文教大学国際学部

国際ボランティア

ボスニア・ヘルツェゴビナ ボランティア活動

文教大学国際学部学生有志が参加する文教ボランティアズは2005年夏、ボスニア・ヘルツェゴビナと東チモールでボランティア活動を行った。いずれも90年代に多くの犠牲者を出した紛争を経験し、現在もなお紛争の傷跡を残しながらも国家建設に取り組んでいる紛争後復興地である。文教ボランティアズは、このような紛争地の人々の復興活動に少しでも役立ちたいとの思いから、2001年以来現地の人々、特に子供たちに直接支援の手を差し伸べる活動を行っている。以下は2005年のボスニア・ヘルツェゴビナにおける活動報告の一部である。
ボスニア及び東チモールでのボランティア活動の詳細は報告書“Bunkyo Volunteers 2005”に掲載されています。報告書希望者は文教大学国際学部・国際ボランティア委員会にご連絡ください。

学生による国際ボランティア活動の意義
国際学部4年竹中亮太
 文教ボランティアズがボスニア・ヘルツェゴビナで活動を行うのは今回が3回目となる。私たちは紛争が終わってから10年が過ぎた地が現在どのような状況なのか、ボランティア活動によって少しでも現地の人々の役に立てるのか、日本ではできない体験を通じて自分が成長できるかなど、この活動に対して様々な思いを胸に現地へ行った。帰国後に行ったディスカッションでは全員が活動に参加したことに満足し、得るものがあったと答えた。そのディスカッションで議論されたことをもとに今回の活動によって私たちが何を得たのか、現地の人にどんな影響を与えたのかをまとめた。

モスタルの橋:紛争で破壊された後2004年に再建されたオスマントルコ建築の粋

日本国内での活動準備
 現地では日本で準備したこと以上の活動は行えない。そのため、私たちは活動準備に力を注いだ。茅ヶ崎駅前での募金活動、物資収集活動、現地での交流のための阿波踊り、歌、日本紹介のプレゼン練習のほか自分たちの旅費を工面するためのアルバイトなどやるべきことは多かった。しかしその多忙な時期があったからこそ現地で意義のある活動ができたのだと思う。
 準備段階で特に感じたことは、広報活動の重要性だ。今回、茅ヶ崎版のタウンニュースや、ふれあい朝日、神奈川新聞に私たちの活動の記事を掲載していただく機会があり、それによって茅ヶ崎市民の方々から多くの物資を提供してもらうことができた。周囲の人々の協力によって支えられている私たちの活動にとって、多くの人に私たちの存在を知ってもらうことはとても重要だ。

現場へ行くことの意味
 紛争時に起こったことを知るには現地を訪れるよりむしろ日本で日本語の書籍を読み、映像や写真を見たほうが効率的だ。それでは過去の紛争地に訪れたことはどういう意味があったのか。それは傷跡を生で見て、人々と触れ合うことによって、紛争を肌で感じることだ。
日本で生活している私たちには紛争を身近に感じる機会はない。私たちはボスニア・ヘルツェゴビナの各地で10年前の紛争時の話を聞き、建物など紛争の傷跡を見た。その経験は私たちにとって衝撃だった。難民として外国へ出ていた人、親兄弟や配偶者が殺害された人、いまだに親族の遺体が見つからない人、銃が打ち込まれた跡のあるマンション、放火され外壁だけが残った家、同じ時期に建てられた無数の墓、虐殺があった強制収容所。ボスニア・ヘルツェゴビナ滞在時に紛争を感じないことはほとんどなかった。
 帰国後に参加者全員で行ったディスカッションでは全員がこの活動に参加したことに満足していると答えた。その理由の主なものは、紛争をリアルに感じることができ自分の世界が広がった、世界で起こる様々な事件を身近に感じることができるようになった、といったものだった。私たちは当然これからも日本で生活していくが、国外の貧困、紛争、環境、人口問題などを以前よりも近くで起こっていることと感じ、日本に住む一個人としてどう関わっていけばいいか考えるようになった。これは大きな変化であり、活動の成果だと思う。

学生によるボランティア活動について
 私たちがボスニア・ヘルツェゴビナで行ったボランティア活動は、阿波踊りや歌、日本紹介などの国際交流と文房具などの物資支援、NGO活動のための資金支援の3つだ。何人かの参加者は活動の前半に踊りや歌などのパフォーマンスをすることが現地の人々にとってどのような意味があるのか、ただの自分たちの自己満足なのではないかと感じていた。
 私たちのボランティア活動は住宅再建、経済開発といった国際機関やNGOなどが行うようなものではない。そのため現地の人々の役に立ちたいという思いが強いほど自分の無力さを感じてしまう。しかし私たちは活動をしていくなかで、学生だからこそできるボランティアがあるという結論を出した。  私たちは現地で多くの人々とコミュニケーションをした。そして日本の甚平や浴衣を着てパフォーマンスを行い、時には阿波踊りを共に踊った。紛争後10年経ち、世界の関心も低くなったことで現地の人々は世界からの疎外感を感じていたかもしれない。遠いアジアの国からまったく違う文化を持つ学生が来て、パフォーマンスをするという私たちの活動はそれを払拭する機会になったのではないか。そして学生だからこそ相手も抵抗感なく私たちを受け入れ、このような活動が成功したのだと思う。学生には国際機関、NGOが行う目に見える支援とはまた違った、目には見えない形での支援ができるのだ。

私たちは現地での活動を無事に終えた。しかしこの活動はまだ終了したわけではない。今後は多くの日本の人々に私たちが見てきたものを伝えなければならない。日本の募金や物資提供によって協力していただいた方々への説明責任はもちろん、それが私たちのために紛争時の体験談や現状を話してくれた現地の人々への恩返しになると思う。
友人にボスニア・ヘルツェゴビナでの活動を話すと、まず危険ではないのか、という反応が返ってくる。中にはまだ紛争中だと思っている人もいる。それだけ日本で生活しているとボスニア・ヘルツェゴビナの情報が入ってくることはないのだ。このマイナスイメージは現地経済の、特に観光産業の発展を阻害する。現地の正しい情報を伝えることは発展の可能性を広げることになるのだ。
また、私たちの報告を聞いてボスニア・ヘルツェゴビナやボランティア活動に興味を持ってもらえる可能性もある。それは私たちの活動の継続していくために不可欠だし、全く違うところで新たなボランティア活動が生まれるかもしれない。多くの人々に私たちの活動を伝えることで様々な可能性を生むことができると思う。

今年も大きなトラブルもなく参加者全員が無事に帰国することができた。私たちのほとんどは紛争のあった地域に訪れた経験がなく、中には海外旅行が初めての者もいた。そのため出発前は不安を抱いていた者も多かっただろう。しかし現地では全く危険を感じるようなことはなく、全員がこの活動に参加したことに満足している。それは活動に参加する機会を与えて頂いた文教大学ボランティア委員会の先生方、多くの情報を提供して頂いた現地の国際機関やNGOの方々、茅ヶ崎市民や参加者の母校の方々、日本で活動をサポートしてくれた後方支援の学友や活動を理解し協力して頂いたすべての方々のおかげだ。私たちは文教ボランティアズを様々な面からサポートして頂いた全ての人々に心から感謝している。

                              以下活動参加者たちによる活動報告の一部です。
ボスニア紛争
(1)旧ユーゴスラビアの解体
1980年ユーゴスラビア建国の英雄であり、大統領であったチトーが死去する。強力な指導者を失った旧ユーゴは民族問題が表面化する。旧ユーゴはそれぞれの国で分権化が進み、各地域で大きな経済格差があった。特にスロベニアは旧ユーゴの中では経済的に最も豊かな地域だった。しかしユーゴは経済危機に陥り、スロベニアは「経済主権」の保持を目的に1991年に独立を宣言する。一方クロアチアでは民族主義が高まり、1991年に独立を宣言する。クロアチアは民族自決権に基づくクロアチア人国家の創設を目指した。そのため、第二次大戦中のセルビア人大虐殺の過去から少数派になることを恐れたクロアチア内のセルビア人はユーゴスラビア国家軍隊の支援を受けて独立に反対し、クロアチア紛争が始まった。

(2)ボスニア紛争のはじまり
クロアチアの紛争は隣のボスニア・ヘルツェゴビナにも拡大した。1992年3月、ボスニア・ヘルツェゴビナは旧ユーゴから独立を宣言し、ボスニアのムスリム人とクロアチア人の支持を受けたが、ユーゴスラビアとしてセルビアとのつながりを堅持したいボスニアのセルビア人は反発した。このためにセルビアの支援を受けたボスニアのセルビア人勢力と独立を求めるボスニア人(ムスリム)、それにクロアチア人勢力が入り乱れてボスニアで内戦状態になったが、クロアチア、セルビアの軍事干渉により、ボスニア紛争という国際紛争状態になった。
紛争を終わらせるために、安全保障理事会は1992年5月解体後の新ユーゴスラビア連邦共和国(セルビアとモンテネグロで構成)に対して経済制裁を実施した。紛争が激化してくると、ボスニアのセルビア人勢力は自らの領土拡大を目的に他民族を排除して民族の住み分けをするために「民族浄化」を行った。セルビア人勢力は強制収容所にムスリムとクロアチア人を集め、虐殺、暴行を繰り返した。そしてムスリムとクロアチア人の女性に対するレイプを戦争の手段として使った。
ボスニアに派遣されたUNPROFORは人道援助の輸送を保護し、首都サラエボと安保理が1993年に「安全地域」と宣言した町(スレブレニッツア、ツヅラ、ビハチ、ジェバ)をセルビア軍から保護することに努めた。セルビア人勢力のサラエボに対する攻撃を止めさせるために、北大西洋条約機構(NATO)は1994年に安保理決議に基づいて空爆を行った。1995年7月、セルビア人勢力は「安全地域」に指定されていたスレブレニッツアを占拠し、およそ7000人の非武装の男性や少年を虐殺した。これは第二次世界大戦後にヨーロッパで起こった最悪の虐殺事件であった。ボスニア紛争の犠牲者はおよそ20万で、難民となった人々はおよそ250万人と推測されている。

(3)ボスニア紛争の終結
欧米諸国はこの事態に対し、ボスニア紛争を終わらせるための和平交渉に本格的に乗り出した。アメリカのクリントン大統領がオハイオ州デイトンで行った和平会談はボスニア・ヘルツェゴビナ、クロアチア、ユーゴスラビア間の1995年和平協定をもたらすことに成功した。それに基づいて連絡調整グループ(フランス、ドイツ、イタリア、ロシア、英国、米国)主催の会談を通して、ボスニアでの紛争を終わらせる協定がボスニア、クロアチア、ユーゴスラビアの間で結ばれた。協定ではボスニアをムスリムとクロアチア人の連邦国家と、セルビア人国家からなる連合体国家とし、領土はムスリム・クロアチア人勢力が51%、セルビア人勢力が49%を占めるように分割することに決定した。またこのデイトン協定では、旧ユーゴスラビアからスロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、マケドニアの独立が正式に承認された。セルビアとモンテネグロは新ユーゴスラビア連邦となった。

*UNPROFOR(United Nations Protection Force):国連保護軍

Prijedor(プリエドール)での活動

ボスニアの北西部に位置する都市。ボスニア紛争中はセルビア人勢力の活動拠点となり、プリエドールのイスラム教徒(ムスリム)は近隣のコザラツに逃げた。プリエドールの周辺にはバニヤルカ・オマルシュカ・トルノポリの3箇所に強制収容所があり、セルビア人兵士に捕まったムスリムはいずれかの収容所にいれられた。特にオマルシュカの収容所では、収容者を堅い軍靴で蹴りつけたり、女性をレイプするなど酷い拷問を行っていた。紛争が終結すると、収容者は解放され、クロアチアやドイツに逃げていた難民も戻って来たが、辛い体験を思い出すため、帰って来ることの出来ない人もいる。

 <ユースセンターでの活動>
ユースセンターとは、その地域の子供たちが学校の後や休日に遊ぶことのできる場所である。センターによっては、遊ぶだけでなくパソコンを教えたり、ドラッグやエイズの教育をしたりと、様々である。
最初に訪れたのはHambarine(ハンバリン)というムスリムが多く住む地域にあるユースセンターだった。このセンターの代表はAzra(アズラ)という女性で、センターができた経緯や行っている活動について話してくれた。
1992年の紛争開始後、多くの人々がハンバリンを離れ、外国に逃げる、またはトルノポリやオマルスカの強制収容所に送られた。紛争が終了して3年後の1998年に50人がハンバリンに帰ってきたが、住む家がなかったため現在のセンターで生活していた。翌年オランダのNGOが夫のいない女性・子供のために35の家を建て、スウェーデンのカトリック系NGOであるカリタスは老人・障害者のために物資を送った。そして、LDAの支援によってユースセンターを開くことになった。ユースセンターに来る子供は10歳~16歳で、中には7,8歳の子もいる。センターでは付近の清掃活動を行ったり、他のセンターとサッカー大会を行ったりしている。
センターについての話を聞いた後、近くの墓地まで歩いた。ハンバリンでは400~500人が紛争で亡くなったが、お墓は160程度しかなく、しかも皆新しかった。墓地にはまだ遺体の見つかっていない人の墓碑があり、数え切れないほどの名前があった。
墓地から帰ると、アズラの家で昼食を食べた。食後、アズラの両親が紛争で体験したことについて話してくれた。
アズラには弟がいて、紛争当時モスタルの病院に入院していた。しかし、その病院は爆破され、弟は11歳で亡くなった。アズラと両親はトルノポリの強制収容所に連れていかれ、父は背中や足に怪我を負い、今も傷は残っている。アズラも口を殴られ、話すことに障害がある。2ヶ月後強制収容所を出てドイツに逃げ、カトリック系の団体に保護された。紛争終了後、99年にアズラ家族はハンバリンに戻ってきた。
辛い体験を涙ながらに私たちに話してくれた。紛争から10年経った今でも紛争で受けた心の傷は癒えていない。しかしアズラはセルビア人を憎いとは思っておらず、民族は互いに理解しあう必要があると話していた。
午後はセンターで私たちのパフォーマンスを行った。歌も踊りも子供たちに好評で、阿波踊りはみんなで輪になって踊った。センターの女の子たちからお礼の歌とダンスも見せてもらった。その後子供たちとお別れをしてセンターを出た。

9月1日はプリエドールでの活動最終日。最後に訪れたのはステイ先から車で30分ほどのLjubija(ルビア)という地域にあるユースセンター。ルビアはムスリス人、セルビア人、クロアチア人が混在している地域で、国内避難民と難民が集合住宅に住んでいる。紛争前は1万8千人程が住んでいたが、現在は人の出入りが激しいので人数の確定はできないが、1万~9千人程に減ったという。ユースセンターは元々文化センターで、今は代表であるSanela(サネラ)が管理している。サネラは20代の女性で、足が悪く、歩くのに少し障害がある。また、サネラの母親が最近病気になり、サネラはセンターの管理と母親の看病の両方を行っている。センターはLDAのサポートによって始められ、夏にはイタリアから学生がボランティアに来ている。LDAの他にも、ルビアには病院がないため、ボランティアの医師が来たり、UNICEF(ユニセフ、国連児童基金)がパソコンとテレビを寄付したり、カリタスが財政支援を継続的に行っている。しかし、冬に盗難に遭いパソコンとステレオが盗まれてしまい、私たちが行った時には5台ほどしか残っていなかった。また、カリタスからの財政支援も2006年に切れてしまうため、その後のセンター運営が心配である。
センターの説明が終わると、センターに来ていた子供たちと日本のおもちゃで遊んだ。ダルマ落としやおはじき、折り紙、子供達はとても楽しそうだった。昼食後、センターの女の子6人がダンスを見せてくれた。皆大人っぽくて、上手だった。そして今度は私達がパフォーマンスをし、阿波踊りを皆で踊った。 子供達がサッカーをしに出て行くと、私達はサネラに日本から持ってきた物資を渡した。センターを出るとき、サネラは名残惜しそうに来年も来てほしいと言った。私たちもその気持ちに応えたいと思った。


Srebrenica(スレブレニッツア)での活動
<スレブレニッツァの悲劇から10周年>
2005年7月は、第2次世界大戦後のヨーロッパで最悪の戦争犯罪から10年という節目であった。ボスニアの小さな都市スレブレニッツァでは、犠牲者の追悼式が行なわれた。追悼式にはその家族数万人と世界各国の政治家が出席した。EU外務委員ハビエル・ソラナやその他国際機関の代表が、ヨーロッパと国連は不名誉にも無力であった、と述べた。1995年7月にボスニアのセルビア人勢力が当時国連保護地域であったスレブレニッツァと難民収容所ポトチャリを蹂躙した。その後数日間で彼らは約7~8千人のムスリムの男性と少年を殺害したが、オランダの国連軍はなすすべなく傍観した。この殺戮に主たる責任がある元ボスニアのセルビア人指導者ラドバン・カラジッチとその軍事面の責任者ラトコ・ムラジッチの行方は今なお地下に潜伏している。

<メモリアルパーク>
 戦争中には国連保護軍オランダ隊の本拠地だった場所に、2年前つくられた中央慰霊堂の横には、殺害され身元が確認された約1800体の広大な墓地となっている。現在も集団墓地などの発掘、身元同定作業が続けられているため、さらに増えることも予想されてたくさんの土地が用意されている。また、小さな写真展示施設や記念碑(写真、左)もあり、お墓の近くの記念碑には、“We pray to Almighty God, May grievance become hope! May revenge become justice! May mothers’ tears become prayers That Srebrenica Never happens again To no one and nowhere!”という言葉が刻まれており、人々が心から平和を願っていることが伺える。
<Sase(サセ)の村>
 ここサセという村には、未亡人の女性が住んでいて、お話を聞かせてもらった。ここの人たちは、戦後もボスニア人、セルビア人が一緒に暮らそうという意識が強く、手を取り合って生きているそうだ。
ここの人たちは、自給自足の生活をしている。UNDPからの支援で、羊を配る計画があるが、実際に配るまでにはいろいろな調査の必要などがあり、莫大な時間がかかってしまうそうだ。
 ここの女性は、戦争中に夫や家族を失っている。しかし遺体が見つかっていない方が多く、今でも情報を待っている状態だという。愛する人が亡くなったのに、その人がどこでどのように亡くなっているか分からないという彼女たちの心境を考えると、胸が痛くなった。そして、そんな状況でも力強く生きている彼女たちは、私たちの想像を絶する強さを持っていると思う。

<小学校>
 セントラル小学校に物資を届け、校長先生と面会した。その先生はセントラル小学校とポトチャリ小学校の校長を兼任している。現在、ポトチャリ小学校には18人、セントラル小学校には300人ほどの生徒がいて、そのうちの30%をボスニア人、70%をセルビア人、5%を少数民族のロマが占めている。教師のほうは75%がセルビア人だそうだ。授業に関しては、まだ検討中なので「歴史」は教えていない状況だという。紛争中にはムスリムが多く住んでいた地域であったスレブレニッツァだが、今ではセルビア人が大半を占めていることから、戦後10年の変化が伺える。
また、セントラル小学校は日本の支援もあって建てられたものらしく、日本への感謝状が飾られていた。ODAのJAPANバスといい、ところどころで誇らしさを感じることができた。しかし同時に、大々的に日本が支援したことを強調していることに少し違和感を覚えた。