スリッパの問題を考える
「スリッパはどこでぬぐのか」
いまの(もしくは今までの)生活のなかで考えてみると、スリッパの存在というのは、けっこう悩ましい存在であることに気づきます。たとえば、どこかの家にお邪魔して、とりあえず、玄関にスリッパが並べてあります。履かなくてはいけないのだろうか、と一旦躊躇しますが、こうして目の前に並べているのであるから、「履いてくれ」ということなのだろうと判断し、履いてみます。目の前にきちんと並べられたスリッパを見ながら、どうするものかと悩んでしまいます。特に悩んでしまうのは、家の人がスリッパを履かずに出てきたときで、履かなくてもいいのかな。と悩んでしまいます。
とりあえずスリッパを履いて、居間に通してもらうのであるが、履いたら履いたで、今度はスリッパをぬぐところで悩みます。たとえば、リビングに行ってみると、マットを敷いて座卓が置いてあります。
当然座るわけだから、スリッパはぬぐことになります。座卓で無いにしても、マットを敷いてソファが置いてあったりすると、スリッパのままでいいのかと悩んでしまう。
これは、何が悪いのでもなく、たぶん私たち、日本人の文化の中に染み付いた意識にあるとお思います。わたしたち日本人は、家の中では裸足の文化です。畳や床の上を裸足でぺたぺた歩いている人種です。「家の中では靴を脱ぐ」が本能的にあるわけで、特に敷物の上などはたとえスリッパであっても
抵抗を感じるのは仕方の無いことではないでしょうか。
けっきょく、日本人の大半にとってスリッパは「要らない」のではないか、スリッパの生活は、無理があるのではないのか、とのことになってきます。わが家は、部屋ではぺたぺたと裸足で歩き、ごろごろとねっころがる、ということが基本なので、スリッパで部屋に入ること自体しません。であれば、来訪者には「スリッパ案内」として、靴をぬいだ後、玄関からスリッパを履いてあがってもらったとしても、ここからはスリッパで来るな!というところで、「ここで、スリッパをおぬぎください」、と看板を立てておこうかと思います。