開催にあたって
教育研究所が主催する「世界の教科書展」は、1994年度に第1回が開催され、今年度で第21回目を迎えます。
今回の「世界の教科書展」ではインドの教科書を取り上げ、インドの小学校ではどのような教育が実際に行われているのかを紹介します。
IT産業が急速に発展するインドにおいて、その最大の要因は優秀な人材の豊富さにあります。その背景には伝統的に数学教育に力を入れていることがあげられます。しかしながら、現在、初等教育を受けていない児童の数は全世界で1億400 万人にのぼり、その4分の1がインドの子どもたちです。1999 年に3900 万人であった未就学児童(6-14歳)の数は2003 年には2500 万人にまで減少し、貧困削減・教育普及において大幅な改善が見受けられますが、依然として多くの問題を抱えています。今後どのような改善が試みられるかは、インドの将来にとってだけでなく、国際的な開発事業においても重要な関心事です。
なお、展示パネルの解説、およびインドの教科書翻訳は、東京外国語大学大学院総合国際学研究科 地域•国際専攻 国際社会研究コース 博士前期過程の大石 海さんにお願いしました。(2014年11月)
南アジアに位置するインド共和国(1947年~)は、面積328万7,469平方キロメートル、人口は、2011年の国勢調査によると12億1,057万人(世界第2位)、28の州(State)と7つの連邦直轄領(Union territory)から構成されている連邦共和制国家です。パキスタン、中華人民共和国、ネパール、ブータン、バングラデシュ、ミャンマーと国境を接しています。また、イギリス連邦加盟国家のひとつでもあります。
民族については、インド・アーリア語族、ドラヴィダ語族、オーストロ・アジア語族、シナ・チベット語族の4つに大別できます。連邦公用語は、北インドを中心に話者人口が最多のヒンディー語ですが、主要言語として憲法の第8附則(およびその後の憲法改正)にはヒンディー語を含む22の言語が挙げられています。また紙幣には16言語で金額が記されています。
歴史的に見ると、1858年にムガル帝国がイギリスによって完全に滅ぼされてから、インドはイギリスの直接統治下に入りました。
第一次世界大戦に際して、イギリスは植民地インドから2個師団100万人以上の兵力を西部戦線に動員し、食糧はじめ軍事物資や戦費の一部も負担させました。しかし、イギリスがインドに対して戦後に自治をあたえるという公約を守らず、形式的自治にとどめたこと、またウッドロウ・ウィルソンらの唱えた民族自決の理念の高まりに影響を受けたこともあり、民族運動が高揚していきました。
1929年、ラーホールでひらかれた国民会議派大会において、マハートーマー・ガーンディーやジャワーハルラール・ネルーの指導のもと、プールナ・スワラージ(完全独立)が決議され、その後も粘り強く反英・独立運動が展開されていきました。
1945年9月2日に第二次世界大戦が終わった結果、疲弊したイギリスは、植民地を手放さざるを得ませんでした。しかし、インド内のヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の争いが収拾されず、1947年8月15日に、イスラーム教徒が多数地域のパキスタン(1947年8月14日独立)との分離・独立という形になりました。イスラーム教徒との融和を説き、分離独立には反対していたガーンディーは1948年1月、狂信的なヒンドゥー教徒により暗殺されてしまいます。初代首相にはジャワーハルラール・ネルーが就任し、政教分離の世俗主義という柱で国の統一を図りました。1950年には共和制へ移行しました。
21世紀に入ってからのインドの経済発展は特にめざましく、ブラジル、ロシア連邦、中華人民共和国そして南アフリカと並んで、「BRICS」と称されています。とりわけ、IT(情報技術)関連部門の成長が著しいです。
(1)教育制度
インドの教育制度は、基本的に初等学校5年、後期初等学校3年(6~8年生)、中等学校2年(9,10年生)、上級中等学校2年(11,12年生)、そしてその上に大学3年となっています。このうち義務教育期間は、初等学校と後期初等学校の8年間です。就学開始年齢は5歳です。この後期初等学校、つまり8年生までが、日本で言うところの小・中学校の教育制度です。また、上記の大学というのはカレッジのことで、さらにその上のユニヴァーシティにおいて大学院教育を行ないます。
運営のあり方によって学校を分類すると、(1)政府及び自治機関が運営しているもの(government and local bodies)、(2)私立ではあるが政府から補助を得ていてさまざまな政府の規制下にあるもの(private aided)、(3)私立であって政府から補助金を得ておらず、まったく独立しているもの(private unaided)、の3種類に分けられます。なお、自治機関とは、地方選挙によって選ばれた議員などからなる公的機関で、州政府及びその下部機関と協力して、教育などの地方政策の立案・実施にあたっています。運営でみると、政府・自治機関運営の小学校に通う児童は全体の77 %、私立であるが政府の支援を受けている小学校は11 %、まったく
の私立小学校は12 %となっており、児童の大半は政府・自治機関運営の小学校に行っています。
さらに、これを家庭の支出でみると、低所得の家庭の児童ほど公的な小学校に通っており、家計支出が低い方から20 %以内の家庭の児童では、その90 %が政府・自治機関運営の小学校に通っています。
インドの公的な教育は、憲法により、基本的には各州の担当となっています。しかし、1976 年の憲法改正により、中央の議会が教育に関する立法を担当することとされ、さらに1986 年の国家教育政策(National Policy on Education)により、中央政府は初等教育の一部分を負担することとなりました。現在、州は初等教育支出の90 %を負担し、10 %を中央政府が負担しています。中央政府は、10 %のみの財政負担ですが、中央政府主導の政策が追加的なものとして推進されるため、州の実行する初等教育政策にかなりの影響をもっています。
通常の学校教育のほかに、インドでは正規の学校教育を受けられない児童のための非公式なノンフォーマル教育(Non-formal Education, NFE)があります。ノンフォーマル教育は、NGO団体などが自らの資金で実施しているものがありますが、1978 年に中央政府の公的な支援が可能となっています。ノンフォーマル教育 は、児童の都合にあった時間帯に、非正規の教員(通常の教員免許はないが、ノンフォーマル教育向けの研修を受けている。)が、自らの家やコミュニティセンターなどで授業を行うもので、労働をせざるを得ない児童、学校が遠くて通えない児童などに教育の機会をあたえています。
-インドの学校系統図-(『諸外国の教育の状況』p131)
学校系図(PDF)
(2)教員養成
教員養成は「全国教育審議会」(NCTE)の認証を受けた教育養成機関で行なわれます。初等学校教員に関しては、大学教育学部、国立教育研究所の5つの地域カレッジ、教員養成カレッジ、ディストリクト・レヴェルの教員養成機関などで行なわれています。教員養成機関に入学するためには、上級中等学校(日本の高等学校に相当します)の修了試験で最低でも45%の得点が必要となります。修学期間は年間150日以上で2年間以上あります。教育学、心理学の教職科目と、地方言語/母語、英語、数学、理科、社会の教科内容を履修し、30日以上の教育実習を行ないます。
(3)教員採用
インドの場合、日本のような免許制度ではなく、上記のNCTEの認証を受けた機関を修了することが教員の資格要件となります。
教員採用の方法は州によって異なり、初等学校教員の場合、州で統一した選抜が行なわれることもありますが、一般的に、まずディストリクト・レヴェルの教育担当官あるいは選抜委員会が面接によって応募者を選抜します。この選抜を通過した者が名簿に記載され、市町村レヴェルの担当官が面接によって採用を決定します。政府から補助金を受けている私立学校の場合、教育局の承認を受けた理事会等が選抜を行ないます。
教科書制度も州によって異なります。州の教科書委員会が発行する教科書を使用する州もあります。また、国立教育研究所がさまざまな教科の教科書を発行・販売しており、これらの教科書を使用している州や学校もあります。教科書が無償であるか有償であるかも州によって異なります。
以下では、デリーの教科書の内容を見ていきましょう。
①言語(国語)
言語教育の方針は以下のとおりです。①学校で教えられる言語の種類だけでなく、教室での授業においても数種類の言語を用いるよう、言語教育は多言語である必要があること、②原則母語を教授用語とすること、③初等教育では母語による教育が保障されなければならないこと、④多言語社会における言語コミュニケーション能力を促進するために、「三言語方式」(母語あるいは地方語、ヒンディー語あるいは英語、母語ないし地方語以外のインド言語の3種類の言語教育)が実施される必要があること、⑤非ヒンディー語州の子どもはヒンディー語を学び、ヒンディー語州ではインドの他地域の言語を学ぶこと(サンスクリット語も含まれる)、⑥上級学年では古典語や外国語を導入すること。
以下ではヒンディー語の教科書を取り上げていきます。はじめに、インドの祭礼に関する部分です。ここでは種々の単語を学んでいくと同時に、インド社会の豊富で多様な文化を学びます。ここに出てくる2つの祭礼は、ホーリーとディーワーリーです。ホーリーとは、春のお祭りで、色水をかけ合ったり、薪を組んで燃やしたりするものです。ディーワーリーは、10月下旬に行なわれるヒンドゥー教徒のお祭りで、家をきれいにし、夜に灯明を点したりします。(『国語(微笑みの幼少期)』翻訳は省略)
次に初等学校5年生のヒンディー語の教科書を見ていきましょう。ここではインドの独立運動に関するものが記述されています。上記の祭礼についても同じことが言えるのですが、言語/国語の授業は他教科との関連が考慮されています。この部分は社会科あるいは歴史教育と関連していると言えるでしょう。
インドは、1947年にイギリス植民地支配から脱し、独立しました。独立以前の、1858年のインド大反乱は、イギリスに対する独立運動の端緒とされ、重要事項として認識されています。また、独立運動を指導したネルーやガーンディー(さらに彼らの行なった事柄)も、インドの独立に大きな役割を果たしたとして初等学校の段階から学習します。(『国語(知識の光 練習帳)』翻訳は省略)
②数学
数学では以下のような方向性が示されています。子どもたちは、①数学を嫌がるのではなく、楽しく学ぶ、②数学は公式や機械的計算以上のものであるという重要性を学ぶ、③数学を、話し合い、一緒に取り組むものであると理解する、④意味のある問題を自ら提示して解く、⑤関係を理解して、構造を認識し、様々に考えて解決策を発見する、⑥数学の基本的内容や、抽象化、構造化そして一般化の方法などの数学の基本的構造を理解する、⑦教師は、子どもたちが、誰でも数学を学べるという確信をもって授業に参加できるようにする。
ここでは、2年生の教科書のうち、お金の計算と時計の時間の読み取り・計算を見ていきましょう。これは上記の④と⑥に関連すると考えられます。(『数学(易しい文法入門)』
③保健体育
保険は単に生物学的な学習にとどまらず、社会的、経済的、文化的要素を含んでいます。良好な健康状態であることは子どもの全般的な発達にとって不可欠な状態であり、学校で学び続けて修了できるために必要な条件でもあります。特に社会的に傷つきやすい子どもたちや女子に注意が向けられ、栄養状態や衛生環境の改善も保険の内容に含まれます。体育に関しては、カリキュラムにヨガを取り入れることや、試合や運動を行なうのに十分な時間が確保されるべきことが指摘されています。
ここでは、1年生の体育「実践ヨガ」を見ていきましょう。ヨガは、古代インド発祥の修行法です。アーサナ(姿勢)や、プラーナーヤーマ(呼吸法)のみを重視する健康ヨガ的なものや、瞑想による精神統一を重視するものなど様々あります。(『体育・健康 (実践ヨガ)』翻訳は省略)
(参考文献)
・財団法人学校教育研究所『諸外国の教育の状況』、学校図書株式会社、2006年。
・佐々木宏「インドの初等教育におけるPrivateセクター:Privatizationと教育の不平等」『教育福祉研究』第6号、2000年、1-12頁。
・中村修三「インドの初等教育の発展と今後の課題」、『立命館国際地域研究』第24号、2006年、11-33頁。
(入場者396名中300名がアンケート回答、その中より抜粋)
・インドにはヨガの教科書があって面白かった。デジタル教科書も楽しそうで使ってみたいと思った。(本学卒業生)
・ずっといきたいと思っていたので来ることができてよかったです。挿絵のあるなしや、例え方など国によってほんとに違って自分の中の教育観をより一層深めることができたと思います。ありがとうございました。(本学学生)
・友人に言われて初めて来てみました。思っていたよりも本格的で展示品は実物も多く、楽しかったです。(本学学生)
・他国の教科書を見て、その国の教育方針の様なものの違いを感じました。この様な展示をまた見たいです。(本学学生)
・海外の教科書に触れる機会は滅多にない為、こうした機会に展示をしてくれてありがとうございます。iPadを使った授業もとても参考になりました。(他大学学生・院生)
・大学でヒンディー語を専攻しています。教科書で卒論を書こうと思っているので参考になりました。(他大学学生・院生)
・各国の教科書をみて、ある程度その国の学力レベルがわかる気がした。(高校生)
・日本とほとんど教科書が似ていなくてびっくり。(中学生)
・世界における教育環境制度等の違いがよくわかりました。インドの教育方針、制度の高いレベルを知ることができ、大変ためになる内容でした。資料等の展示方法も大変わかりやすく興味深い内容でした。更にインドについて知りたくなりました。ありがとうございました。(本学学生の家族)
・様々な国の教科書が見られて興味深かったです。インドの教育制度や特色のある教科(数学、保健体育)の展示がわかりやすかったです。(本学教職員)
・紙教科書とデジタル教材を両方に触れることができ、興味深かった。子どもに興味を持たせることは、国に関係なく大変なことだと感じた。(工夫が重要)(本学教職員)
・国によって、身近な生き物が異なり、挿絵になっているのが面白かった。
・世界各国の教科書大変興味深く拝見させていただいた。それぞれの国の特色が見えて面白かった。デジタル教科書はこれからの可能性を感じられる。大変楽しかった。
・各国の文字が一堂に会して見られるのも面白かったが、「本」としての違いも興味深かった。厚い物、薄い物、上製本あり、ホチキス止めあり…。印刷がきめ細かいところもあれば色の版ズレが基本のものなど、特にインドの教科書は刺激的!楽しかった。ありがとう。
・たくさんの世界各国の教科書を見る機会はほとんどないのでとても興味深く素晴らしい企画だと思う。それぞれの国で工夫を凝らし教科書が作られていて一つずつ手に取り拝見することができとても楽しかった。今日はこちらに来ることができて良かった。