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警備業界史

《警備業界史》

 警備業の起源は19世紀中葉のアメリカであると言われている。当時のアメリカでは、列車強盗への対策として警備が行われていた。この列車強盗の警備を行ったピンカートン社などが、世界初の警備会社であったと言われている。また、銀行の現金輸送の際に、銀行員が馬車の荷台に乗って警備を行っていた。銀行員が行う警備は、ボランティアであった。(厳密に言えば、これは現在の警備とは規定が異なる)

 以上から、当時の警備は現在の「輸送警備」に近い内容であったと考えられる。

 

 日本に警備業が誕生したのは、1962年(昭和37年)であった。窃盗が横行したこの年、飯田亮と戸田寿一の二人は、日本警備保障(現セコム)を立ち上げた。これが日本における警備業の起源である。

 しかし、「水と安全はタダ」という安全神話が一般的だった当時は、警備業はすぐに受け入れられるものではなかった。加えて、警棒以外に装備が認められなかったことも、警備業の無力感を助長した。

 しかし、戦後の復興を経て、東京ではドーナツ化現象などの新しい社会現象も生まれていた。人気の少ない夜間を狙った強盗が急増したのに対して、当時の「守衛」は警備のノウハウを持っていなかった。そこで、警備のプロフェッショナルが必要となっていた。

警備業が一般的に認知されたのは、日本警備保障が起業して2年後の1964年、東京オリンピック選手村建設現場の警備であった。これが翌年、テレビドラマ化されたことで、警備業の存在は板に付いたといえる。

東京オリンピックで全国に知れ渡った警備業は、高度経済成長のビル建設ラッシュに乗り、一気に需要が増えた。この時期は高速道路整備も行われ、自動車が急増したことから交通誘導の必然性も高まった。

しかし、警備員による不祥事(百貨店で巡回中の警備員が窃盗)が相次ぎ、せっかく築き上げた信頼も著しく損なわれてしまった。警備業は新たな正念場を迎えた。

この状況を打開するために開発されたのが、「機械警備システム」(警報装置)であった。当初は誤報も多かったが、1969年永山則夫(連続射殺犯)の逮捕に貢献したことで、警備業は信頼を回復した。

「永山事件」での警備員の活躍は目立ったが、一方で日本中を驚愕の渦に巻き込む事件が同時期に発生している。19681210日の「三億円強奪事件」である。これは、日本信託銀行国分寺支店の現金輸送車が、警察官に扮した犯人によって輸送車ごと奪われたもので、被害総額は当時の物価で三億円に及んでいた。このときに現金輸送車を運転していたのは銀行員であり、輸送車も特殊車両ではなかった。この事件の教訓から、以後は専門の訓練を積んだ警備員が現金輸送を行うようになる。

それ以外にも、「公害反対運動」「成田闘争」「70年代安保」「大学紛争」など、デモの隆盛にともない警備員の需要も増していた。

その後、警備業は分野を拡大するとともに、警備会社の数も急増していく。1972年には警備業法が公布、施行され、警備業に対する法整備も行われた。警備業法は1982年に改正され、2002年には2度目の改正が行われた。

なお、1986年には警備員検定制度が設けられている。

1995年の阪神大震災では、警備員の誘導により、非常事態での混乱が最小限に食い止められた。

フーリガンによる暴動が懸念された2002FIFAワールドカップでも、警備員が各都市で厳戒態勢を布いた。

2003年現在、警備会社数は10000社弱、警備員数は約45万人が全国で活躍している。196412月当時の警備会社数138社(専業33社、兼業105社)と比べると、警備業の急激な発展を見て取れる。

しかし、2001年には兵庫県明石市の花火会場で将棋倒しが発生し、観客11人が死亡する事故が発生。当時の警備担当者(社)の過失が指摘されるなど、問題も山積みである。

 

 

ちなみに、警備業発祥の地とされるアメリカでも、警備業の必需性を痛感せざるをえない事件があった。19631122日、J.F.ケネディ大統領暗殺である。奇しくも、日本に警備業が誕生した翌年であった。

大統領パレードでは警察が沿道に立って警備を行っていたが、犯人はビルから大統領を射殺した。ビルからの射殺は警備の盲点であった。この教訓を活かして、次回のパレードからはビル警備を行おうとするが、警察官の人数が足らない。しかし、警察官の人数を増やすことは難しいため、警備を専門に行う民間企業の応援が不可欠になったのだ。

2001911日にも、ニューヨークで警備員の活躍が光った。あの「9.11テロ」である。このとき、世界貿易センタービルの警備員が冷静かつ的確な誘導を行った。「警備員の誘導がなければ、死傷者は3倍に膨れ上がっただろう」と言われている。

『安全神話』の崩壊〜警備員の社会学〜

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