![]() 民族紛争と国連
国際学部 はじめに 現代史の出発点を第一次世界大戦がヨーロッパで幕を開けた1914年とする見方が一般的である。現代史の出発点はまた世界史という考え方を可能にさせた。ブランデングルクは1937年に「最近30年にわれわれは、今までの歴史にかってなかった一大演劇を体験した。世界史の成立である」といい、「地球上の全市民が同一の問題と戦争とに動かされる全体を構成した」とのべた1*。現代史の幕開けから21世紀の開幕まで100年にも満たない時期しか経たないことに気づく。 この間、民族紛争は世界全体を揺るがせつづけてきた。第一次大戦をきっかけに、民族国家の対立・戦争はどの地域で起きても世界全体に影響を及ぼすようになった。そして世界史という一大演劇に登場する民族国家の重々しい侵しがたい仮面にも大きなひびが入った。民族国家の国家体制やその基本政策には常に戦争や内戦、紛争、基本的人権の侵害の陰がつきまとったからである。国際連合が第二次大戦後に形成されたのも、民族国家間の紛争解決にルールを定め、そのルールから大きく逸脱した場合には国際社会の強制力を働かせようとした結果であった。 したがって民族紛争と国連というテーマで20世紀を回顧し、さらに新しい世紀を展望する場合には、民族紛争と国連の間に入り込んでいるキーワードともいえる民族国家あるいは国民国家の直面している問題を考えなければならない。 主権国家の分裂症状二つの世界大戦の教訓を経て、世界に大洪水のような損害をもたらす民族国家間の戦争を防ぐために、堤防の役割を果たす国際連合や国際的な経済組織がつくられたが、国際社会に押し寄せる危機の波はおさまらなかった。世界が二つに裂かれた冷戦期はもとより、冷戦の終わった後においても荒波は次ぎから次ぎへ押し寄せた。国家の権威を根こそぎ崩壊させるような内紛が頻発したり、民族や部族、氏族間の紛争、宗教各派の対立によって特定の地域全体が不安のるつぼに陥れられた。国際社会の平和と安全を維持するための国連の役割に疑問が投げかけられたのである。 紛争のあるものは内戦状態に発展し、いくつかの国家は無政府状態に陥り、統治不能となった。冷戦の終結後に氏族間の闘争で無法状態になったソマリアはその典型的な例となった。国連は1992年から96年までのソマリアにおける平和維持活動を総括したさい、安保理によって与えられた初の平和執行部隊による平和の創設という野心的な目的は達成できなかったと、ソマリアでの失敗を認めた。この報告書2では、氏族間の紛争で内戦状態から脱することのできないこの主権国家の状況を診断し、その症状にフェイルド・ステート(failedstate)という病名をつけた。 フェイルド・ステートは国家が国家でありうるための領土、国民、有効な統治権力という三つの要素をいずれも危機に陥らせてしまった。内戦で統治することが不可能になった国家では、領土内の自由な行き来もできなければ、経済活動もできなくなる。いろいろな武装分子が国境を出たり入ったりする。国民も国の中で逃げまどい、あるいは難民となって国外に流出する。政府の権力機構は崩壊し、無法状態になり、国連も責任のある交渉相手を見失ってしまった。このような四分五裂した国家は暴力の拡大と人権の破壊の場となり、国際社会はこのような統治力が破壊された国に対しては効果的な支援を送る意思も人的・物的支援を行なうこともできないという結論に達した。 医師は、患者が生命に執着し健康を回復する意思を持たないかぎり、医師の力だけで患者を治癒させることができないのと同じように、国連もまた、紛争の生じている国家の国民と指導者が和解と平和的解決の政治的意思を持たないかぎり、これに対応できるメカニズムを持ち合わせていないと診断した。国際社会が関心を向けにくい特定の国家の分裂症的な症状には国連もさじを投げたのである。 アフガニスタンの内戦も国際社会から「見捨てられ、忘れられた戦争」と呼ばれたりする。1979年のソ連の軍事介入とレジスタンスの戦争からはじまり、1992年の社会主義政権崩壊後の内戦もいまだに政治的に収拾する兆しをみせていない。優勢な力をもったイスラム原理主義勢力タリバンの統治方法については基本的人権の侵害にあたる側面もみられ、アフガニスタンの政府としてこれを認知する国もパキスタンやサウジアラビア、アラブ首長国連邦に限られた。さらにそのテロ支援や中央アジアへの膨張主義的政策が指摘され、米国やロシアの警戒心を引き起こした。タリバンがパシュトゥーン以外の民族を強制排除しているというNGOの報告もあり、支配地域の実状について国際的調査が呼びかけられているが、アフガニスタン問題は国連の取り組むコソボと東ティモールの二つの懸案の谷間に置き去りにされるかたちとなった。今日的なフェイルド・ステートの特徴をもっている国といえよう。 そもそも民族国家は一つの理念であって、現実には有力な民族を中心に構成された地域単位の国民国家であり、その運命共同体の内部には少数民族や異質の社会的要素が数多く含まれている。ひとたび国家の統合力が失われると、国民としての結びつきを否定する要素には事欠かないといってよい。 国家主権の制限と国家の価値観民族やさらに枝分かれしている部族・支族・氏族、さらには宗派といった単位がそれぞれの自由を享受するために共同体を独自につくるということになれば、今日の国連の構成国である185ヶ国を大幅に上回る200をはるかに超える国家の建設が必要となってこよう。19世紀には、功利主義を発展させたジョン・スチュアート・ミルが、「政治的支配の境界が民族の境界とほぼ一致することが、一般に自由な制度の必要条件である」とのべ、一民族=一国家の方向を示唆した。ラスキは1930年の著作3*で、このミルの一文を引用し、「民族的自由の要求ほど戦争を引き起こしたものはなかったし、こうした要求が強く働く時代はなかなか終わりそうにもない、第一次大戦後の講和条約では、ミルの原理がことごとに誤まって適用され、血なまぐさい武力解決以外には解決困難と思わせるような政治問題を世界中に引き起こしたからだ4*」とのべた。 ラスキは、「民族の根底にある排他的精神がわざわいして、力ずくでことが決められる国際関係においては倫理性が失われる。したがって統一民族をただちに国家として認めることは、私的自由の破壊と国際正義の蹂躙を意味する」、「近代科学と近代経済機構によって相互依存の高まった世界においては、民族は他の民族と協議し平和的に問題を解決する道を見出さなければならない」という立場をとった。 ミルとラスキの問題提起は21世紀を目前にして、生きつづけている。国際社会は理性の通用しなくなった国家の分化と統合の動きをめぐる摩擦に取り組まなければならない。中国の抱えるチベット民族紛争、ユーゴスラビア連邦のコソボ紛争、ロシア連邦のチェチェン紛争などはいずれも国家の分化をあらわす代表的争点であろう。中国と台湾の一つの中国か二つの中国かをめぐる先行きの見えない抗争も地域の共同体の歴史を背景にした民族紛争の変形あるいは擬似形ともいうべきものかもしれない。 国連憲章には基本的人権や正義、国際法や条約の順守、自由の中での社会的進歩などがうたわれる一方、民族自決や内政不干渉という国際社会の原則が盛り込まれいるが、これらはもともと相矛盾する原則でもある。国際法や条約を守ることと内政干渉の主張はしばしば衝突する。また民族自決についても優位に立つ民族と少数民族の自決の問題は深刻な軋轢を引き起こしかねない。 国連憲章にはこのように矛盾しあう原則が織り込まれたとはいえ、国際社会の基本は平和と安全であり、そのための正義と進歩のための自由である。一国を形成してその特権を排他的に主張し、主権の絶対性を求めることは、およそ国際社会の平和とは相一致しないといってよい。経済のグローバリゼーションが進み、また政治的にも社会的にも共通の価値観が求められていくなかで、国家主権が一定の条件のもとで制限されることは避けられない。国家はその権威を維持するために、自主的な対応をしめさなければならなくなる。インドネシアが、武力併合した東ティモールを放棄するという決定を国権の最高機関である国民協議会で決議する手続きをとったのも国家の権威の維持とつながるものであろう。 国際社会とはいっても、今日といえどもいかなる形の世界政府も視野に入ってくる段階ではない。また国家間の関係もきわめて不安定であるだけに、個人の自由や正義にしてもそれを保障する最初にして最後の番人は国家以外にはありえない。国連は主権国家を主人公とし、あくまでも政府間の機関であるだけに、その決議の力だけで国家の政策を変えていくようなことはできない。 自由や民族の伝統をはぐくみ維持してきた国家の価値観については、サッチャー元英首相が次ぎのように端的に表現した。「私は国際法を強く支持するが、無用に国連を頼ることを好まない。それは主権国家が自らのために行動する道義的権威をもっていないからだ。たとえ自衛のためであっても、国連の承認なしに武力を行使してはならないということになれば、英国の利益だけではなく国際社会の正義と秩序を守ることはむずかしい。国連は有益な討議の場である。いくつかの問題に対しては決定的に重要な役割を持つ。しかし新しい国際秩序の中核では決してありえない。米国の指導力にとって代るものはいまだにないのである5*」。 サッチャー独特のアクセントの背景には、国際社会を構成する国家群への根深い不信感があるように見うけられる。国連185ヶ国の中には、国際社会の平和と安全に大きな波紋を投げかけた国々が多数あり、アングロサクソン主導の国際秩序を揺るがしてきた。そのような視点で見れば、民族紛争などの地域紛争に関わり、解決の意思を持つことができない国、内戦などで統治権力そのものが失われ難民を吐き出している国などはさしずめ禁治産者的な存在であろう。国際法に対する重大な侵犯で国連から制裁を科せられたことがあり、その後も相手にすきあれば侵略や国際テロを狙っているとみられる国は「無法国家」である。独裁的で国際社会から孤立している上に国際社会を敵視したりする国もこの部類に含められよう。人権侵害で国連の人権委員会から問題を投げかけられている国々も性向不良の仲間に分類される。政教一致の国家体制をとっている国や財政的に破綻をきたした国も要マークの国である。その他にも、人口100万にも満たない極小国家と人口や地域が途方もなく大きな国との国連における発言権や一票の格差の問題も出てこよう。 現実的には、いわゆる瑕(キズ)のある国家が多数あろうと、これを余りに現実的にとらえれば国際社会の将来はきわめて悲観的となる。こうした悲観論に陥るのを避けるには、国家の瑕のある側面は国家の発展過程にともなう避けがたい一面だとみるしかない。国家がいろいろな面で「きずもの」であっても、国連を中心とする多角外交の意義を損なうものではないであろう。政治がパスカルのいう「天使でも野獣でもない」人間社会の集団現象であり、ゲーテのいうように「天よりは最も美しい星を求め、地よりは最も大なる快楽を求める」ところの人間性の反映であるとすれば、国際政治においてもそうした現実を踏まえたうえで国連を評価しなければならない。矢部貞治のいうように、このような人間が多数集まって営んでいる政治が、一つや二つの純粋理念で成立するということはありえないという洞察力が国際政治にも必要となってくる6*。 しかしそれでもなお、サッチャーの指摘する「国連は新しい国際秩序の中核では決してありえない。米国の指導力にとって代るものはいまだにない」という指摘は重大な示唆を次の世紀に投げかけている。この問題は米国以外の国々が民主政の理念をおきざりにし、国際摩擦の高すぎるコストを恐れて、唯々諾々と現実との妥協の道につきすぎる傾向をあらわすものではないか。その結果、国家における指導者と大衆の分離というデモクラシーの現実が国際政治の次元にも同様なかたちで現われて、国際社会の中でも米国のような指導国とその他の国々に分類される結果を生じさせた。 民族紛争から派生してきた国際政治の潮流次の世紀に持ちこされようとしている国際政治の潮流を考える場合、民族紛争などの国家を蝕む紛争はほとんどすべてがこの潮流の行方と絡んでくる。こうした潮流をいくつか挙げてみよう。第一は、国際法や国際秩序が国家主権の聖域に立ち入ろうとする流れである。民族紛争の多くは国家主権の枠内に閉じ込められ、国際法や人道法のもっとも適用しにくい対象であった。 国連が国際秩序の回復と国家の再建の立場から全面的に介入した冷戦後のケースでは、軍事制裁の適用されたイラクのケースは別として、内戦で消耗しきったクメール民族が自律的な回復能力を失ったカンボジアが最初であり、その後ユーゴスラビアのコソボにも適用された。紛争の当事者や関係国を含めた国際会議での合意を通じて国連が暫定統治機構をつくり、その国が統治の制度をつくりあげるまで最低限度の治安や行政を代行する方法である。カンボジアで一応の成果をおさめ、コソボで試みられつつある。また独立の住民投票後に治安と行政組織の崩壊したインドネシアの東ティモールについても、多国籍軍の平和維持活動は新国家創設の過程として国連による暫定統治機構が動き出すことを前提としている。 アルバニアの住民暴動のケースも国家が容易に統治不能になりうる一つのケースであった。ねずみ講式の投資組織が次々に破綻して国民の大部分が被害を受けたアルバニアでは、政府や与党もこれに関わっていたとして蜂起した住民が軍や警察の武器庫を襲い、1997年には国内は文字通りの無秩序状態となってしまった。投資組織破綻の被害は国内総生産の約半分に達したといわれる。事態を収拾するすべを失った政府は西欧同盟(WEU)に軍事的支援を要請し、国連の多国籍軍の派遣を受け入れることになった。 国連が暫定統治機構をつくって統治の肩代わりをしたり、多国籍軍を送って治安や国際秩序を回復する方法とも関連をもちながら、司法面でも国際法の後押しをする動きが出てきた。今年はとくにこのようなニュースが地味ながら報道された。 目立ったのが、ピノチェト元チリ大統領の逮捕・拘禁である。1970年代のチリの軍政時代における左翼狩りの責任者としてスペイン当局から虐殺や拷問に関与した疑いで身柄引渡しを求められ、療養先のロンドンで逮捕された。国家元首として免責特権が適用されるかどうかが争われ、紆余曲折の結果、英国の最高裁で免責特権はないとの判断が下された。大量殺人罪や拷問罪など非人道的な犯罪については、他国の元首でも裁けるという近年の国際法の考え方を反映するものである。 国連安保理がボスニア内戦で民族浄化や大量虐殺の罪で旧ユーゴスラビア戦犯を裁くために国際法廷をハーグに設置したり、またルワンダ内戦で明るみに出たツチ族の大量虐殺を裁くための国際特別法廷をタンザニアのアルーシャで開いたことも、同じ流れの中にある。ユーゴスラビアのミロシェビッチ大統領にも逮捕状が出されたことは、ピノチェト元大統領の逮捕と合わせて、組織的な民族浄化や虐殺に関わった国家元首は自国を離れた場合には安全に住める地は望めないという意味で、「三界(サンガイ)に家なし」という状況に置かれることをうかがわせる。 冷戦で冷凍づけになっていたジェノサイド条約(集団殺害罪の防止及び処罰に関する条約)も昨年の国際会議で国際刑事裁判所を設立する条約が採択されたことにより、死に体から甦ろうとする動きをみせた。国際人道法が国家主権の制限に食い入っていく一つの流れといえよう。 次の世紀にもち越される民族紛争などとからむ潮流の第二は、国軍の力に枠をはめようとする動きである。国家が軍隊や特殊な軍事組織を使って反乱などを鎮圧するさい、多くの場合に軍事組織の統制がきかなくなり、暴力の拡大が行われやすい。軍部が政治に関与し、暴力の拡大に直接的・間接的に関係する場合には、国家の体制が変質し、民主政はたとえ制度があってもその中身は空洞化してしまう。軍部の政党化や非合法的な暴力関与は、少数民族や反体制派の反乱鎮圧に伴って本格化した。 軍部の暴力関与のプロセスとして、国内治安部隊、特殊部隊、特別警察、秘密情報機関、民兵など正規軍とは別の特殊な軍事組織がつくられ、国家の法による統制が及ばなくなり、監視がきかなくなることが生じる。民兵などは軍隊の下請けの下請けといった存在となり、カネで雇われ武器を供給され、反政府勢力を暴力的に葬る役割を果たしていく。国家制度と無縁の組織でありながら軍部と表面下の関係を持ち、信頼関係の上では市民社会との間に大きな断絶をつくっていった。 このような道義を無視して行なわれる暴力は悪循環をよぶ。政府を暴力的に倒そうとする反政府勢力の側も政権を奪取するさいには、しばしば同じような手段をとった。エンゲルスのいう「実力と鉄のような無慈悲さなしには、なにごとも歴史上成し遂げられない」という権力闘争の実態である。このようなむき出しの権力闘争が国家の内部でまた国境を越えて行なわれる時には、国際社会の平和と安全ばかりでなく、国際正義や道義は地に堕ちることになる。 この対応として、ロシアなどを含めた欧州全域の国々や米国、カナダの参加する全欧安保協力会議(95年から欧州安保協力機構に名称を変更)は、1994年末の首脳会議で、軍隊ばかりでなく準軍事組織に国家の民主的統制が及ばなければならないことを申し合わせた。ブダペスト文書と呼ばれるその協定書の中には、軍隊に関する情報を国民が入手できること、軍隊は政治的に中立であること、準軍事組織が戦闘能力を取得しないこと、国際人権法について軍人に教育すること、指揮権を持つ軍人が国内法や国際法に反した命令をした場合には個人的に責任を問われること、国民から民族、宗教、文化、言語、人種のアイデンティティを奪うために軍隊を使用しないことなどが含まれた。コソボのアルバニア系住民に対する民族浄化へのNATOの介入ではこの協定の存在もあずかっている。 潮流の第三としては、民族紛争などに付随して生じる膨大な難民や避難民の流出がある。国境を越えて近隣諸国に溢れ出す難民の流れは周辺諸国にとって政治的・経済的な安定を歪める要因となり、また国際社会にとって人道上見過ごすことのできない緊急な課題となった。 民族紛争とからむ潮流の第四として、アラブ・イスラエル対立やアラブの米欧敵視政策の中ではぐくまれるイスラム原理主義の台頭と先鋭化がある。西洋文明やその筆頭である米国を対象にしたものから、イスラムの国家の現実的な政治体制や政策をイスラムの教義に反するとして攻撃の標的にするものまで、さまざまな政治的衝動による動きをみせるようになった。 第五として、民族紛争から派生してくる緊急な国際問題としては、テロの問題、核兵器などの大量破壊兵器の拡散問題がある。国家がテロの黒幕となって敵性国家に打撃を与えようとする国家テロ、あるいは国境の枠にしばられない国際テロの存在は、標的にされた国家にとっては国家主権に対する重大な脅威となった。また国際社会にとっても、国家を標的にし、また不特定多数の犠牲者をひきだすテロリズムは、最も危険な国際秩序に対する挑戦となった。テロや核兵器など大量破壊兵器の拡散については、政治体制が異なり立場の異なる国家といえども、ある程度まで協力して対応しなければならないという現実を引き出した。 神話となりがちな普遍的な安全保障国際政治の潮流として、国連などの人道介入を招き、民族紛争当事国の主権の制限につながる問題を眺めたが、他方で、これらの問題を通じて国連の普遍的な安全保障の理念そのものが試されることになった。国連の普遍的な安全保障の理念は、主要国を含め国連加盟国のすべてが平和と安全に関して鋭い関心をもち、平和への脅威を取り除くためにそれぞれの人的資源と物的資源を動員して対応にあたるということが想定されたものである。しかし実際には、どの国家や国民も特定の国際危機が起こった場合に同じような関心や危機感を持つことができない。コソボに関する関心も、東ティモールに関する問題にしても、地域によって、国によって、国益によって関心の程度には大きな濃淡の差が生じる。 普遍的な安全保障が不可能な場合には、もっぱら次善の策として、地域機構が動員された。地域機構はチャーチルがとくにその必要性を説いたものであり、国連憲章では第8章に地域的取極として組み込まれた。ヨーロッパやその周辺地域の中東やアフリカでは、平和維持あるいは平和創設に向けての機能を果たしたのは西ヨーロッパと北米を結ぶ地域機構として発足したNATOである。 また普遍的な安全保障に代ってとられた考え方には、国連憲章第7章の51条に明記された集団的自衛権の発動がある。普遍的な安全保障では世界の紛争に対処できないと考えた米国のバンデンバーグ上院議員らは、国連が期待通りに働かないときの安全弁として、「集団自衛権」を重視し、NATO結成の動機づけを行なった。世紀の境目においても、国際社会の安全保障を米欧の国々がリードしている事実はそのような状況が続いているということを端的に示している。ユーゴスラビアのコソボへのNATO介入も集団的自衛権の適用という特徴を持っている。 ヨーロッパから出発した安全保障の歴史は米国によって基礎づけられ、アジアは集団安全保障の歴史の圏外に置かれつづけたが、普遍的な安全保障の理念を持ちつづける必要性を考えると、名目的ではあっても東ティモールに急派された多国籍軍に対するタイ、韓国、ASEANの一部国家の参加には意義がある。日本は国連に加盟した以上、普遍的な安全保障の理念の厳しさを国民に理解させたことは一度もないといってよい。そのような歴史の状況を考えると、日本が国連安保理の常任理事国の候補国になるということは安全保障の理念と現実に直面するという意味で、意義のあることと考える。 米国の影響力とライト・スイッチ政策による安全保障の追求 民族紛争など平和を撹乱する国に対して、国連は軍事的制裁とは別にむしろその前段階として経済制裁を規定している。経済制裁を国連が安保理決議で実行したり、総会決議で安保理の行動を促したりすることのできるのは、あからさまな侵略や人種差別への制裁に限られてきた。こうした国連の経済制裁とは別に、他国の外交政策を変更させるために、一国あるいは複数の国が経済制裁を行なう事例は第二次大戦後には数多くみられた。そのなかで米国の独自の経済制裁がその目的についても、手段についても国際社会の中で次第に突出してきた。このことは、米国が外交手段によって他国の政策変更を求めて圧力をかけることのできる政治的・経済的・社会的な国際的な力をもっていることによる。米国が市場経済の国際的相互関係の基軸となり、自由主義経済体制のリーダー国になっているからである。 米国では、とくに1980年代後半から経済制裁の適用ケースが増大し、クリントン政権下ではその傾向が顕著となった。全米製造業者協会の調べでは、93年から96年までの4年の間に、米国で成立した経済制裁を実行するために制定された法律や行政上の規則はその数が61にのぼり、適用された国は35に達した7*。1年間で15ほどの規制法や規則がつくられ、9ヶ国ほどが制裁を受けた勘定となる。経済制裁はまた大統領の判断に委ねられるところが多く、ある条件を満たせば適用が緩和されたり、解除されたりする。そこで米政府が議会の要請とあいまって人権侵害やテロ支援を理由にどしどしこの政策を関係国に適用し、制裁に手心を加えていく状況が電気を簡単に点けたり消したりするのにも似ているところから、経済制裁の多用はライト・スイッチ政策と呼ばれた。 経済制裁のうち最も数多く適用された目的は人権と民主化である。これに関係したものは規制法の三分の一近くにのぼっている。それに次ぐのがテロリズムに対する制裁であり、以下、核拡散防止、政治的安定、麻薬撲滅に向けての活動、労働者の権利や囚人労働の防止、環境保護の順となっている8*。経済制裁の目的の筆頭に挙げられる人権は民族紛争などで最も傷つきやすい国際価値である。民主政を支えるはずの自由や寛容性は消滅し、基本的人権は否定される。民族紛争はまたアラブ・イスラエル対立にみるごとくテロリズムの温床となる。それは政治的安定に歯をむく原理主義を培養したり、反政府勢力の資金源としての麻薬の生産・密売とからんでくる。一国だけではなく地域の環境も長期にわたって破壊される。米国の経済制裁が突出する現象は、冷戦後の民族紛争の続発と直接に関係していることがわかる。 米国の対外政策にも、当然のことながら費用に対する効果の問題がある。経済制裁で生じる米国の経済的損失は相当な額にのぼっているとみられる9*。また経済制裁の対象となる国には、直接の対象国以外に米国の制裁措置の効果を損なうような措置をとった第三国の企業も含まれるので、厳しい外交上の摩擦がしばしば生じた10*。その結果、米政府は経済制裁の第三国の企業への適用を凍結するなどの配慮をしなければならないケースも生じた。経済制裁によって個別の被害や影響を被る米国の経済界からも政府に対する批判が生じ、議会も論争に巻き込まれた。しかし、そのような有形・無形の損害にもかかわらず、経済制裁の政策そのものについてはホワイトハウス内部からの疑問や議会、世論からそれをくつがえすような圧力は加えられていない。その理由として第一に考えられるのは、経済制裁の政治的狙いが、より深刻な国際紛争に米国が巻き込まれていくのを防ぐ抑止効果があるという見方である。平和な国家は独裁国家による電撃的な攻撃に耐えることはできないという分析は、第二次世界大戦からの教訓として引き継がれてきた。米国が人権侵害やテロ防止、あるいは大量破壊兵器の拡散防止などの理由で経済制裁を多用するのは、このような考え方と無縁ではないと思われる。独裁的な国家が冒険的な軍事政策をとることのできる国内体制をつくりあげることを未然に防止したり、アングロサクソンの国際秩序に挑戦しようとする国家がさらに力を蓄えたり、あるいは電撃戦によって国際危機を招来する可能性を防止する抑止力としての価値である。 第二として考えられるのは、米国の外交には伝統的に道義を重んじる傾向があり、経済制裁の目的と手段が多様化していく背景になっているのではないかという点である。ボスニアやコソボの問題では、米国は当事者を加害者と犠牲者に分け、加害者を糾弾し被害者の側に立とうとした。そうした傾向は共和党より民主党の方が強いといわれる。日本にしても加害者を糾弾し被害者の側に立とうとするのは同じであろうが、日本が同質的な民族構造であるのに対して米国は移民や亡命者を受け入れてきた複合的な多民族国家であり、国家の統合のため理念を重視するという点では大きな差が生じる。 異質な国民の国家的統合には、強制的な方法によるか、イデオロギーによる合意の方法をとるしかない。米国の場合は、亡命者も難民も移民も、また肌の色の異なるものも、宗派の異なるものもこのイデオロギーを受容するかぎり、社会に受け入れてきた。年ごとに十以上もの経済制裁の発動がありうるということは、米国がイデオロギーの国であって、経済制裁の対象国などからの亡命者も難民も飲み込んでいかなければならない状況を示している。経済制裁については種々の批判や論議があるが、そのたびごとに経済制裁をめぐる内外の摩擦を通じて、米国の国民が米国人であることを確かめるチェックポイントになっているのではなかろうか。それは国家の統合力への側面援助ともなりうるし、道義の最後のよりどころとしての国家観をはぐくむことができるのかもしれない。 第三としては、米国単独の経済制裁が自由貿易と世界経済の合言葉を駆逐する恐れをはらんでいるものの、米国の国際社会における指導性を国内および国外に折りふれ確認させることである。それは米国の経済力の強さとそれを支える軍事力への信頼性、さらにはそれら双方を包含する政治力の強靭性を国際社会に示すことになる。つまり経済制裁の有効性は相手国の政策を米国の求める方向に変更させたかどうかということだけではなく、米国の総合力の評価基準としての指標となりうるということである。 終わりにフェイルド・ステートや米国のライトスイッチ政策のことを取り上げると、20世紀の国家は惨憺たる状況に直面し、21世紀の展望もきわめて暗いととられるかもしれない。しかし、公平な立場に立とうとするならば、発展途上国の国家のありかたや政治体制について過去から現在までを比較して、国際社会の進化の度合いを推し量るべきであろう。それぞれの国家の政治体制のあり方が国際社会の平和と安全に投影されてくるからである。 個々の国家の政治制度やその運用をみると、寛容性と弾力性のある民主主義の政治制度を発展させることのむずかしい国家を多数みることができる。アジアという一地域だけ眺めると、24ヶ国のうち独裁体制、一党支配体制、イスラム法支配体制、専制君主制などの政治体制を維持している国が7ヶ国(北朝鮮、中国、ブルネイ、ベトナム、ミャンマー、モルディブ、ラオス)にのぼっている。 これにフェイルド・ステートとしてのアフガニスタン、軍部が超法規的クーデターを行なったパキスタン、かってはフェイルド・ステートとなり国連のてこ入れで国家建設の途上にあるカンボジア、軍部が大きな政治勢力となっている政治体制の改革を迫られるインドネシアを加えると、11ヶ国に達する。さらに野党や反政府的言動が制限され、政治犯が存在するといわれるシンガポールやマレーシアも加えるとすれば13ヶ国となり過半数となる。 共同体の統合力を強制によって維持しなければならない国家が多数に上ることは、アジア地域に特有なものではない。中東・北アフリカ、アフリカ、中南米それに旧ソ連の地域でも多かれ少なかれ同様である。こうした分類を世界各地域で行なうと、国際社会の将来における摩擦の程度は楽観を許さない。しかし視点を100年前の20世紀直前の時点において今日の状況と比較すれば、世界の各国家の政治体制はジグザグコースであっても相当な勢いで進化していることがうかがえる。 米国の海軍史家で世界の指導者に影響を与えたマハンが100年前に描いた20世紀への展望を眺めてみよう。彼の挙げた時代の潮流は、1.孤立主義の伝統に縛られてきた米国民の大多数にも海外進出の衝動が芽生えている 2.フランス革命に端を発して、国民皆兵制度や巨大な近代的常備軍の創設に国民的エネルギーの結集がみられる 3.正義なくしては真の平和はありえない…国家にとっての軍備全廃論は無責任である 4.東西の両文明は物質的利益の追求という点では接近しているが、それに対応すべき精神的理念については共感が生まれてこないーなどである11*。 今日からみると、1.の米国民の海外進出の衝動は、経済のグローバリゼーションに置きかえられている。2.の点については、若者の価値観は一変し、戦時動員は非現実的となった。3.の正義なくして真の平和はありえないという視点は生きつづけているが、一国で安全保障を追求することはほとんど不可能となった。4.の東西両文明の衝突については基本的にその通りかもしれないが、それぞれの好戦的体質には変化が生じている。 国際社会の動向をどのような独裁的指導者も、あるいは軍部の指導者も無視することはできなくなった。インドネシアがついに東ティモールを手放すことになった経緯について、ウィラント国軍司令官が「国際社会の一員として受け入れざるをえなかった」と国会で釈明したのも同じ流れのなかにある。過日のパキスタンにおける軍部クーデターの後始末についても軍部は慎重にならざるを得なかった。国家主権を19世紀的な概念で絶対視することはできない。主権の行使の当否については、政治的には国際社会の動きのなかで判断していく以外にない。 オルブライト国務長官やタルボット次官ら米国務省の高官は、「民主主義を世界的に広く促進することは米国の現実政治はむろんのこと理想的な政治の必要性も満足させるものだ」という趣旨の発言をしている。意識的に外交の座標軸を過去と未来の対話においていることがうかがえる。クリントン政権がレイムダックになっても米国の政治家や官僚が歴史的視点に立った発言をしていることは見逃せない。外交官の経歴を持ったイギリスの歴史家E.H.カーの述べた「未来に向かって進歩するという能力に自信を失った社会は、やがて過去における自らの進歩にも無関心になってしまう12*」という視点は、21世紀を前にして玩味しておく必要がある。20世紀と21世紀を橋渡しする理念は、アメリカ発だけではなく日本も含めてサミットを構成する他の主要国や開発途上国からも意図的に発信されてこなければならないであろう。
〈注〉 2* The UN and Somalia 1992−1996,United Nations,1996.
3* H.J.ラスキ『近代国家としての自由』飯坂良明訳(岩波文庫 1974年) 5* Margaret Thatcher,The Downing Street Years,Harper Collins Publishers, London,1993.p.821 6* 矢部貞治『政治学入門』(講談社学術文庫 1977年)96頁 7* 経済制裁の対象になった35ヶ国の内訳:アフガニスタン、アンゴラ、ボスニア・ヘルツェゴビナ、ビルマ(ミャンマー)、ブラジル、ブルンジ、カナダ、中国、コロンビア、クロアチア、キューバ、ガンビア、グアテマラ、ハイチ、イラン、イラク、イタリア、リビア、モルジブ、モーリタニア、メキシコ、ニカラグア、ナイジェリア、北朝鮮、パキスタン、カタール、ロシア、ルワンダ、サウジアラビア、スーダン、シリア、台湾、アラブ首長国連邦、ユーゴスラビア、ザイール
8* A Catalog of New US Unilateral Economic Sanctions For Foreign Policy Purposes 1993ー96 Robert P.O'Quinn Policy Analyst The Heritage Foundation Roe Backgrounder No.1126 June 25,1997 (URL:http://www.usaengage.org/studies/users.html) 筆者注 National Association of Manufacturers (全米製造業者協会) The Heritage Foundation(ヘリテージ財団) ヘリテージ財団の経済制裁に関する資料は全米製造業者協会の資料を引用しているとみられる。 9* 全米製造業者協会の前述の資料によると、1993年から96年にかけて米国が独自の制裁を適用した国々で米国の商品やサービスを受けるとみられた潜在的な消費者人口は23億人で、世界人口の42%に達しているとしている。また打撃を受けた米国の輸出額は世界輸出額の19%に当たる7900億ドルにのぼっているとしている。(1996年IMF統計年鑑のうち1994年の統計にもとづいて試算) 10* 1996年3月12日、米民間機撃墜事件を受けてキューバに対する米国の経済制裁強化法(ヘルムズ・バートン法)が議会を通過、クリントン大統領が署名して7月16日に発効。キューバ革命で接収された米企業の資産を運用している第3国企業に対し、米国の企業や個人が損害賠償を請求できるとした第3項や、第3国企業幹部らの米入国を拒否できるとした第4項が、「不当な間接制裁」に当たるかどうかをめぐり、米国と欧州、カナダが対立した。第3項は大統領の権限で実施を凍結した。友好国の企業に対する一方的な間接制裁の問題、国内法の国際化の問題が浮上した。 11* 参考文献 アルフレッド・T.マハン「20世紀への展望」 1897、『アメリカ古典文庫―8 アルフレッド・T.マハン』麻田貞雄訳 (研究社 1977年) 12* E.H.カー『歴史とは何か』清水幾太郎訳 (岩波新書 1989年)197頁 湘南フォーラム目次へ 文教大学湘南総合研究所 |