからでた行為であったのか、それとも、1564年のアレクサンドロフ村への退去事件と同様に、オプリーチニナを再開しようとした行為であったのかについては、歴史家のあいだでも意見が分かれている。後者の解釈を取るにしても、テロルと処刑の規模ははるかに小さく、ノーヴゴロト懲罰のような大量虐殺は繰り返されなかった。実際、彼は1年たらずで、再びツァーリの称号を使いはじめ、シメオン・ベクブラトヴィチには別の分領を与えた。晩年、イヴァーンは無責任な告発を禁止・処罰する特別法を発行するように貴族会議に要請し、彼は死んだ犠牲者全員を名誉回復した。彼は犠牲者のリスト(『失寵者過去帳』)を修道院に送って、その魂を救済する祈りを捧げるように要請したのである。

  イヴァーン4世は最初の妻アナスタシアとのあいだに、6人の子どもをもうけているが、そのうち3人が男子であった。長男のドミートリイは生後6ヶ月のときに、不運な事故で溺死しており、三男のフョードルは虚弱で、知恵遅れであったために、次男のイヴァーンが公位継承者であった。ところが、イヴァーン4世は1581年11月、激怒して息子イヴァーンを杖で打ち、それがもとで、数日後に息子のイヴァーンは死んだ。残された男系の相続者は病弱なフョードルと、後妻マリアとのあいだに生まれた幼少のドミートリイだけになってしまったので、この事件は結局はリューリク朝の断絶を招くことになった。さらに、イヴァーン4世自身も息子の死でひどく消耗し、1584年3月、54才で死んだ。

  <雷帝の評価>

  イヴァーン4世と彼の政策、とりわけオプリーチニナ政策をどのように評価するかは、同時代の第一次史料の大半が、クリミア・タタールの侵攻によるモスクワ大火、ナポレオンの侵攻によるモスクワ大火などのために失われてしまった結果、非常に困難になっている。全体として、歴史家の評価は、彼個人の病的な性格を強調し、したがって、彼の政策には合理的な要素がかけているという観点と、彼の行動は当時のモスクワ国家が直面した課題に対応しており、したがって、合理的ひいては進歩的であるという観点に分かれている。

  帝政ロシア時代のロシア史学は、一般的には前者の観点をとっていた。カラムジンは「オプリーチニナはイヴァーン4世の生命に対するいわれのない恐怖から設立され、それはツァーリ個人の安全を保証するという以外のいかなる目的も持っていなかった」と述べ、オプリーチニナの非合理的な性格を強調しているし、また、クリュチェフスキイによれば、大貴族へのあらゆる信頼を失ったイヴァーン4世は「危険を誇大視し」、「敵も味方も見分けがつかず、手当たり次第に殺戮しはじめた」というのである。これに対して、スターリン時代のソ連史学では、自らをイヴァーン4世になぞらえようとしたスターリンの意向を反映して、イヴァーン4世は中央集権的な国家の建設に尽力する「偉大な国家指導者」と称えられ、オプリーチニナ政策も反動的な大貴族層を粉砕した合理的・進歩的なものと評価されるようになった。ヴィッペルは「ロシア史学においてはオプリーチニナ制度を第一に恐怖と絶望の現れと描くことが長いあいだの習慣であった。それはイヴァーン4世の異常な性格に対応しているというのである。・・・テーマをこのように素朴で小説風に描くことは、すぐさま、きっぱりと捨てられなくてはならない。オプリーチニナ制度はまず第一に偉大な軍事行政改革と理解すべきときである」と述べており、また、バジレヴィチも「オプリーチニナは封建的細分状態の多くの残滓を廃絶し、貴族の反動的部分を粉砕して、中央集権国家を最終的に強化した」とオプリーチニナの進歩的な側面を強調する。だが、スターリン批判以後のソ連史学では、スターリンの個人独裁体制への批判とからめたかたちで、帝政時代のロシア史学の観点が復活することになる。ドゥブロフスキイは、イヴァーン4世を「スーパーマン」と描くような「歴史的著作における個人崇拝」はマルクス主義的な歴史学からの逸脱であると同時に、スターリン個人崇拝の確立に貢献したと述べ、シェヴャーコフは、オプリーチニナはロシア社会の「無意味でパラノイア的な破滅」であったとまで述べる。このように、イヴァーン4世の治世に関する評価は、今日に至るまで、先の二つの観点のあいだを揺れ動いており、確定されていない。

  <ボリース・ゴドゥノーフと「動乱時代」の開始>

  1584年にイヴァーン4世が波乱の生涯を終えると、帝位を継承したのは、正妻アナスタシアとのあいだの末子フョードル・イヴァノヴィチであった。継承者とされていた彼の兄イヴァーン・イヴァノヴィチが悲劇的な死を遂げており、イヴァーン4世と7番目の妻マリーア・ナガイナとのあいだの息子ドミートリイはまだ幼く、しかも帝位継承権を持っているか疑問を持たれていたためであった(教会法では3番目の妻までが正統と認められている)。20代半ばでツァーリとなったフョードルは肉体的にも精神的にも虚弱であったという。彼は非常に敬虔な正教徒で、宗教的なことだけに関心を抱いており(同時代人の証言によると、「フョードルはきわめて単純な人物であり、鐘を鳴らしたり、教会にいったりすることで時間の大半を費やしていた」)、国政に積極的に参与する姿勢を示したのは、モスクワに総主教座を設置することが問題となったおりだけであった(1589年、モスクワ府主教座は総主教座に昇格する)。

  このために、フョードルの時代の国政の大半は彼の義兄ボリース・ゴドゥノーフに委ねられた(フョードルは1580年にボリース・ゴドゥノーフの妹イリーナと結婚していた)。ゴドゥノーフ家は16世紀前半にはまだ傑出した名門一族ではなかったが、ボリースの父フョードルと伯父ドミートリイがイヴァーン4世のオプリーチニナ宮廷に仕えたときから、頭角をあらわし、ボリース自身もオプリーチニナ時代に一時権勢をふるったマリュータ・スクラトフの娘マリーアと結婚している。イヴァーン4世はボリースに幼い息子フョードルの世話を委ね、フョードルとボリースの妹イリーナは元々は幼友達であった。フョードルが帝位を継承すると、ボリースは、皇子ドミートリイの母方のナゴイ一族、名門のシュイスキイ一族、その他フョードルの摂政会議のメンバーを次々と追放し、ライバルがいなくなると、「君主の義兄、主馬頭、宮廷の守護者、カザーンとアーストラハン王国の管理者」という称号を皇帝から手に入れて、自分の地位に法的な根拠を与えた。

  1591年5月、皇子ドミートリイがウグリチで死んだ。ボリースが政治的なライバルを取り除くためにドミートリイの暗殺を命令したのではないかという風評がたっていたので、ボリースは、公平な調査の実施をアピールするために、政敵であったシュイスキイ一族のヴァシーリイを議長とする調査委員会をウグリチに派遣した。調査委員会は皇子の死が偶然によるものであるという公式報告を行なったが、ボリースによる暗殺のうわさは消えず、また、皇子ドミートリイは逃亡して死んではいないといううわさも広がり、このうわさがのちの動乱時代に皇子ドミートリイを僭称する偽ドミートリイ1世、2世の登場とつながってくる。

  1598年1月、子どものいない皇帝フョードルが死んだので、リューリク朝直系が断絶した。モスクワの庶民は、皇妃イリーナの帝位継承を望んだが、彼女は出家して修道院に引退してしまった。当初、ボリースも引退を宣言したが、全国会議によってツァーリに推挙された。(ただし、フョードルの死からボリースの即位にいたる過程については、判然としていない点も多い。ある史料はフョードルが生前に全権力をイリーナに譲渡し、貴族会議は彼女に忠誠を誓ったと述べているが、別の史料は、フョードルは死の直前にイリーナに修道院に入ることを命令したと述べている。また、ボリースは1598年の全国会議によってツァーリに推挙されたことになっているが、この全国会議は「でっちあげ」の会議であり、そもそもボリースは帝位「簒奪者」であるという説もある。いずれにせよ、ボリースが自分の即位の正統性の合理化に苦しんだことは、その後の事態の進展を見ても、明らかである)。

  フョードルの摂政時代も含めて、ボリース・ゴドゥノーフの内外政策の大半はイヴァーン4世の時代を踏襲するものであった。すなわち、ボリースも、大貴族や教会などの大土地所有者の活動を制限して、勤務士族層の立場を強化しようとした。リヴォニア戦争やオプリーチニナ政策の実行による国内の混乱のために、農村は荒廃し、人的資源が枯渇していたが、とくに中小の勤務士族層は、農民たちが逃亡したり、「1550年法典」でも保証されていた「ユーリイの日」(「1497年法典」によれば農民は11月26日の前後一週間は自由に移動することができた)を利用して大土地所有者のもとに移転していったために、人的物的な損失に苦しんでいた。ボリースは1580年代前半に、この「ユーリイの日」を一時的に廃止する「禁止年」を導入して農民を土地に緊縛し、同時に、逃亡農民の捜索に全力をあげることで、勤務士族層を保護しようとした。対外政策の面では、ボリースはリヴォニア戦争での失地回復に成功した。彼は、ポーランド国王ステファン・バトリイが死ぬと、後任のジギスムント3世とあらたに休戦条約を締結して西方からの脅威を取り除くと、1590−1595年に北方の脅威スウェーデンと戦い、1595年の講和条約によって、リヴォニア戦争で失ったイヴァンゴロトなどのフィンランド湾沿岸の地域をモスクワ国家に取り戻した。

  ボリースは経験豊かで有能なツァーリであり、内外の情勢が安定していれば、彼の治世と王朝の立場も安定したものになっていったと予想されるが、1601−03年の飢饉、悪疫の流行が彼の人気を一挙に後退させた。この飢饉について、同時代人はこう記している。

  「1601年、大飢饉が起こり、3年間続いた。・・・この時期には、信じられないほどの極悪非道なことが起こった。夫が妻子を放棄してしまうこと、食べるために妻が夫を殺したり、母親が子供を殺したりすることは、ごく普通の出来事であった。私は夫に捨てられた4人の女性仲間にであったことがある。彼女達はそのうちの一人の女性に、ひとやまの木を買いに市場にいかせた。彼女は宿舎に運んでくれた後に、代金を支払うことを農民に約束した。しかし、木を運んできて、農民が代金を受け取るために宿舎に入ると、彼女たちはこの農民を絞め殺した。死体は凍ったまま放置され、馬は食べられてしまった。死体が発見されると、女性たちは自白した。この農民は三番目の犠牲者であった。要するに、この飢饉は非常に大きいものであったので、ロシアのその他の町の死者を数えなくても、12万以上がモスクワの町で死に、この目的用に作られた郊外の3つの場所に埋葬された。」(マルジュレ、『ロシア帝国とモスクワ大公国』)

  「帝国は空前の飢餓と貧困を経験した。自分の子供を食べてしまった母親さえもいた。田舎の農民や住民は、宗教的な規則の断食を守らず、食料、牛、馬、羊、家禽を食べてしまうと、森でキノコを野菜として探しはじめた。彼らはもみがらや、ネコ、犬も貪欲に食べてしまった。彼らのおなかは膨張し、牛のように膨らんで、苦しみの中で死んでいった。冬には、彼らは卒倒しそうになった。彼らは折り重なって、地面に倒れた。道路は死体であふれ、狼、キツネ、犬、その他の野生動物が死体を食べていた。

  モスクワでも状況はよくなかった。穀物は途中で略奪される恐れから、市場にはあまり入ってこなかった。彼らはチームを組織しなくてはならず、チームは毎日馬車と橇で死体を集め、道を広げるために、野原に死体を捨てなくてはならなかった。死体は野原に捨てられた。どぶが一杯となると、土がかけられ、新しいどぶが開けられた。まだ死にきらない不運な者は、通りに横たわり、もう一度生命の息吹きを味わおうとしている。死体を拾い上げることを仕事としている人々は、死にかけているこれらの不運な人々も捕まえた。彼らは手足をもたれて、引き上げられ、墓場に急いで運ばれ、バスケットの中の羽根のように、投げ棄てられ、死体の中で窒息した。誰かが通りに横たわっている人に何かをあげようとすると、分け前にあずかろうと殺到する人々に押しつぶされてしまう。ある日、私は4日間飢えで死にそうになって、干し草の上にいた若者に食べ物を与えようとした。しかし、襲われることを恐れて、そうすることができなかった。朝、町の城壁の外に出ると、こやしの山に投げ棄てられた死体や半分食べられてしまった人、その他非常におそらしいものを目にすることであろう。それを目撃した人の髪の毛が逆立ってしまうほどおそらしい光景である。」(マッサ、『モスクワ国家史』)

  飢えた農民の反乱が各地で頻発し、またモスクワではボリース一族に反対する大貴族の陰謀が絶えなかった。ボリースは1602年には「ユーリイの日」を復活させることで、反乱農民の不満を押さえようとしたが、反乱は広がっていき、1603年夏には、モスクワに通じるすべての道を閉ざして、モスクワに迫る勢いを見せていた。

  <偽ドミートリイ1世>

  こうした混沌とした情勢の下に、リューリク朝の正統な継承者=皇子ドミートリイを称する人物が出現する。彼グリシカ・オトレピエフは、総主教ヨナのもとで写本作成者として働いていた修道士であったが、その後モスクワ国家を逃亡し、1603年にポーランド人貴族アダム・ヴィスニオヴェツキ公のもとに現れ、自分は1591年にウグリチで死んだとされている皇子ドミートリイであると称した。国境地帯にあるヴィスニオヴェツキ公の領地はモスクワ軍の襲撃を被っていたために、彼はボリース・ゴドゥノーフに対して反感を抱いていた。このために、彼はオトレピエフの申し立てをすぐさま受け入れ、この件をポーランド国王ジギスムント3世に報告するとともに、オトレピエフをサンドミール公ムニシェクに紹介した。報告を受けたジギスムント3世はこの偽ドミートリイをクラクフに招待し、非公式ながらも彼を支援することを約束した。偽ドミートリイはポーランドの支援を得るために、カトリックに改宗し、また、ローマ教皇庁も、異端のモスクワ国家を改宗させるために偽ドミートリイを利用することに熱心であった。偽ドミートリイはムニシェクの娘マリーナと婚約し、ポーランド貴族に金銭的領土的な報酬の約束を与えて彼らの支援を確保すると同時に、ボリース・ゴドゥノーフに不満を抱いていたドン・カザークとも接触した。カザークとは「放浪者」、「冒険者」を意味するチュルク起源の単語であるが、16世紀には、モスクワ国家から逃亡して、ドニエプル川とドン川のあいだのステップ地帯で、軍制にそった自由な自治共同体ををつくって生活していた逃亡農民その他の集団のことをさしている。

  1604年10月、偽ドミートリイ軍は「簒奪者」ボリースの打倒を目指して、モスクワ国家の国境を越え、ゴドゥノーフ政府に不満を抱く民衆の支持も得て、進撃を続けた。しかし、有能な軍司令官ピョートル・バスマノフなどに率いられたモスクワ軍もよく抵抗し、1605年1月のルイリスク近くのドブルイニチ村の戦いでは、外国人傭兵の助けを借りながらも、偽ドミートリイ軍に大勝を収めた。しかし、モスクワ軍は偽ドミートリイ軍を追撃するのではなく、偽ドミートリイを支持していた地域の懲罰・略奪に専念し、このために偽ドミートリイは息をつぐことができた。ここで、1605年4月に、ボリース・ゴドゥノーフが急死した。彼の息子フョードルが後を継いだが、すでにモスクワの内部でも支持者を失い、軍の総司令官に任命したピョートル・バスマノフすらも偽ドミートリイの側に寝返るありさまであった。6月1日、モスクワでゴドゥノーフ一族に対する反乱が起こり、フョードル・ゴドゥノーフは退位させられ、ゴドゥノーフ一族は追放された(フョードルとその母はその後殺された)。6月20日偽ドミートリイはモスクワに凱旋入城した。彼は、ナゴイ一族など、ボリース・ゴドゥノーフの時代に追放された人々に恩赦を与えた。その中には彼の「母」マリーア・ナガイナも含まれており、彼女は、偽ドミートリイと「再会」して、彼を自分の「息子」とみとめた。7月、偽ドミートリイはウスペンスキイ寺院で戴冠した。偽ドミートリイ1世である(?−1606)。

  偽ドミートリイ1世は自分を支持してくれた反乱農民に好意的な政策を実行した。1606年1月の布告は、隷属状態に陥っている農民の境遇を幾分か改善しようとし、同年2月の布告は1601−03年の「飢饉の期間」に逃亡した農民は本来の主人のもとに連れ戻される義務はないとした。しかし、このような農民に対する好意的な政策は、一方では、大貴族層ややはり偽ドミートリイの支持勢力であった勤務士族層の離反を招くことになった。さらに、彼がポーランド人を優遇し、彼らの風習を尊重したことも、モスクワ人の反発を招いていた。彼は自分の戴冠式にあたっては、銘文にラテン語を使用した、したがって、西方、ポーランド志向の記念貨幣を鋳造させている(一方、普通の流通用の貨幣としては、まったくロシア様式の貨幣を鋳造させている)。このために、偽ドミートリイは当初から、モスクワの大貴族の陰謀に直面することになった。彼らが偽ドミートリイを支持したのは、たんにボリース・ゴドゥノーフを取り除いて、自分たちの貴族会議に権力を取り戻すためだけであったからである。モスクワ大貴族の指導者ヴァシーリイ・シュイスキイは、すぐに、ドミートリイが「ペテン師」であり、本物の皇子ドミートリイは1591年に死んでいるとのうわさを流しはじめた。陰謀は露見して、ヴァシーリイ・シュイスキイは逮捕され、死刑判決を受けたが、刑の執行の直前に、偽ドミートリイの「寛大なる慈悲心」から、赦免された。しかし、偽ドミートリイのこのような人の良さが、彼の破滅を招いていく。

  自分の立場が危機にさらされているにもかかわらず、偽ドミートリイの最大の関心事は、サンドミール時代から心を寄せていたムニシェクの娘マリーナとの結婚であった。彼はマリーナとの結婚の承認をポーランド国王ジギスムント3世に再三懇願し、彼女の到着を心待ちにしており、彼女がポーランドからモスクワに出発すると、できる限りの便宜をはかって、豪華にもてなすように命じていた。マリーナは5月1日にモスクワに到着し、5月8日、二人の結婚式が行われた。だが、その舞台裏では、ヴァシーリイ・シュイスキイを中心としてクーデターが計画されていた。5月14日、シュイスキイ一派は、偽ドミートリイがローマ教皇の対トルコ「十字軍」遠征に参加させるために招請していたノーヴゴロトとプスコーフの部隊の支持を取り付けた。5月16日、偽ドミートリイは自分の結婚式のためにモスクワにやってきていたポーランド人「招待客」を歓待する宴会を開いていたが、彼らが帰ると、ヴァシーリイ・シュイスキイは、外国人傭兵を主体とするツァーリの親衛隊に、帰営するように命じ、シュイスキイ一派は無防備となったクレムリンの要所を占領することに成功した。17日早朝、火事を告げる教会の警鐘が鳴らされた。ポーランド人「招待客」がツァーリを襲っているとの説明を受けたモスクワの民衆は、ポーランド人を襲撃し、1700名あまりを殺した。ことの真相に気づいた偽ドミートリイは、クレムリンの上階の窓を飛び出して逃げようとしたが、このときに負傷してしまい、やすやすと殺されてしまった(彼の妻マリーナは侍女のスカートの中に隠れて逃れた)。偽ドミートリイの遺骸は赤の広場にさらされ、ヴァシーリイ・シュイスキイが、偽ドミートリイはペテン師であり、本当の皇子ドミートリイは1591年に死んでいることをモスクワの民衆に説明した。偽ドミートリイの遺骸はのちに火葬に付され、その灰は大砲にこめられて、西のポーランドに向けて発射された。だが、まもなく、偽ドミートリイは直前にクーデター計画を察知して、身代わりを残して、自分はモスクワを逃亡したといううわさが広まった。

  <ヴァシーリイ・シュイスキイ、ボロトニコフ、偽ドミートリイ2世>

  1606年5月19日、全国会議はクーデターの首謀者ヴァシーリイ・シュイスキイを皇帝に選出した。シュイスキイ家はアレクサーンドル・ネフスキイの兄アンドレーイを祖先とする、モスクワ国家の大貴族の中では筆頭の名門であった。また、ヴァシーリイ・シュイスキイは皇帝に選出されるにあたって、貴族会議の裁判無しでは貴族や商人を処罰したり、財産を没収しないことを誓約し、旧来の大貴族層の特権を尊重する政策を取ったので、「貴族皇帝」とも呼ばれた。彼は、皇子ドミートリイの遺骸をモスクワに運ばせたりして、自分の王朝を正統化しようとしたが、当初から、モスクワでの大貴族の陰謀と地方での反乱の頻発に苦しまなくてはならず、その短期の治世(1606−10)で、実質的にモスクワ国家の半分以上を統治することはできなかった。。シュイスキイ家とならぶ大貴族の名門ロマーノフ家はフィラレート・ロマーノフの総主教就任問題でヴァシーリイ・シュイスキイとたもとを分かち、また、イヴァーン・ボロトニコフを指導者とする反乱が南部ロシアに広まりはじめた。。

  奴隷出身のボロトニコフは、クリミア・タタールの捕虜となってトルコに売られ、その後逃亡してポーランドに向かった。ポーランドのサンドミールで偽ドミートリイ2世を擁立するミハイール・モルチャノフに気に入られ、当時、皇帝ヴァシーリイ・シュイスキイに対する反乱の拠点となっていたプチーヴリに派遣され、逃亡農民、カザーク、逃亡奴隷を主体とする反乱軍の総司令官となった。

  1606年、7月、約12000名のボロトニコフ軍はプチーヴリからモスクワに進撃を開始し、同時にイストマ・パシコフの率いる南部の士族層の部隊もモスクワを目指した。皇帝ヴァシーリイの弟イヴァーンの率いるモスクワ軍は、カルーガで反乱軍をくい止めようとしたが、大敗を喫し、また、有能な甥スコーピン・シュイスキイの率いるモスクワ軍の活躍も、たんに反乱軍の前進を遅らせたにすぎす、10月には、反乱軍はモスクワ包囲に成功した。この時点で、70以上の町がシュイスキイ政府に反旗を翻しており、包囲されたモスクワの民衆はヴァシーリイの退位を求めた。しかし、ここで、反乱軍のあいだに内部分裂が起こった。反乱が農民や奴隷の解放と、土地所有者の打倒を求める「社会革命」、「農民反乱」的な色彩を強めると、イストマ・パシコフ、リャプノフなどの士族層が反乱軍から離れ、シュイスキイ政府の側に次々と寝返ったからである。12月、ボロトニコフの反乱軍はカルーガに後退した。危機を脱した皇帝ヴァシーリイは1607年3月に、農民の移動の権利を無効とし、逃亡農民の回復期間を従来の5年から10年に延長する布告を発して、士族層を満足させ、さらに、南部の反乱地域を厳しく懲罰することを命じた。1607年春、ヴァシーリイ・シュイスキイ自身が大軍を率いて出陣し、反乱軍の拠点トゥーラを包囲し、反乱軍は絶望的な状態に追い込まれた。しかし、西部に新たな脅威=偽ドミートリイ2世が出現したために、ヴァシーリイは全面的な恩赦と引き換えに降伏を提案した。10月、ボロトニコフ軍は降伏し、ボロトニコフ自身はのちに溺死刑となった。このボロトニコフの反乱は「ロシアで最初の農民戦争」と呼ばれることもあるが、反乱軍の中での農民の比重は大きくない。

  皇帝ヴァシーリイ・シュイスキイがボロトニコフの反乱軍と対峙していた1607年後半、ポーランド軍、カザーク、南部の士族層に支持された偽ドミートリイ2世がオリョールに拠点をかまえ、1608年春にはモスクワに進撃を開始した。彼らはモスクワ軍を撃破してモスクワに近づいたが、攻略することはできず、自分たちの「首都」をモスクワ近郊のトゥシノに置いた。8月には偽ドミートリイ1世の妻マリーナもトゥシノにやってきて、「夫と再会し、結婚した」。トゥシノにはシュイスキイ政府に不満を抱くモスクワの大貴族もつぎつぎとやってきて(この中にはフィラレート・ロマーノフもおり、彼は偽ドミートリイ2世の手で総主教に任じられた)、宮廷、貴族会議、その他政府機関が作られ、皇帝ドミートリイの名の下に徴税が行われ、土地や称号、報酬が与えられた。

  モスクワとトゥシノの両陣営が対峙した約2年間、モスクワ国家には、ヴァシーリイ・シュイスキイと偽ドミートリイ2世という二人のツァーリとその政府が存在したことになる。事実、北東地方、北西地方の多くは偽ドミートリイ2世政府を支持し、また、貴族層の中には、陣営を変更したり、同時に二人のツァーリに仕えたものも多い。したがって、モスクワ国家の歴史全体を眺めれば、レーチ・ポスポリタ(ポーランド・リトアニア連合王国)に支持された偽ドミートリイ1世、同2世とボリース・ゴドゥノーフとヴァシーリイ・シュイスキイの抗争は、のちのポーランドのモスクワ国家侵攻も含めて、北東ロシアへの支配権をめぐるモスクワ、トヴェーリ、ノーヴゴロトの抗争、ロシアへの支配権をめぐるモスクワ大公国(モスクワ・ロシア)とリトアニア大公国(リトアニア・ロシア)との抗争の歴史の延長線上にあるということもできる。

  皇帝ヴァシーリイは1608年8月、膠着状態を打開するためにスウェーデン国王カルル9世に支援を求め、スコーピン・シュイスキイをノーヴゴロトに派遣してスウェーデン側との交渉にあたらせた。この結果、1609年2月、ヴィボルグ協定が結ばれ、モスクワ国家はフィンランド湾沿岸の地域をスウェーデンに譲渡する代わりに、スウェーデンの軍事的な支援を取り付けることに成功した。5月、約15000名のスウェーデン軍の支援を受けたスコーピン・シュイスキイの率いるモスクワ軍はノーヴゴロトを出発し、7月にはトヴェーリで偽ドミートリイ2世軍を撃破することに成功した。

  一方、ポーランド国王ジギスムント3世は、自国に敵対するヴィボルグ協定の締結を口実にモスクワ国家への侵攻を命じ、1609年9月、ポーランド軍はスモレーンスクを包囲した。モスクワ国家とポーランドの双方から圧力を受けたトゥシノ陣営は、あくまでも偽ドミートリイ2世を支えていこうと主張するグループとポーランドの直接的な支援を仰ごうとするグループに分裂し、偽ドミートリイ2世はカルーガに逃亡して、彼の政府は崩壊した。1610年2月、後者のグループの代表とジギスムント3世のあいだで協定が結ばれ、ロシア側は、ロシア正教の伝統、旧来からの貴族層・士族層・教会の諸特権が尊重されるとの条件で、ジギスムント3世の息子ウワヂスワフをロシアのツァーリとして受け入れることになった。

  1610年3月、スコーピン・シュイスキイの率いるモスクワ軍は偽ドミートリイ2世軍の残兵を掃討し、モスクワに凱旋した。戦勝によって人気を高めたスコーピン・シュイスキイは今度はポーランド軍との戦いに赴こうとしていたが、4月に急死してしまった。彼の人気を妬んだ皇帝ヴァシーリイが彼の暗殺を命じたといううわさが広まった。このうわさの真偽は別として、有能な軍司令官の死はモスクワ国家にとっては大きな打撃であった。彼に代わって総司令官となった皇帝ヴァシーリイの弟ドミートリイ・シュイスキイの率いるモスクワ軍が6月のクルシノの戦いで、ポーランド軍に大敗を喫し、もはやポーランド軍のモスクワ侵攻をくいとめることができなくなったためである。一方、カルーガに逃亡していた偽ドミートリイ2世軍も勢いを回復し、再びモスクワに迫ろうとしていた。7月、モスクワでは、ロマーノフ家、ゴリツィン家などが中心となった反政府陰謀反乱が勃発し、皇帝ヴァシーリイとその兄弟を逮捕した(その後、シュイスキイ兄弟はポーランドに連行され、その地で死んだ)。新政府(7名の大貴族政治)が権力を掌握し、侵攻中のポーランド軍総司令官ジョルキエフスキと交渉を始めて、ウワヂスワフをツァーリに迎えることを決定し、9月にはポーランド軍がモスクワに入城した。だが、モスクワ国家の権力を掌握したポーランド軍は、モスクワ住民にウワヂスワフへの忠誠を強要して強権的な政治を行ない、地方でも略奪を働いたために、モスクワ国家の住民の反感を呼び起こしてしまった。ポーランドの支配に反対する士族層、庶民層は再び、偽ドミートリイ2世に期待をかけたものの、偽ドミートリイ2世は内部抗争の中で、12月に殺されてしまった。

  一方、スウェーデンもヴァシーリイ・シュイスキイ政府の崩壊に乗じて、モスクワ国家北部地域をスウェーデンの影響下におこうとしていた。ヤコブ・デ・ラ・ダルディエ将軍の率いるスウェーデン軍は1610年夏にモスクワ国家北部地域に対する軍事遠征を開始し、翌年の夏にはノーヴゴロトに迫った。これに対して、ノーヴゴロトはポーランド軍の圧迫に対抗するためにも、スウェーデンの保護を求める道を選択し、国王カルル9世の息子(グスタフ・アドルフかカルル・フィリップ)がロシアのツァーリに選出されることに同意した。

  <「動乱時代」の終結とロマーノフ朝の成立>

  このように、ポーランド・リトアニアによるロシアの統一が完成し、モスクワ国家北部地域ではスウェーデンの影響が大きくなりはじめたころ、ロシアの各地では、当初はさまざまな軍隊による略奪行為に対処する目的で、地域的な防衛部隊が形成されつつあった。例えば、リャザーン地方ではプロコピイ・リャプノフの率いる士族層の防衛部隊がカザークの略奪に対抗して決起し、ザライスクのポジャールスキイ公も軍勢を集めて、ペレヤスラーヴリをカザークの手から取り戻した。こうした動きはニジニ・ノーヴゴロト、ヴラヂーミルなどの町にも拡大し、やがて、ロシア史上「国民軍」と呼ばれることになる部隊に結集する。さらに、偽ドミートリイ2世が死んだのちには、彼を支持していたカザークも、トルベツコイ公や頭領ザルツキイに率いられて「国民軍」に合流してきた。「国民軍」は1611年6月に、全国会議を開き、リャプノフ、トルベツコイ、ザルツキイを長とする「三頭政治」の樹立を宣言した。ところが、この「国民軍」はもともと、リャプノフらの士族層の勢力とトルベツコイ、ザルツキイのカザークの勢力の寄せ集めの部隊であり、両者の対立の激化(リャプノフは7月にザルツキイ派のカザークの手で殺され、士族層の部隊は「国民軍」とたもとをわかった)によってすぐさま解体してしまった。

  1611年秋、ニジニ・ノーヴゴロトの商人たちが、市民たちから「長老」に選出されたクジマ・ミーニンの檄に応じて、軍資金を拠出し、第二の「国民軍」が組織された。ザライスクのポジャールスキイ公の率いる第二の「国民軍」は、各地の勢力を糾合し、1612年春にヤロスラーヴリに集結した。ここで、トルベツコイ公などの第一の「国民軍」の残存兵力と合流したのち、夏にモスクワに接近してこれを包囲した。およそ2ヶ月の包囲ののちの10月26日、モスクワに駐屯するポーランド軍は降伏を余儀なくされ、首都モスクワは「解放」された。その後、ポーランド国王ジギスムント4世は、再度モスクワに進撃しようとしたが、ポーランド本国では彼の「冒険」に対する反対が強くなったために、この計画を放棄せざるをえなかった。この結果、ロシアの西方地域(政治的には貴族寡頭制、宗教的にはローマ・カトリックあるいは教会合同派)を中心としたロシアの統一という路線が最終的に後退し、ロシアの北東地域(政治的にはアジア型専制君主制、宗教的には東方正教)を中心としたロシアの統一という路線が勝利を収めたことになる。

  「国民軍」の指導者ポジャールスキイとトルベツコイたちの指導の下、1613年1月、ツァーリを選出するための全国会議がモスクワに招集された。誰を選出するかについては、意見が分かれ、スウェーデン国王の息子カルル・フィリップを押す声もあった。結局、「リトアニアやスウェーデンの国王を選出しない、彼らの子どもを選出しない、ドイツ信仰や外国の信仰を持つ者を選出しない、なぜならば、リトアニア国王はモスクワ国家を荒廃させ、スウェーデン国王は裏切り的にノーヴゴロトを占領したからである」と決定され、2月21日に、シュイスキイ家とならぶ名門貴族のロマーノフ家から、当時16才であったミハイールがツァーリに選出された。以後1917年のロシア革命まで続くロマーノフ朝の成立である。