文教大学国際学部

国際ボランティア

文教大学国際ボランティア活動5周年

国際学部教授・文教ボランティアズ顧問
中 村 恭 一
 
「先生、ニューヨークが大変です。飛行機が何機もハイジャックされて、それがビルに突っ込んでいるそうです。世界貿易センタービルもやられました」
  2001年9月11日。私にとってもまさに忘れることの出来ない衝撃の瞬間はこうして始まった。世界中が息を呑み、戦慄してテレビの前に釘付けになったその日、私はウイーン国際空港の到着ロビーに立っていた。実はこの時、10人の文教大学国際学部学生が私と旅を共にしていた。学生たちは、NATO史上初の本格的な空爆で知られたコソボ紛争の終結間もないコソボでのボランティア活動を無事に終えて、ウイーン空港に到着したばかりだった。NATO軍の戦車が往来するコソボでの緊張から解放された学生たちは、意気揚々と家族にその一報をするために、連れ立って公衆電話に向かった。そしてロビー中央で荷物番も兼ねて待っていた私に向かって、最初に戻ってきた学生が興奮気味に発したのが冒頭の言葉である。
「お母さんに無事だと言ったら、“あなた、それどころじゃないのよって。”私のことは何も聞かずに、“ニューヨーク、ニューヨークが大変なんだ”って」。学生は興奮気味に続けた。まもなくこの文教ボランティアズ一行はウイーン市内のホテルで、ロビーのテレビに映し出されたCNN放送の前に声を失って立ち尽くした。世界貿易センタービルが、音もなく崩れていく。パニック映画ではない。世界中が同時に見ていたのは、紛れもなくニューヨークでもっとも高層の、端正な姿を誇ったツインタワーが現実に崩れていく様子である。
私は90年代を通じて、ニューヨーク・マンハッタンを仕事の場にしていた。従って、日本から知人、友人が訪ねてくると、世界貿易センタービルへ案内した。北館の最上階である110階にその名も“ウインドウズ・オン・ザ・ワールド”というレストランがあった。その窓辺の席に座ると、5番街中央に君臨するエンパイア・ステート・ビルでさえ下に見える。知人たちは、何よりものもてなしだとその夜景を堪能してくれた。その世界貿易センタービルが、テレビ画面とは言え、目の前で崩れ落ちていくのである。私は最上階のレストランに座ったまま、私自身が奈落に吸い込まれていくような感覚に陥った。
 
2001年9月11日。それは世界を変える大事件が起きた日として記憶されると同時に、文教大学国際学部の国際ボランティアズにとっては、実は“歴史的な”第1回海外ボランティア活動を無事完了させた日として、忘れられない日なのだ。任務完了(Mission Accomplished)! 学生たちは家族や友人たちに誇らしげに語れる一瞬を、世界貿易センタービル崩壊という事件にかき消されてしまったが、だからと言って新しい道を開いていったTrail-blazerつまり開拓者の役割は決して小さなものではない。
以来5年間。国際学部学生による国際ボランティア活動のたいまつの火は引き継がれてきた。第1回コソボ活動に参加したメンバーの一人は、国際NGO活動にまい進し、いまやモンゴルでの学校建設などを担当してがんばっている。また彼女の後輩の一人は、将来国際協力のプロになることを夢見て、現在青年海外協力隊員としてヨルダンで柔道のコーチをするかたわら、中東問題とアラビア語の研鑽に励んでいる。数年後彼もまた、国連あるいはNGOの一員として世界を舞台に活躍してくれるだろう。
文教大学国際ボランティアズは、関係する世界では既に十分にその名を知られている。日本の多くのNGO指導者たちは、文教大学湘南キャンパスや彼らの事務所で文教ボランティアズと交流し、その熱意と活動に温かいエールを送ってくれている。一方コソボやボスニア、あるいは東チモールにおいて、国連関係者や現地NGO、そして現地日本政府や援助機関の関係者には、なじみの定期的訪問者となっている。今年の夏、在ベオグラードの日本大使館から「現地治安情勢に心配あり」との強い勧告を受けてコソボでのボランティア活動を断念したときに、どれだけ多くのNGO関係者やその向こうにいるさまざまな人々を落胆させたことだろう。
 
学生ボランティア活動には多くの意義がある。
まず現地で支援、援助を必要としている人々に直接協力の手を差し伸べていることである。これまで東チモールやコソボ、あるいはウズベキスタンに出かけた文教ボランティアズは、彼らの母校である中学、高校や茅ヶ崎市内の市民や学校、あるいは大学の友人たちの協力を得て集めた文房具やスポーツ用品、衣料品や楽器などを届けて、日常生活や学校生活の支援という大きな貢献をした。しかしこの物資による支援はもちろん重要であるものの、学生でなければ出来ないことではなく、また学生に可能な支援物資の量には限界がある。
何よりも大きな意味は、日本から若者がやってきて、紛争や貧困に打ちひしがれた子供や住民たちに、彼らの苦しい経験を理解し、共有しているというメッセージ、彼らが決して世界から忘れられた存在ではないというメッセージを伝えることにある。それがどれだけ大きな意味を持つかは、世界中から日本を訪れる人たちにぜひ広島や長崎も見てください、と期待する心情を思い起こせば理解できる。東チモールの山奥の孤児院には、年に一度訪ねてきてくれる文教ボランティアズのメンバーの名前を覚えている子供たちが何人もいる。訪ねてくる学生は毎年代わっているものの、子供たちは前年に来た人たちの名前を挙げ、さらにまた新たな訪問者の名を彼らの記憶の人名録に刻んで、世界とのつながりを確認しているのである。世界とつながっていることの確認が、山奥の孤児院の子供たちにどれだけ重要なことかは、現地を訪れる体験を持った人にしか分からない。劇的な別れのつらさに直面したボランティアズは、紛れもなく学生ボランティアとしてはるばる訪ねてきた意義を実感する。
 
05年夏、文教ボランティアズの努力と札幌のNGOの温かい協力で、コソボの身体障害者に車椅子を届ける話が固まっていた。現地の国際NGOでもその支援を心待ちにしていた。また別な現地NGOにとっては、文教大学はまさに日本を見る窓口である。文教大学を通してのみ日本人の国際協力の心を知り、日本人のコソボへの友情を知り、遠く離れたアジアとのつながりを確認してきた。
しかし「治安情勢を理由にコソボ行きを断念せざるを得なくなった」と、コソボ活動指導の生田祐子助教授がなじみの現地関係者に伝えたとき、恐らく現地の人たちは「なぜ?コソボの治安で何が問題に?私たちは毎日ここで生活しているではないか」と強く感じたことだろう。コソボ人権センターの所長が送ってきたメールには、心待ちにしていた文教ボランティアズが来られなくなったことを知った無念さがにじみ出ていた。それは世界から忘れられる恐怖にも似た感情が込められていた。
コソボの治安情勢がこの夏急速に悪化した事実はない。NATO軍による空爆直後の混乱期からずっと現地を見守ってきた私には、現地情勢についてそれなりの判断をする知識はある。しかし日本人が現地で何かのトラブルに巻き込まれたら厄介なことになると考える現地大使館に抗う術はない。現地の人に温かく歓迎されている学生たちの国際交流の意味と、現地で万が一若者たちが厄介なことに巻き込まれたらえらい迷惑だと発想する大使館の立場とは往々にして対立する。ニューヨークやロンドンでテロ事件が起きても、政府は決して危険情報を一気に引き上げたりはしないが、大使館職員の手薄なところ、政治的、経済的につながりの薄い国や地域での安全情報は、かすかな不安材料が予測されるだけでことさら厳しくなるのは珍しくない。それは面倒なことを起こされたら迷惑だからと宣言しているようにも映る。
この問題の背後には、2004年春イラクで起きた日本人拉致事件での騒ぎがあると言っても間違いでない。その騒ぎはその後の純粋な民間の国際協力活動において、大きな足かせになってしまった。拉致された活動家たちの救出を求める家族が激しく政府関係者に詰め寄った光景は、海外での日本人保護の責任を持つ外務省にとっては、決して忘れることの出来ない苦い経験となった。無謀と勇気を混同した一部の活動家の行動で、どれだけ日本の国際協力活動全般に影響が出たかということを、忘れられてはならない。(上記事件の問題点は、人道的NGO活動に従事していた女性活動家とその家族の意識には大きなギャップがあった。またこの女性活動家と同行者の間にもイラク訪問の動機にやはり大きなギャップがあった。後日不幸にも殺害されたフリーのベテラン・ジャーナリストの遺族の志の高さと覚悟には多くの教訓が秘められている)。
国際協力や国際貢献が求められるところは、さまざまな意味で問題を抱えている地域である。人道的な国際NGO活動に従事する人々は、現地での安全度と国際協力の使命感とが絡み合う葛藤から完全に解放されることはあり得ない。


 

文教ボランティアズにとっても「もし何かあったらどうするのか?」という命題は、活動の最初の年から、宿命的についてきた。活動が5年間滞りなく実施できた事実は、理解者に恵まれたという他はない。
その理解者の第一は、文教大学国際学部の教員一同である。私の知る限り、国際学部の中で、「もし何かあったらどうするのか」と異を唱えた人は一人もいなかった。空気はむしろ逆で、学生の活動を指導する学部の国際ボランティア委員会に対する大きな支援と支持があった。今全国の大学で国際協力の実践が大きなテーマになっている。大学が豊かな資金で大々的に支援するケースも現れた。政府の関心も高く、「紛争後の平和構築における大学の国際協力」が政府主催のシンポジュームのテーマになる。文教大学国際学部は、疑問の余地なく、国際協力の実践で先駆者的な立場、Trail-blazerであったと言えるが、この“先駆者の苦労と誉れ”も、例え一度でもあれ、「何かがあったら」一瞬にして厳しい批判にさらされる危険と背中合わせである。
理解者の第二は、現地での活動を支援してくれる国連機関やNGOの代表者たちである。第1回目から、こうした人々が現地にいたからこそ文教ボランティアズの活動が可能になった。コソボでも、ボスニアでも、東チモール、ウズベキスタンでも常に現地にある国連やJICA等の機関から大きな協力を得てきた。また生活や現地情報という面では、国際NGOあるいは現地NGOの支援、協力は不可欠であったが、文教ボランティアズは常にそのような活動組織の支援に恵まれた。
第三の理解者は、参加学生の保護者、家族である。保護者、家族の理解なしに学生たちを貧困や紛争後の困難に直面している地域に送り、活動させることは絶対に不可能であった。一部には家族の経済的支援もあったが、費用は学生たちなりに工夫工面している。国際協力を学ぶものが国際協力の現場に立って体験することの重要さ、それには何らかの危険や不測の事態もあり得ること、しかし海の魚は海に漕ぎ出してこそ初めて手にすることが出来るということを理解してくれる家族がいなければ、指導教員も学生を現場に導くことは不可能であり、許されないことである。
最後の理解者は、言うまでもなく参加学生自身である。彼らが、国際協力の現場に立つことの重要性を理解し、そのための準備段階でのさまざまな苦労や現地での睡眠不足に耐えて活動に挑む価値を理解しなければ、初めての海外旅行に東チモールやバルカンの地を選ぶことはないだろう。私は活動体験後に起きる彼らの多様な変化をCopernican Revolutionと呼んで、大きな誇りにしている。この革命的変化はきっとその後の人生に役立つだろう。
文教ボランティアズの活動は、ただの一度も失敗は許されないという意識を徹底させた。5年間無事に活動できたのは、そのような覚悟と周到な準備に加えて、「運」という最大の実力者を常に味方に出来たからかも知れない。