文教大学国際学部

国際ボランティア

学生による国際ボランティア活動推進のために

国際学部教授・文教ボランティアズ顧問
中 村 恭 一
 
 私のゼミ生を中心とした文教大学国際学部学生による海外でのボランティア活動は、2001年夏のコソボに始まり、2002年春の東チモール、コソボ、ウズベキスタン、ネパール、そして同年夏の東チモールと、回を重ねている。参加総数は30人に達した。
  
 この学生たちは、1人の例外もなく、参加したことに大きな満足を覚えている。初めて訪れた異国の厳しい生活環境の中でボランティアを体験する苦労はひとしおだが、自らの活動によって現地の人から感謝と共に喜びの笑顔を返されることに、若い心は格別の感動を覚える。
 
 このためコソボと東チモールという最近の二つの大きな紛争地2カ所を連続して訪れた学生も6人に上る。彼らはただ単に珍しさに引かれて旅行したのではなく、水や電気の不自由な日常の中で、自炊をしながら、そして自ら試行錯誤を繰り返しながら、現地の人たちのために彼らならではの活動をした。こういう意味では、ゼミ旅行や大学内で企画された研修旅行、あるいはNGOや一部旅行社が企画したホテル生活をしながらのスタッディツアーとは、意味内容は大いに異なる。見聞によって知識を得る、あるいは現地に出かけることによって感動を得るという点ではもちろん後者の旅行でも可能である。しかし国際的な場で、自分という個人は大いに必要とされている人間であるということを身をもって体験できるボランティア活動の苦しさと喜びが加わるかどうかは、大きな違いである。
 
 ボランティア活動参加者たちがどのような活動をし、どのような感慨を覚えたかは、当の学生たちがこの報告書に書いているとおりである。従ってここでは、国際ボランティア活動を推進していく上での問題点に少々触れてみたい。
 
 まず第1点は、学生の気概の問題がある。ボランティア活動に参加するにはそれなりの情熱と思いやりの気持ちが必要である。青年は誰もが潜在的にこのような気概を心の中に宿している。しかし通常は、その気概は春の訪れを知らされずに眠ったままである。眠っている気概を目覚めさせるには、目覚ましベルが必要である。しかしこの目覚しベルが聞こえるチャンスを持てる青年は現在ではまだまだ限られている。
 
 第2に費用の問題がある。文教大学学生のボランティア活動参加者の中で、全額親の支援を得た学生はまずいない。参加者たちは、日常的に行うあるいは長期休みに入ると同時に始めるアルバイトによって、費用の大半をまかなう。そのために奪われる勉学時間も決して少なくない。そればかりか、その労働は自分の趣味、娯楽、好奇心を満たす旅行のためではなく、自分の力を必要として待っている辺鄙な地の人たちのために行うものである。勉学時間を犠牲にしたアルバイトという労働も、既に現地の人のためのボランティア活動の一部である。この労働なしには、現地で出かけることが出来ないのだから。それだけに、もし現地の人の喜びを確認できなかったら、この事前の労働は実にむなしいものになりかねない。それにしても、勉学時間を犠牲にしなければならないアルバイトには、大きな疑問が残る。今日の学生は誰もがやっていることと言えばそれまでだが、自分の生活や遊びのためのアルバイトはさておき、ボランティア活動に参加するために勉学時間を犠牲にしなければならない状態を改善することは、緊急に必要である。文教大学ではこのような活動のために、来年度から特別奨学金(チャレンジ奨学金)を出すことになった。大きな進展である。ソニーが昨年から、ボランティア活動奨学金制度を設けているが、このように大学、企業の側にもボランティア支援の精神が大いに望まれる。さもなければ、多くの学生の眠れる気概を目覚めさせることは難しい。

 次に、これら特別の体験を通して意識を高めた学生たちの進路問題がある。日本の社会では、このような体験を持った学生がプラスαの才能保持者として優遇されることはまれだ。アメリカでは高校から大学に進学する際の入学願書にさえボランティア活動体験を列記することになっているが、日本では入学でも入社でもそのようなことを問われることはない。せめて政府、自治体の採用基準にボランティア活動の有無、さらには内容の密度などが加味されるようになると、公務員の質向上に役立つばかりか、学生生活の大きな刺激となる。
 
 さらに、困難な海外の地でボランティア活動を重ねて体験した者にとっても、青年海外協力隊などで活動するチャンスは決して多くはない。現地要請主義という大義の下に、現在青年協力隊にもっとも参加しやすいのは、農・漁業技術習得者、スポーツ指導、看護士および日本語教師で、全国にあまたとある国際学部関係の学生には青年協力隊への道は実に狭い。NGOにしても社会経験3年以上という条件をつける。これでは転職者しかNGOの道に入ることが出来ない。国際協力の知識を得、体験を積んだ学生の進路が極めて少ないというのは、国際化、国際協力を叫ぶ社会としては制度的に不備があると言わざるを得ない。
 
 外務省や国際協力事業団、NGOそれに大学が一体となって、早急に対応を考える必要がある。さもなければ、国際学部を持つ大学も、また国際協力の最前線を担う政府関係機関やNGOも羊頭狗肉の国際協力路線を青年たちに売り込んでいることになる。国際化、国際協力をうたうだけで青年たちを無為に躍らせるのは詐欺行為に通じかねない。国際舞台で活躍する一部の人の成功を例に、自分の努力で成功している人たちもいるなどというのは、詭弁に近い。医大を作れば、医者として働ける場に通じなければならない。教育大を作れば教師として活躍できる場に通じなければならない。同様に、国際学部や国際協力コースを作れば、その道の専門家として貢献できる場が必要である。青年協力隊としての活動が、国際協力を学ぶ学生に最も閉ざされている現状は、学生の責任でも努力問題でもないことを、政府、国際協力機関、大学共に真剣に考える必要がある。
 
 国際ボランティア活動体験の意味は大きい。中にはそれが一時的な喜びに終わる学生もいるだろうが、多くの学生にとって、一つの感動が次の挑戦の起爆剤になり、さらには進路希望にも大きな影響を及ぼす。目覚ましベルを聞かせたら、次は夢を与えることだ。その夢は、夜見る夢ではなく、昼間見る夢だ。眠っている者が見る夢ではなく、カッと目を見開いている者こそが見られる夢だ。