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2020.08.14
お知らせ

2020年度春学期を過ごして(学長メッセージ)

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 昨年度末から数えると、約半年。この半年が、人生の中で経験したことのない性質をもったものであるということは、人類全体に共通した感覚でしょう。そして、この半年間の生活とこれからの人生に、「不安」を感じない人はだれ一人としていないでしょう。この不安は払拭のしようがなく、目覚めた朝に、また昨日と同じ不安を感じて歩み出すという日常の繰り返し。「暑くなれば...」私たちは春先に、そして5月の連休後に、少なからず、そうした希望を抱いていた気がします。しかし、熱中症警戒アラートが発出される最近においてもこの状況は変わらないどころか、さらに感染は、感染者数を見る限り、拡大していると言える状況です。テレビからだけではなく、あらゆるメディアから、この先に明るい未来がもたらされるとは到底思えない、不安をますます感じるしかない情報が分刻みでもたらされています。
 現在の、そしてこれからの社会について「withコロナ」と言い、そしてその生活に「新しい生活様式」の必要性を呼びかけているのですが、この主張が、実際どのような未来像を与えてくれるのか、そこは不明です。我々の不安は、実は何一つ解決されていない気がします。はたしてこれからずっとそうなのか?それともある時期に、「元の生活」に戻ることがあるのか?このことすら、予想できないことです。しかし、私たちが不安の中を生きるとき、大切なことの一つに、「切り替え」があります。こうした「呼びかけ」に応じて現状の「切り替え」を試みることも、継続する不安を乗り越えていくためには必要な方法なのかもしれません。そして、現下で私たちが獲得した価値観と技術は、元に戻ることはないでしょう。こうして獲得したものを、どのように今後の社会において反映、活用させていくのか。不安を抱きながら前を向くためには必要な認識なのだと思います。

 こうした状況の中、学生の皆さんは、2020年度の春学期をお過ごしなさいました。大学は、皆さんがこうした不安の中を生きているということを認識した上で、どのように支えることができるのかということを、常に第一に考えてきました。学びの不安、学生生活の不安、心身の不安等々。こうしたことを支えるには、幅広い側面からの視座を持った判断が必要ですし、それを可能にするためには、人、仕組みをはじめ、広範囲にわたる整えが必要です。ある一つの視座からすべてが解決するということはあり得ません。そしてそれぞれの問題は、時間的に推移していく状況の中で、それぞれについての対応を考えていかなくてはなりません。
 大学は高等教育機関です。それぞれの学部・学科が設けた教育課程を、質の高い内容と方法によって提供することが責務です。現下において、これを実施するために、本学は春学期授業をオンラインによって行うことを決定し、それが実行できる環境を整えました。私は皆さんに、すべての授業をこうした形態によって実施することは、授業者にとっても、学習者にとっても、大学にとっても、経験なき事柄であり、「ぜひ皆で授業を作ってほしい」ということをお願いしました。オンラインによる授業は、方法は方法としてかなり限られたものでしょうが、内容も含めて授業にはそれぞれ個性があり、対面授業に負けないほどの、それぞれの授業はそれぞれの授業らしさがあったことと思います。そしてその個性に基づいて行われる授業は、それを「作る皆さん」の相当の努力と労力が不可欠だったと想像します。また、授業はそれぞれ独立していますが、学習者も授業者も、一つの授業で完結するわけではありません。それぞれがいくつもの授業に対応していくという中では、その全体の処理にかかった時間と労力は大変なものであったということは想像できることです。春学期を終了した今は、授業実施に関わったすべての皆さんに、労いと感謝の意を表したいと思います。

 9月に秋学期が始まります。秋学期は、春学期とは異なった形態で授業を行うことを決定しました。授業は、オンラインでの実施を基本としますが、感染対策を講じながら、いくつかの授業については対面で実施します。技術をフル活用して春学期のオンライン授業を実施したのですが、本学の教育課程には、オンライン方式だけではどうしても対応できない科目があり、それについてはいくつかの方法で対応しました。秋学期に移行する、集中講義によって行うなど、実施時期を考慮することによって対応をする、また、感染回避を講じた上での対面によって実施するなどの方法をとることによって対応しました。しかし、秋学期は、授業の個性を前提とした上で、安全対策が可能であり、より効果的な提供ができると思われる科目について、対面方式での実施を行うということにしました。内容に個性があるのはすべての授業に共通することです。春学期は開始の段階では、そうした個性に応じるというよりも、すべての授業を成立させるということに重点を置いた対応でしたが、秋学期からは、それぞれの個性に対応する形で、私たちが有する技術をフル活用して、全体的に授業を実施していきます。感染リスクを回避することを根本とすることを基本的なスタンスとしながら、今私たちにできると思われる、あらゆる方法を組み合わせることで、柔軟に対応していこうと考えています。

 先に、大学は高等教育機関だと述べました。授業提供だけが、高等教育機関としての役割ではありません。授業外の学修活動、さらに学年が上がるにつれて、そして大学院では、研究活動もあります。また、キャンパス内での学生同士、さらには教員と触れ合うキャンパスライフの中での学び。こうしたことに、現下において、どのように対応できるのか?春学期開始以来、継続的に考えてきました。こうしたことを実行するにあたって、オンラインによることで、かなりの点で対応できることは確認できました。しかし、大学は「欲張り」です。もっと対応できる方法はないか?現在の技術をいくつか組み合わせることで、もっと効果的に教育機関として機能できないか?こうした「欲」の結果、構内立ち入り禁止を段階的に緩和しながら、それを実現する方法を模索してきたのです。そして、秋学期は、構内立ち入り全面禁止であったところの緩和措置も、春学期よりもさらなる緩和をしていきます。日々、大学は、教育機関としての高みをうかがい、どういう方法が可能なのかを、継続的に考えているのです。様々な視座に立って、高等教育機関としての根本的な命題と正対し、日々多くの議論をかわしながら、動的に判断を行っていることをご理解ください。

 私はいくつかの場面で、本学の「人間愛の精神」について、具体的に考える機会が増えていると申し上げてきました。「人間愛とは何であるのか?」そうした問いではなく、この状況下で、「人間愛とは、具体的にどのような思いを抱き、どのように振る舞うことを言うのだろうか?」と問うことこそ、必要ではないかと述べてきました。大学生活は、社会の状況とパラレルな関係です。社会が、「~し合う」という行為で成立しているのと同様に、大学生活も「~し合う」というのが基本です。「教え合う」「助け合う」「語り合う」「認め合う」等々。こうした「~し合う」ためには、一方的な価値観、一方的な考えだけではなく、相手の立場に立つということが必要です。この「相手の立場に」というところに、「人間愛の精神」の根本がある気がします。コロナ禍において、早い段階からしばしば言われてきたことに、「自分は感染しないからいい」「感染しても若いから重篤な容態にはならないからいい」という考え方ではなくて、「自分が感染しない」という思いには、「感染を拡大させるかもしれない」という視座を合わせて持つべきだというのがありました。この考え方は、まさに人間愛の精神に基づくものです。
 何かの事態に直面したとき、感情の高まりが生じることは、日常の営みにおいて頻繁に繰り返されることです。しかし、その時には、ひと呼吸をおいて、人間愛の視座に立ち、見つめること。この知的な行為は今こそ必要なことだと思います。秋学期の、そして秋学期以後の生活において、私たち文教大学に関わる者すべては、「経験する状況において、こうした人間愛の精神を具体的に意識しながら生きていくべきである」。これが、今を生きる私たちの「学び」なのではないでしょうか。個の生と、個を超越した生の関係を、強く意識しながら、秋学期の学びにまた向かいましょう。

文教大学 学長 近藤 研至

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