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2.映画産業の変遷
 

2.1 映画興行の始まり

 「映画が誕生した瞬間」のもっとも有力な説として、リュミエール兄弟の話が挙げられる。1895年12月28日、フランスのパリのグラン・カフェにおいてリュミエール兄弟が初めて観客から入場料金を取って映画を上映したときであると言われている。多くの人々に見られることで成立した映画という芸術は、総合芸術の特殊性を物語ると同時に、大衆娯楽としての宿命を背負った文化であることを意味している。
 「映画が誕生した瞬間」は同時に「映画興行が誕生した瞬間」でもある。逆に考えれば、「映画」は興行という名のビジネスによってその成立が認められた存在とも言える。

 リュミエール兄弟の興行に先立つこと2年前、エジソンがキネトスコープを発明したのは1893年のことだった。このキネトスコープは原理こそ現在の映画と同じだったが、箱型の装置を覗き込む方式であったため一人ずつしか見ることが出来なかった。これが日本に伝来し、1896年11月に鉄砲商の高橋信治が神戸の旅館で皇族も招いて披露した後、同じく神戸で一般公開した。

 その後、京都で染料会社を営んでいた稲畑勝太郎がリュミエール社から技師(コンスタン・ジレル)とともに映写機材一式を輸入した。彼はパリ留学中にリュミエール兄弟の兄オーギュストとの知己を得ていた関係で、発明されたばかりの映画(シネマトグラフ)の権利を得ることができたのだった。そして京都電燈会社(現関西電力)敷地内で試写を行った後、1897年2月15日に大阪ミナミの南地演舞場(現.東宝南街会館)で興行を打った。一般的にはこれが日本で最初の映画興行であるといわれている。

 同年3月にはキネトスコープの改良版である投影式のヴァイタスコープが東京で公開された。ちなみに、この頃すでに説明者がついていたと言われ、これがやがて初期の日本映画興行界における特徴のひとつである活動弁士と呼ばれる存在になった。また、1899年には初の日本製映画の興行が行われた。それまでは芝居小屋を中心に上映されていたが、1903年、吉沢商店によって最初の映画専門館である浅草電気館がつくられた。
 

2.2 日本の映画産業

 日本で映画が産業として確立したのは、1912年「日本活動写真株式会社」、いわゆる日活が成立したときである。1920年には芸能の老舗「松竹」が映画部門を作り、1936年には東京宝塚などの合併で「東宝」が誕生した。戦時中の1943年に大映が国家のお膳立てで作られ、戦後の1949年に東横電鉄(現:東急)が東映を作った。さらに東宝から労働組合が独立して作った新東宝を合わせ、合計6つの映画会社が存在した。

 歴史的に見て、日本の映画の発展は太平洋戦争における敗北が非常に大きく関係している。 当時の日本国民は、戦後の嫌な雰囲気を映画鑑賞で発散させていたのだ。 これが“大衆娯楽の王様”と言われた映画の真実なのである。どんな作品を作っても観客が入るという時代であったため、映画会社は産めよ増やせよと年間 500本もの作品を製作していたが、そのような時代であったからこそ、芸術家たる映画監督は様々な試みに挑戦することができたという。黒澤明や小津 安二郎、新藤兼人らの日本映画の代表的監督が出現するのはこの時代である。

 当時の全国民の年間平均鑑賞回数は実に12.1回を数えた。これは、映画館に来ることが事実上不可能であろう赤ん坊やお年寄りも計算に含まれていることを考慮すると、 物理的に映画館に足を運ぶことが可能な人であれば、1年間に最低15回程度は映画館に通ったことになるだろう。

 ところが、1958年に観客動員数でピークを迎えた映画産業は、以後斜陽化していくことになる。その最大の理由は、1953年に放送が始まったテレビの影響だと考えるのが妥当であろう。当初は高額だったテレビ受像器も国民所得の増加、皇太子の御成婚、東京オリンピックなどのビッグイベントで一気に普及率が高まり、1960年代半ばには各家庭に対して約90%もの普及率に達するのである。このとき既に、映画館の観客はピーク時の3分の1にまで落ち込んでいた。ハリウッドでも、10本中で採算が合うのはわずか3本だけであり、そのうちスマッシュ・ヒットと呼ばれるのはたったの1本だけだと言われている。

 ハリウッドは多く製作することでリスクを減らそうとしたが、日本はその逆の方法を行い、結果的にリスクばかりが高まってきたのである。いつしか、 映画館には一部のファンしか足を運ばなくなっていた。

2.3 シネマコンプレックスの登場

 低迷する日本の映画産業において革命を起こした一因とされるのが、シネマコンプレックスといわれる新しいスタイルの映画館だ。これはショッピングセンターなどに隣接・併設された複合ビル内に複数のスクリーン(6〜18程)を持ち、入場券売り場・売店・入り口および映写室などを共有し、特定の上映系列に属さず配給作品の選択が自由で、かつ館内どのスクリーンでも上映可能である事を前提に配給を受ける映画館である。なお、6スクリーンに満たない小規模なシネコンをミニコン(ミニプレックス)、18スクリーンを越える大規模なシネコンをメガコン(メガプレックス)と呼ぶことがある。
 

この構造により、次のようなメリットがあげられる。
@ 買い物のついでに映画、映画のついでに買い物、という相乗効果がある。
A 複数の作品が同時上映でき、1作品の評判による興行収入の変動を小さくする事が出来る。
B 座席数の異なるスクリーンを観客数に応じて割り振ったり、人気作品の場合には複数スクリーンで同    時上映もできたり、効率的である。
C チケット売り場や売店、映写室をまとめることにより、単スクリーン館に比べ人件費、投資額を抑制で    きる。

 シネマコンプレックスの基本的コンセプトは、客席はスタジアムスタイルにして前後間隔に余裕をとり、椅子は個々にカップホルダーを設けて長時間快適に鑑賞できるように配慮されている。音響装置は大型・複数のスピーカーと重低音スピーカーとサラウンドスピーカーを配した立体音響システムを導入し、映画館の醍醐味である臨場感を充分に味わえるように工夫されている。

 また、現在開業しているものは、地方都市の郊外商業施設に併設される郊外立地型が多い。流通業界では店舗が過剰になっている事に加え、専門店やディスカウントストアに顧客を奪われるなど、売上低迷に陥っている。小売業は出店を続け、売上高の増加に努めているが、既存店の売上高の落ち込みは大きい。そのため、ショッピングセンターにシネマコンプレックスを導入する事によって集客力を高め、物販・飲食店舗の売上増加への波及効果を期待している。郊外型デパートや地方のショッピングセンターの商圏は半径20〜30 kmといわれているのに対し、シネマコンプレックスは半径50kmにも及ぶとみられている。

 一方、シネマコンプレックスとしても広大な駐車場を利用する事ができ、これまでの映画館の客が若者中心であったのに対し、商業施設に買い物のため来店する主婦や家族連れなど、これまでとは異なる客を誘致する事ができるようになった。今やシネマコンプレックスは大規模商業施設には欠かせない集客施設として従来の映画館とは比べものにならない集客力を有していることがわかる。

2.4 シネマコンプレックスに参入した企業
 
ワーナー・マイカル
 シネコンの火つけ役。大手スーパーのマイカルグループと米メディア大手のタイム・ワーナーが合弁で1991年秋に設立。93年に神奈川県海老名市に1号館を開設(客席数1,874)。2003年には現在より5割多い3000館に達する見込み。
ユナイテッド・シネマ・インターナショナル・ジャパン(英)
 米国の大手、パラマウントとユニバーサルのシネマコンプレックス部門の合弁会社。欧州に映画館チェーンを持つ。96年11月、滋賀県大津市に「OTSU7シネマ」(客席数1,821)を皮切りに97年10月石川県金沢市に「ルネス9シネマ」(客席数2,456)、98年6月20日札幌市サッポロファクトリ内に「パラマウント・ユニバーサル・シアター11」をオープン。
東宝
 阪急電鉄創始者小林一三氏の功績により、全国各地の一等地に劇場を構える東宝が、クルマ社会に対応するシネコン事業を拡大する。98年4月23日に1号館「浜大津アーカスシネマ」(5スクリーン)を滋賀県大津市に開業。
松竹マルチプレックス・シアターズ
 日本メジャー映画会社のトップを切り、松竹がシネコン事業に参入。米大手映画興行会社シネマークと事業提携する。97年4月に神戸市六甲アイランド内に「MOVI六甲」1号館をオープン(客席数1,419)。98年には群馬県伊勢崎市のいせや大型ショッピングセンター内に10スクリーン持つ大型施設を開業。
AACエンターテインメント(米)
 純粋な外資系のマルチ映画館。96年4月20日、福岡市の中心部を再開発したキャナルシティ内に「キャナルシティ博多」をオープン。こちらは大都市のなかに13ものスクリーンを持つ。愛知県豊橋市や岐阜県真正町にも3000席超のシネコンを計画中。今後、10年間で12スクリーン以上の施設を最低15ヶ所、300スクリーンつくると発表している。東京ディズニーランドの隣接地にも進出する予定。 
 米国では96年末、カリフォルニア州オンタリオに30スクリーンを持つ世界最大の映画館「AMCオンタリオ・ミルズ・30シアターズ」を開業。
ヘラルド・エンタープライズ
 映画配給大手・日本ヘラルド映画の全額出資子会社が運営。日本の配給会社としては初の単独出資のシネコン展開となる。99年4月に神奈川県平塚市に中堅小売業のオリンピックが開発を進めている総合娯楽施設のワンフロアに入居し開業した。大ホールは400人、合計1,500人を集積できる規模。
ヴァージン・シネマズ・ジャパン(英)
 英国のヴァージン・グループは日本法人を設立し、日本でシネコンの展開に乗り出す。ヴァージン・グループは、ヴァージン・シネマズ(ロンドン)が英国を中心に23店舗の映画館を展開している。
ダイエーグループ
 福岡市の福岡ドーム隣接地にシネコンを核にした商業施設を建設する予定。大型アミューズメント施設、コンサートホールと共に「通年型施設」として開業。
ジャスコ
 99年3月に全額出資の子会社イオンシネマズを設立。ソニーの子会社ソニ?・シネマチックが、デジタル音響技術を提供する。
東宝・東映・松竹提携
 日本の大手三社、東宝・東映・松竹は、初めて新作の封切り館を共同運営する。ひとつのシネコンに三社の邦画がそろったケースはこれまでになく、東宝東和や松竹などが配給する洋画の大作も上映することで、洋画中心の外資系シネコンに対抗する。映画興行大手の東急レクレーションが事業展開で協力する。
 第一弾として、2003年に開業する札幌駅前の高層ビル(JR北海道建設)に開業する予定。合計12館(東宝系6、東映系3、松竹系3)、客席数2,500席。運営子会社は作らず、出店規模に応じてビル建設費、テナント料を負担する。その他、首都圏など数カ所で都市型シネコンの運営を検討している。

    2.5 上映設備の現在
音響について
 音声再生システムには大別してアナログ信号(モノラルおよびドルビーステレオAタイプ、上位システムとしてドルビーSR)によるものと、デジタル信号(ドルビーSR−DやドルビーEX、DTS、SDDS)によるものとがある。
 映画館におけるスピーカーの配置は、通常、正面のセンター、ライト、レフト・スピーカーがスクリーンの裏側に設置されており、左右もしくは後方の壁面にサラウンド・スピーカー(1ch)が取り付けられている。また、ドルビーSR以上のシステムの場合は正面にサブ・ウーハーが、さらにSR−D、EXおよびDTSの場合はサラウンド・スピーカー(2ch)も設置されている。SDDSについては、さらに2系統のチャンネルを持つ合計8chのシステムとなっている。

スクリーンについて
映画で最初に用いられたスクリーン・フォーマットはフィルムの感光フレームを最大限に使ったサイズ(縦横比1:1.33)だった。その後、公式に現在のスタンダード・サイズ(同 1:1.375)に決められた。そのスタンダード・サイズよりも横幅を広くし、より迫力のある映像を追求した結果、ビスタ・ビジョンが開発された。ビスタにはヨーロピアン・ビスタ(同 1:1.66)とアメリカン・ビスタ(同 1:1.85)の2種類が存在する。ヨーロピアン・ビスタはフランスを始めとするヨーロッパ圏で主に使われ、アメリカン・ビスタは日本を含めて広く世界中で使われている。ビスタ・サイズよりもさらに横幅のある画面を作り出すために、20世紀フォックス社が開発したのが縦横比 1:2.35の画面サイズを可能とするシネマスコープである。

 映画館で使われるスクリーンの材質は当初木綿の白い布などが用いられていたが、現在はビニール製素材が主流である。通常、映画館ではスクリーン正面から映写するので反射型のものが使用されるが、スクリーンの裏側から映写する透過型のものもある。
 反射型スクリーンには、スクリーンの裏側に設置されたスピーカーの音の抜けを良くするためにサウンドホールと呼ばれる小さな穴が全体に空けられている。ベースには塩化ビニールもしくはグラスファイバーを含んだマット素材が用いられ、表面に反射性物質が塗布されている。最も一般的なホワイト・スクリーンは、金属性酸化物質(マグネシウム、亜鉛、アルミニウム等)が塗布されており、拡散性の高い反射特性をもっている。次によく使われているシルバー・スクリーンは、アルミニウムの粉末が塗布されており、指向性の高い反射特性をもっているためスクリーン正面の反射効率はホワイト・スクリーンよりも高いのだが、斜め方向からは暗く見えてしまう。そのためシルバー・スクリーンは客席の配列が縦に長い劇場に適している。他に、パール粒子でコーティングされたスクリーンなどもある。



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