ラクガキとはどういったものを指すのか、ここで辞書的な意味を紹介します。
『世界大百科事典』 平凡社
「門や壁など書くべきでないところにいたずら書きすること。転じて、記述や描写の目的を定めずに遊び心で描く態度」
『広辞苑【第4版】』 岩波書店
門・壁など、書いてはいけない場所にいたずら書きをすること。たわむれに書くこと。また、その書いたもの。らくしょ。落書、楽書。
両方の辞書とも、いたずら書きという意味とたわむれに遊び心で書くものといった意味があります。そしてここでは広い意味でのラクガキを考慮に入れつつ主に、書くべきでないところに書かれたいたずら書きをとりあげます。
ラクガキは大きく分けて、絵画と文字に分類されます。文字というのがどういうものかを説明するのはさほど難しいことではありませんが、絵画とは何かと聞かれると、答えることは簡単に見えて案外難しいでしょう。辞書による説明では、「描き出したもの」として絵を描き出すという行為とそれによってつくり出された「もの」、物質、物体のことを指し、また他方の説明ではむしろ表現をする行為としてとらえられています。
能書きはわかりましたが、これだけでは一体なんであるのかよくわかりません。ある人にとってそこにある線や図形、色彩は絵画であるかもしれないし、別の人間にとってはそれは単なる悪戯によってかかれたものか、あるいは自然がつくり出した模様であるとみるかもしれないからです。
これは「BAZ」と読み取ることが出来るラクガキで、大きさはこの画像からは判りにくいですが横幅4〜5m近くあるかなり大きなものです。これは果たして絵画でしょうか?おそらく大抵の人はこれは文字であるとするでしょう。
絵画は何かということは、個人個人によって異なるものです。しかしながら、その違いを超えてそこには絵画は絵画であるという本質的な点での共通性があり、また普遍性を持っています。
つまりこれは非常に社会的な問題であるといえます。集団に関係し、所属している人々は同様の絵画観を共有しているのです。
では、ラクガキはどうでしょうか?
ラクガキは文字であろうと絵画もしくは絵画のようなものすべてを包括します。ノンジャンルというジャンルが出来ているのです。
しかしながら、ラクガキにおいても不思議な境界のようなものがあります。それは「書く」か「描く」かということです。
描くという言葉は元々書くと同意であり、それは掻くと同源でした。爪またはそれに似た道具でものの表面をこすること、ひっ掻くことを意味しました。よって両者には共通点が存在します。
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このように両方には共通性があるが、書くことと描くことは同じではないと一般的に考えられているでしょう。「書く」ことは文字と関連し、「描く」ことは絵画と関連しあい、区別される。
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「書く」と「描く」には共通点もあれば相違点もあります。その両方の点のことを踏まえつつも、ラクガキという両方の接点を考察するにあたって、共通点のいくつかに注目したいと思います。
あなたは絵画をどのように見ますか?
これは別に行儀よく見るとかそういった意味ではなく、絵画をどのような意味を持ったものとして見るているかという問いです。
絵画の見方には、絵画を何かの道具と見る一種の機能主義的視点と、他方、絵画を実用的目的と無縁なものとして見る芸術のための芸術という見方があります。ラクガキもこれと同じく2通りの見方が出来るでしょう。
さて、このラクガキはどのように見るでしょうか?
これを何かの記号だと見たら、それは機能主義的視点であり、これは”このような絵”を描きたくて描かれたものだと見れば芸術のための芸術という見方をしているということになるでしょう。
次に挙げるラクガキを見て、どれが一番上手であると思いますか?
このようにして選んでもらうと、その選ばれた数というのには偏りが出来るでしょう。しかしながらその選ぶ基準は果たして本当に上手かどうかということだったでしょうか?自分でもあまり意識せずに「好き」なラクガキを選んでいませんか?
たとえば中段左側の「青龍會」と書いてあるこのラクガキですが、これを選ぶ人もいるでしょうが、このラクガキの中でという条件をはずしたときにも上手であるといえますか?描くために使われる道具が異なってはしまいますが参考までに書道と比較してみるとどうでしょうか?さまざまの流派に分かれている崩れた字体については、それに関する知識が無いので比較対照にすることが出来ないので初等教育で教わる書道における上手・下手ということを意識してもう一度このラクガキを見てみます。下手ということになってしまうでしょう。
上段の2つに至っては文字であろうことは判りますが、記号として読み取ることは困難を極めます。そして下段のラクガキは何度も上書きが繰り返された様子があり、何が描いてあるのか良くわからなくなってしまっています。
それでは、これらのラクガキは全部下手ということになるのでしょうか?
技術的成熟が足りないラクガキというものを聞いたことがあるでしょうか?つまりラクガキには上手・下手が存在しうる余地はあっても実際にはほとんど存在していないのです。
上手・下手や技術的成熟が必要ないとなると、ラクガキは芸術ではないともいえてしまいます。油絵や彫刻といった美術の形式からするとラクガキは芸術として認められていません。アメリカ合衆国ではそれにグラフィティ・アートという名称をつけてアートにしてしまいました。
ラクガキの上手・下手に関する問題がもう1つあります。それは評価の言葉として使われる「ラクガキのようだ」という言葉です。このように使われる理由はよくわかりませんが、ラクガキがアートとして認められているということでしょうか…
ラクガキは場所を選んでいるように思われます。私の調査でラクガキされている場所の特徴をまとめます。
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1については、ラクガキを描くところをあまり見られたくないということな表れでしょうか。ラクガキが描かれるところを見たことはありますか?私は残念ながら描いたことも無ければ、描かれるところ見たこともありません。やはり描く側にも「描いてはいけない場所」に描いているという意識があるのでしょう。
また、2では今度は逆のことを言っているようにも思えますが実際にそうであり、ひと気の無いところには描き手も行かないのでしょうか、それとも見られる機会があまりにも少ない場所には描きたくないのでしょうか。
薄暗い場所というのは具体的には高架下であったり、トンネルめいた場所のこです。古代の洞窟壁画を連想させますが、なぜこのような場所を選ぶのでしょうか。人目につきにくい場所だから?もしくは自分たちの作品の保存のために、天井のある場所を選んでいるのかもしれません。
複数のラクガキの同居は、ラクガキをしやすい場所、ラクガキしたい場所の集中のために偶発的に起こってしまったことなのでしょうか?私の意見としてはこういった理由は微々たる物であり本当の意味は違うところにあると思っています。それは、ラクガキがマーキング行為にあたるのではないかということです。自分が行く場所に誰か他人の残したものがあったならは、自分もそこに来ているのだぞという意思表示、もしくはナワバリの主張かもしれません。アメリカ合衆国におけるグラフィティ・アートは、より高い場所や描きにくい場所にかかれたものほど評価が高いそうですが、これも熊などが木のより高い場所に爪あとを残すことによってナワバリ争いをすることにも似ていて面白いです。
参考文献
『ヒトはなぜ絵を描くのか』 フィルムアート社 中原祐介 編著
『絵画社会学素描』 晃洋書房 倉橋重史 著