「テレビちがさき」から第2代「ジェイコム湘南」へ

−ケーブルテレビのパラダイムシフトと地域情報化の行方−

「湘南フォーラム」 (文教大学湘南総合研究所 紀要) 2001.12
文教大学 情報学部 八ッ橋武明


目 次  

地域情報化とケーブルテレビ

テレビちがさきの誕生

テレビちがさきの発展

地域メディアを脱皮したケーブルテレビ

変貌の必然性と行方

これからのケーブルテレビと地域情報化

【引用文献】

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 1996年4月に遅ればせながら茅ヶ崎市においてケーブルテレビ事業「テレビちがさき」が始まった。それから5年余で「テレビちがさき」はより広域の事業会社「ジェイコム湘南」(第2代)に社名が変わり、日本の典型的な成長事例として急速な成長を遂げている。筆者は事業の開始に先立つ91〜93年頃の市の企画案検討の段階では、高度情報都市整備構想案やテレトピア計画案の作成に参加し、当時の見方を肌で感じてきた。その観点からすると、この急成長期間にはケーブルテレビのパラダイムシフトとでも呼ぶべき変化が起きている。ここではその変化をたどりながら、ケーブルテレビと地域情報化の今後を考えてみたい。


地域情報化とケーブルテレビ   (目次へ戻る)
 

 ケーブルテレビの歴史は長い。かれこれ50年近くになる。最初にケーブルテレビが始まったのは昭和29年の群馬県伊香保温泉とされる(川畑 1984、林他2001)。この時以来のケーブルテレビの主な変遷を辿ると、大きくは5つの段階に区分することが出来る。第一期は伊香保温泉を代表とする地形難視型のケーブルテレビで、テレビ電波が届きにくい山間部地域で、高い山にテレビアンテナを立てて、その信号をケーブルで地域の各戸に配る方式であった。このケーブルテレビの事業者は地域の協同組合が中心で、NHKからの補助金がつき、全国民にテレビ視聴を可能とする政策のもとに開局が進んだ。再送信のみの Community Anntena Television なるCATVの誕生である。主に昭和30年代に多く設立された。

 その後昭和30年代末から岐阜県郡上八幡町に見られるような再送信番組と地域の自主制作番組を放送する第二期の自主制作型が加わり、さらに昭和40年代末頃から長野県や山梨県に見られる第三期の区域外再送信型が生まれる。このタイプは、例えば長野県の場合、本来地域のアンテナでは見ることが出来ない関東平野の番組を、ある地点の山上のアンテナで受信し、ケーブルでケーブルテレビ局へ伝送した後に地域家庭に配信するものである。番組には自主放送+区域内再送信+区域外再送信が含まれている。この頃になるとCATVは Cable Television と見なされるようになる。

 この次に現れてきた第4期は多チャンネル型で、今度は地方に限らず都市部でも開局の動きが活発になった。背景にあるのは多チャンネル・ニーズの高まりと同時に、ビル建設に伴う都市難視の発生、1970年代後半の米国におけるケーブルテレビの急成長、さらには第4次全国総合開発計画における高度情報化の推進と生活定住圏構想である。特に国の構想は、テレトピア、ニューメディア・コミュニティ、グリーントピア、インテリジェントシティなどの各構想があった。これらの構想では、ケーブルテレビは生活定住圏構想を促進する地域情報化の代表的メディアと考えられ、様々な助成措置のもとでケーブルテレビの開局が進むこととなる。ほぼ1980年代央のニューメディア・フィーバーの時期と一致する頃が計画作成の起点となり、80年代末から開局が進んだ。

 ケーブルテレビの開局は郵政省の認可事項であるために、開局にあたっては条件が付けられており、当時は1地域1局の独占事業で、地域の事業者が主体となる条件が付けられ、地域密着性が極めて強いものであった。いわばケーブルテレビは地域のメディアとして、地域の活性化に貢献するものとして位置づけられ、開局されるのが常であった。そのために地域の行政や企業が設立に関与し、事業体としては行政出資を伴う第3セクターとして設立され、様々な補助や支援策がつく場合が多かった。このことは同時に、ケーブルテレビ事業が経営的にはかなり厳しい事業であることを物語っていた。

  さらに湘南地域で見ればこの頃から、平塚の湘南ケーブルネットワーク(1990年)、寒川ケーブルテレビ(1990年)、鎌倉ケーブルコミュニケーションズ(1991年)、藤沢ケーブルテレビ(1992年)、シーエーティーヴィ横須賀(1992年)などが次々と開局されている。


テレビちがさきの誕生   (目次へ戻る)
 

 この様な時代の流れの中で、茅ヶ崎市がケーブルテレビの誘致に取組始めたのは1990年頃からである。既に隣接する平塚、寒川ではケーブルテレビのサービスが始まっており、藤沢も開局の予定にある。市民からの要望もある中で、行政も誘致への対応を開始した。同年にケーブルテレビのニーズ調査を行い、1991年に高度情報化都市構想を策定し、1992年にケーブルテレビ研究協議会を設けて各地のケーブルテレビ事業の見学・調査を行い、事業の方針研究を行った。この時期は概してどの都市部のケーブルテレビ事業者ともに加入者獲得が進みにくく、経営が厳しい時期にあった。このことを反映して研究会では、@米国製機器・部品を利用してシステム構築費を低減させることの必要性、A設備費低減のため自主制作番組のためのスタジオ設備をスタート段階では割愛すること、などが言及された。実際にはAの考え方は、ケーブルテレビを地域情報化の有効手段として活用する観点からすると、不満な点が残った。しかし加入者獲得難のために経営支援的に行政の補助を増やさなければならないなどの周辺の事例を見ると、当面は止む終えない措置として理解されたものである。

 さらに1993年に茅ヶ崎市テレトピア基本計画を作成し、その中でケーブルテレビ事業を中心事業の1つに置いた。テレトピア事業ではケーブルテレビは、@文化・生涯学習システム、A行政情報システム、Bタウン情報システム、C災害情報システムに寄与するメディアとして位置づけられている。しかし、都市型ケーブルテレビ事業はいわば事業の見直し期にあり、有力な事業者が手を挙げるという状況にはなかった。このためにテレトピアの申請を1年遅らせ、結果的には1994年に申請して郵政省から認可を受けることとなる。この申請作業と平行して、参入を表明したケーブルテレビ事業者の選択が行政側で進み、複数候補の中から住友商事を中心的事業者とする事業案が採用され、1994年8月に第3セクター(資本金8億円、市の出資8千万円10%)のケーブルテレビ事業会社「テレビちがさき」が設立された。その後にネットワークや関連建家の工事が進められ、茅ヶ崎市南部を対象とした第一期エリアが1996年4月にサービス開始し、第二期の残りのエリアは少々地域によるずれがあったが、1997年秋頃にはほとんどがサービス開始をすることとなる。

 誕生したテレビちがさきは従来のケーブルテレビ会社とは大きく異なる点が2つあった。第1はネットワーク設備である。テレビちがさき以前では、日本どのケーブルテレビ会社も同軸ケーブルで構築したネットワーク設備を採用していた。しかしこの会社は当時米国で開発されて利用され始めていたHFC方式(Hybrid Fibre & Co-axial Cable System)を日本で最初に採用した。HFC方式はケーブルテレビ・システムがデジタル化の潮流に対応し、インターネットを含む将来の通信事業の取り込みや、超多チャンネル時代への対応を可能とするシステムとして米国で開発されてきたものであった。技術はしばしば階段的に発展・採用されるが、この観点からすれば、開局が遅れていたが故に、最も最先端のシステムを採用し、来るべき激動期に有利なポジションを得ることが出来た、と言うことが出来る。この最先端のシステムを採用したが故に、CATV−LANを利用した公共施設紹介・予約システムやCATV電話(行政の緊急用連絡網として利用)の併設・実証実験が可能となり、当時の郵政省の「新世代地域ケーブルテレビ施設事業」の補助を得ている。

 またHFCと言う米国方式を採用したが故に、設備の建設費が従来の国産技術採用の場合に比べて著しく安価(先行局に比して1/2〜数分の1)になり、加入セールスでの最大の障害である加入金(通常は5万円前後)を無くすことに寄与したと見ることが出来る。この点は画期的で、後の加入者獲得の円滑化に大きく貢献したものと考えられる。またこれ以降は周辺のケーブルテレビ会社でも加入金を下げざるを得なくなっている。

 従来と異なる点の第2番目は、事業主体である。従来ケーブルテレビは地域密着型の事業ということで、地元企業・関係者が出資の過半を占めることが要請されていた。しかしテレビちがさきの出資の過半は住友商事であった。当時は概してケーブルテレビ企業は経営難の時代であり、地元出資だけでは経営危機に陥る事業者が現れ始めていた。そこで郵政省は設立の基準を緩和し、地域外の企業が経営の中心となることも認め始めた。その結果として、テレビちがさきの事業形態が実現した。ところで住友商事は1995年に、当時米国で1〜2位の規模の巨大MSOのケーブルテレビ会社であったTCI(Tele-Communications Inc.)の子会社のTCIインターナショナル社と合弁で、日本のMSOである(株)ジュピターテレコムを設立し、日本のケーブルテレビ事業の発展的な展開に備える準備をしつつあった。そこでテレビちがさきには米国MSOの経営ノウハウが適用されることとなる。

 なおMSOとは Multiple System Operator の略語で、複数の地域ケーブルテレビ会社を統合的に経営するケーブルテレビ会社である。このMSOの事業形態は、米国の場合には著しくケーブルテレビの成長に寄与したと評価されているものである(高木1990)。日本では他のMSOとしては、TCIと匹敵する米国のMSOであるタイムワーナーと組んだ伊藤忠系のタイタス・コミュニケーションがあった。ところがタイムワーナーがタイタスの株を手放し、99年にTCIと組んだマイクロソフトに買収されたために、日本のタイタスはジュピターと同じ系列になり、タイタスはジュピターに吸収される事態が起こった。この影響で、タイタス相模原はジェイコム相模原に変わる、というようなことが起こっている。これらはケーブルテレビ事業が従来とは異なり、一挙に国際的なビジネスとして展開されることとなったことを象徴的に示している。


テレビちがさきの発展   (目次へ戻る)
 

 日本で従来に通例で見られたケーブルテレビ会社とは異なる設備、異なる経営体としてスタートしたテレビちがさきは、都市型ケーブルテレビの加入者確保という点では、日本で最も順調に発展した模範的なケーブルテレビ会社として成長した。1996年4月の第一期エリアが開業し、続いてほぼ1年遅れで第U期エリアが開業した。対象エリアは茅ヶ崎市内の都市整備公団の団地など一部を除く7万世帯で、多チャンネル・サービスの加入者は、約4年9ヶ月後の2000年12月には加入率30%を越え、2001年9月現在では34%を越える段階にあると言われる。またコミュニティ・チャンネルを含む再送信サービスまで含めると、対象エリアの60%がケーブルテレビ会社のケーブルでテレビを見る世帯になったとのことである。加入者を得やすい地形難視や都市難視が本来的にない地域で、短期間にこの様な加入率を達成したことは、かなりの驚きと言わねばならない。

 この様な加入者の増加とともに、サービスの種類も増加している。2000年8月にはケーブルテレビインターネットのサービスを開始し、2001年4月からケーブルテレビ電話、6月からデジタル方式でのBSデジタル放送を開始している。

 当時の他のケーブルテレビ会社の苦境を後目にテレビちがさきが何故順調に成長したかの要因を探るとすれば、他のケーブルテレビ会社と異なる点に注目せざるを得ない。その第1点は加入時の初期費用の低減である。ケーブルテレビに加入する場合、通例では加入料(5.0〜7.5万円程度)と引き込み工事費(2.0〜3.5万円)が要求され、合計で7万円〜10万円程度になる。テレビを買えばただで見られる地上波のテレビに比べて、割高感は否めない。初期費用の高さが加入のネックとなっていることは幾つかの調査結果からも明らかになっている(例えば八ッ橋他1996)。それに加えて3千〜4千円/月の利用量が必要になる。それに対してテレビちがさきは加入料を無し(0円)にして、戸建て住宅の標準工事費を2万円、集合住宅の工事費を3千円にした。この様な低料金化は当時のケーブルテレビ・セールスの既成概念を破壊するものであった。背景には、ケーブルテレビが設備産業であり、運営コストが加入者の多寡にあまり依存することはないため、初期費用で設備費を回収するよりも利用料で回収する方が得策との判断があった。さらに設備費が他社に比べて断然安価であったこと、会社の資金調達力が高かったこともこの様な戦略的なセールスを促進したことであろう。

 もう一つの異なる点は、集中工事営業というセールス方である。これは米国のノウハウをもとに行われているセールス方である。対象エリアの一定地域でほぼ4ヶ月ごとに集中的に加入工事を行い、同時に集中的にセールスしてまわる方法である。この絨毯爆撃的なセールス方法が、加入料の安さと相俟って、知名度・親近感を増し、営業成績を高める効果をもたらしたと考えられる。

 このように見てくると、テレビちがさきの好調は、他の地域のケーブルテレビ会社とは異なり、米国式のシステム・設備と営業ノウハウを採用したことにあると見ることが出来る。


地域メディアを脱皮したケーブルテレビ   (目次へ戻る)
 

 これまではテレビちがさき、ないしは茅ヶ崎市内のケーブルテレビについて述べてきたが、このエリアのケーブルテレビの順調な発展とともに、実は事業会社は大きく成長・変貌してきている。

 1996年4月に開業したテレビちがさきは、1999年1月に隣接する寒川町の「寒川ケーブルテレビ」を吸収合併する。寒川ケーブルテレビは地元の中小企業経営者の4〜5人が中心となり、1990年に開業したケーブルテレビ会社で、地域密着を旗印にしていた会社であった。しかし経営の厳しさとともに、来るべきケーブルテレビのデジタル化への技術的対応や資金需要の点での困難さ故にテレビちがさきと合併する道を選んだとのことである。そしてテレビちがさき(株)は同時に社名を(株)ジェイコム湘南と改名した。これが第1代である。

 そして約2年後の2001年4月にまたより大きな合併をする。今度は(株)ジェイコム湘南と、隣接する藤沢ケーブルテレビ(株)(松下電器が中心的な事業会社)、それに少々離れているが元もと住友系で資本系列が類似していたシーエーティーヴィ横須賀(株)の3者が合併し、新たなケーブルテレビ会社が誕生した。この社名は、一時は(株)湘南テレコムの名称が報道されていたが、結局は(株)ジェイコム湘南となった。これが第2代の「ジェイコム湘南」である。この会社は資本金57億円余、再送信を含む加入数20万弱の巨大ケーブルテレビ会社の誕生である。そして第2代のジェイコム湘南の本社は横須賀に設置され、それまで茅ヶ崎にあった営業拠点は藤沢に集約され、茅ヶ崎には営業拠点はなくなることとなった。したがってこの時点に至ると、ケーブルテレビ事業会社における茅ヶ崎と言う地域性や第3セクター会社は、すっかり影が薄れたと言うことが出来る。また最近は全国のジェイコム系列会社の統一ブランド名「ジェイコム・ブロードバンド」が多用され、さらに「湘南」の影も薄れる傾向にある。


変貌の必然性と行方   (目次へ戻る)
 

 ケーブルテレビ事業は従来のパラダイムでは、地域密着型の事業であった。しかし順調に変貌・成長するジェイコム湘南の姿は、明らかに脱地域的なパラダイムへの変更を迫るものである。さらにこの変化はジェイコム湘南に限った話ではなく、ジェイコム湘南が属しているジェイコム・グループ全体に共通する動きである。現在のジェイコム・グループは全国で24社、加入数では120万弱(2001.9末)となっており、次々と地域のケーブルテレビ会社を吸収合併し、拡大・成長を続けている(猪俣 2001、ジェイコム 2001)。さらに言えば合併・統合と規模拡大はジェイコム・グループだけではなく、様々な日本のケーブルテレビ会社間で急速に進行しつつある(注1)。

  それでは地域密着を標榜してスタートしたケーブルテレビ事業が、脱地域的な事業に変質していく契機はどこにあったのだろうか。どこでこの様な事業の性格差が発生してきたのだろうか。この点は、そもそもケーブルテレビのサービスは利用者にとってどの様な意味があるのか、の観点から見ていくと理解することが出来る。ケーブルテレビは様々な発展段階があり、サービスを増やして現在に至っているが、その移り変わりを表1のように整理できる。


   表1 ケーブルテレビの発展段階のサービスと地域性
発展段階   
    地域性      
   非地域性
地形難視型
再送信サービス
 
自主放送型
再送信サービス、地域自主放送
 
区域外再送信型
       
再送信サービス、地域自主放送、
区域外再送信

 

都市型
       
再送信サービス、地域自主放送、
区域外再送信
多チャンネル放送
 
デジタル型
       
再送信サービス、地域自主放送、
区域外再送信
多チャンネル放送、インターネット接続サービス
電話サービス

 

 ケーブルテレビで提供されていたサービスが地域固有のニーズを持つものであるか否かで、地域性のあるサービスか、地域性のないサービスかを分けている。この表によると、区域外再送信型の段階までは、サービスは地域に固有のニーズに対応していることが分かる。すなわち再送信サービスと区域外再送信サービスは、本来的にその地域に欠けているが故に魅力を持つもの、地域の置かれている特殊条件から生まれたものである。さらに地域自主放送は自分自身の地域のための放送であった。このためにケーブルテレビ会社にとっては、自主放送のサービス向上に努力することが、加入者増加を促進することになり、行政の支援の有無にかかわらず、自主番組制作に努力する事業者が多かった。

 ところが都市型ケーブルテレビの時代になると、電波障害地域でないと再送信サービスは何ら魅力のあるものではなく、区域外再送信ではUHF系以外の必要性はなく、地域性に関連するサービスの魅力は減少する。そして売り物になるのは非地域的なサービスである多チャンネル放送である。したがって都市部で多チャンネル放送を売り物にし始めた段階で、実は非地域的な性格を持ち始めていたのである。

 ケーブルテレビは地方で成長し、地域に根付いて地域メディアとしての実績を作っていった。その段階ではまさしく、地域メディアであった。しかし多チャンネル放送が中心的なサービスとなった後も、同じ地域メディアのパラダイムで都市部での展開が意図され、多くの促進政策で行政が後押ししたが、苦境の時代が続いた。1980年代央から1990年代にかけてである。この頃はケーブルテレビの苦境の時代である。

 この時代のケーブルテレビは、加入料と料金の割には魅力的な番組がなく、産業としても経営難であるためにソフト制作への投資が回らず、それがまた加入者確保を抑制するという、いわば悪循環の過程にあった。また都市型のケーブルテレビ地域の調査では、映画やスポーツに比べて、地域情報を加入動機にあげる人は概して少ないという結果である(八ッ橋1996、1999)。都市部では地方のケーブルテレビの発展を支えた地域的な特徴のある番組や情報では利用者を惹きつけることは出来ない、しかし非地域的な番組への投資が進まないためにこの種の番組では利用者を確保できない、これが苦境の姿である。

 この時代を過ぎ去った現時点で見方を変えれば、苦境であるために行政の促進政策が必要とされ、促進策を可能とするために地域行政と地域企業が主体となる第3セクター方式が要求されたと見ることが出来る。しかしこの方式では、本来的に事業を好転させることは困難であった。素直に見れば、従来のパラダイムにとらわれたためのボタンの掛け違いがあり、行政の規制によって事業の進展が阻害された、とも言うことが出来よう。

 ほとんどの都市型ケーブルテレビ事業は、米国でのケーブルテレビの成長を横目で見て、同様な水準の成長を期待して事業が推進された。しかし推進の考え方と方法が従来方式の地方型であったために、苦難の一時期を過ごし、苦労を強いられた。ところが規制緩和の流れの中で米国式の経営が始まると、従来の日本にはない成長が達成されている。この象徴的存在の1つがテレビちがさきであり、また現在のジェイコム湘南であると言うことが出来よう。

 もう一つ、成長の背景としては、1990年代央から始まった多チャンネル・サービス向けの衛星配信番組の充実も挙げておく。ここにも規制緩和に伴う投資が積極的に進められことが貢献していると見ることが出来る。多くの番組が始まり、本格的に利用者の興味を引き始めたと見ることが出来る。この動きには、CSデジタル放送のスカイパーフェクTVの開業(1996.10)も大きく貢献したと見られる。


これからのケーブルテレビと地域情報化   (目次へ戻る)
 

 過去5〜6年の間に、ケーブルテレビは著しい変化を経験しつつある。テレビちがさきはその変化にタイミングと事業方法ともに上手く対応し、第2代のジェイコム湘南へと成長し、今後さらに成長しつつ姿を変えていくことであろう。それでは地域(ここでは生活圏的な地域)との関わり、地域情報化との関わりはどの様になっていくのだろうか。色々な可能性があるが、ここでは今後の産業としての変化の方向性を整理して、その可能性を探ってみたい。

 まず第1は「競争環境の進展」である。従来ケーブルテレビは地域独占事業とされ、競争環境には置かれなかったが、その理由の1つは、「投資額が大きく回収に長期を要するために、競争環境での事業継続には無理がある」という点にある。しかし米国製の機器使用による設備コスト低下は、この辺の見方を変えるものであった。現実に90年代央には横浜市戸塚区では2つの事業者が認可を受けて、行政の規制が変わりつつあることを示している。さらにデジタル化の潮流は設備の低コスト化を進め、同時に様々な新たなサービスを生み出している。明らかに競争環境を準備しつつある。

 表1が示す現在から今後にかけての第5段階のデジタル型のケーブルテレビのサービスは、非地域性がさらに高まり、電話会社やインターネット・サービス・プロバイダーと直接に競合するものである。これらのインターネット接続事業や電話事業が通信事業の代表例であるが、これらのネットワーク・サービスでは「ネットワークの外部性」の効果があり、規模拡大のメリットが大きい。

 さらにHFC方式は現時点では放送から通信までに十分な伝送容量を提供する経済的なインフラであり、将来の大容量化に向けた潜在力が大きい。HFC方式の次世代の発展形は実は家庭への光ファイバー方式であり、NTTが次世代の通信網として構築を意図している光ファイバー網と同じ概念である。したがって現在から将来に向けてのケーブルテレビ事業の競争相手は、実はNTTやKDDIのような電気通信事業者となってきている。また放送や電話がインターネットに取り込まれつつある状況から推測されるように、各種のブロードバンド・サービスの事業者も有力な競争相手である。そのために規模拡大で市場を確保するとともに、将来の有利なポジション確保に向け必死な競争を開始した段階である。この種の規模拡大と競争環境の進展は、ケーブルテレビ事業者に対し、個別地域に深入りし、地域の情報を武器にするサービスを強化する方向へは行きにくいものとなろう。

 第2番目には「ハードとソフトの分離」が挙げられる。現在進行を開始した激しい競争、その内容はインフラ事業者の陣取り合戦であるが、多チャンネル・サービスの加入者の増加傾向やインターネットのブロードバンド・サービスの開発と加入者の増加傾向、さらには通信事業への放送の開放などの規制緩和の動向からすると、今後5年程度である程度の成熟段階を迎えるだろう。そこでは、現在はケーブルテレビやCSデジタル放送で進展している「ハードとソフトの分離」(放送における伝送とソフト制作の事業分離。伝送は通信事業に吸収される)が全般に強まり、放送以外にも及ぶものとなろう。すなわち様々なブロードバンドの通信インフラが整備されて、放送は通信に吸収される。その場合にはある固有のインフラ事業者でなければ、利用者が目的とするソフトを見ることが出来ない、と言うような傾向は後退していく。一時的には加入者確保のために、キラー・ソフトを特定事業者だけが提供すると言う事態も起こりうるが、それは一過的なものである。すなわち現在インターネットでホームページを閲覧する様に、各種ソフトを自由に、無料または有料で視聴・閲覧することが出来るようになろう。

 この様にソフトのインフラ事業者依存が低下すると、インフラ事業者が自社の加入者を確保するために、ソフト制作を手がけることの必然性は低下していく。したがって将来のケーブルテレビ会社が自己負担で地域番組を手がけることは起こりにくい。するとどの様なことが起こるであろうか。

 現在のケーブルテレビが放送している地域番組・地域情報は、一般論としては、@行政支出によって支えられるもの、Aボランティアによって支えられるもの、B地域スポンサーによって支えられるもの、Cケーブルテレビ会社の自己負担で支えられるものの4種類があり得る。典型例が4つで、その混合型も存在しよう。この4種類が現在どの程度に実現しているかをざっと見ると、Cが量的には最も多く、次いで@があり、Aはたまに散見され、Bは最近までのCATVの加入率の低さを反映して、まだあまり実在しないのが現状である。

 この様な状況から今後さらにCが減少するとしたら、ケーブルテレビ経由の地域番組・地域情報はさらに魅力を失うものとなりかねない。もっともその頃にはケーブルテレビ番組と言うより、インターネットのWebでの情報・番組と言うことになるだろうが、Bが不確定な点を考慮すると、@とAの重要性が高まることは間違いない。この点ではAを誘発する行政の役割も含めて、行政の重要性が今後ますます高まることとなろう。したがって、この様な観点からの見直しが必要になろう。

 1990年代前半までの従来型のケーブルテレビ事業企画案としてスタートした茅ヶ崎のケーブルテレビは、実際には目下の産業政策面の方向性を代表するような経営概念で運用され、当初は思いもつかなかった姿に成長・変質しつつある。その一方で地域番組制作のためのスタジオ設備等は安定成長期の仕事に残すなど、当初の経営難を心配して事業者と市ともに周辺地域と比べれば相対的には軽い負担でケーブルテレビの地域情報事業をスタートさせたが、経営難時期を過ぎた現在も市側の予算制約と事業者側の経営意向が相まって、強化される兆しは見えない。当初のテレトピア計画案におけるアイデアは絵に描いた餅となっている面もある。その点では状況の解釈について、関係者の食い違いも散見される。

 パラダイム・シフトとでも言うべき、ケーブルテレビの概念が大きく変わりつつある事態を勘案すると、この様な食い違いの発生は当然としても、今後のあり方を考える場合、見方の修正が必要である。従来のケーブルテレビ概念に執着することは出来ない。具体的には、1990年代初期に「高度情報都市整備構想」を策定し、テレトピアの計画案を作成していた時期にはまだ顕在化していなかったインターネットが現在急成長し、技術進歩やサービス開発の面から見ても、今後の主流となる勢いである。筆者の2001年3月の調査に依れば、既に43%の市民が利用している(八ッ橋2001)。まだ回線速度は大きくないが、急速にブロードバンド利用者が増加しつつある。ケーブルテレビの成長はこの動きと方向を同じくしている。この様な事態の進展を踏まえた情報化計画案の見直しが必要な段階にきていることは明らかである。

 最後に、本文は筆者の経験と関係者への最近の聞き取り調査を元に作成した。聞き取りに応じて頂いた方々には感謝の意を表する次第である。なお記述には正確さを期しているが、何らかの食い違いがあるかも知れない。もしあるとすれば、それはひとえに筆者の責に負うものである。
 


【引用文献】   (目次へ戻る)
 

(注1)「CATV Now」NHKソフトウエア発行の最近号に多くの事例紹介あり。 


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